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今、故郷にいる

(故郷のお寺、佛光山来迎寺)

昨日、故郷に帰ってきた。少し時間のずれたお盆の墓参である。2泊3日の予定で、ムサシは犬のホテルに預けてきた。今回の目的は墓参と102歳のお袋の見舞い、それに13年前に亡くなった、高校の友人Y氏のお墓参りである。

誰から聞いた話であったか、「千の風になって」の歌が流行って、お寺のテーマソングのようになって、あるお寺の住職は、檀家からお墓にはその人の魂はいないのではないか、だとすればお墓参りにどれだけの意義があるのであろうかと聞かれたという。確かに歌詞の中では、お墓になんか自分はいない。千の風になって大空を吹き渡っていると歌っている。返事に困ってしまっただろうと思いきや、住職はお墓は亡き魂の住処ではない。お墓は亡き人のためにあるのではなくて、残された遺族のためにある。遺族は千の風になって吹く渡っている亡き人をどう捕らえればよいか判らない。だから、そのよりどころとしてお墓がある。遺族はお墓を通して、吹き渡っている亡き人の魂に触れることが出来る。だから、お墓参りは大切なことなのである。そんな風に説明したと聞いた。

お盆は千の風になって吹き渡っている亡き人々の魂が迎え火を目印に家族の下に戻ってくる。そして、送り火とともに空に戻っていく。そのような行事である。先日、御施餓鬼の行事に参加したが、施餓鬼の対象がご本尊ではなくて、本堂の外の大空であったことは、そのことが意識されてのことであったのだろう。

千の風にのってきたわけではないけれども、昨日の夕方、珍しい人の訪問を受けた。「街の電気屋ブログ」の主宰のOさんである。ブログの上でやり取りはしていたが、お会いするのははじめてである。前にお店に伺ったけれども、外出されていてお会いできなかった。だから、お会いするのは初めてであった。予想通りの印象の方で、自分より一つ年上で、自分より少し遅れてブログをスタート、毎日続けている点では自分と同じ苦労をしている。謙遜されていたが、「街の電気屋ブログ」はなかなか内容があり、しかも読みやすいブログである。ローカルな話題がたくさん出て、お客さんとのやり取りは方言が次々に飛び出し、同じ故郷を持つ読者にとっては、たまらないブログである。もっとゆっくり話したかったが、短い時間で消化不良な顔合わせに終わってしまった。

夕方、長兄夫婦と次兄、我々夫婦でお寺にお墓参りに行った。お盆の行事がすべて終わったあとだったので、墓地は静かであった。どのお墓もお花はほとんど枯れてしまっていた。我が一族の墓にはお花の変わりに槙の小枝が供えられていた。これは長持ちするから、お盆の花に替えて供えられたようであった。静岡では見ない風習であるが、意外と合理的なのかもしれない。
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