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「地震取調集」の地を踏査 その3

(八幡宮)

(昨日の続き)
「波除け地蔵」を後にして、「地震取調集」筆者の本寺である高岳寺を目指した。高岳寺はカーナビで見つけて、1キロ少々のところにあった。右手の塀の内側に高岳寺の本堂も見えていたが、入口を見つけない先に、広い駐車場の向こうに八幡宮が見えていたので、先にお参りしようと向かう。

「地震取調集」には「当所氏神は両社とも御別条無し、もっとも両社の御華表(とりい)大破、砕失」と記されているが、その内の一つなのだろうか。鳥居は石造りに見えたけれども、叩くとボコボコと合成樹脂製であった。今ではこんなものまで合成樹脂で造ってしまうのかと驚いた。軽いから地震などには強いのであろう。鳥居の背後には両側に2本、まっすぐな背の高い松の木が門柱のように立っていた。

案内板によると、大同元年(806)に創建というから、随分古く社殿も大きなものであった。秋のお祭りに大名行列に因んだ神輿渡御(3年毎)が行なわれ、途中、第一、二、三、四の御仮屋に駐輿し、御旅祈祭を行なうと書かれていた。先ほど松林の中に見たのは、この御仮屋の一つだったのだろう。我が故郷では御旅所と呼んでいたが、ここでは御仮屋と呼ぶ。一つ謎が解けた。


(吉永山高岳寺)

さて、目的の高岳寺であるが、入口は少し回りこんだところにあった。予想した以上に大きなお寺であった。吉永山高岳寺といい、曹洞宗のお寺である。吉永というのはこの辺りの地名であった。

次に末寺の正泉寺をカーナビで見つけて向かう。途中、行き先に「飯渕」と表示した路線バスが通った。飯渕(はぶち)には記憶がある。「地震取調集」に「近村飯渕村より猟船(漁船)にて積出し御城米船二艘、揺れ中、海上高浪に打ち込まれ、残らず御城米刎(はね)出し」と記された「飯渕」である。そこで家に帰ってからもう一度地図をよく調べてみると、大井川の河口の左岸、大井川港と大井川に挟まれた狭い地域に、「飯渕」の地名を見つけた。つまり御城米船が出たのは、現在の大井川港の辺りだと推測できる。


(正泉寺)

最後に訪れた正泉寺は高岳寺に比べるとはるかに小さなお寺であった。正泉寺は昭和20年海軍静浜飛行場用地として収用され、移転を余儀なくされた。戦後に新築された現在の堂宇が、元の土地と違う場所なのかどうかが、はっきりしない。海軍静浜飛行場は現在、その一部が自衛隊の静浜基地として使用されている。

これでほぼ、この日に回る予定にしていた場所を巡り終えた。最初の謎、「地震取調集」の筆者は誰かという疑問にはまだ答えられていない。しかし、おおよそ旧大井川町に在住していた誰かであるとの限定は出来たと思う。今後「地震取調集」を読み進めてゆく中で、謎を解明したいと思う。
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