本年10月30日は、明治23年(1890)10月30日に教育勅語が発布されて120年という記念すべき日に当たる。わが国は、敗戦後GHQの命令により、昭和23年(1948)6月に国会で勅語の排除ないし失効確認が決議された。以来、教育勅語は廃止されたまま顧みられずにきた。そのことが、日本人が日本人本来の精神を見失ってきた一つの原因となっている。私は、教育勅語発布120年にあたり、改めて教育勅語の復権を広く呼びかけたい。
教育勅語を読んだことのない人は、この機会に読んでみよう。また読んだことはあるが、じっくり内容を確認したことのない人は、この機会に確認してみよう。
教育の勅語の全文と現代語訳を、マイサイトに挙げてあるので、ご利用願いたい。
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion02c.htm
第4章「教育勅語を読んでみよう」
さて、戦後日本の教育は、日本国憲法と教育基本法の下で行われてきた。教育勅語は、西洋文明の摂取に急ぐあまりに、伝統的な道徳を軽視していた風潮に対して、わが国の教育の根本となる理念・目標を打ち出したものだった。それゆえ、教育勅語を否定すれば、必然的に、学校教育から伝統に基づく道徳が欠落し、西欧の模倣追従となる。同時に、家庭での教育も指針を失ってしまう。学校で家庭で道徳的な価値観が喪失され、物事の判断基準が見失われる。まさにそれが、戦後日本において起こった。
日本国憲法には、日本の歴史・伝統・精神を守ろうという姿勢がない。また、旧教育基本法は日本国憲法の下での教育を定めたゆえ、愛国心・公共心の育成、伝統の尊重、祖先への敬愛、自衛心の涵養などが盛られていなかった。その空隙に教え込まれたのは、外国の思想だった。アメリカ型の民主主義であり、旧ソ連型の共産主義であり、また中国・朝鮮の反日思想である。こうして日本人は、日本の心を失い、独自の精神文化を失ってゆくことになった。そして、日本人は経済的な復興と繁栄を追求するなかで、物質的な豊かさは得たものの精神的な高邁さを失ってしまった。欲望の開放を自由の拡大と錯覚したような、品性のない国民に成り下がってしまったのである。
教育勅語という支柱をなくした教育が、戦後60年以上も続けられたことによって、教育には甚大な影響が出ている。将来を担う青少年の退廃、堕落は、底知れぬ深刻さを示している。また、家庭が崩壊に向かい、社会は混乱し、国家の溶解が進んでいる。このまま精神的な支柱を見失っていれば、わが国は、亡国の道を歩むだろう。
そこで私は、教育勅語の復権を呼びかける。
戦前の教育がすべてよかったわけではない。欠陥もあれば、ゆき過ぎもあっただろう。しかし、その中の良いものもすべて否定してしまっては、精神的な低下が起こるのは当然である。教育勅語には、何千年もかかって培われてきた日本独自の道徳が結晶しているからである。そえゆえ、教育勅語の再評価と復権を行い、その内容のうち、現代に生かせることは、生かしていくべきである。
以下は、教育勅語に関する著書もある大原康男氏の主張。
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●産経新聞 平成22年10月29日
http://sankei.jp.msn.com/life/education/101029/edc1010290311002-n1.htm
【正論】国学院大学教授・大原康男 発布から120年、教育勅語再考を
2010.10.29 03:08
教育勅語(ちょくご)-正式には「教育ニ関スル勅語」-なんて今さら何だという声が出てくるかもしれない。既に修身教育を停止させていた連合国軍総司令部の命令により昭和23年6月に国会で勅語の排除ないし失効確認が決議され、それ以降、わが国では「天皇絶対主義イデオロギーを国民に注ぎ込み、あの無謀な侵略戦争を導いた元凶」という最大級の負の烙印(らくいん)が押されて久しいからである。
しかし、戦後教育の欠陥、とりわけ徳育の欠如は“いじめ”や登校拒否、学級崩壊などを生み、また低年齢層の凶悪犯罪や自殺の増加、親殺し、子殺しといったさまざまなモラルハザード現象を蔓延(まんえん)させた。ために、平成18年12月に教育基本法が制定から60年近くもたって全面改正され、「豊かな道徳心」「公共の精神」「伝統と文化の尊重」などが遅まきながら謳(うた)われたのだが、これはほんのささやかな再出発にすぎない。
≪教育基本法とは共存≫
戦後日本の“神話”に「教育基本法は教育勅語に代わるものとして制定された」というのがある。詳細は紙数の関係で割愛するが、前者の制定は昭和22年3月、後者の廃止は先述の通り翌年の6月。短期間ながら両者が共存し補完関係にあった事実は重要であり、教育勅語について考察する際に無視できないポイントである。この30日は明治23年10月30日に教育勅語が発布されてちょうど120年の記念すべき節目に当たる。この機会に近代日本の教育の根幹とされた勅語の意義を改めて検証することも決して無駄ではあるまい。
周知のように、近代化を大急ぎで進めた政府の教育政策が西洋偏重、中でも徳育が軽視され、それを深刻に憂慮された明治天皇の意を受けて草案起草の中心となったのが山県有朋内閣の法制局長官、井上毅(こわし)である(近代日本の2つの支柱である明治憲法と教育勅語の双方に関(かか)わった唯一の人物)。
井上は、立憲主義の立場から君主は国民の良心の自由に干渉してはならないとして、勅語は「政治上の命令」(「勅令」のようなもの)ではなく、「君主の社会的著作」(「御製」のようなもの)として発せられるべきであるとの原則を提示した上で、宗教上の争いを引き起こす「敬天尊神」のような語を使用しない、激しい論争を招く「幽遠深微な哲学上の理論」に立ち入らない、時の政治家の示唆によるものと見られるような「政治上の臭味(くさみ)」を帯びない等々、実に細心かつバランス感覚豊かな構想で起草したのである。
≪バランス配した井上の起草≫
内容的にも「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ…」に始まる12の徳目も一般に評されているようには儒教色一色でない(例えば、孟子の「五倫」にある「父子に親あり」「長幼に序あり」「夫婦に別あり」と比較すれば明白)。
また、こんな逸話も伝わっている。徳目の一つ「常ニ国憲ヲ重(おもん)シ国法ニ遵(したが)ヒ」は天皇の大権に制限を加えるものと考えた側近の一人が削除しようとした際に、明治天皇は「いや、あれは必要だ、原文のまま留(とど)めておけ」と指示された。前年に公布された憲法が定める立憲君主のあるべき姿を早くも示されたのである。
もう一つ注目すべきは、結びにある「朕(ちん)爾(なんじ)臣民ト倶(とも)ニ拳々服膺(けんけんふくよう)シテ…」である。天皇も国民とともに努力するとの趣旨であり、君主から国民への一方的な訓諭ではない点も見逃してはならない。
≪外国人の評価と若者の理解≫
外国人の評価にも目を向けてみよう。日露戦争の開戦直前にあらかじめ戦争終結の斡旋工作に従事するため派米されていた金子堅太郎(伊藤博文の配下。当時の米大統領のT・ルーズベルトとハーバード大で同窓)によれば、予想外の日本軍の健闘に驚嘆した米国人から「日本の教育はどうなっているか」と問われたので、教育勅語を紹介し、求めに応じて仮訳を示したところ、多くの人々から共感と称賛の声が上がったという。
時代は遙(はる)かに下るが、私にも似た体験がある。二十数年も昔のことだが、進学校で有名な栄光学園の園長を務め、『日本の父へ』などの著書でも知られるドイツ人のグスタフ・フォス神父から「日本の憲法の前文も歴史や伝統に沿ったものであるべきだ」と言われたので、「具体的には?」と問うたところ、「教育勅語のようなものだ」と即座に答えられて、驚いたことを今も鮮烈に覚えている。
以上のようなことは各種の講義で語ってきた。ほとんどの受講生は教育勅語には冒頭触れたような悪いイメージを持っていたのだが、私の話を聞いた後では「教育勅語への見方が大きく変わった」と異口同音に感想を述べる。確かに「朕惟(おも)フニ」や「我カ臣民」などの表現に違和感を覚えるのはやむを得ないし、片仮名交じり漢文読み下し調の文体には馴染(なじ)みにくいという難点はあるものの、意見ではなく事実だけをそのまま伝えれば、今の若い世代でも素直に理解できると分かり、ほっとする。もっとも、そう言う私自身も彼らと同じく教育勅語とは無縁の教育を受けてきたのだが…。(おおはら やすお)
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関連掲示
・拙稿「教育勅語を復権しよう」
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion02c.htm
教育勅語を読んだことのない人は、この機会に読んでみよう。また読んだことはあるが、じっくり内容を確認したことのない人は、この機会に確認してみよう。
教育の勅語の全文と現代語訳を、マイサイトに挙げてあるので、ご利用願いたい。
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion02c.htm
第4章「教育勅語を読んでみよう」
さて、戦後日本の教育は、日本国憲法と教育基本法の下で行われてきた。教育勅語は、西洋文明の摂取に急ぐあまりに、伝統的な道徳を軽視していた風潮に対して、わが国の教育の根本となる理念・目標を打ち出したものだった。それゆえ、教育勅語を否定すれば、必然的に、学校教育から伝統に基づく道徳が欠落し、西欧の模倣追従となる。同時に、家庭での教育も指針を失ってしまう。学校で家庭で道徳的な価値観が喪失され、物事の判断基準が見失われる。まさにそれが、戦後日本において起こった。
日本国憲法には、日本の歴史・伝統・精神を守ろうという姿勢がない。また、旧教育基本法は日本国憲法の下での教育を定めたゆえ、愛国心・公共心の育成、伝統の尊重、祖先への敬愛、自衛心の涵養などが盛られていなかった。その空隙に教え込まれたのは、外国の思想だった。アメリカ型の民主主義であり、旧ソ連型の共産主義であり、また中国・朝鮮の反日思想である。こうして日本人は、日本の心を失い、独自の精神文化を失ってゆくことになった。そして、日本人は経済的な復興と繁栄を追求するなかで、物質的な豊かさは得たものの精神的な高邁さを失ってしまった。欲望の開放を自由の拡大と錯覚したような、品性のない国民に成り下がってしまったのである。
教育勅語という支柱をなくした教育が、戦後60年以上も続けられたことによって、教育には甚大な影響が出ている。将来を担う青少年の退廃、堕落は、底知れぬ深刻さを示している。また、家庭が崩壊に向かい、社会は混乱し、国家の溶解が進んでいる。このまま精神的な支柱を見失っていれば、わが国は、亡国の道を歩むだろう。
そこで私は、教育勅語の復権を呼びかける。
戦前の教育がすべてよかったわけではない。欠陥もあれば、ゆき過ぎもあっただろう。しかし、その中の良いものもすべて否定してしまっては、精神的な低下が起こるのは当然である。教育勅語には、何千年もかかって培われてきた日本独自の道徳が結晶しているからである。そえゆえ、教育勅語の再評価と復権を行い、その内容のうち、現代に生かせることは、生かしていくべきである。
以下は、教育勅語に関する著書もある大原康男氏の主張。
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●産経新聞 平成22年10月29日
http://sankei.jp.msn.com/life/education/101029/edc1010290311002-n1.htm
【正論】国学院大学教授・大原康男 発布から120年、教育勅語再考を
2010.10.29 03:08
教育勅語(ちょくご)-正式には「教育ニ関スル勅語」-なんて今さら何だという声が出てくるかもしれない。既に修身教育を停止させていた連合国軍総司令部の命令により昭和23年6月に国会で勅語の排除ないし失効確認が決議され、それ以降、わが国では「天皇絶対主義イデオロギーを国民に注ぎ込み、あの無謀な侵略戦争を導いた元凶」という最大級の負の烙印(らくいん)が押されて久しいからである。
しかし、戦後教育の欠陥、とりわけ徳育の欠如は“いじめ”や登校拒否、学級崩壊などを生み、また低年齢層の凶悪犯罪や自殺の増加、親殺し、子殺しといったさまざまなモラルハザード現象を蔓延(まんえん)させた。ために、平成18年12月に教育基本法が制定から60年近くもたって全面改正され、「豊かな道徳心」「公共の精神」「伝統と文化の尊重」などが遅まきながら謳(うた)われたのだが、これはほんのささやかな再出発にすぎない。
≪教育基本法とは共存≫
戦後日本の“神話”に「教育基本法は教育勅語に代わるものとして制定された」というのがある。詳細は紙数の関係で割愛するが、前者の制定は昭和22年3月、後者の廃止は先述の通り翌年の6月。短期間ながら両者が共存し補完関係にあった事実は重要であり、教育勅語について考察する際に無視できないポイントである。この30日は明治23年10月30日に教育勅語が発布されてちょうど120年の記念すべき節目に当たる。この機会に近代日本の教育の根幹とされた勅語の意義を改めて検証することも決して無駄ではあるまい。
周知のように、近代化を大急ぎで進めた政府の教育政策が西洋偏重、中でも徳育が軽視され、それを深刻に憂慮された明治天皇の意を受けて草案起草の中心となったのが山県有朋内閣の法制局長官、井上毅(こわし)である(近代日本の2つの支柱である明治憲法と教育勅語の双方に関(かか)わった唯一の人物)。
井上は、立憲主義の立場から君主は国民の良心の自由に干渉してはならないとして、勅語は「政治上の命令」(「勅令」のようなもの)ではなく、「君主の社会的著作」(「御製」のようなもの)として発せられるべきであるとの原則を提示した上で、宗教上の争いを引き起こす「敬天尊神」のような語を使用しない、激しい論争を招く「幽遠深微な哲学上の理論」に立ち入らない、時の政治家の示唆によるものと見られるような「政治上の臭味(くさみ)」を帯びない等々、実に細心かつバランス感覚豊かな構想で起草したのである。
≪バランス配した井上の起草≫
内容的にも「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ…」に始まる12の徳目も一般に評されているようには儒教色一色でない(例えば、孟子の「五倫」にある「父子に親あり」「長幼に序あり」「夫婦に別あり」と比較すれば明白)。
また、こんな逸話も伝わっている。徳目の一つ「常ニ国憲ヲ重(おもん)シ国法ニ遵(したが)ヒ」は天皇の大権に制限を加えるものと考えた側近の一人が削除しようとした際に、明治天皇は「いや、あれは必要だ、原文のまま留(とど)めておけ」と指示された。前年に公布された憲法が定める立憲君主のあるべき姿を早くも示されたのである。
もう一つ注目すべきは、結びにある「朕(ちん)爾(なんじ)臣民ト倶(とも)ニ拳々服膺(けんけんふくよう)シテ…」である。天皇も国民とともに努力するとの趣旨であり、君主から国民への一方的な訓諭ではない点も見逃してはならない。
≪外国人の評価と若者の理解≫
外国人の評価にも目を向けてみよう。日露戦争の開戦直前にあらかじめ戦争終結の斡旋工作に従事するため派米されていた金子堅太郎(伊藤博文の配下。当時の米大統領のT・ルーズベルトとハーバード大で同窓)によれば、予想外の日本軍の健闘に驚嘆した米国人から「日本の教育はどうなっているか」と問われたので、教育勅語を紹介し、求めに応じて仮訳を示したところ、多くの人々から共感と称賛の声が上がったという。
時代は遙(はる)かに下るが、私にも似た体験がある。二十数年も昔のことだが、進学校で有名な栄光学園の園長を務め、『日本の父へ』などの著書でも知られるドイツ人のグスタフ・フォス神父から「日本の憲法の前文も歴史や伝統に沿ったものであるべきだ」と言われたので、「具体的には?」と問うたところ、「教育勅語のようなものだ」と即座に答えられて、驚いたことを今も鮮烈に覚えている。
以上のようなことは各種の講義で語ってきた。ほとんどの受講生は教育勅語には冒頭触れたような悪いイメージを持っていたのだが、私の話を聞いた後では「教育勅語への見方が大きく変わった」と異口同音に感想を述べる。確かに「朕惟(おも)フニ」や「我カ臣民」などの表現に違和感を覚えるのはやむを得ないし、片仮名交じり漢文読み下し調の文体には馴染(なじ)みにくいという難点はあるものの、意見ではなく事実だけをそのまま伝えれば、今の若い世代でも素直に理解できると分かり、ほっとする。もっとも、そう言う私自身も彼らと同じく教育勅語とは無縁の教育を受けてきたのだが…。(おおはら やすお)
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関連掲示
・拙稿「教育勅語を復権しよう」
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion02c.htm
弁護士を指導・監督する立場にある宇都宮健児のこの行為は、不法行為を教唆するものであり、国民への背任です。
表向きは、社会正義の実現(弁護士法1条)を強調しながらも、裏陰では、「虚偽(詐害行為)は正当だ」と指導しているのですから.弁護士トラブルが急増するは当然です。
日弁連・会長:宇都宮健児らは、提訴し、勝訴するための「虚偽は正当だ」との理念を抱き、当然のように実践する人間たちだということでしょう。
そして、組織的な権力を得ている日弁連・会長:宇都宮健児らのこの裏影での卑劣な行為を国民は知ることができず、それをとがめる手段もないのです。
国民は、日弁連・会長:宇都宮健児らのこの卑劣な事実を知るべきであり、この元凶者たちを排除すべきです。
法曹界に正義はありません。