母校は今年創立90周年を迎える。
実際には大正15年に開校した夜間中学が原点であり、
夜間中学閉校と同時に旧制中学開校となったので、
実質的には創立95周年になるはずだ。
花巻北高生は入学と同時に全員応援団に入団する。
卒業時の退団式までは3年間応援団員という形なのだ。
入団式がどのようなものであるのかは
以前書いたものをリンクする。
そして入学直後(今はGW明け?)に応援歌練習がある。
その壮絶な思い出もリンクしておこう。
そうやって我々は真の花高生になっていった。
応援団を指揮するのは応援団幹部。
2年の夏前に(原則的には)厳正な選挙で選ばれる。
厳しい応援歌練習を行ったり、全校生徒を統率する立場だから
当然のことながらリスペクトされる人間じゃないと
全校生徒たちから支持はされない。
生徒会役員よりも厳しい目で選ばれることになるから
少なくとも私が現役生の頃は真面目で成績優秀者がなっていた。
中でも団長は、卒業した今でも尊敬を集める存在だ。
さて、この応援団幹部とはどういう存在なのだろう。
そして、最近一部マスコミに「パワハラ」と報道された
入団式や歌詞指導、応援歌練習は何のためににあるのだろう。
単なる通過儀礼だとか、伝統だとか
そんな漠然とした表現ではおそらく現代には通用しない。
ちょっと考えてみた。
ひとことで言い表すと、
花高生としてのプライドを醸成するための、伝統を体現する存在?
ここでプライドを身につけるからこそ、
その後の3年間はそれがある意味倫理となって
他校に比べて割と自由な校風にのなっているのではなかろうか。
全ての行動規範に「それは花高生としてどうなのだ?」があるから
自然に自ら考えや行動を律することができる。
それができなければ、否応なく校則で縛られることとなる。
プライドがあるからこそ、校歌も応援歌も
腹の底から、全身全霊をかけて声を出し歌う。
「パワハラ報道」の記事には「絶叫を強いられた」とあったが
絶叫ではない。
喉を痛めるほどの声の大きさが求められているわけではない。
小さい声だとしても、腹から、肝から、心から出す声が求められるのだ。
そう考えると、花巻北高の応援団の伝統とは
単にボロボロの制服を着て「押忍」と挨拶するという
マッチョな文化ではないと理解できるはずだ。
それだけでは幹部だけが浮いてしまい、
一般生徒からの支持は得られない。
花高生として、花高応援団としての一体感は生まれない。
確かに下駄履き、腰手拭いは連綿と続けられてきたスタイルだが
表面だけ受け継ぐのではなく、本質を受け継がなければ
その存在に疑問を持つ向きも現れよう。
幹部だけではなく、全校生徒による「花高応援団」がどうあるべきか
今もしかしたら再検証してみるべき時期なのかもしれない。
応援歌練習最終日に、幹部の言葉に感動する、
卒業式ではなく応援団退団式で母校から離れる惜別の涙を流す、
そういうことこそ受け継がれていくべき伝統なのではなかろうか。
リンク先に書いた、当時の幹部の言葉こそ本質だと思う。
「一人前の花高生を育てるのが俺の仕事。
お前らに黒橋魂を叩き込むという責任を果たせるのか、
俺自身も伝統というプレッシャーと戦っていた。
だが、今のお前らの歌を聞いて安心した。
もうお前らは立派な花高生だ。
永遠にこの精神を伝えることをお前らに託すことにする。
来年、これで安心して俺も卒業できる。
今日までつきあってくれてありがとう」
お前らに黒橋魂を叩き込むという責任を果たせるのか、
俺自身も伝統というプレッシャーと戦っていた。
だが、今のお前らの歌を聞いて安心した。
もうお前らは立派な花高生だ。
永遠にこの精神を伝えることをお前らに託すことにする。
来年、これで安心して俺も卒業できる。
今日までつきあってくれてありがとう」
これから母校で伝統を受け継ごうと考える人たちには
それを考えて欲しいと心から思う。
ところで、和太鼓と声だけの応援は、ぜひ継続して欲しい。
甲子園を見ていても、ほぼすべて吹奏楽の応援。
なにもそれを真似ることはない。
それこそ本質が大事だから、形だけ真似ても仕方がない。
そういう学校が少ないからこそ、貴重な存在になって欲しい。
野球応援におけるチャンスパターンなども
他校の真似をする必要はない。
独自のものを考えるべきだ。
例えば早稲田大学の「紺碧の空」のような
チャンスの時、優位に立った時にリピートで歌える歌が欲しい。
ちょっと考えてみた。こんな歌詞はどうだろう。
よければ後輩諸君にメロディをつけて欲しい(笑)
時は来た 時は来た
攻むるは今ぞ 底力
猛き花高の意気高らかに
挙ぐるは鋼の鬨の声
おー おー
おー おー おー
男の子はまだいいのかもしれませんが女の子はメンタルが弱い子や怖くて泣き出す子、倒れたり過呼吸になってしまう子がいるそうですね。色々ネットで調べてみましたが批判的な意見がとても多かったです。正直薄々噂では聞いていましたが実際にネットでの体験談を見て見たりしてこんなに酷いのかと絶望しました。伝統をなどと書かれた記事もありましたが果たして怒鳴ったり声を荒らげたりするのが伝統の継承だと言えるのでしょうか。なぜこんなに古いことをしているのかとても不思議に思います。伝統とはその都度その都度新しく塗り替えていきどんどん発展させていきその時代にあったものにしていくのではないのでしょうか。花巻北高等学校の教師の方々考えてみてはいかがでしょうか。
同窓生として歓迎いたします。
さて、応援歌練習や入団式、バンカラについてです。
私は単なる伝統というつもりはありません。
なぜあのような通過儀礼があるのかは
それが終わる時にわかると思います。
体験した上で、その意味を理解した上で
ご自分のお考えをお聞かせください。
「意味のないことにこそ意味がある」
まるで禅問答のようなこの言葉は、
3月で退職した川村前校長の言葉です。
それと、世の中には意味がないと思われることや
理不尽なことがたくさんある。
社会に出れば否応なくそれらとぶつかります。
それころ応援歌練習どころの比じゃない。
その時の生きる力を育むこともできると思います。
そして(これは私の体験によりますが)
意味のない、理不尽なことと思われることも
あとで必ず生きてきます。
不思議ですよね。
生きるのに
コスパや効率的という言葉は当てはまりません。
遠回りでも、辛い中でも、苦しい中でも
自分で足元をしっかり見定めて歩むと道は拓ける。
必要か、必要じゃないかは
転ばぬ先の杖として事前に判断するのではなく
まずは体験してみてください。
社会に出ると毎日がそういうことの繰り返しです。
同じことを言っていると感じました。
にんじんとかピーマンとかきらい!
…って言われても、体に良いものだから、ちゃんと食べて欲しいって思うように、ベンキョーなんてキライって言われても、生きてくのに大切なものだから、しれっと(笑)手渡していきたい。
だから、好きなものだけ食べなさい!って言わないように、好きなことだけやればいいとか、僕はちょっと言いたくないな。
心配しなくても、好きなことは勝手にやるから、なかなかひとりではやりたくないことを手伝いたい。
学年末テストで出来てなかった数学の問題をやり続けてて、おっ、ちょっとわかってきたなって子がいる。
優等生ほど、あるいは女子に多いけど、「出来ないこと」がすごく嫌で、ホントはわかってないのに、出来てるように、ノートとかは整ってるけど、そもそも解き方のプロセスとか書かれてない時点でわかってないことがバレバレで(笑)
でも、ふだんの学びは、時間が過ぎれば次に勝手に進んでくれるから、どこかで、「出来ないままでいい」と思ってるふしがあったりする。
あるいは、他者からの評価に実はとても敏感すぎるとか、何でもできる自分像にとらわれて身動きできないとかもあるかもしれない。
得意なことを活かすとか、まー、最終的にはそうなるけど、まだまだ発展途上の子どもたちに、あらかじめ、出来ること、出来ないことみたいなリミットをかけちゃうようなことにならないだろうか?
そのひとにとってなにが有用か?なんて、いつだって後からしかわかんないんだから、
僕は、無駄なことさせられたー!とか、あとから思われたらすまんと思いつつ、余計なお世話だと自覚しつつ、自分がこれやっといたらいいんじゃない?と思うことを手渡し続ける。
だって、中学生くらいの子が、「今さら無理!」とかいうの、おかしくない?
ひとが学ぶのは、学校のためじゃなく、人生のために。
やりたいことだけやるではない。
そんな矛盾と向き合うことが、僕のしごとだし、学ぶことの意味、学び場の役割だと思っています。
だから今日もふつうをていねいに。