梶哲日記

鉄鋼流通業会長の日々

諸説あり!?(その2)

2016年10月01日 09時28分14秒 | Weblog
前回の続きとなりますが、NHK大河ドラマ“真田丸”。9月25日に放映されたテレビを、固唾をのんで見守りました。関ヶ原で敗軍の将となった昌幸と幸村の真田親子が、直に九度山に幽閉されたのか、それとも一旦高野山のお寺に入ったのかどうか。

前回では出て来なかった蓮華定院が、ひょっとしたら今回の冒頭に描かれているのかとも想定していましたが、遂にその場面は出て来ませんでした。しかしです、番組最後に流される、毎回出て来るゆかりの場所などを紹介する“真田丸紀行”に、何とそのお寺が登場しました。

番組中のナレーションでは「真田家と懇意にしていたお寺」とだけ、紹介されました。念の為にホームページの方の“真田丸紀行”を開いてみると、「和歌山県高野町。1200年の歴史を持つ高野山に、真田家とゆかりの深い寺があります。蟄居の身となった真田親子が頼った寺です」、とのコメントが書かれていました。つまりどちらも、最初に入ったのが高野山で、一時期滞在してから、許しを得て九度山に降りたとは紹介されていません。

それはさておき今回の“真田丸”第38話は、戦国時代を駆け抜けた百戦錬磨の武将、波乱に満ちた昌幸を、九度山で再び知略をめぐらす野望を抱きながらも、最後まで武田信玄への想いを貫きながら亡くなる描写で終わりました。

そのドラマの中で昌幸は死期を悟ると、幸村に、九度山で10年掛けて考えた徳川と豊臣が激突した場合の秘策を授けるシーンがありました。これも諸説ありの世界になるのでしょうが、この逸話は実話ではなく、後世になってから作られた創作とも言われています。

NHKオンデマンドでもう一度、第38話を観直しました。番組冒頭で、綺麗な紀州九度山村の遠景が映し出されている場面に、「慶長六年(1601)正月」との文字が浮かんでいました。直後場面が変り、親子は九度山の仮住まいで、監視役の和歌山藩の藩主浅野家家臣から蟄居中の注意事項を受けます。

関ヶ原の戦いは慶長五年(1600)九月です。その慶長五年九月から慶長六年正月まで、真田親子は高野山の蓮華定院に幽閉されていたとしても、その間僅か。私の推測ですが、九度山に慶長六年正月には親子は居たとの検証をした上で、NHKとしてもドラマとしての面白さや大筋を考えて、カットしたのではないでしょうか。

前にも書きましたが「歴史は勝者によって書き換えられる」との言葉、またある歴史家は「敗者の史実も資料(文献)も残らないものだ」とも表現しています。諸説ありの検証は、専門の歴史家に任せていいと思っています。

真田昌幸を演じた草刈正雄さんは私と同世代です。ドラマでの圧倒的なその存在感からしても、正にハマリ役を感じました。検証されるべき史実も大事ですが、三谷幸喜さんの描き方や、草刈正雄さんの演じ方を学びたいです。
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