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志賀直哉「城の崎にて」ゆかりの桑の木。

(志賀直哉「城の崎にて」ゆかりの桑の木)

一昨日から、北の冷気が列島に入り、全国的に10度近く気温が下がった。早くも列島は秋雨前線の空模様で、今も外は雨である。電気不足の列島ではありがたい天気である。

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城崎から竹野へ向かう途中、大谿川を遡ったところで、力餅氏が車を停めるようにいう。右側の大谿川岸に、桑の木があるのが判るかと聞く。昔であれば多くの農家で養蚕をしていたから、桑の葉もお馴染みものであったが、今は忘れられた木である。パッと見た広葉樹が桑の木だと思ったが、大きな葉の形がスペード型で自分の認識と違う。その木しかないから指し示した。

道路の上流側から見ると、大きな看板に「志賀直哉(城の崎にて)ゆかりの桑の木」と書かれ、矢印があった。幹が直径20cmもあっただろうか。樹叢の緑に溶け込んでいた。桑の葉はアサガオの葉を大きくしたような葉っぱと認識していたが、大きくなるとくびれがなくなるようだ。木の上部を探すとくびれた葉っぱも見えた。

志賀直哉の「城の崎にて」という短編小説は小学校の国語の教科書に出てくるほど有名な小説である。そばの案内板に「城の崎にて」の桑の木が出てくる一節が紹介されていた。

‥‥大きな葉の桑の木が路傍にある。彼方の、道へ差し出した桑の枝で、或一つの葉だけがヒラ/\ヒラ/\。同じリズムで動いてゐる。風もなく流れの他は総て静寂の中にその葉だけがいつまでもヒラ/\ヒラ/\と忙しく動くのが見えた。

作家は立ち止まってどのくらいの時間、桑の葉を見ていたのだろうか。ゆっくりした時間が流れていることが、この一節だけ読んでも解る。この桑の木は二代目と書かれていたが、道の方へ大きな枝が差し出した樹相には人為的なものが感じられた。

作家は大正2年10月、電車にはねられて、怪我の養生に3週間、城崎温泉に滞在した。その時の体験が「城の崎にて」の小説となった。旅館から大谿川の清流を遡るのが作家の散歩コースであった。

蜂の死骸、首を串刺しにされた鼠、石に当って死んだイモリなどの小動物を描きながら、その運命を電車にはねられて命拾いした自分と引き比べ、生と死は両極ではなく、隣り合わせだという感慨を抱いている。

力餅氏の作品案内を聞きながら、昔、一度読んだ切りの小説の雰囲気を思い出そうとしたが、ほとんど覚えていなかった。もう一度読んでみなくてはなるまい。

車を進めた先にあった鋳物師戻トンネルはその上にある鋳物師戻峠が元になっているのであろう。力餅氏はかつて鍋釜の修理屋(鋳掛屋のことだろう)が峠を越えられなくて戻ったことから、その名が付いたと案内してくれた。しかし鋳物師(いもじ)は、銅や鉄を使って生活用品を作る人で、鋳掛屋とは違う。おそらく近辺に鋳物師の仕事場があったのではないだろうか。

鋳物師の製作する最大のものは、お寺の梵鐘である。古刹の梵鐘の銘や古文書などを見ていけば、そのような事実が解るかもしれない。あるいは町史などに研究結果が記されていることも考えられる。近くにいれば調べてみたいテーマである。
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