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「地震取調集」の地を踏査 その1

(旧大井川町の海岸〔前浜?〕)

日曜日、防災訓練も早く終わったので、一休みの後、大井川河口の北側に位置する旧大井川町に女房と出掛けた。土曜日に出掛けた吉田公園の、大井川河口を挟んだ対岸である。

「地震取調集」という、安政の大地震を取材した古文書を金谷の講座で読んでいる。ところが、この古文書はどこの誰が書いたものであるのか、解らなくなってしまっているという。解らないと聞くと俄然解明する意欲が涌いてきた。ヒントは「地震取調集」の古文書の中にあるはずだと思った。

今まで読んだところで、全体の半ば位であろうか。このブログで書いたこともあるが、いくつか解ったことがあった。「地震取調集」の筆者の檀那寺は、本寺が高岳寺、その末寺が正泉寺という。今でもそうであるが、末寺は本寺の出先のような関係で、檀家は末寺を通じて本寺とも関係しているらしい。いずれにしても、この二つのお寺は「地震取調集」の筆者を探す上で大きな手掛かりになると思う。この二つとも、道路地図で旧大井川町に存在する事は確認していた。

もう一つ、「波除け地蔵」と呼ばれる地蔵森のお地蔵さんのことである。この大地震で駿河湾を囲む各海岸が大津波に襲われて大きな被害を蒙った。ところが、この地域は奇跡的に津波の被害を免れている。北の焼津や南の吉田、相良などは甚大な被害を蒙っており、引いて行った津波は駿河湾の向う岸の伊豆半島にぶつかり、エコーのように跳ね返って、くり返し襲って来ている。しかし、津波は左右に分かれて、この地を避けるように打ちあがった。この奇跡はまさに「波除け地蔵」のご利益と考えられた。その「波除け地蔵」もネットで調べると、旧大井川町の利右衛門という地名のところに現在もあって、年に一度お祭りも催されるらしい。

つまり、この「波除け地蔵」と高岳寺、その末寺、正泉寺が確かに旧大井川町に現存することを確認して来るというのが目標であった。

女房の運転で旧大井川町の利右衛門という町を目指した。カーナビには「波除け地蔵」は無いから、まずは利右衛門を適当にセットした。(利右衛門が地名だから何とも書きづらい)

大井川港周辺の大きな工場の間を抜けて、住宅地の中にカーナビに導かれてやってきた。これから先は、ひたすら聞いて回るしか手はない。最初に見つけた農作業するお爺さんに聞いたところ、確かにここは利右衛門という地名だが、地蔵森の「波除け地蔵」は橋を渡った向こう側だと教えてくれた。車を進めるが、工場地帯に入ってしまい、海岸に出てしまった。

この辺りは「地震取調集」で「前浜」と呼んでいた海岸になるのだろう。百数十年の様子を想像するのは難しいけれども、現在の前浜には松林があって、土手状になっている。しかし、海抜10メートルにもならないのではないかと思った。これで大津波が防げたとはとても信じがたい。台風の前触れの浪であろうか。やや高い波が海岸に打ち寄せていた。(続く)
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