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小島藩、有永村の「御触面書留帳」-駿河古文書会

(小島藩領地分布図)

午後、駿河古文書会で靜岡へ行く。今日から解読する文書は、小島藩、有永村の「御触面書留帳」である。

小島藩は駿府のすぐ東側に位置していて、石高一万石少々の小藩であった。元禄2年、滝脇松平家の松平信孝が4000石加増されて一万石となり、立藩した。しかし小藩のため城を築くこともならなかった。立藩当初から財政は逼迫し、家臣は100名少々しか抱えられず、あとは領民の二、三男を臨時雇いして、何とか面目を保っていた。彼らは不要なときは百姓をしていた。

しかし、小藩ながらも180年間、幕末に徳川家が靜岡藩として移って来るまで、その地で移封になることも無く続いた。そこには小藩ならではの生き残り戦略があった。歴代藩主は、それぞれ有力大名から、養子を受け入れて、次期藩主に着けた。それにより、有力大名から財政的援助も受け、幕府に手を付けさせない後ろ楯にもなった。

小島藩の領地は三十ヶ村といわれ、浜通り4ヶ村(中島村、西脇村、西島村、下島村)、中通り17ヶ村(池ヶ谷村、有永村、南村、羽高村、北村、東村、平山村、長尾村、北沼上村、南沼上村、柳新田村、上足洗村、川合村、川合新田村、瀬名川村、池田村、鳥坂村)、山行通り9ヶ村(小河内村、中河内村、清池村、土村、布沢村、小島村、吉原村、谷津村、広瀬村)のグループに別れていた。

浜通りは現在の日本平の東側、駿河湾に近い村々である。中通りはそれより北、龍爪山の麓までの広い地域である。中通りの中でも、府中の町に近い、柳新田村と池ヶ谷村、有永村、南村、羽高村、北村、東村の6ヶ村は、一つのグループと扱われていたようである。山行通りは清水の北部の山中、身延街道(国道52号線)までの地域である。

小島藩には城は無かったが、身延街道沿いの小島村に陣屋が置かれた。また府中にはその出先役所として御用場を置いた。御用場の記述は古文書に時々出てくるが、いまだに御用場の場所が明らかになっていない。駿河古文書会ではその場所を特定できる証拠がいつか出てくることを期待している。現在、郷宿、八幡屋格兵衛内にあったとする説があるが、決定的な証拠がない。

「御触面書留帳」に写されている御触書の時代は、江戸末期から明治の初めであるが、幕末の騒乱や明治政府の成立について、直接触れているものは無いけれども、文書の中で江戸から明治に時代が移っていく様子が感じられる。

帰りのバスで副会長さんと一緒になった。お天気が良いとカブで来るのだが、雨の日はバスでくると話される。名調子の講師を務めていただくから、自分が「先生」と呼ぶのは当たり前だが、自分に対しても「先生」と呼ばれるには、少々面食らった。古文書会では会員仲間をそう呼び合う慣わしがあるのであろうか。あるいは、元教員だったために、仲間を先生と呼びなれているのだろうか。疑問を抱きながら帰宅した。
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