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世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

シントラのついでの寄り道程度のロカ岬ですが、海に沈む夕日を見たくなる雄大な大西洋が広がっています(ポルトガル)

2021-08-22 08:00:00 | 世界の町並み
 ラベンダー、菜の花そしてポピーと咲き乱れる花々が見事な場所を紹介してきました。これらの場所では一つの種類の花が目立っていましたが、ユーラシア大陸の最西端のロカ岬にはいろいろな野の花が可憐に咲いていました。今回は、大西洋に向かって断崖の上に灯台がポツンと建つロカ岬周辺を紹介します。

 ロカ岬は、ポルトガルの西の端、世界遺産のシントラからも近い最果て感のある場所です。ただ、ポルトガルは大西洋の島々にも領土があるので、ロカ岬はポルトガルの最西端ではありません。リスボンから海沿いに西に走るリスボン近郊鉄道の終点のカスカイスと、リスボンのロシオ駅から西北西に延びるシントラ線の終点のシントラ駅を結ぶバスがロカ岬を経由します。無理をすれば、リスボンから、シントラを含めて日帰り圏になります。ただ筆者が訪れた時には、バスの本数が1時間半に1本だったせいか、ロカ岬で降りたのは我々だけでした。

 
 
 
 
 大西洋に突き出す岬は140mの断崖で、西には大西洋の水平線がず~~っと続いて見えるだけです。かなりの高さの断崖であるにもかかわらず日本とは違って転落防止の柵などは見当たりません、自己責任なのでしょう。岬の上には、記念碑、灯台それに最西端の証明書も売っているお土産屋くらいしかなく、次のバスまで、ちょっと時間を持て余します。ポツンと建つ灯台は18世紀に建てられ、現在も現役で、緑の中に赤い屋根が印象的です。記念碑は頂上に十字架が付けられて、記念碑のそばには石碑があって「ここに地果て、海始まる」の言葉が刻まれています。この石碑の文章にしても、発見のモニュメントにしても、ヨーロッパ人の身勝手さが現れていて腹が立ちます。世界はヨーロッパが中心で他は野蛮な未開地だと勝手に決めつけた尊大さが嫌いで、さらにアメリカに至っては存在すら認識できていなかった馬鹿さ加減です。

 
 
 こんな漠々とした断崖の上は、風が強いせいか背の低い緑が広がっていて、その中にいろいろな花が咲いています、花の種類は詳しくないのですが、北海道で見かけるハマナシ(ハマナス)も咲いていたように思います。大が胃の上から、大西洋の波打ち際までは140mの標高差があって、細くて危なげな道が見えるだけですが、よく見ると人影が見え、さらによく見ると、釣り道具を持ってるようです。良い漁場なのでしょうか、ただ大量になったら140mの坂を戻って来るのは重くて大変なのでは?と余計な心配をします。

 町歩きや旅行中に見知らぬ花を花を見かけることも多いのですが、なかなか名前が分からないこともしばしばです。現在では、スマホのアプリで、撮影した花の名前が検索でき、検索エンジンで分からないときには、コミュニティのメンバが教えてくれるアプリもあるようです。文字の認識のように、ターゲット候補がきっちりした形の場合はともかく、撮影者によって切り取り方も様々な花の写真から名前を検索するエンジンは作るのは大変なのではないかと想像します。エンジンがお手上げになった時は、メンバが教えてくれる仕組みは、最終的には人間の目なんだな・・と思わせます。

世界遺産のディオクレティアニス宮殿やトロギルは観光客が群れていますが、郊外のサロナ遺跡にはポピーの花が群れていました(クロアチア)

2021-07-25 08:00:00 | 世界の町並み
 市街地の中に世界遺産の登録エリアが散在し、その中にまっ黄色の菜の花が咲き誇る畑があるのが韓国の慶州でした。菜の花に限らず、季節の贈り物の花々は、旅の楽しみを増すものですが、遺跡の中に咲いたポピーなどが美しい場所が、クロアチアの二つの隣接する世界遺産であるディオクレティアニス宮殿とトロギルとの間でスプリトの近郊にあるサロナ遺跡です。今回はポピーなどの咲き乱れていたサロナ遺跡を紹介します。

 
 サロナ遺跡は、ディオクレティアヌス宮殿のあるスプリトからトロギルに向かう途中のソリン市にある遺跡です。西に向かって突き出したスプリト半島の南側にあるスプリト市街から、東に入り込んだ湾を回り込んで海岸から山の手に広がる遺跡で、スプリトのバスセンタからソリン行またはトロギル行きの路線バスで15~20分ほどで行くことができます。ディオクレティアヌス宮殿は、クロアチアを代表するような世界遺産で、宮殿の中に町があるようなところですから、街中は観光客であふれていますが、宮殿を作ったディオクレティニアスの故郷と言われるサロナ遺跡はほとんど人影は見当たりません。その代わり、ポピーなどの花々が遺跡を彩っていました。

 
 サロナは、世界遺産の町のスプリトよりはるかに歴史が古く、紀元前10世紀ころにイリュリア人によって起こされた町です。しかし、7世紀にアヴァール人とスラヴ人の侵略によって破壊され、長く土に埋まってしまい20世紀になってやっと発掘されて現在のような廃墟の遺跡として現れたそうです。3世紀にはローマ皇帝のデオクレティアヌスを産み、彼はサロナの南にある現在のスプリトに宮殿を作り、こちらは現在まで町並みが残って世界遺産に登録され観光客であふれたわけです。

 スプリトからの2系統の路線バスのうち、ソリン行のバスは遺跡の北側に沿って走り、バス停は遺跡の北側にあり、一方トロギル行のバスは遺跡の南側に沿って走るので、バス停は遺跡の南側にあります。遺跡は北側に向かってゆるい傾斜があるので、往路はソリン行のバスで北側から入り、復路は南側に出てトロギルからのバスで帰ると楽です。北東端から南西端に向かって、斜めに遺跡を横断すると、全体像がつかめますが、細かく見ていくと、いくらでも時間が要るかもしれません。

 
 
 
 
 
 
 
 
 遺跡は東西1km、南北500mほどで思いのほか広く、ソリン行のバスを降りた北西端の入り口付近に全体像の地図があります。遺跡の中には、教会、浴場それに円形劇場などがありますが、大部分は基壇や柱それに壁の一部を残すのみです。レンガ色の十字形の井戸のようなものは洗礼盤で、顔の装飾が面白い四角の医師は噴水の名残だそうです。円形劇場も比較的保存が良く、中央の円形広場を取り巻く客性の様子が分かります。これらの石のかたまりの間には、ポピーだけでなく名前の分からない花々がひっそりと咲いています。スプリトから近くて、これだけの遺跡が閑古鳥状態というのは不思議ですが、おかげで花々が踏み荒らされなくって良かったかもしれません。

 ヨーロッパなど石の文化の遺跡は、石造りなので瓦礫になっても残りますが、わが国ような気の文化の遺跡は、せいぜい基石が残るぐらいで、通常は柱などの穴の跡など地面に痕跡が残るぐらいです。世界遺産を管轄するICOMOSは、石の文化のフランスに本部を置く組織ゆえ、わが国が法隆寺など木の文化遺産を申請する時には、彼らに木の文化を分からせるのに、大変なエネルギーを費やしたのだそうです。フランス人は自国文化が最高であるとの自負が強く他の文化を認めないきらいがあるからのようです。彼らには、「滅びの美学」といった物は存在しないのかもしれません。世の中の何でもがディジタル化されて、不変になるということは、便利でしょうが、崩れた情報から、過去を推定するロマンを奪うかもしれません。ただ、ディジタル化と言っても、1と0に記号化された羅列は不変で残っても、それを読み解くシステムが不変という保証はありません。

GWの頃の慶州は町中が花に溢れています、何処までも続く菜の花畑を見に行くだけでも航空運賃を払う値打ちがあるかもしれません(韓国)

2021-06-27 08:00:00 | 世界の町並み
 リル・シュル・ラ・ソングはフランスにいくつかある美しいい村や町の一つで、近くにあるラベンダー博物館と一緒に回れる範囲にあります。ただ、6月中旬では博物館の回るのラベンダーは、まだつぼみ状態で、ちょっと寒々しい消しでした。ラベンダーの花は初夏の花ですが、その6月から1か月ほど前のGW前後は、首都圏でも桜の後を追うように色々な種類の花が咲きそろいます。お隣の韓国は、緯度が東北地方と似ているため、菜の花も1か月ほど遅くに咲きます。菜の花の絶景は中国雲南省の羅平が有名で、緯度が低いので2月には谷筋が真っ黄色の帯のようになるそうです。ただ、羅平は昆明まで飛んでそこからバスという奥地で、行くにはそれなりの準備が要りそうです。もっと簡単に行けて、それなりの菜の花畑が楽しめるのが、お隣の韓国の慶州で、飛行機で釜山に飛んで、空港バスで直行できます。今回は、市内に2つの世界遺産がある慶州の、世界遺産にはなっていないところを中心に紹介します。

 
 慶州は、韓国の南東端、釜山の北北西100kmたらずで、2010年に開通したKTXに乗れば30分ほどで着いてしまいますが、着くのは新慶州駅で市街地の南西10kmほどの野原の中です。金海空港(釜山)からは釜山の市内を経由しないで直行バスがあり1時間ちょっとでバスターミナルに付きます。筆者の訪問した時は新慶州駅はできておらず、市街地の中にあり趣のある駅舎の慶州駅しかありませんでしたが、速い列車は来なくてローカルな駅といった感じでした。



 
 




 
 菜の花畑ですが、筆者が見たのは慶州駅の南1kmほど、大陵苑一帯と言われる地域の南端の半月城や慶州博物館のあるあたりでした。平地部分は菜の花が一面咲いていて、これが山の麓まで続いていました。この辺りは、南東端の博物館から、北西に向けて半月城跡、鶏林、贍星台や古墳が連なります。慶州博物館は、慶州一帯で発掘などされた王冠、仏像、仏塔などを展示し新羅文化を集めた博物館です。半月城は新羅の王宮のあったところとされますが石碑が建つのみ、鶏林は金氏誕生の説話のある場所、贍星台は天文台の遺跡と言われています。

 
 
 慶州博物館の南には南北に峰を連ねる南山圏があり石仏や摩崖仏が数多くありますが、かなりきつい上りになります。この峰々の西側の麓には、鮑石亭跡や三仏寺などが点在するので麓のみ散歩といった選択もありかもしれません。鮑石亭跡は新羅王室が祭祀を行った跡と言われていますが、木立の中に鮑石が残るのみで、この鮑石は京都の城南宮や上賀茂神社に残る曲水の宴に使われたものとみられています。三仏寺には3体の石仏が鞘堂に収まっています。もともとは近くの山中にあった露座の石仏を集めたものだそうで、風雨にさらされたために彫が浅くなって、そのためか、微笑んでいるように見える表情に温かみがあります。

 
 
 一方、博物館から東に、市街地の東に連なる山の麓の普門湖を中心にしてできたのが普門観光団地で、ホテルなどを伴う巨大観光施設です。野外民俗公演場での伝統舞踊は公演時間が変わっていて見損ねましたが、ソウルなアドで上演される舞踏と似たようなものだと思います。ディズニーランドのように狭いところにゴチャゴチャするのではなく、巨大な水車や噴水などと広大な水辺のある空間はほっとします。

 
 
 筆者が慶州で泊まったのは大陵苑という古墳群の南側にあるゲストハウスでした。オーナーは世界を旅した経験を持ち、もちろん英語は堪能でコミュニケーションには不自由はありません。韓屋と呼ばれるオンドル部屋でしたが、何もない広い部屋に布団を敷いて寝た記憶があります。朝食は付いていませんが、台所が解放されて、調理道具に加えて最小限の食材もそろっていて、宿泊客が集まってセルフサービスで朝食が取れます。夜は、中庭にみんなが集まって来て、雑談会です。ほぼ英語でコミュニケーションをしましたが、その時に話題となったのがハングルによる交通標識で、漢字や英単語のようにパターン認識が難しく、音を拾って瞬時に表示内容の判断をするのが難しいとのことです。ハングルは、世界にも類を見ない母音と子音とを組み合わせた純粋の表音記号文字で、大部分の文字が象形文字を先祖にした中で、最も進んだ文字の一つと言われています。文字数も少なく、コンピュータにとっては扱いやすい文字でしょうが、人間にはかえって扱いにくいところがあるように思います。

リル・シュル・ラ・ソングは骨董市で有名ですが果物や野菜が目立つ青空市場がお伽の世界のような街に店を広げていました(フランス)

2021-05-30 08:00:00 | 世界の町並み
 チュニジアのポート・エル・カンタウイ、スペインのトレモリノスと地中海沿岸が続きましたが、今回はフランスのコート・ダ・ジュール(紺碧海岸)を含んだプロバンスを取り上げます。プロバンス地方というのはかなり広い地域を指すようで、東はイタリア国境から西はローヌ川、南は地中海に面し、北はアルプス山脈の南側までと南仏の東南部のほとんどということになります。今回紹介するのはアヴィニョンの郊外にある小さな村のリル・シュル・ラ・ソングです。

 リル・シュル・ラ・ソングはアヴィニョンの東15kmほど、バスでも鉄道でも行ける距離の村で日曜日に開かれる骨董市で有名なところです。筆者は、アヴィニョンからプロバンスを10時間ほどかけてワゴンで走り回る現地ツアーで最初に立ち寄った村でした。アヴィニョンから30分ほど走って、1時間ほどの自由時間でしたが、旅行会社のパンフレットには、この村のことは書かれていなくて、運転手兼ガイドさんから青空市場のある所といった説明だけだったように思います。場所も帰ってから分かったわけで、これだけ便利な所ならば、公共輸送機関を使って自分の足で行ってみたくなりました。

 
 
 
 
 町は中央駅の北東にソルグ川が作る東西300m、南北200mほどの中の島状態の部分で、我々は、乗って来たワゴンの駐車場からこの範囲の一部をを散歩しました。青空市場が中心でしたが、それ以外の町の雰囲気が素敵でした。フランスには美しい村があちこちにありますが、ここもその一つと言っていいようです。青空市場には骨董市と呼ばれる割には、あまり骨董らしいものは見かけず、農産物を中心とした食料品が多かったように思います。日本ではフリマが盛んですが、口の悪い人い言わせれば「ゴミ捨て場」と言われるように、いまいちで。観光地の朝市も単なる土産物売り場で安いわけでもありません。リル・ソル・ラ・ソングに限らず、ヨーロッパ各地の青空市場は、新鮮な果物や野菜が並び価格も安くって魅力的です。

 
 
 
 
 町に入るためソルグ川に架かる橋の手前にあるのが水車、かなり古そうですが現役かどうかはわかりませんし、観光用なのかもしれませんが景色に変化を与えています。橋を渡って狭い通りを通り抜けると右手に現れるのがノートルダム・デ・サンジェ教会で、さほど大きな教会ではありませんが、壁画が壁一面で装飾も豪華な教会です。戻りは少し東寄りの斜めの通りを通ってソルグ川まで戻ると、ソルグ川が作るさらに小さな中州があり、その再合流点の中州側に建つ華麗な銀行がなかなk絵になる美しさです。ヨーロッパなどでは町全体が古い景観を保存しているのですが、日本ではどうして再開発の名のもとに破壊がまかり通るのかガッカリします。原因の一つが、社会が貧困だからとも言われていますが、そうかもしれません。

 
 
 
 
 リル・シュル・ラ・ソングの南東へ畑の中の道を7~8kmほど走ったところにはラベンダー博物館があります。周りの畑はラベンダー畑が多かったように思いますが、時期的に少し早かったせいか花付きはまばらでした。博物館の中には、ラベンダーの花を原料として香油を作る装置が展示されていて、製品も販売されていました。博物館で聞いたところによると、ラベンダーには花茎が3本の品種と1本の品種とがあり、ほとんどは3本で、プロバンスの物は1本である特徴があるそうです。富良野のラベンダーは3本の品種でしょうね。

 以前、IT分野で最も遅れているのがニオイと味覚のセンサーであると書いたことがあるように思います。視覚や聴覚は電磁波や音波といって波動を検出するのに対して、嗅覚や味覚は分子の存在を検出するからかもしれません。ただ、最近は嗅覚センサも新しい技術が開発されつつあるようで、薄膜からできたセンサにニオイの分子が付着するとたわんだ変化を信号として検出するそうです。前もってニオイの種別と信号波形との対応をAIで学習させて、測定すべきニオイが何であるかを判別するそうです。AIに教えるのは人間の嗅覚なので、人間臭い技術なのかもしれません。

コスタ・デル・ソルで最初に観光地化されたトレモリーノスは白い壁に花の色がアクセントを与えています(スペイン)

2021-05-02 08:00:00 | 世界の町並み
 パリから2時間ほどのフライトで行け物価の安いリゾートがチュニジアのポート・エル・カンタウイなどの地中海沿いの海岸でした。地中海沿いのリゾートは、夏場にはどこも人口が倍増するようですが、今回はチュニジアと地中海を挟んで北西に位置するコスタ・デル・ソルの一つであるトレモリーノスを紹介します。

 コスタ・デル・ソルはスペイン南部の地中海に面したアンダルシア県の一部で、コスタ・デル・ソルとはスペイン語で太陽海岸を意味します。観光立国のスペインの中でも重要な地域でアンダルシア州の観光業収入の1/3以上を占めているそうです。チュニジアと同様に外人観光客が多く、一時期はイギリスのギャング団が住みつきCosta del SolならぬCosta del Crime(犯罪海岸)と呼ばれていた時期もあるそうです。地域の中心に位置するマラガが経済、交通の要になり、外国からの観光客の多くが利用する国際空港やマドリットから直行するAVEの終着駅もマラガにあります。今回紹介するトレモリーノスはマラガの西に隣接する人口7万人足らずの小ぶりの都市です。

 
 トレモリーノスは、小ぶりな観光地ですが、1950年頃にコスタ・デル・ソルで最初に観光地化した地域の一つで、グレース・ケリー、フランク・シナトラやブリジット・バルドーなどの数多くの有名人が訪れたそうです。海岸線は北東と南西に延びていて、後方に小高い山があります。マラガとの間はマラガの国際空港が仕切っているような格好で海岸線と直行した滑走路が伸びています。海岸線から200mほどの幅の中には数多くのホテルが立ち並び、これらの皮切りとなったアール・デコ様式で50年代に建てられたペス・エスパダもこのホテル・ベルトに位置します。

 
 
 筆者が泊まったホテルは、ややマラガ寄りで海岸段丘の上に位置していました。海岸には、階段を降りて行く格好でしたが、この高低差が風景に変化を持たせていて印象に残ります。道路に面する建物の壁は真っ白でチュニジアで見た白と紺色とどこか似ています。こちらは紺色で縁取られたドアではなく、白い壁に飾られた花々の植木鉢がアクセントになっています。

 母国語以外を学ばない国民が多いのはアメリカとスペインと言われています。英語は実質的な万国共通語として、大英帝国の植民地の多さからで、同じように植民地の多さで使える地域が多いのがスペイン語のためでしょう。筆者の世代では大学での第2外国語は、仏語、独語が一般的で、日本人の多くが独語は英語の次に汎用性があると思っていたようです。ヨーロッパに旅行をすると、独語よりもスペイン語や仏語の方が伝わりやすく、独語はマイナーなようです。中国人観光客が増えているので通じやすさでは中国語が上かもしれません。その中国語、2年ほど前に中国に行くときに自動翻訳機を持っていきました。音声認識や合成音声には多少の疑問を持っていましたが、なかなかどうして、翻訳する時間を待たねばならない不便さはありますが、問題なくコミュニケーションができたようです。スペイン人やアメリカ人の旅行者は自動翻訳機も必要としないでしょうか。

パリから2時間半の飛行機と2時間の列車で行けるスースやポート・エル・カンタウイは南仏の半分以下の費用で滞在できるリゾートです(チュニジア)

2021-04-04 08:00:00 | 世界の町並み
 ポルトガルの大西洋に面した小さな漁村がシーズン中は観光客でごった返す場所がナザレでした。海岸から離れた高台にも町並みがあるのは、地中海から北大西洋までを荒らした海賊から逃れるためでしたが、園海賊のバルバリアの北アフリカの沿岸でした。現在の北アフリカ沿岸はヨーロッパから1~2時間で行ける手ごろなリゾートとして、シーズン中にはヨーロッパ人に乗っ取られた感じもします。今回はこのようなリゾートの中から、チェニジアのスースからポート・エル・カンタウイにかけての海岸を紹介します。

 
 スースはチュニジアのやや北部の地中海沿岸、チュニジアの地形が地中海に向かって鼻を付きだした天狗のように見える口のあたりにある人口27万人ほどの都市で、旧市街のメディナは世界遺産に登録されています。スースには、パリから2時間半ほどで首都のチュニスへ、チュニスから南に100kmほど列車で2時間くらいでスース中央駅に到着します。

 
 
 パリからコート・ダ・ジュールのニースまでの飛行機が1時間半ちょっとなので、少し足を延ばせば、チュニスに着いてしまいます。チュニスからは列車による地上移動ですが、南仏に比べてホテルの料金は半分以下ですから、パスポートを持っている人々には行かない手はなさそうです。チュニジアの元の宗主国はフランスなので、街中でも英語よりフランス語の方が通じるようなので、フランス人にとってはさらに好都合でしょう。筆者はスースのエル・カンタウイ寄りの四つ星ホテルに泊まりましたが、驚くほどの安い値段だったように思います。

 
 
 
 
 スースからポート・エル・カンタウイまでは北西方向に続く海岸沿いにビーチリゾートが続いており、このビーチ沿いに走る機関車の形をした観光トラムがあってスースから20分ほどです。このポート・エル・カンタウイはアラブのオイルマネーで開発されたそうで、巨大なホテル、ヨートハーバーなどヨーロッパの景色と変わりません。ただ、南仏に比べると暑いのが難点と言えば難点でしょうか。緯度的には東京より北に位置しますが(緯度的にはエジプトのカイロと東京とがほぼ同じ)、熱帯気候で暑いと感じ、ハイビスカスなどの熱帯植物が咲き乱れています。ただこの暑さは、最近の日本の夏の暑さからすれば、かわいいものかもしれません。



 

  
 白いビーチの向こうには真っ青の地中海がどこまでも続いています。南仏では南東に広がっていますが、こちらでは北東に広がっていて、太陽の位置関係か海の色が違うようにも思います。

 地中海と言えばヨーロッパとアフリカに挟まれた海を指しますが、実は地中海は一般名詞でよく使われる地中海はヨーロッパ地中海が正確な呼び名です。他にもカリブ海を含むアメリカ地中海や紅海、バルト海なども地中海なのです。「大師は工房に奪われ、太閤は秀吉に奪わる」という諺がありますが、大師も太閤も特定の人物を指すのではなく、例えば最澄は伝教大師と呼ばれます。携帯できるものはたくさんあるでしょぷが、携帯と聞いて思い浮かぶのは携帯電話です。これらの表現は、ある言葉がそれが表す特定分野に限定する場合ですが、分野が違うと同じ言葉がまるで違うことを表すようです。ソリューションという表現はコンピュータや数学の分野では解ですが、化学分野の人との会話で溶液の意味に使われることを聞いて驚きました。ラーメン構造は食べられないでしょうが。

キリストゆかりのナザレは内陸ですがポルトガルのナザレは長い砂浜とどこまでもつながる大西洋の眺望です(ポルトガル)

2021-03-07 08:00:00 | 世界の町並み
 中国と韓国の田舎を紹介してきましたが、今回はヨーロッパの田舎というと字がそぐわないのですが漁村の一つを紹介します。地球上で都会はごく一部なので、ほとんどの場所は田舎になってしまいますが、何らかの特色で魅力があって観光客などを引き付ける田舎はさほどは多くないのかもしれません。今回は、ヨーロッパの西の端にあるポルトガルの漁村のナザレを紹介します。

 ナザレはポルトガルの中央部の西の端、太平洋に面した漁村で、リスボンの北100kmくらいに位置しています。ナザレには鉄道駅は無く、リスボンから高速バスで2時間ほどかかるようです。筆者はリスボンの北にあるいくつかの世界遺産の教会などを回る現地発着ツアーの昼食の場所として、おまけのように立ち寄った場所でした。

 
 ナザレという地名はパレスチナにあってキリストが幼少期を過ごした場所として有名ですが、ポルトガルのナザレは4世紀にパレスチナのナザレからマリア像が持ち込まれたことに由来するそうです。さてポルトガルのナザレは、絵のように美しい長い浜辺を持つ海辺の村として、特に夏場は多くの観光客を集めています。大西洋にじかに面しているため、大きな波が打ち寄せ、サーフィンにはもってこいとのことですが、荒い波の打ち寄せる海岸で遊んでいる多くの子供も含めて海水浴客の姿を見ました。

 
 
 海岸の北の端にはファロルという岬が突き出し、景色に変化を与えています。この岬に続く標高110mの高台はシテオと呼ばれケーブルカーで上れますが、自由時間があまりなく、頂上のノッサ・セニューラ・ダ・ナザレ教会は見損ねました。ただ、レストランと駐車場が離れていたのか、みんなで町を散歩したのか記憶が定かでないのですが、海岸から少し入った町並みもなかなか美しく、礼拝堂の壁にはさすがにアズレージョで飾られていました。

 
 海岸には多くのテントが並び、海岸の通りに面したレストランも軒を連ねていて、そのうちの一軒でツアーの一行と一緒にヒラメのフライの食事をしました。このツアーの参加者は英語組とスペイン語組とから構成され、それぞれにガイドが付きました。昼食のテーブルでは英語組だけでなくスペイン語組のメンバもいましたが、コミュニケーションは無理でした。

 高台にあるシテオは16世紀ごろから始まった海賊の難から逃れるためだったようです。海賊の中で特に恐れられたのが、北アフリカを基地とするバルバリア海賊で、その活動地域は地中海沿岸からか北大西洋のアイスランドにまで及んだそうです。ソマリア沖などに現れる現代の海賊は、船を襲って略奪行為を行うものですが、バルバリア海賊はキリスト教徒の住む村を襲ってキリスト教徒を奴隷としてイスラム市場に売るのが目的だったそうです。奴隷と言えば、現代のIT分野では、プログラム開発やシステム開発に携わる技術者は、ある意味で奴隷のように感じます。巨大なIT企業の利益やユーザの利便性のために命を削って開発のために酷使されているからです。

仮面劇は見られませんでしたが安東の民俗村は70年前の日本で見たような風景が広がっていました(韓国)

2021-02-07 08:00:00 | 世界の町並み
 福建土楼の近くには中国人の描く桃源郷のようなのどかな村落があって、中国人のツアー客にも人気のようです。何でもない村が土楼の世界遺産登録で脚光を浴びたのかもしれません。一方、お隣の韓国には、田舎の風景を再現した民俗村があちこちに存在するようで、今回はダムに沈んでしまう村の遺産を高台に移転して保存した安東民俗村を紹介します。

 
 民俗村のある安東は韓国の中央北東よりの内陸部、慶州の北100km程度、ローカル列車で1時間半ほどある地方都市ですが、世界遺産の河回マウルがあることで有名になりました。民俗村は安東駅前から川沿いに北東へ3km、バスで10分ほど、右岸を走っていたバスが橋を渡って左岸に渡ったところが民俗博物館の正面玄関になります。湖底に沈んだ村というのは、渡った橋の500mほど上流に堰堤のある人造湖の湖面の下ということです。手前の博物館で、予備知識を得てから博物館の野外展示という位置づけの民俗村に入るとった手順です。川を渡る橋は2つあって、博物館正面に出る橋はそっけないのですが、下流の民俗村に近い橋は、途中で折れ曲がり東屋風の建物や横に突き出した見晴らし台が付いています。

 
 
 最初に入る博物館には安東の歴史や生活を表す物が陳列されていて、安東で有名な仮面劇の人形も置かれています。この仮面劇というのは、河回マウルや市内の広場などで9月から10月にかけて行われるもので、庶民が支配階級の両班を風刺するものが中心です。演者は仮面をかぶって人や動物それに超自然現象を表現するようです。

 
 
 
 
 
 博物館を出て川沿いに南西に100mほど天下代将軍と地下女将軍と書かれた2本の柱を通って村に入ります。民俗村の家々は、入口から南東に延びる谷筋に沿って建っています。池のある所から登ってゆくと、東屋風の建物の奥には藁ぶきの水車小屋があり、その後ろには瓦葺きの両班の家屋らしき家がのぞいています。瓦葺きの家屋はあまり目立たなくて、残りは農家の藁ぶき家屋が移築されています。両班はかつての高級官僚で支配階級ですから、数多くが居たわけがなく1軒だけなのかもしれません。上手にある畑では、日本では60年以上も前にしか見られなかった牛が耕している光景が見られました。また、焚口があって後方に囲いのある窯元か竈の跡らしき遺跡もありました。筆者は行きませんでしたが、さらに奥にはグルメリゾートのホテルもあるようです。

 仮面劇では演じる人の表情は見られないので身振りなどで感情表現などを行うことになります。日本の能では演者が顔を傾ける角度で、見え方が異なり微妙に表情が表現できる工夫がされているものもあります。一方、アンドロイドは人間に限りなく近づけた人工物でコンピュータを駆使した表情の豊かなものもあって表情で意思を伝えることができるものも多く作られているようです。仮面劇や能では、見る人には演者の感情を読み取る能力というか芸術として理解する必要があります。一方の、介護など癒しの効果を持たされたアンドロイドでは、人間側に感情などを理解する努力は求められない場面での利用なんですね。

桃源郷のような雲水謠古鎮は流れている時間もゆっくりのような気がしますが、かつては日本でも見られた風景かもしれません(中国)

2021-01-10 08:00:00 | 世界の町並み
 イングランド北部のノース・ヨークシャーにあり、廃墟の城跡以外には、なんでもない田舎がリッチモンドでした。田舎に行く旅行は、取り立てての観光ポイントは期待できませんが、どこかホッとする時間がもてます。特に旅程が長い旅行などでは、息抜きできる場所かもしれません。世界遺産の土楼をたずねる現地ツアーで、土楼の近くの田舎にも寄りました。もちろん土楼がある場所もかなりの田舎でしたが、今回は地元の中国の人にも人気があるらしい雲水謠古鎮を紹介します。

 
 
 雲水謠古鎮は中国の福建省の南部の漳州市の西のはずれの山奥にある歴史の古い古鎮の一つで、アモイから西に100kmほどに位置します。近くに世界遺産の福建土楼があって、筆者は二か所を組み合わせた中国人向けのツアーに参加しました。当初は土楼に重点を置いたツアーに参加する予定でしたが、そちらのツアーは人数が集まらず雲水謠を組み合わせたツアーに合流させられました。どうも雲水謠は、同名の映画のロケ地にもなり中国人にとって人気のスポットのようです。

 
 
 雲水謠古鎮にも土楼は少しありますが、取り立てて観光地といった目玉はありませんが、中国人の描く桃源郷といった風景が広がっています。この古鎮は流れている時間がゆっくりしているようです。村の中心を川が流れ、大きな水車も回っています。

 
 
 川に架かる橋は、もちろん木橋で、足元のおぼつかない橋もあります。川に沿ってガジュマルの巨木が茂り、指定木らしき名札が下がっていて英語や日本語(かなり怪しい日本語)でも大切に扱いましょうと書かれてありました。

 
 
村を形作る民家はいた壁や土壁の2階屋で、どれも古るそうです。小さな商店街となっている一郭で、お土産屋さんに連れていかれましたが、土間にお休みどころと店舗を兼ねた空間があって、昔にわが国で見たような感じがします。

 ガジュマルの木に添えられていた名札の変な日本語は自動翻訳の結果を転記したものだったかもしれません。この旅行で筆者は携帯自動翻訳機を持っていいって、ほどほど重宝しました。日本語で話した言葉を認識して、中国語に翻訳し、その結果を話してくれます。筆者が社会人になりたての頃には、音声認識だけでも6畳間ほどを占領するコンピュータが何分もかかってやっと1音節の音声を判別できる程度でした。この自動翻訳機はネットを経由し、処理はセンタのホストコンピュータが受け持っていますが、多数の端末からの要求を瞬時に処理してくれます。ただ、ネット規制の多い中国では翻訳機からセンタにつながるネットワーク・プロバイダは限定され、アモイのような都会では自由に使えましたが、雲水謠古鎮に向かう途中から使えなくなり用をなしませんでした。便利な用具も独裁権力には勝てなかったようです。

ランドマークとしては廃墟となったお城と小さな滝ぐらいのリッチモンドですがイギリスの田舎の風景を知るにはいいところかもしれません(イギリス)

2020-11-29 08:00:00 | 世界の町並み
 湖水地方の東に取り立てて観光地ではありませんが、美しい町並みが残る町がケンダルでした。今回はケンダルのさらに東のノースヨークシャーにあるリッチモンドを紹介します。筆者は、イギリス人向けのロンドン発着の現地ツアーに参加をして湖水地方巡りをしましたが、ツアーの行程の一部で緑の中を延々と東に走ってリッチモンドへの寄り道が含まれていました。


 リッチモンドという名前はロンドン近郊の宮殿の名前でも知られますが、15世紀にノース・ヨークシャーにあるリッチモンド城の所有者となったヘンリー7世が、城の名前にちなんで宮殿名としたそうです。このノースヨークシャーのリッチモンドは、ケンダルよりもっと田舎で人口も8千人ほどの小さな町です。リッチモンドをGoogleの航空写真で見ると、市街地は東西で2km、南北で1kmほどで、その周りは一面の緑です。市街地の南側にSwale川が蛇行しながら流れています。このSwale川の対岸にかつてのリッチモンドの鉄道駅の跡があります。現在は、駅の建物は改装されて商業施設やコミュニティの集会所として利用されているようです。このリッチモンド駅は、東部幹線からの支線の終点駅として1846年に開設されましたが、1968年に支線と共に廃止され、現在の町へのアクセスは車だけになったようです。

 

 ランドマークは、ヘンリー7世も城主となったリッチモンド城跡で、市街地の南端のSwale川沿いにあります。リッチモンド城は11世紀に築かれ、16世紀ころからは城壁やタワーなどが残るだけの廃墟になっています。カナーボンのお城を小さくしたような印象でしたが、タワーに上ると、リッチモンドの小ぶりな市街全体が見渡せ、その向こうには綿々と緑の丘が連なっているのが見えます。また、この城跡の下には、5世紀に活躍したといわれるアーサ-王と彼の円卓の騎士たちが眠っているという噂が地元には残されていおるのだそうです。



 もう一つは、リッチモンド城跡近くのSwale川にある小さなリッチモンド滝ですが、落差の大きな滝を見慣れた日本人からは滝というにはあまりに落差が無いように思います。ただ、滝のあるあたりは市街地の近くであるにもかかわらず、緑の多い気持ちの良い場所で、市民の憩いの場所の一つかもしれませんが、市街の周りがみんな緑のリッチモンドでは希少価値ではないのかも。

 5世紀から6世紀にかけて活躍したとされるアーサー王は、その実在性も疑問視されている人物ですが、アーサー王物語として本や映画に登場してきます。今から50年以上も前に、アーサ-王を主人公とする「キャメロット」といミュージカル映画がありました。ブロードウェイ。ミュージカルの映画化で3時間の長編でしたが、音楽が良くっていまだに耳に残っています。キャメロットとはアーサーが築いた都で、そこには同名の城があったとされています。映画の中では緑豊かなキャメロットがたびたび描写されますが、リッチモンドの緑がキャメロットとダブってアーサーの墓伝説を生んだのかもしれません。このキャメロットをネット検索すると時代も主人公も異なるアニメの情報が出てきました。かつて、ディズニー・アニメを作る時には、生身の人間の動きを撮影して、それを基にアニメを作画したのだそうです。現在はコンピュータによる作画が中心なのでこんな作業は無いのでしょうが、園コンピュータの元ネタは、生身の俳優の映像だったかもしれません。