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志賀直哉「城の崎にて」ゆかりの桑の木。

(志賀直哉「城の崎にて」ゆかりの桑の木)

一昨日から、北の冷気が列島に入り、全国的に10度近く気温が下がった。早くも列島は秋雨前線の空模様で、今も外は雨である。電気不足の列島ではありがたい天気である。

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城崎から竹野へ向かう途中、大谿川を遡ったところで、力餅氏が車を停めるようにいう。右側の大谿川岸に、桑の木があるのが判るかと聞く。昔であれば多くの農家で養蚕をしていたから、桑の葉もお馴染みものであったが、今は忘れられた木である。パッと見た広葉樹が桑の木だと思ったが、大きな葉の形がスペード型で自分の認識と違う。その木しかないから指し示した。

道路の上流側から見ると、大きな看板に「志賀直哉(城の崎にて)ゆかりの桑の木」と書かれ、矢印があった。幹が直径20cmもあっただろうか。樹叢の緑に溶け込んでいた。桑の葉はアサガオの葉を大きくしたような葉っぱと認識していたが、大きくなるとくびれがなくなるようだ。木の上部を探すとくびれた葉っぱも見えた。

志賀直哉の「城の崎にて」という短編小説は小学校の国語の教科書に出てくるほど有名な小説である。そばの案内板に「城の崎にて」の桑の木が出てくる一節が紹介されていた。

‥‥大きな葉の桑の木が路傍にある。彼方の、道へ差し出した桑の枝で、或一つの葉だけがヒラ/\ヒラ/\。同じリズムで動いてゐる。風もなく流れの他は総て静寂の中にその葉だけがいつまでもヒラ/\ヒラ/\と忙しく動くのが見えた。

作家は立ち止まってどのくらいの時間、桑の葉を見ていたのだろうか。ゆっくりした時間が流れていることが、この一節だけ読んでも解る。この桑の木は二代目と書かれていたが、道の方へ大きな枝が差し出した樹相には人為的なものが感じられた。

作家は大正2年10月、電車にはねられて、怪我の養生に3週間、城崎温泉に滞在した。その時の体験が「城の崎にて」の小説となった。旅館から大谿川の清流を遡るのが作家の散歩コースであった。

蜂の死骸、首を串刺しにされた鼠、石に当って死んだイモリなどの小動物を描きながら、その運命を電車にはねられて命拾いした自分と引き比べ、生と死は両極ではなく、隣り合わせだという感慨を抱いている。

力餅氏の作品案内を聞きながら、昔、一度読んだ切りの小説の雰囲気を思い出そうとしたが、ほとんど覚えていなかった。もう一度読んでみなくてはなるまい。

車を進めた先にあった鋳物師戻トンネルはその上にある鋳物師戻峠が元になっているのであろう。力餅氏はかつて鍋釜の修理屋(鋳掛屋のことだろう)が峠を越えられなくて戻ったことから、その名が付いたと案内してくれた。しかし鋳物師(いもじ)は、銅や鉄を使って生活用品を作る人で、鋳掛屋とは違う。おそらく近辺に鋳物師の仕事場があったのではないだろうか。

鋳物師の製作する最大のものは、お寺の梵鐘である。古刹の梵鐘の銘や古文書などを見ていけば、そのような事実が解るかもしれない。あるいは町史などに研究結果が記されていることも考えられる。近くにいれば調べてみたいテーマである。
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城崎、極楽寺と、加藤美代三画伯

(萬年山極楽禅寺)

Y氏墓参のお寺は、萬年山極楽禅寺という。墓参の後、お寺に寄ってみた。山門にあった由緒書きを読むと、中興の祖として沢庵禅師の名があった。力餅氏と会話の中で、沢庵禅師と家康の関係と話したが、家康ではなくて、三代将軍家光の間違いであった。有名な紫衣事件で出羽に流され、二代将軍秀忠の死で恩赦され、その後、三代将軍家光の帰依を受け、品川に東海寺を創建、住職となった。

家光との親交も深く、ある時、お寺で漬けた「たくわえ漬け」を家光に出したところ、美味を誉め、「たくわえ漬にあらず沢庵漬なり」と命名したという話が残っている。また二人には、
  「海近くして何がこれ東(遠)海寺?」(家光)
  「大軍を指揮して将(小)軍というが如し」(沢庵)
という問答が語り伝えられている。この二人けっこう親父ギャグをとばす間柄だったようだ。

その真偽のほどはともかく、世に「沢庵漬け」とともに、沢庵和尚の名前が残った。沢庵和尚は出石の出身であるが、この「出石そば」で有名な出石も、今は豊岡市出石町となっている。

もう一つ、由緒書きに名前の出ている人物に、加藤美代三画伯がある。極楽寺本堂が大正10年に再建されたとき、襖の全面には加藤美代三画伯により、水墨画、四季の図が描かれているという。

加藤美代三画伯は1912年、現在の兵庫県豊岡市に生まれ、京都日本画壇で活躍、ネットで見る限り、まだ健在で京都日本画壇でも最長老になるのであろう。風景画を得意とし、作家がとらえた自然の真実の相を描いている。年譜によると、極楽寺へ襖絵を収めたのは1988年で、しっかり記録されている。

力餅氏のお店には父が購入した加藤美代三画伯の四季の絵が有り、四季折々に店に展示しているという。お店に飾られていることを本人が聞き及び、大変喜んでくれ、わざわざお店に来てくれたこともあったという。自分の絵が死蔵されたり、人目の触れないところに置かれているよりも、誰もが見られる場所に展示されている方が嬉しいのは、画家に共通する思いではないだろうか。かの岡本太郎も自分の作品は皆んなに見られたい、それで絵を損なうならば、いくらでも自分が補修してやると語ったという。本人が直すならば作品の価値を損なうことはない。

今年の10月14~16日、豊岡市立総合体育館において、「加藤美代三画伯 白寿記念展」が開催されるといい、力餅氏のお店にも出品依頼の打診があったと聞く。近くであれば見に行きたい絵画展である。しかし、故郷の生んだ、日本画の大家、加藤美代三画伯の事は、今の今まで全く知らなかったのだから、なさけない。

加藤美代三画伯を含む、豊岡市のバーチャル美術館がネットで見ることが出来る。
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Y氏のお墓参りに、力餅氏と会う

(日和山海岸)

昨日朝、Y氏の13回忌の墓参に城崎に行く。現在は合併して豊岡市城崎町である。最寄のJR駅は山陰線の城崎温泉駅である。一昨晩、城崎の力餅氏から電話を頂き、時間を約束して9時過ぎに城崎に着いた。女房も、前回一緒にお墓参りして、力餅氏とも面識があるから行ってもよいというので同行した。

何年ぶりになるのだろうか。お店の場所を忘れてしまい、町の人に尋ねようかと女房が聞くが、もう少しと車を進めた町中に、力餅氏のお店を見つけた。あらかじめ、当日はお店が休みでシャッターが閉まっていると聞いていたので、看板とそのシャッターが目印になった。

孫を見て行ってくれと招き入れられ、次男さんと女のお孫さんを紹介された。一歳半になる孫が余程見せたかったのであろう。ここにも、孫命のジージが一人いた。

極楽寺のお墓は山懐にあり、その前面には最初来たとき、お寺経営の保育園があって、幼児の声が満ちて、お墓に眠る人々は時にその声に起されて微笑むのだろうと、お寺に保育園は悪くないと思った。現在は幼保一体化のために、敷地を広げ園舎を立て直す土木工事をしていた。

お墓は妙にすっきりしていた。花台に花が無かったから、このお盆にお参りに来た人はなかったのだろうか。聞けば、Y氏の実家は城崎にはすでにないから、墓参に来ても宿に泊まるのだという。途中で買って来たお花を花台に活けた。力餅氏が持参したお線香をいただき、手向けて墓参を済ませた。もっともY氏もここには不在で、千の風になって吹き渡っているのであろう。戒名を確認したところ、「秀道宗達信士、平成11年5月6日、53歳」と刻まれていた。これもひょっとして個人情報の開示に成るのだろうか。

墓参の後、少しドライブして日和山でコーヒーでも飲もうという、力餅氏の誘いで車を走らせた。おそらく昔話をする相手に飢えていたのであろう。力餅氏は実に饒舌であった。お喋りには負けない自分が完全に圧倒されていた。城崎温泉の中を流れる大谿川を遡る道をたどると、鋳物師戻トンネルが有り、抜けて下ると竹野に出る。ここも今は豊岡市竹野町である。

昔、海水浴で何度も訪れた竹野浜は土用波もまだ立たず、波が静かで海水浴客もまだ多かった。竹野の街を流れる川は、猫が伏せているように見えるところから猫崎と呼ばれる岬の西側を通って海に注いでいるため、猫崎の東側にある竹野浜には生活排水が流れ込まない。だからきれいな海水が保たれており、関西でも屈指の人気のある浜である。


(日和山竜宮城)

山陰海岸は東北の松島より余程雄大で美しいと語る力餅氏の自慢話を聞きながら、日和山に向かって海岸に沿った道を走らせた。日和山は建物は近代的にきれいになったけれども、自分の昔の記憶とそれほど違わなかった。竜宮城の見える喫茶室で力餅氏の話をさらに聞き、場所を食堂に移して昼食を食べながらさらに話が続いた。力餅氏は話に夢中で、頼んだうどんを残してしまったほどであった。

色々な話を聞いたけれども、またこのブログで扱うこともあるであろう。力餅氏は再会を約して城崎の町の入口で車から降りて行った。
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今、故郷にいる

(故郷のお寺、佛光山来迎寺)

昨日、故郷に帰ってきた。少し時間のずれたお盆の墓参である。2泊3日の予定で、ムサシは犬のホテルに預けてきた。今回の目的は墓参と102歳のお袋の見舞い、それに13年前に亡くなった、高校の友人Y氏のお墓参りである。

誰から聞いた話であったか、「千の風になって」の歌が流行って、お寺のテーマソングのようになって、あるお寺の住職は、檀家からお墓にはその人の魂はいないのではないか、だとすればお墓参りにどれだけの意義があるのであろうかと聞かれたという。確かに歌詞の中では、お墓になんか自分はいない。千の風になって大空を吹き渡っていると歌っている。返事に困ってしまっただろうと思いきや、住職はお墓は亡き魂の住処ではない。お墓は亡き人のためにあるのではなくて、残された遺族のためにある。遺族は千の風になって吹く渡っている亡き人をどう捕らえればよいか判らない。だから、そのよりどころとしてお墓がある。遺族はお墓を通して、吹き渡っている亡き人の魂に触れることが出来る。だから、お墓参りは大切なことなのである。そんな風に説明したと聞いた。

お盆は千の風になって吹き渡っている亡き人々の魂が迎え火を目印に家族の下に戻ってくる。そして、送り火とともに空に戻っていく。そのような行事である。先日、御施餓鬼の行事に参加したが、施餓鬼の対象がご本尊ではなくて、本堂の外の大空であったことは、そのことが意識されてのことであったのだろう。

千の風にのってきたわけではないけれども、昨日の夕方、珍しい人の訪問を受けた。「街の電気屋ブログ」の主宰のOさんである。ブログの上でやり取りはしていたが、お会いするのははじめてである。前にお店に伺ったけれども、外出されていてお会いできなかった。だから、お会いするのは初めてであった。予想通りの印象の方で、自分より一つ年上で、自分より少し遅れてブログをスタート、毎日続けている点では自分と同じ苦労をしている。謙遜されていたが、「街の電気屋ブログ」はなかなか内容があり、しかも読みやすいブログである。ローカルな話題がたくさん出て、お客さんとのやり取りは方言が次々に飛び出し、同じ故郷を持つ読者にとっては、たまらないブログである。もっとゆっくり話したかったが、短い時間で消化不良な顔合わせに終わってしまった。

夕方、長兄夫婦と次兄、我々夫婦でお寺にお墓参りに行った。お盆の行事がすべて終わったあとだったので、墓地は静かであった。どのお墓もお花はほとんど枯れてしまっていた。我が一族の墓にはお花の変わりに槙の小枝が供えられていた。これは長持ちするから、お盆の花に替えて供えられたようであった。静岡では見ない風習であるが、意外と合理的なのかもしれない。
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自分が主治医と頼むS医師

(今まさに夕陽がたけ山に沈む)

昨日の書き込みの続きのようなものである。

自分が現在主治医と頼むS医師は私より二つ三つ若い内科医である。それまで掛かり付けであったO医師が亡くなって、その子息の医師に移った。この医師は診察方針に異議をとなえる患者は容赦なく破門にすることで有名で、自分も見事にはまって破門になった。いわく「従えないなら他の医院に移ってもらってけっこうです」普通、こんな風に言う医者はいない。仕方なくS医院へ移った。

S医師は、もう長く生きたんだからいいだろう、などと真面目な顔で冗談をいうらしく、お年寄りはショックを受けるという話を聞いたが、まさか死期の近い病人にそんな事を言うはずはない。とにかく口が悪いとの評判であった。診察では血圧を測り、胸に聴診器を当てることは毎回やってくれる。運動不足のやや肥り気味で、身体がだるいらしく、カルテを書く手に力が入っていないように見える。定期的な血液検査の数値を見ながら、先生より数値が良いではないかと聞くと、自分はもっと良い数値だと威張る。

ある時、インフルエンザのワクチンの接種が出来るけれども、希望ならやると進められた。効きますかと聞けば、どうだろう、自分は接種したけれどインフルエンザに罹ったと商売っけはない。今までインフルエンザに罹った記憶がないし、人ごみに出ることもないから止めると言って断った。

そんな訳だから、掛かり始めの頃は、医院に閑古鳥が鳴いていた。診察時間中に先生自ら外のお花に水をやっているのを見かけたこともあった。2分ほどで診察は終るのに、お話が好きで、相槌よろしく話を聞いていると、30分も雑談が続いたこともある。さすがに次の患者が来てらしく、看護師がカルテを持ってきて、ようやく会話にピリオドが打たれた。難しい医療の話を素人の自分に伝えようと話していたのだが、最初、ちょっとした質問をしたのがきっかけで始まった話であった。

ある時、私がもう仕事を引退していると聞いて、いいなあ、と大変うらやましがって、自分はローンで建てた医院の残りが68歳まであって、それまでは働かねばならないと嘆く。それなのにもう建物が傷んできて、放っておくと崩れかねないから、修繕しなければならなくなったと、悲鳴を上げる。

しかしながら、O医師は名医の部類に入ると自分では評価している。女房と自分の帯状疱疹をいち早く見つけてくれて、酷くならないで直してくれた。往診もしてくれるというし、当番制になる前は、急患は夜間でも医院を開けて診察してくれた。

そのS医院はこの頃、自分同様O医院を破門になってくる患者に加えて、最近町内の内科医が一人高齢で廃業したため、患者がどっと移ってきて、大変忙しくなってきた。だからこの頃は雑談をすることもなくなった。建物の補修もいつの間にか終わり、お年寄りの事務員さんがみていた医療事務も、若い人に代わり、何もなかった待合室には薄型テレビが入った。

O先生もそこそこ儲かるようになったのであろう。ご同慶の至りである。
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馬には乗ってみよ、医者には添うてみよ

(散歩道のランタナ)

「馬には乗ってみよ、人には添うてみよ」ということわざがある。そのことわざをもじって、この頃、自分は「馬には乗ってみよ、医者には添うてみよ」と言うようにしている。

若いときから自分で商売を始め、身体を酷使して、精力的に働いてきた。健康には自信があって、医者に行くこともなく、健康診断や人間ドックにも行かないで、働き続けた。ところが60歳前後で、ある日身体の不調を訴え、ぽっくりと亡くなってしまった。そんな人を何人も知っている。

健康には大変自信があって、医者に行くこともほとんどなくて、無事還暦を迎えた人がいる。還暦とは誰が決めたのか、動物としての人間の寿命なんて、せいぜい60歳ぐらいが良いところであろう。ところが平均寿命は70歳とか80歳とどんどん延びてきた。つまり、医療が進んで寿命を延してきたのである。

60歳を過ぎて、健康診断や人間ドックを受ければ、何かしら基準より異常な数値が出るものである。重大な病気ではなくて自覚症状がないのに、医者に相談することを勧められる。健康な人ほど、医者に掛かり、投薬を受けたり、治療を受けることが、人生の敗北のように思う人が多い。だから、自覚症状のない限り医者に行かない。あるいは医者に行って投薬を受けても、自分で判断して飲んだり飲まなかったりする。

異常な数値は投薬すれば正常値に戻る。もともと自覚症状がないのに、数値を正常値にこだわる意味が分からないという人がいる。しかし検査の数値を異常値のままに置くと、異常が蓄積して行き、自覚症状が出るときには治療が大変難しくなることが多い。だから医者は正常値にこだわるのである。医者は金儲けのために投薬するのではない。‥と思う。

ところが、健康で医者に掛かった経験のない人ほど、医者を信用しない。中には悪い医者やへぼな医者もいる。そういう医者が社会面を賑わす。しかしそれは例外で、ほとんどの医者は患者のために懸命に医療を行なっている。

「馬には乗ってみよ、医者には添うてみよ」である。

60歳を超えるようになったら、健康診断で再検査といわれたらラッキー!と思い、信頼できそうな内科医に入門する気持で行く。医者が気に入らなければ、別の医者を探すぐらいしてもよい。出来れば自分より若い医者を選びたい。これからその内科医を主治医として長くお付き合いするから、医者に先立たれると途方にくれてしまう。一つや二つ投薬を受ける生活習慣病を持っているのが最も好ましい。

月に一回位のペースで主治医と決めた医者にご機嫌伺いに行く気持で通院する。時々検査も入れて自分の健康状態をチェックしてもらう。同時に、医者の健康状態も患者の立場でチェックする。医者の不養生で、見るからに不健康な状態の医者もいる。医者に先立たれては困るので、それも必要なことである。信頼できなくなったら、早めに新しく医者を選ぶことも必要である。

これが長寿の秘訣である。別のことわざに「一病息災」ともいう。
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お盆に皆んなが集り、食器洗い器フル稼働

(たけ山に沈む夕陽)

我班の真ん中を東西に貫く道は、昔は馬道(うまみち)と呼ばれ、たけ山に秣(まぐさ)を取りに馬車を引いて行った道だと聞いた。おそらく、たけ山一帯は近辺の村落の秣場だったと考えられる。以前から、町名の「竹下」の、たけ山との関連を想像していたが、その状況証拠の一つになりそうだ。写真には今年も順調に育つ稲が写っている。早いところではすでに稲穂が出ている。幸いにお米には放射能の影響はなさそうである。

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お盆で名古屋のかなくん一家が帰って来ていて、そこへ昼間は掛川のまーくん一家がやって来て大変賑やかである。但し、まーくんのパパは車関係の仕事のため、休みが合わず、忙しくてまだ顔を見ていない。まーくんの弟のあっくんもようやく歩けるようになり、目が離せなくなった。あっくんは、まーくんやかなくんの動きをよく見ていて、言葉で負ける分、強気の行動は時としてまーくんを泣かせてしまう。まーくんも自分の主張を泣いて通そうとする知恵がついてきた。かなくんは一人っ子の甘さで、時々玩具など取り合いにまーくんに負けているが、けっこう我慢強く、身体をどこかにぶつけてもめったに泣かない。だから泣くときはよっぽど痛いときである。明日は名古屋一行が帰り、静けさが戻る。

それで、この3日ばかり、我が家の食器洗い器が大忙しである。夫婦だけのときは一日1回稼動させればお釣りがでるほどであるが、今日は朝から3回稼動し、まだもう1回分の食器が洗いを待っている。食器洗いは自分の役割と心得、極力やるつもりでいるが、一食終ると洗い場がいっぱいになって、今日のようなときは一日中食器洗いをしているような気分になる。

食器洗い器があるのだから、そのまま並べればよいと娘には言われるが、汚れたまま入れるのは何となく気が引けて、汚れを水で落としてから入れないと、気分が落ち着かない。こびりついている飯粒などが、落ちないで乾いて出てくるのを見ているからである。それでも、洗うに水で流すだけだし、布巾で拭う手間が無く、衛生的な点、食器洗い器は優れものである。

食器も食べ終わってすぐに洗えばわけなく汚れが落ちる。少し置くと汚れが落ちにくくなる。理想的には料理を作りながら、料理に使用した食器を洗うくらいな方がよい。女房が料理をする隣で使った食器を洗うこともやってみるが、料理をする方が気忙しくてたまらないだろうと思いやめた。但し、自分で昼食を作るときなどは、料理に使った食器は食事前に洗ってしまう。

食事を終えたらすぐに洗い場に立ち、空いた物からどんどん洗ってゆく。食事を終えた者から、自分が使った食器を次々に洗い場に持ってくる。そうするようになってから、皆んなが食べっぱなしにしないで、洗い場まで片付けるよい習慣が出来てきたと思う。
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義父初盆の御詠歌

(昼間一家でお墓参り、亡き義父寄進の観音像前で)

夜7時より義父の初盆で、近所の皆さんが集って、御詠歌を上げてくれるというので、手伝いに女房と出掛けた。初盆の祭壇を前に座布団が20以上並べてあった。この班は17人だから、座布団をたくさん並べておくと、きっと皆んな遠慮して前の方が空いてしまうからと、座布団を祭壇のある和室の部分だけにして、洋間の部分は片付けておいた。やがて三々五々やってきた近所の皆さんは、祭壇にお線香を上げて、遠いところから座布団を埋め始めた。数が足らなくなったところで、洋間にも3枚ほど座布団を増やして、空き座布団を作ることなく、座って頂けた。場所の譲り合いは奥ゆかしいようで、けっこう面倒なものである。

義弟は久し振りの御詠歌に、皆んな覚えているだろうかと心配していた。御詠歌が身に付いているお年寄りが次々に亡くなって、今中心になってくれる人たちは見様見真似で御詠歌を上げてくれることになる。今後続けて行くには、みんなでもう一度正調の御詠歌を教わることが必要ではないか、などと部外者は余計なことを話す。

鉦や御詠歌本は、何人分か手提げ袋に納めて引き継がれていて、皆んなに配られた。その御詠歌本は平かなで大きな字で手書きされたもので、読みやすく出来ている。足らない冊数を、義父が手書きして準備しておいてくれたけれども、一部変体仮名や草書体の部分もあって読めないからと、皆んなに配られることは無かった。たしかに、古文書の勉強をして自分でも、スムースに読めないところがあった。

「第一番那智山青岸渡寺」と先導者が発声して、御詠歌が始まった。
ふだらくや きしうつなみは みくまのの なちのおやまに ひびくたきつせ

西国三十三札所の御詠歌である。御詠歌を詠いながら、何やら私語が交わされて、3番でストップしてしまった。鉦の叩くタイミングが違うという。1回叩くところと3回連打するところが間違っているという。意見が交わされて、どうやら3回連打する場所が判明したらしい。

その後はテンポ良く進んだ。在所のお袋が一度ここの御詠歌に参加して、とても早くてスピードについて行けないと話したことがある。30年ほど前のことで、当時お袋は地元のお寺の御詠歌で先導を勤めていた。スピードが速いという事は早く終わるという事である。

途中一度休憩して続け、いよいよ「第三十三番谷汲山華厳寺」と最後の発声があった。ここは御詠歌が三首有り、二つ余分なのは、カーテンコールの気持なのだろう。
いままでは おやとたのみし おいずるを ぬぎておさむる みののたにぐみ

西国三十三札所の御詠歌は仏の教えを説くものや、名所旧跡の案内であったり、掛詞などの技巧の跡も見られ、じっくり読んで見ると、抹香臭いだけにあらず、けっこう新鮮に感じられるところもありそうである。

御詠歌の習俗が残る町は文字通り歴史のある街である。自分が住む新興住宅地ではとても考えられないことである。今後とも続けられることを期待するばかりである。

御詠歌のあと、少しアルコールも出て1時間ほど歓談された。話題に加わろうとしたが、話題があまりにローカル過ぎて、割り込む余地が見出せず、諦めて別室に引っ込んだ。
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当国諸国大地震(7) - 喜三太さんの記録

(我班のランドマーク上空に、満月に二日前の月が出る)

「喜三太さんの記録」の安政大地震の項の続きである。ここでは震災に焼け出された人々の惨状を詳しく述べている。

この度の天災は有卦無卦の品数無限事に候、掛川なども地震と言うとそのまま逃げ出し、その跡は焼野と相成り、身に付ける物はその節の衣類のみ、米壱升銭一文持ち出し候ものもこれ無く、夜に入り候ても身を休め候所もこれ無く、ここの薮、かしこの山の根に、あるいは三十人、または五十人と打ち寄り、夜を明し候、掛川御領主より御救い出し候粥と申すも、玄米を泥水にて煮候粥なり、夜分寒さ凌ぎ難く、畑にこれ有り候大根を持ち来り、土のまま煮候て、それへ塩または味噌を入れ食いし候て、寒夜を凌ぎ候と申し候

予が一統は火難を逃れ候仕合わせにて、玄米、泥水の粥などは食わず、その日より白米の飯を食いし候事、先々仕合わせの事に候、掛川、袋井などの様に焼け候ては、その当座、塩は那し、味噌、醤油はなし、かこいを仕たくにも縄はなし、竹はなし、蓆一枚、畳一畳もこれ無く焼き尽し候ゆえ、老人、子供の難渋、言葉に述べがたし

仲町松屋なども質に取り候、切手金證文、諸帳面残らず焼け、金子も三千両余りも焼け候と申す事なり、小商人の内にも帳面、金銭、持ち出し候者はこれ無く候、親類平三郎方なども蔵は焼け残り候えども、帳面の分は残らず焼け申し候
 ※ 切手 - 金銭受取の証明として発行する券。手形・切符・証書の類。

掛川様にてもこの度は火事の火元一向に御吟味はこれ無く、西町菓子屋なども火元に候えども、早速仮家を建て商売始め申し候、掛川御領主よりは御領分中、潰れまたは焼けへ御救い出し申し候、原川町へも焼門へ米二俵ずつ、潰門へ弐斗五升ずつ出し申し候
※ 門 - 家。

当御地頭所様よりも御救い米として、下し置かれ候、予が方、壱斗三升余頂戴いたし申し候


焼け出された人々が最初に何を必要としたのか、これは現代にも共通する話で、東海地震をひかえている我々にも参考になる。今度の東日本大震災では、津波と原発事故がクローズアップされて、本来の大地震の被害は隠れてしまった。自分たちが遭うことになる東海地震は地震と火災が中心になるだろう。海岸ではないから、津波の影響を受けることはなさそうだし、原発事故は絶対に起きてもらっては困る。おそらく懸命に対策が取られ、2度と事故は起さないと考えたい。

この後に続く部分に、「何方も差し当たり困り候は水に御座候」と書かれている。液状化現象が各地に起きていて、水は川や井戸にもあるけれども、いずれも泥水である。焼け出された人たちは泥水で煮炊きしているさまが描かれている。水の確保はしっかりと考えておかねばならない問題である。

今回の大震災でも被災地で暴動や略奪が起きることは無かった。日本人は必死に災難に耐えて、お互いに助け合って生き延びてきた。安政大地震でも暴動や略奪の記述はない。為政者はいち早く御救い米を出しているように、恐らく我慢しておれば援助の手が差し伸べられるという、江戸時代の昔からの信頼感が日本人の国民性の元になっているのであろう。
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当国諸国大地震(6) - 喜三太さんの記録

(御施餓鬼の祭壇)

今朝は5時過ぎの起床、亡き義父の初盆の御施餓鬼で、女房と義弟夫婦の4人でお寺に出かけた。本堂では20数人の御詠歌合唱団?のおばあちゃん達の御詠歌のライブ中であった。やがて6時になると曹洞宗の僧侶が10人入場してくる。緋の衣の当寺の若い住職がメインの僧侶である。御本尊へのメッセージの経が済むと、僧侶は輪になって半周して、御本尊へ背中を向け、本堂のエントランス側に注目する。入口の戸は開け放たれて、祭壇が設けられている。その祭壇及びその外へ拡がった空へ向けて、凡そ30分ほどの法要が営まれた。お盆で故郷の家族のところへ帰って来る諸霊に向けた御施餓鬼である。参集した一同が僧侶の読経と、その後、御詠歌に乗って、焼香を済ませた。そして終わりに、初盆の諸霊を戒名で呼び、今年は東日本大震災で亡くなられた諸霊へのメッセージが加わっていた。全体で凡そ1時間弱の法要であった。

「施餓鬼」とは、辞書を引いてみると、「盂蘭盆(うらぼん)に寺などで、餓鬼道に落ちて飢餓に苦しむ無縁仏や生類(しょうるい)のために催す読経・供養。」餓鬼に施すと書いて施餓鬼である。餓鬼道とは、「六道の一。餓鬼の世界。常に飢えと渇きに苦しむ亡者の世界。」食べても食べても満腹しないで、常に飢えている亡者の世界である。

ちなみに子供を「がき」と呼ぶのは、子供の底知れない食欲を指しているのであるが、飽食の時代に「がき」と呼びたくなる食欲を示す子供も少なくなった。その一方、足るを知らない欲望に取り付かれている大人たちの如何に多いことか。「がき」の呼称はそういう大人たちに譲ったほうがよいのだろう。

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昨日に続いて、安政大地震の「喜三太さんの記録」の続きを以下へ示す。今日の部分には喜三太さんの親類衆がこの地震でどのような被害を受けたのかが、細かく記されている。これだけ長く「喜三太さんの記録」を読んでくると、喜三太さんの親類をわが親類のように感じてしまう。

さて一家親類は先ず当村一統の内は、残らず潰れ候、もっとも土蔵は元屋敷儀三郎方文庫蔵、跡にて潰れ、予が穀蔵(もみぐら)潰れ候ばかり、この外は土蔵の分は潰れ申さず候、
金谷長兵衛方土蔵一つ残り総ては残らず潰れ候、
掛川二藤、村田屋焼亡いたし、徳右衛門どの出後れ死亡いたし候、当年六十歳老人の事とは申しながら、悲歎無限事に候、同宿仲町、川西屋平三郎家は焼亡いたし候えども、土蔵潰れながら焼残り申し候、
上貫名村権之助家蔵とも残らず潰れ申し候、
下垂木村、弥作方本家は余程いたみ候えども潰れ申さず、土蔵、長屋門とも潰れ申し候、
波津親類、醤油屋千蔵残らず潰れ、当妻ます死亡いたし候、老母、番頭も大怪我いたし候えども、これは助り申し候、家におされ候者九人の内八人は助り、ます一人死亡いたし候事、何とも残念の事に候、油屋、杉本屋とも平潰れに相成り申し候、
片瀬村溜屋、これも家蔵ともに潰れ、老父出後れ、終りはかなく相成り候、

かくの如く、一家一類あるいは潰れ、あるいは焼亡、無事なる家一軒もこれ無く、剰(あまつさえ)一家親類の内にて四人まで死亡いたし候事、逃げ難き天災とは申しながら、愁傷悲歎、筆紙につくし難く候、去りながら焼亡いたし候所に比べれば、潰れ候のみは仕合わせなり


「金谷長兵衛方」- 金谷は喜三太さんの在所である。喜三太さんが身体を壊した時、一年ほど在所で療養したこともある。地震が起きたときに、娘のれきさんが金谷にいた。
「二藤村田屋」- 隣りの東小松の娘のおていさんが滞在していて、逃げた先で高塀の下敷きになって亡くなった。
「下垂木村弥作方」- 娘のみゑさんが滞在していた。
「波津の千蔵」- 伊豆へ湯治に行っていて、帰る道中で見た地震の被害を喜三太さんに語っている。自宅では妻のますさんが亡くなって、恐らく死に目にも会えなかったのであろう。
「片瀬村溜屋」- 秋葉山に詣でた帰りに、一泊泊めてもらっている。

今まで読んできた中でも、以上のようなことが思い出される。
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