ほそかわ・かずひこの BLOG

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いよいよ道徳が教科化される2

2015-01-07 09:39:28 | 教育
 道徳の教科化について、有識者の意見を紹介する。
 昭和女子大学人間社会学部教授で日本道徳教育学会会長の押谷由夫氏は、道徳の教科化の意義を次のように述べる。
 「不透明な時代。不安は尽きない。だからこそ確かな未来を求めて、子どもの教育に目が向けられる。そして、学力の育成。その学力も、社会の変化に主体的に対応できる知識や技能が強調される。確かに、それらは重要である。しかし、何かが足りない。未来を生きていくのは、子どもたちなのだ。子どもたちの幸せ感と一体となったところに、それらの知識や技能の獲得がなければならぬ。それには、何が必要か。いうまでもなく、人間としての心の育成、つまり道徳教育である。その道徳教育を充実させる切り札として『特別の教科道徳』が提案されているのである」と。
 「そもそも道徳は、一般に言われる教科とは異なる。教科はそれぞれに専門分化したものだが、道徳は総合されたものである。したがって、道徳は、各教科全体を包み込んで人間として生きる根幹となる道徳的価値の自覚を計画的発展的に図るという意味で、特別の教科なのである」という。そのために、道徳教育をどのようなものにしていくべきなのか、について、押谷氏は、目標は「自律的に道徳的実践のできる子どもを育てる」、教科書は「開発資料も使えるようにする」、指導者は「全員で取り組む」、評価は「良さの成長を伝える」という4点を挙げる。
 これらのうち、目標については、「自ら気づき(感じ)、考え、判断し、意欲して道徳的な行為ができる人間」を育てることとし、さらに重要なのは「そのような道徳的思考や実践を習慣化(日常化)すること」と述べている。そして、押谷氏は、次のように呼びかけている。「道徳教育は、子どもたちの未来やこれからの社会を、明るく希望に満ちたものにしていくものでなければならない。基本的な道徳的価値を窓口として、互いに励まし合い、助け合って、それらを共に発展させ高めていけるようにしていくのが『特別の教科道徳』である。『特別の教科道徳』が教育課程にしっかりと位置づけられ機能するようになることによって、学校教育が人間教育の場となっていく。そのことに夢を託して、皆さんと一緒に『特別の教科道徳』を創り上げていこうではありませんか」と。
http://www.akaruisenkyo.or.jp/wp/wp-content/uploads/2014/05/Voters19%E5%8F%B7.pdf

 次に、シナ思想史家の加地伸行氏は、道徳の教科化への反対論は「〈道徳教育は一定の価値観の押しつけ〉という硬直した思いこみの感情論であり、道徳とは何かと考えたことがないことを露呈している」と指摘する。
 加地氏によると、道徳は、絶対的道徳と相対的道徳とに二大別できる。絶対的道徳とは、古今東西において共通する道徳である。人を殺すなかれ、他人の財物を盗んだり焼亡することなかれ…といった、社会秩序の鉄則である。それは公徳であり、きちんと教えなくてはならない。相対的道徳とは、それを実行するには自己が判断し決定する種類のものである。これは、古くから道徳教育の大きなテーマとして存在する。今日では、ディスカッションの形で学ぶことが多い。一般にはモラルジレンマ(生きかたにおける苦渋の決断)と言う。例えば、海上に3人が乗っている1隻の舟があるとする。しかし、その舟の能力では1人しか乗れない。では3人はどうするかーーというような問題について考えさせるものである。正解はないが、議論して道徳の実践における選択と自己の決断という生き方を学ぶ訓練となり、それが道徳心を高める。
 加地氏は、さらに個人における修養を挙げる。「小中学生が自分一人で修養を積むのはなかなか難しい。そこで例えば偉人の伝記や人々のエピソードを知ることによって啓発される可能性が高い。こうした修養は、私徳であり、生涯にわたって続くこととなり、その人の人生を左右する。そのための種まきが道徳教育なのである。そのどこがいけないのか」と加地氏は言う。
 そして加地氏は、次のように主張する。「日本の教育の不幸は、政府の行うことを、左筋の者が常に悪く悪く解釈し悪宣伝をするところにある。モラルジレンマの訓練・討論など知らないで悪口雑言だけ。彼らにこそ道徳教育が必要だ。文部科学省よ、自信をもって道徳教育を推進すべし。それは明日を担う少年少女のためである」と。
http://www.sankei.com/column/news/141229/clm1412290001-n1.html

 次回に続く。

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