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地震取調集 その4 - 古文書に親しむ

(吉田公園のオミナエシ)

昼間、ムサシを女房と吉田公園に行く。オミナエシが花盛りというニュースをどこかで目にしていたからである。くもりで暑くないだろうと思ったが、海のそばの公園では日が差して、まだまだ暑い。ムサシの散歩もほどほどに帰ってきた。帰り道、金谷方面は黒い積乱雲が覆っており、金谷では雨が少し降ったようであった。もっと北へ行けば激しい雷雨だったかもしれない。

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「古文書に親しむ」講座の続きである。近辺の海及び海辺地方の様子を記録した部分である。

一 伊州下田辺、在とも大揺れ、それゆえ颶(つなみ)押上り家潰れ、一円押出し流され、夥(おびただ)しく男女死したること数知らず、(まこと)に獄中の有様にさも似たり、同所湊沖中に於いて、その節アメリカ異国船来朝着岸にて、殊に大船ことゆえ漂着、懸り居(かかりい)遂げ、並び漂船を隣りとして、浦々の船、駿州城の腰、柳津(焼津)辺、遠州は川、相良辺の船、または遠国の大船数多(あまた)残らず懸り遂げず、それに続き、猟船なども残らず破船に及び、人多く死したること数知れざる事、異国漂船の長さ凡そ六拾間余、横幅は拾七、八間余、帆柱は三本立て並べ、帆綱のこと、笹蟹の糸を配るにさも同事なり、船中の人数六百余人乗船なり
※ 城之腰 - 焼津の地名、質問に受講者から教わった。質問はしてみるものである。
※ 猟船(りょうせん)-漁船。
※ 笹蟹 - くもの異称、蜘蛛を笹蟹とは面白い発想である。


安政の大地震のときに、下田にいた異国船は、ロシアの使節、提督プチャーチンの乗ったディアナ号のことで、アメリカの船というのは間違いである。ディアナ号は修理のため、伊豆の戸田に回る途中に沈没し、帰国のためロシアと日本の船大工が協力して、日本で初めての洋船ヘダ号を建造し、翌年に帰国した。日本はこの事件で洋式造船の技術を習得し、後に同型の船が量産されたという。

一 駿州清水湊辺、これをもって大揺れ津浪押上り、男女死す、続き三穂(三保)辺通り、颶(つなみ)押揚り右同様の事、同所沖中颶に逢いて、何国の大船や壱艘、塩荷、諸荷物積み入り、大浪に巻き込まれ、そのまま海底に沈み入りぬ、一人も死骸相見ず候事

一 駿遠浦々海岸通り、当浜東方より駿久能山沖中に大立雲の如し颶、高浪、凡そ高草山の如し見るに斉(ひと)しく、その颶は沖々ヘと左右に打ち返し、当浜は格別の浪立ちもこれ無く、もっとも相応高浪、前浜地蔵森林中まで大浪打揚り、よき仕合わせに以って、豆州岬表へ右の津浪は打ち揚り、それより同国住吉村浜辺より、西浦辺通り高浪押上り、川崎相良辺残らず家潰れ大荒れに及び候事


地蔵森と呼ばれたところは、ネットで調べたところ、旧大井川町利右衛門字地蔵森の地で、大井川港のすぐ北にある。そこに祀られたお地蔵さんは「波よけ地蔵尊(地蔵森のお地蔵さん)」と呼ばれている。この地蔵尊は、焼津市小川の海蔵寺から歓請され、以後、大井川の洪水やつなみから地域を守ってくれているという。民話も残っている。

地震取調集の筆者は不明というが、地蔵森の位置からして、どうやら旧大井川町(現焼津市)の海寄りの地域に住居があったのだろうと推測される。

一 近村飯渕村より猟船(漁船)にて積出し御城米船二艘、揺れ中、海上高浪に打ち込まれ、残らず御城米刎(はね)出し、漸々空船にて陸地へ走せ着き、水主(かこ)自命摝(ひろう)計りなり、人数無事にて帰宅致し候

一 同国横須賀西尾殿御城、並び諸家中とも大破に及び、町衆までも残らず潰れ委(ことごと)く大破に相成る事
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