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世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

巨大な円筒形の土の塊にしか見えない福建土楼はマンション建築の元祖かもしれません(中国)

2020-07-26 08:00:00 | 世界遺産
 悲しい伝説のある石塔が2基並んでいるのが韓国慶州の仏国寺でした。前々回のケルンの大聖堂も石の建築でしたが、頑丈で劣化しない石の特性を建築に利用したものです。一方、わが国では木や草で作られてきたのは、周辺に建築に使える木などが多かったからでしょう。建物や家財を火災から守るため土蔵造りも見かけますが、この土蔵造りを巨大にして一族が住めるような住居にしてしまったのが福建土楼です。福建土楼は広い地域に分布していますが、筆者が訪問した雲水謠の近くの土楼を紹介します。

 福建土楼の観光基地は福建省のアモイで、アモイから西に100km以上、山道を車で3~4時間ほども奥地に入った地域に分布しています。土楼とは、中国東北部出身の客家(はっか)と呼ばれる人々などが、移り住んできた土地で、土着の人々との軋轢から身を守るために造った集合住宅です。

 
 
 
 
 
 
 厚さが2mほどもある土壁で円や方形の外壁を作り、その内側沿って木組みで3~5階建ての住居を取り付けたもので、80以上もの家族が共同生活をしています。外敵からの防御が主目的ですから、出入り口は一か所で、外壁の窓は極端に少なくなっています。中に入ると、広い中庭があり、中庭に面して各階には住居に接する廊下が見え、採光は廊下側からのようです。中庭には、祖先や神様を祀るための社や共同井戸などがあり、一族のコミュニケーション広場なのかもしれません。この中庭から見上げると、青い空が丸く切り取られて、独特の風景を見せています。封建時代の韓国では、女性が結婚した後に眺められるのは、中庭からの切り取られた空だけ、ということを聞いたことがありますが、土楼に暮らす人々も同じような状況だったのかもしれません。

 
 
 
 土楼の中には、現在は使われていなくて博物館になっているものもありますが、訪問した土楼のいくつかは現役で、洗濯物が干してあったりして生活の匂いのするものでした。洗濯物に交じって、日本の中華街の中秋節などで見かける赤い丸い提灯(ランタン)が最上階などに並んでいます。なんか、年中お祭りのような感じがするのではないでしょうか。

 土楼の建っている場所は、周りに畑の広がる回放的な場所ですが、中庭から採光する設計は、込み合った都市部の戸建て住宅に使えるのではと思います。周辺に家が立て込んでも、採光や換気に対しての影響が少なく、外からの視線も遮られていいのではと思います。外敵から内部を守るというと、LANのファイア・ウォールを思い出します。ファイア・ウォールというのは、会社や家庭のコンピュータネットワークを外部のインターネットからの悪意のある通信を遮断するためのものです。コンピュータウィルスの中には、ナイブデータを盗んで外部に報告するトロイの木馬というのもあるため、入ってくる通信だけでなく、出ていく通信を遮断する機能も持っています。土楼の出入り口には、出ていく不審者をチェックしていたでしょうか。

名古屋市市政資料館に入ると裁判所がこんなに豪華だったということに驚かされます

2020-07-19 08:00:00 | 日本の町並み
 徳川御三家の一つの水戸の市の花は梅で偕楽園が有名ですが、水戸藩の藩校の弘道館にも梅が咲き誇り、この梅にもまして存在感のある黄色の花がサンシュユでした。御三家というと水戸、尾張そして紀州ですが、その中で最も禄高の大きい藩は尾張藩です。この尾張藩も明倫堂という藩校がありましたが、現在その跡地は明和高校になっています。明和高校のある名古屋城の東側は市役所や県庁の役所が集中した官庁街で、江戸時代の行政府が名古屋城だったでしょうから、その流れなのでしょうか。今回は、3つもの重要文化財が集中する名古屋の官庁街を紹介します。

 
 名古屋城に一番近い位置にあるのが名古屋市役所の本庁舎です。1933年に設計コンペの結果により、平林金吾の設計で竣工し、現存の市庁舎として京都市役所の次に古いものです。平林金吾は大阪府本庁舎の設計も手掛けていて、こちらは登録文化財になっています。鉄筋コンクリート製ですが、中央の塔屋には方形の和風の瓦葺き屋根が乗り、和洋折衷の建物になっています。

 
 市役所の南隣には愛知県庁が建っていて、こちらは市役所より少し遅く1938年に竣工しています。東博の第二代本館の基本設計を行った渡辺仁などの基本設計をもとに県の営繕部が実施設計を行なったもので、鉄筋コンクリート製の建物の中央に名古屋城の天守のような屋根が乗っている帝冠様式になっています。そういえば、東博の本館とどことなく似ているような気もします。県庁舎の南側を東に行くと名古屋城の大手門跡がリ、石垣が残っています。そばに架かる清水橋の欄干に乗って居る伝統がレトロできれいです。

 
 
 
 
 
 
 端を渡って南に曲がって100mほど南に行くと左手に見えてくるのが名古屋市市政資料館です。この堂々たる建物は1922年に建てられた旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎という長ったらしい名前の建物で、こちらも重要文化財です。レンガと鉄筋コンクリートでできており、東博の表敬館と同様にネオバロック様式で建てられています。1979年まで現役の裁判所として使われた後に取り壊しの可能性もありましたが、保存を求める声が大きく、資料館として保存工事を行ったうえで現在に至っています。現在は資料館なので、資料の展示が本来の目的ですが、元の裁判所の遺構がそこここに残っています。裁判の公判を行った部屋には、その様子を表した人形が置かれ、収監室の一部も保存され、建物の正面には裁判を象徴する模様なのでしょうか、レリーフが着いています。その下の車寄せには公正な裁判を意味するといわれる神鏡と神剣都を組み合わせた紋章が貼り付けられ、同じものが館内にも飾られています。また裁判所って、こんなに豪華だったんだと思わせるステンドグラスが窓だけでなく採光用の天上にもはめられ、シャンデリアや正面の階段なども贅を尽くしたという感じです。

 名古屋では古い役所が現役で頑張っていますが、どうもこれは例外のようで、わが国では役所というと、すぐに建て替えるのが通例のように思います。原資は税金なので、節約なんて考えは毛頭ないのでしょう。仕事が増えて手狭になった、使いにくいなど、もっともな理由をつけていますが、ハチの巣の撤去などというのは役所にやらなければならない仕事なんでしょうか。古いビルでは二重床になってないのでIT化が難しいとので建て替える、なんて理由もありました。ただ、最近はWi-Fiの速度も向上し、役所の処理程度のでは、それほどの通信速度は必要なさそうなのでOAフロアは必須でもないのではないかと思います。外国に行くと100年以上も昔に建てられ、バリバリの現役で活躍する美しいしい建物の役所をたくさん見かけます。

高雄郊外の龍虎塔では流の口から入って虎の口から出ましたが悪行のリセットができたでしょうか(台湾)

2020-07-12 08:00:00 | 世界の町並み
 かつては9か国もの租界が存在し、その名残が町中に残るのが天津でした。北京に比較的近く、高速鉄道もあって30分で着いてしまうので、北京の郊外といった感覚です。この高速鉄道は、天津から先は海になってしまうせいか、行き止まりで、北京と天津間を結ぶだけの高速鉄道のようです。一方、台湾の2つの都市である台北と高雄とはもっと離れていて、急ぎの人は国内線の飛行機で往来していましたが、両都市間を結ぶ台湾高鉄ができて最速で1時間半で行けるようになりました。この高鉄は天津3倍ほどの距離ですが地点間を結ぶだけで台湾を一周する構想は無いようです。今回は、台湾高鉄の南のターミナルである高雄を紹介します。

 高雄は台湾の南端に近い、台北に続く第2の大都市で人口は300万人弱で大阪市と同程度の人口です。良港に恵まれ港湾で栄えた商業都市で、商都の大阪と似ているかもしれません。首都圏の人たちはタカオと聞くと高尾山を思い浮かべますが、こちらのオは尾っぽ、逆に関西人は神護寺のある高雄山を思い浮かべ、こちらは高雄市と同じ文字です。高雄の地名は先住民が呼びならわしていたtakauを表音文字化して打狗とされた表記が日本統治時代に京都の高雄にちなんで現在の表記になったのだそうです。

 
 ところで、中国の鉄道は、日本と同様に在来線も高速線も国営ですが、台湾では在来線は国営で高鉄は民営です。高鉄が開通する前の在来線では、特急の自彊号で4時間もかかっていたので半分以下の所要時間となったのですが、開通までは紆余曲折があったようです。路盤工事は韓国、車両は日本そして無線などのシステムは欧州といった混成で、システムとしての統一性が無くトラブル続きで、2年近く開業が遅れました。外国のハードをコピーしただけの中国と共に、危なっかしい高速鉄道と言えるかもしれません。

 
 
 
 この高鉄の駅は左営といって市の北部で在来線で6駅、地下鉄線で5駅も離れた郊外にあります。高雄の有名な観光地の一つの蓮池潭は、この新佐営駅の南西に南北に長い楕円形の池で、池の北端から西側にかけて見どころが広がっています。北端に並んであるのが文昌祠と孔子廟都が並んでいます。文昌祠は学問の神様の文昌帝を祀ったもの、孔子廟は台湾屈指の規模です。ここから水辺に沿って左回りに散歩をすると対岸に建物の上に仏像が乗った清水宮が見え、やがて屋根の上の彫刻が賑やかな天府宮に出ます。

 
 
  
 そこからさらに進むと、湖上に突き出た先に巨大な玄天上帝神像が周りを威圧しています。そして、ゴールは湖上に2つの塔がある龍虎塔です。それぞれの塔の入り口には龍と虎が口を開けていて、龍の口から入り虎の口から出てくると、それまでの悪行を帳消しにしてくれるという免罪符のようなご利益があるそうです。

 一方、在来線の高雄駅は市の中心部、在来線の旧駅は戦前に造られ帝冠様式の駅舎で、ちょっと旧JR奈良駅舎に似た格好でしたが、鉄道の地下化工事の際に保存運動が起こり曳家され展示館として使われ、新駅ができたのち元の場所に再移動して地下駅への入り口として利用されるそうです。筆者の訪問の時には、工事の真っ最中で駅舎は仮駅、南北間の自由通路が無かったため、改札で通行許可証をもらって通り抜けた覚えがあります。

 
 
 
 在来線高雄駅の南口から西南西に少し行ったところにあるのが三鳳宮で、巨大な門を入ると極彩色の彫刻と真っ赤な提灯に出迎えられます。元来は道教寺院らしいのですが仏像も置かれていて、わが国の江戸時代に神社とお寺がごちゃ混ぜになったのと同じ様子です。観光バスでどやどやとやってきた白い帽子をかぶって同じような格好をした一団が、何かしら儀式めいたことをやって、またどやどやと去っていきました。

 
 
 南口から地下鉄を1駅、美麗島で乗り換えて西に2駅乗ったところの愛河河畔に建つのが高雄市立歴史博物館です。日本統治時代の1938年に高雄市役所として建てられ、戦後も役所として使われ、役所が引っ越したのち後の1998年から博物館として使われています。高雄市の歴史にまつわるレンジがありますが、建物だけでも見る価値のある美しさです。

 
 一方、高雄駅から地下鉄を北に1駅乗った後駅から西に1kmほど歩くと客家文化館があります。客家とはもともと黄河流域に住んでいた民族でしたが、内乱などで中国の各地に散らばり、高雄にも人口の2割を占める客家の流れをくむ人々が住むそうです。文化館にはこれらの人々の衣食住の文化にまつわる物や行事の様子が展示されていますが、さほどの内容が無かったような気がします。むしろ隣接した朝市でかって食べた、焼き芋と桃とがおいしかった印象が残っています

 台湾の高速鉄道は、いろんな国の技術の寄せ集めで成り立っていて、とても統一されたシステムとして動いているとは思えません。通常の運行ではそれなりに走っているのでしょうが、いったんトラブルが起こると、どうなるのか心配です。鉄道の世界では、国際標準や業界標準というものが、通信やコンピュータの世界ほどには進んでいないように思います。例えば、東京の都営地下鉄など軌間、保安方式、動力方式などすべてばらばらで、4路線の電車は全く互換性が無いという無駄なことをやっています。コンピュータの周辺機器では、アップルなどの製品を除けば、どこの会社の製品を買っても問題なく動作する互換性が保証されているのですが。

梅と言えば水戸の偕楽園、共に梅の名所となっている弘道館ですが、サンシュユの黄色の花も見事です

2020-07-05 08:00:00 | 日本の町並み
 
 明治時代の小学校や100m異常の長さの廊下がある小学校の旧校舎などが、古い町並みに交じって建っているのが愛媛県の卯之町でした。国宝の旧開智小学校をはじめ明治時代の小学校の校舎は意外と多く残っていますが、江戸時代となると、旧藩校ということになります。藩校は各藩で複数が開かれたところもあって、かなりの数になりましたが、現存するものは多くなく、今回はそれらの中から茨城県の水戸にある旧弘道館を紹介します。

 
 
 弘道館は、水戸駅を北に出て10分くらいの場所にあります。途中の郵便局の角を曲がったところから水戸学の道の名前が付いた道になります。市民センタのあるあたりからは旧水戸城の三の丸の一部で、かつての弘道館医学館跡との案内図が立ちその隣には、天然痘の予防に尽くした藩医の本間玄調の銅像も立っています。三の丸小学校の角を左に曲がってしばらく行くと旧弘道館の正門が左手に見えてきます。この辺りは旧水戸城の西に位置していて、再建された大手門とは陸橋でつながっており、東に延びる水戸学の道をたどると水戸城の本丸跡に至ります。

 弘道館は19世紀の中ごろに徳川斉昭が開いたもので、水戸藩士とその子弟を学問と葡萄の両面で教育する場でした。現在の弘道館は150m四方ほどの広さですが、現役の頃は現在の4倍近くの面積で、三の丸小学校や図書館、生涯学習センタなどが建っているところまで広がっていたようです。現在は弘道館として塀に囲まれたエリアはさらに狭く、水戸学の道に面した半分くらいの場所で、その裏側の塀の向こうには弘道館神社や弘道館公園などになっています。

 
 
 弘道館の遺構として残っているのは、入り口の正門と正庁・至善堂の重文の建物2つで、正庁・至善堂を取り囲む庭園だけです。正庁は弘道館の管理棟で、その北東に4室からなる至善堂が隣接しています。至善堂は藩主の控室やその子弟の学習室として使用された建物です。藩校としての学習の場は、正庁を南北に挟むように設けられた文館と武館でしたが、現在は小学校と公園になっています。

 
 
 水戸を象徴する梅は偕楽園ほどのボリュームはありませんが、紅梅と白梅がとがひっそりと咲いています。この梅にもまして存在感のある花がサンシュユの黄色の花でした。サンシュユは、梅と同様に葉が出る前に黄色の花が咲きます。原産国の中国から江戸時代に日本に伝わった時に中国名の山茱萸を音読みして付いた名前です。同じように春に花を付けるハナミズキと同族で、花を楽しむだけでなく、日本には薬用植物として伝わり、果実は漢方薬として使われるようです。

 漢方薬は中国発祥で、音が同じで紛らわしいのが韓方薬でこちらは韓国が発祥ですが、生薬を主成分とするところは同じです。これらの登用医学は、利き方が穏やかで副作用が無いと思われていますが、漢方薬の中には副作用のひどいものがあるので気を付ける必要があるそうです。西洋医学では、血液検査やX線、MRIなどの検査を積み上げて、病名を特定して治療が行われますが、漢方医学では問診や観察それに患者の脈を取るなど医師の感と経験によるところが多いようです。生薬がどのように利くかは、長年のカット・アンド・トライの積み上げなのでしょうが、これってコンピュータにデータを入れて、ビグデータ解析を行えば、相関性が分かるのかもしれません。