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亡き親父と伊藤清永画伯

(故郷でよばれた兄嫁さん手作りのご馳走)

故郷の夜、次兄に聞いた話である。親父が亡くなる半年ほど前、思い残していることがあるという。その一つは、戦時中に二度目の召集で、鳥取第40部隊で新兵教育の教官をしていた時の話である。恐持ての評判とは全く異なり、親父は兵を殴って従わせることなど一度も無かった優しい教官だった。新兵教育の教官といえば、恐い教官ばかりかと思うが、多くの教官は普通の人だったはずである。だから、戦後、何度もあった戦友会の集まりに、教官として呼ばれてゆくことが度々あった。新兵にはすでに色々な職業の人が徴集されて来て、一定の教育のあと、配属されて戦地へ行った。

親父が思いを残していた人はその中にいた。出石出身の画家伊藤清永氏であった。隊で絵が上手いとの評判になり、戦友たちから絵をせがまれて、何枚も書いているのを見ていて、教官として絵を描くことを禁止したことがあった。
「あなたも将来ある人なのだから、軽々しく絵を描くものではない」と、画家の手が荒れることを心配して、禁止したはずであった。しかし、その思いはどこまで伝わっていただろう。人間関係を良くする絵が禁じられたと、悪意に取られたのではなかったか。60年間、時折思い出して、いつか禁止の意味をもう一度説明して、誤解を解きたいと、ずうっと考えていた。いつかいつかと思いながら時が過ぎてしまった。

その間に、伊藤清永氏は画家として大成し、偉くなって遠い存在になって行った。略歴を見ると、出石町(現豊岡市出石町)下谷の曹洞宗吉祥寺の三男として生まれ、東京美術学校油絵科卒業。終戦復員後、軽井沢にアトリエを構え、本格的に裸婦を描く。1991年文化功労者、1996年には文化勲章をもらうまでになっていた。

次兄は親父の思いを遂げようと、伊藤清永画伯がイベントで出石に来ると聞いて、面会を申し込んだ。事情をはなすと、宿泊先のホテルで10分だけならと承諾していただいた。当日、親父は誤解を解くべく話したらしいが、画伯には嫌な思い出として残っていなかったばかりか、当時の思い出が次々に飛び出して、二人の間で話が弾み、10分の予定がいつしか40分も経っていたという。

思いを遂げた翌年、親父は旅立って行った。画家も2001年、90歳で後を追うことになった。二人の年齢差は今計算して見ると10歳、伊藤氏の入隊が27歳、教官の親父は37歳であった。自分が生まれる8年前の出会いであった。

伊藤清永画伯については、豊岡市バーチャル美術館で詳しく知ることが出来る。
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