ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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いよいよ道徳が教科化される3

2015-01-09 08:45:32 | 教育
 次に、元国立市教育長で教育評論家の石井昌浩氏は、「道徳の教科化により、道徳教育は新しい時代を迎えたのだ」と評価している。「道徳教育で問われているのは、社会の一員としてどう生きるかについて自ら学び、自ら考え、問いを立て、答えを見つけて実践する力である。未来の社会の在り方を見据えつつ、独立自尊の精神を身につけ、自らの生き方の座標軸を持つことである」と石井氏は言う。
 ただし、石井氏は「道徳の教科化さえ実現すれば、『いじめ』などの難問が、すぐにでも解決するように期待する人もいるが、それは幻想というものだ。教科化は特効薬ではない」と指摘する。
 道徳が教科化されることで何がどのように改善されるかについて、石井氏は「まず、検定教科書が使われることが特筆すべき変化である。従来の副読本などに加えて、教科書を使用することにより、学校や教員によって授業内容に格差が生まれていた状況が解消されるだろう」と述べる。
 次に石井氏は「教科化に伴い、大学において道徳を対象とする領域が開設され、専門の教員配置が実現するだろう」と言う。「これによって初めて、道徳の目的・内容・評価・指導法などについての学問的な研究体制の確立が期待できる」とする。
 石井氏によると、道徳教育に限って教員免許制度と教員養成制度が未整備のままに長い間放置されてきた。教職課程で道徳の必修単位は2単位、つまり、1回90分の「道徳の指導法」の講義を年間15回受ければ小中学校の道徳授業が可能という軽い位置づけである。さらに道徳が教科でないため、道徳を専門とする研究者の育成がされずに、大半は専門家ではない大学教員が道徳の講義を担当しているのだという。
 とはいえ、戦後の長きにわたり試行錯誤の連続だった道徳教育が教科化した途端に手品のように変容するはずもない、と石井氏は指摘する。「戦後70年、私たちは教育の根本にあるはずの道徳について深く論じることはなかった。教科化をきっかけに、他の教科と同じように科学的な学問体系を築いていく必要がある」と石井氏は主張している。
http://www.sankei.com/column/news/141213/clm1412130008-n1.html
 次に武蔵野大教授で日本道徳史・道徳教育論が専門の貝塚茂樹氏は、「今回の教科化によって、道徳教育の形骸化が解消されたかといえば、問題はそれほど単純ではない」と言う。
貝塚氏は、中教審の答申が検定教科書の導入を提案し、授業の指導法にも積極的な提言を盛り込んだことは大きな成果であるとして評価する。だがその一方で、答申では、道徳の専門免許は見送られ、大学での教員養成改革への実質的な提言はない。「これで本当に形骸化が克服できるのか。私には疑問である」と言う。
 貝塚氏は、「形骸化の元凶」は「道徳教育の理論研究の貧困」であるとし、それは「道徳が教科でないことで、大学に道徳教育を専門的に研究する講座や専攻分野がほとんどないことに起因する」と指摘する。そのために、道徳教育の研究者は極めて少数であり、道徳教育の専門でない教員が大学の講義を担当することは決して珍しくない。大学での理論研究の貧困は教員養成の機能不全をもたらし、教育現場での教育実践(指導法)の停滞を引き起こしている。これこそが道徳教育の形骸化の本質だ、と貝塚氏は主張する。いわば「負のスパイラル」に陥っているわけである。
 貝塚氏は、道徳を教科化する根本的な理由は、この状況に風穴を開け、「正のスパイラル」へと構造的に転換することだ、と述べる。そして、この構造転換に必要なものが、道徳の専門免許だと主張する。その理由は、教員養成は免許と連動しているので、専門免許を制度的に担保しなければ、大学で道徳教育を研究する基盤が形成されないからだという。これに加えて、いじめと自殺の深刻化やインターネットの拡大など、子供たちが直面している現実はますます複雑となっている。こうした中で、子供の心に響く適切な授業を展開するためには、教師の側に高度な専門性が求められることも、貝塚氏は指摘する。そして、次のように主張する。「教科化しても何も変わらない」ではもはや済まされない。「仏作って魂入れず」と後世に揶揄されるような教科化では何の意味もない。道徳教育改革に魂を入れるのは、これからが正念場である」と。
http://www.sankei.com/life/news/150103/lif1501030014-n1.html

 冒頭に、私見として、親学の振興が必要だと述べた。学校での道徳教育の回復・強化は急務だが、もっと重要なことは、学校教育に先立ち、家庭で親が子供にしつけをし、子どもの心を育てることである。家庭教育は、人格形成の基礎作りとなる。基礎が出来ていないと、その上に、立派な建物を建てようとしても、柱も立たない。それゆえ、学校における道徳教育の充実以上に、親が親になる教育、親学の振興が必要である。親学を振興してこそ、学校における道徳の教科化を成功させることができる。また、親や大人が協力して行う社会教育も成果を上げることができるだろう。親学については、様々な機会に書いてきたので、下記の拙稿をご参照願いたい。(了)

関連掲示
・拙稿「親学を学ぼう、広めよう」
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion02j.htm
・拙稿「しつけあっての教育」
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion02.htm
 目次から17へ
・拙稿「道徳の教科化と親学の振興で道徳教育の充実を」
http://www.ab.auone-net.jp/~khosoau/opinion02.htm
 目次から23へ


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