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「地震取調集」の地を踏査 その2

(地蔵森の波除け地蔵)

(昨日の続き)
「前浜」から戻って、誰か地元の人に尋ねようと車を走らせた。あいにく工場地域で、日曜日とあって人影が無い。一人歩行者を見つけて聞いてみたが、出張で来ている人だった。松林の一画が残ったところを見つけて、車を乗り入れた。林の中に鳥居があって神社の様に見えた。しかし社殿が無く土台らしいものがあるだけだった。時分の故郷の遊び場だったところに、「おたびしょ」という場所があったのを思い出した。屋根とそれを支える丸柱だけで、屋根の下は乾いた土間であった。お祭りに御神輿が渡御の途中で仮安置される場所だと聞いた。ここもそのような場所ではないかと思った。(後で、訪れた八幡宮のお旅所だったようだ)

松林の隅で車を洗っている人を見付け、「波除け地蔵」の場所を尋ねた。その男性は確か写真に撮ってあったと、バンの後部ドアを上げて探し始めた。写真が趣味で、あちこちの景勝地やお祭りなどを撮った四つ切の写真がたくさん出てきた。それを片っ端から、時々これが何の写真と解説を入れながら、確認して行った。写真も尽きる頃にようやく目的の写真が見つかった。「波除け地蔵」の案内板を撮ったもので、背後に古いお堂が写っている。今はお堂も新しくなって、看板も移動されていると話す。場所は、これを出て橋を渡り最初の信号を右に渡り100メートルほど行った左側で、すぐに判るという。言葉で簡単に説明できるなら、あの写真は何だったのだろう。単に写真を見せたかったのかもしれない。


(波除け地蔵のお堂内部)

「波除け地蔵」の真新しいお堂は道路端ですぐに判った。海からは500メートルほど入ったところであった。お堂が元々この地にあったのかどうかは知らない。地蔵森と呼ばれた森は見当たらず、工場に囲まれた場所であった。地蔵森は開発されて無くなったのだろうか。格子戸の中をのぞくと、小さな石仏が赤い前垂れを掛け鎮座されていた。

脇の案内板によると、むかし大井川は度々氾濫し、多くの人命を奪い、家屋や田畑を流した。ある洪水のおり、多くの村人の命を救ったお坊さんが、自らは地蔵森浜に死体として打ちあがった。その夜、村人の夢枕に立ったお坊さんはその地にお地蔵さんを祀ってくれるように頼む。村人たちがお地蔵さんを祀るようになってからは、その地が大井川の洪水に遭うことは無くなり、津浪に遭うことも無くなった。

安政の大地震では津浪が免れたというが、東日本大震災を目の当たりにした我々の眼で見ると、開発された工場地帯に津浪が揚って蹂躙するのは確実のように見える。あるいは深い駿河湾の中では波の動きが複雑で、微妙に助かる地形があるのかもしれない。(続く)
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