世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

世界遺産のディオクレティアニス宮殿やトロギルは観光客が群れていますが、郊外のサロナ遺跡にはポピーの花が群れていました(クロアチア)

2021-07-25 08:00:00 | 世界の町並み
 市街地の中に世界遺産の登録エリアが散在し、その中にまっ黄色の菜の花が咲き誇る畑があるのが韓国の慶州でした。菜の花に限らず、季節の贈り物の花々は、旅の楽しみを増すものですが、遺跡の中に咲いたポピーなどが美しい場所が、クロアチアの二つの隣接する世界遺産であるディオクレティアニス宮殿とトロギルとの間でスプリトの近郊にあるサロナ遺跡です。今回はポピーなどの咲き乱れていたサロナ遺跡を紹介します。

 
 サロナ遺跡は、ディオクレティアヌス宮殿のあるスプリトからトロギルに向かう途中のソリン市にある遺跡です。西に向かって突き出したスプリト半島の南側にあるスプリト市街から、東に入り込んだ湾を回り込んで海岸から山の手に広がる遺跡で、スプリトのバスセンタからソリン行またはトロギル行きの路線バスで15~20分ほどで行くことができます。ディオクレティアヌス宮殿は、クロアチアを代表するような世界遺産で、宮殿の中に町があるようなところですから、街中は観光客であふれていますが、宮殿を作ったディオクレティニアスの故郷と言われるサロナ遺跡はほとんど人影は見当たりません。その代わり、ポピーなどの花々が遺跡を彩っていました。

 
 サロナは、世界遺産の町のスプリトよりはるかに歴史が古く、紀元前10世紀ころにイリュリア人によって起こされた町です。しかし、7世紀にアヴァール人とスラヴ人の侵略によって破壊され、長く土に埋まってしまい20世紀になってやっと発掘されて現在のような廃墟の遺跡として現れたそうです。3世紀にはローマ皇帝のデオクレティアヌスを産み、彼はサロナの南にある現在のスプリトに宮殿を作り、こちらは現在まで町並みが残って世界遺産に登録され観光客であふれたわけです。

 スプリトからの2系統の路線バスのうち、ソリン行のバスは遺跡の北側に沿って走り、バス停は遺跡の北側にあり、一方トロギル行のバスは遺跡の南側に沿って走るので、バス停は遺跡の南側にあります。遺跡は北側に向かってゆるい傾斜があるので、往路はソリン行のバスで北側から入り、復路は南側に出てトロギルからのバスで帰ると楽です。北東端から南西端に向かって、斜めに遺跡を横断すると、全体像がつかめますが、細かく見ていくと、いくらでも時間が要るかもしれません。

 
 
 
 
 
 
 
 
 遺跡は東西1km、南北500mほどで思いのほか広く、ソリン行のバスを降りた北西端の入り口付近に全体像の地図があります。遺跡の中には、教会、浴場それに円形劇場などがありますが、大部分は基壇や柱それに壁の一部を残すのみです。レンガ色の十字形の井戸のようなものは洗礼盤で、顔の装飾が面白い四角の医師は噴水の名残だそうです。円形劇場も比較的保存が良く、中央の円形広場を取り巻く客性の様子が分かります。これらの石のかたまりの間には、ポピーだけでなく名前の分からない花々がひっそりと咲いています。スプリトから近くて、これだけの遺跡が閑古鳥状態というのは不思議ですが、おかげで花々が踏み荒らされなくって良かったかもしれません。

 ヨーロッパなど石の文化の遺跡は、石造りなので瓦礫になっても残りますが、わが国ような気の文化の遺跡は、せいぜい基石が残るぐらいで、通常は柱などの穴の跡など地面に痕跡が残るぐらいです。世界遺産を管轄するICOMOSは、石の文化のフランスに本部を置く組織ゆえ、わが国が法隆寺など木の文化遺産を申請する時には、彼らに木の文化を分からせるのに、大変なエネルギーを費やしたのだそうです。フランス人は自国文化が最高であるとの自負が強く他の文化を認めないきらいがあるからのようです。彼らには、「滅びの美学」といった物は存在しないのかもしれません。世の中の何でもがディジタル化されて、不変になるということは、便利でしょうが、崩れた情報から、過去を推定するロマンを奪うかもしれません。ただ、ディジタル化と言っても、1と0に記号化された羅列は不変で残っても、それを読み解くシステムが不変という保証はありません。

長崎の東の高台の風頭山への上りは、東山手にあるオランダ坂とは比べ物にならないきつものですが市街地の眺めは上った甲斐ありです

2021-07-18 08:00:00 | 日本の町並み
 坂の町長崎の2回目は、前回紹介した市街地の南にある南山手から、北東へ市街地の東にある東山手と、さらに東山手の北東にあり本格的な坂道を上らなければならないる風頭山の界隈を紹介します。

 前回の南山手ではいろいろな名前の坂道、名もなき坂道も多くありましたが。長崎の坂道と言えばオランダ坂を思い浮かべるのですが、東山手に上る南の入り口と北西の入り口の坂道の名称はどちらもオランダ坂なのです。もともとオランダ坂という名称は、オランダさん(外国人)が通る坂道といった程度で名づけられ、神戸など長崎以外でもオランダ坂が存在したようです。長崎でも数多くのオランダ坂があったようですが、観光協会公認のオランダ坂は、東山手に通じる3本ということになっているそうです。

 
 
 
 
 
 路面電車で南山手への斜行エレベータの最寄り電停の石橋で下車して、少し戻ってきたに入ったところが孔子廟で、境内に並ぶ白い像の列は壮観です。孔子廟の南側を塀に沿って東に行くと、東山手に上るオランダ坂に突き当たり左折して20%の急坂を上ります。上る途中の左手が東山手の異人館が軒を連ねる場所で、下見板張りで萌黄色に塗られた洋館が軒を接して並んでいます。この辺りからは、遠くに大浦天主堂や、その後ろにあるグラバー園の動く歩道も霞んで見えますし、孔子廟の大きな屋根も上から眺めることができます。

 
 
 
 
 
 昭和会病院のしゃれた建物のところをオランダ坂からそれて右に上っていくと左手に活水女子大が左手に現れます。その手前のレンガ塀に囲まれた坂を下りると左手に東山手十二番館の活水女子大ラッセル記念館があり、女子大関連の展示が見られます。さらに下ると東山手十三番館が現れ、この建物をバックにしたオランダ坂の風景はおなじみの観光写真です。

 
 
 
 
 オランダ坂から表通りに出てメディカルセンター前から路面電車に乗りめがね橋で下車します。東に入って川沿いを左手に行くと眼鏡橋、橋を渡って直進して突き当たると晧台寺で前の通りに面して多くのお寺が連なります。この中の興福寺には中国福建省から平和の鐘が寄贈された直後の訪問でした。寺町の深崇寺の手前を右手に入って急な階段交じりの坂を上っていくと、竜馬の亀山社中記念館で、さらに上ると風頭山、右手にお進と見晴らしの良い公園があり、坂本龍馬増が長崎市内を見下ろしています。

 坂本龍馬は明治維新の礎を築いた偉人と言われていますが、始点を変えると死の商人の面もあったように思います。亀山社中は商社の走りですが、武器で儲けていたということは事実で、竜馬が長生きをしていれば、同じ土佐藩出身の岩崎弥太郎と同じように兵器産業で財を成していたかもしれません。兵器で使われる技術は、平和利用をすれば素晴らしいものが数多くあるのですが、人間の命を金儲けのために使う輩にかかると人殺しの道具になってしまいます。人殺しの兵器は最新のIT技術のかたまりのように思いますが、ノーベルの悲しみを繰り返したくないですね。

わが国で5番目の自然遺産は登録を1年待たされましたが、指定地域の一つの西表島は自然がてんこ盛りです(日本)

2021-07-11 08:00:00 | 世界遺産
 2020年の世界遺産会議はコロナ禍で中心になり、2021年は2年分をまとめて承認することになり、わが国からは文化遺産と自然遺産を各々1件づつ登録がなされることになりました。このうち自然遺産は本来は2020年に登録されるはずであったわが国では5件目の自然遺産の「奄美大島、徳之島、沖縄島北部および西表島」です。今回は、登録エリアのうち訪問をしたことのある西表島を紹介します。

 西表島は八重山群島の中で西寄りに位置し、東京などからの場合は石垣島まで行って、石垣港から高速船で20kmほどを40分かかって渡ることになります。面積的には石垣島よりも広いのですが、島の大部分がジャングルで空港を作れそうにはありません。行政区域は石垣島のすぐ西にある竹富島などのいくつかの島をひっくるめて竹富町なのですが、竹富町の役場は竹富島ではなく石垣島にあります。それぞれの島はすべて石垣港を起点とする船で結ばれているので、中継点の石垣島に役場を置くのが合理的との判断だったようです。筆者が訪問したころは、新石垣空港はまだ開港しておらず、東京や関西との便は往路は直行しますが、復路は宮古や那覇を経由しました。滑走路が短いため、満タン状態では離陸できず、とりあえず宮古などまでの燃料を積んで離陸し、滑走路の長い宮古空港で満タンにして東京まで飛んだようです。



 



 
 
 ジャングルばかりの島には一周する道路は無く、東南の大原と西の白浜とを結ぶ西南側には道路が無くが、白浜港から船でしか行けない舟浮集落という集落がありますが、ここには小中学校もあるようです。また白浜港近くには北回帰線の位置を表す三角形の標識がありました。

 
 
逆に、南東端の大原港の近くの行き止まりの道路の先の浜は、第2次大戦時に波照間から西表に強制移住させられ上陸した場所で、忘勿石の碑が建っており、悲劇とは裏腹に眺めの良い海岸が広がっています。 

 大原港から白浜までの島の東半分の道路は、海岸にそって付けられていますが、この道路を走る路線バスがあるんです。筆者は車は運転できないので、一日に6本(現在は減っているかもしれません)走っている公共輸送機関の路線バスが頼りでした。大原港に上陸したあと、白浜や由布島などに行くには、バスダイヤとにらめっこをして移動することになりますが、川を遡って内陸に入らなければならないいくつか滝は、海岸線を走るバスでは遠くって訪れるのは時間的に無理でした。この路線バスの運転手の方の言葉が印象的でした、「僕は、西表島に来て病気になり、移住してしまったんだ。病気というのは、西表島の虜になる病気だよ。」それくらい、西表島は魅力的だったということです。

 
 
 

 仲間川には滝はありませんでしたが、大原港から出て川を遡上する遊覧船は、乗船のために大原港から移動する必要が無いので楽しむことができました。この遊覧船に乗ると、マングローブの林を眺めながらサキシマスオウノキの群生があるジャングルの所まで連れて行ってくれます。ちなみに、マングロブというのは特定の樹木の名前ではなく、汽水域に生息する樹木の総称で、15種類ほどもあるとのことです。サキシマスオウノキといのはアオイ科の常緑高木で、15mほどの高さにもなる記ですが、板根と呼ばれる平らでウネウネとオーロラのように曲がった根っこが特徴です。

 
 
 
 
 由布島は、西表島と東にある小浜島の間にあり、300m幅で長さが1kmくらいの楕円形の小さな島で、島との間は300mぐらいですが遠浅のために水牛の牛車で渡る西表島きっての観光地になっています。取り立てての観光施設は無く、蝶の温室のほかは、島全体が植物園といった感じで、天気が良ければ、のんびりと散歩するのにもってこいの場所かもしれません。

 白浜港近くを通る北回帰線は地球の自転軸が23.5度ほど傾いて夏至の時に太陽が真上に来る場所です。地球の自転軸は現在は23.5度ですが、およそ4万年の周期で22.1度から24.5度の間で変化しているそうです。自転軸はこの程度の変化ですが、地場の方は南極と北極とが度々入れ替わり360年の間に11回も逆転し、77万年前の逆転の証拠が千葉県の断層に残り、その地層がチバニアンと命名されて有名になりました。地層の堆積物の磁性体から開明されたのですが、これは一種の磁気記録と言えるかもしれません。コンピュータなどの記憶媒体は半導体が主力になっていますが、大容量分野では、まだまだ磁気記録が幅を利かせています。現在ではGBを超えるメモリーが手のひらに乗ってしまいますが、筆者が研究所に入所した頃は、磁気コアメモリが使われ1MB程度で天井までの搭載架を占領していました、この分野の技術発展はびっくりします。

長崎の南山手地区はグラーバー園だけではありません、名もない坂道や木立の先に見え隠れする洋館を眺めながらの散歩が楽しい

2021-07-04 08:00:00 | 日本の町並み
 神戸の西の市街地の中に修復のできた古墳が明石海峡を見下ろして横たわっているのが五色塚古墳でした。神戸は山が海に迫り、五色塚も海岸段丘の端のようなところに造られています。北野町や塩屋などの山麓部分は海の眺めが良く、異人館や別荘が立ち並ぶ場所になっています。山が海に迫る町は尾道などもありますが、居留地がある港町はさほど多くありません。今回はそれらの中で、長崎市の南山手地区を中心に紹介します。

 


 
 長崎市の南山手地区は、長崎駅の南、長崎電気軌道(路面電車)の大浦支線の終点の石橋電停の南南西に横たわる山塊で、グラバー園や大浦天主堂のある地区です。山手と聞くときつい坂を上らなければ、と思いますが、南山手地区には石橋電停の南側から斜行エレベータと通常のエレベータを乗り継いで、苦労なくグラバー園の一番高いところにある入り口そばまで登られます。グラバー園内にも、動く歩道がありますが、こちらは入園料が必要、斜行エレベータなどは、無料で乗ることができますが、籠が1台なので利用客が多いと待たされることになります。

 
 
 
 
 
 
 長崎の坂というとオランダ坂が有名ですが、もともとは特定の坂を指すのではなく、旧居留地の石畳の坂の総称で普通名詞化していたようです。そのためか、神戸の異人館街にもオランダ坂なるものがあるそうです。もちろん長崎の南山手にも、その名称の坂があったようですが、現在は東山手の三つの坂のことを呼ぶのだそうです。南山手の坂には、いろいろな名称がついていて、地獄坂があると思えば祈念坂もあり、ドンドン下るためなのかどんどん坂、分からないのはプール坂でこの坂の近くにプールを作れるような平地が見当たりません。これらの坂で西に向かって下る坂からは、市街地の向こうに長崎湾と、その先には対岸も見え、この景色に魅せられて多くの異人館が建てられたのではないでしょうか。

 
 
 
 
 坂を下ってい行くと、海が見えるだけではなく、思いがけない所に現れることがあります。祈念坂を降りてゆくと、通常は正面からしか見られない大浦天主堂を後や横からみられます。狭いところに建っている須加五々道美術館は上から屋根の状態まで見ることができます。祈念坂を降りきって大浦天主堂を通り過ぎると祈りの丘絵本美術館もありますが、こちらの建物はは正面から眺めることになります。

 
 
 逆に、祈念坂の上部には、異人館の南山手乙27番館を流用した南山手レストハウスがあって、市内を一望にできる眺めの良い場所に建っていて、坂歩き散歩の一休みもできます。

 グラバー邸を作ったトーマス・グラバーは、討幕派、佐幕派の両方に武器弾薬を売って巨万の利益を得た死の商人ですが、キリンビールの基礎を作ったことでも有名です。日本のビールは長くラガー・ビールばかりが作られてきました(これもキリンビールのためのようです)が、最近は地ビールなど様々な種類のビールが作られるようになりました。中には、AIと職人とが組んで、世代間のコミュニケーションを促進するビールというのもあるようです。各世代が育った頃の色流行色をビールの液色に、トレンドワードから香りに、そしてファッションを味にと、AIが連想して、それを職人の手で製品に仕立てるというものです。また、嗜好向の多様化に併せたビールの試作は醸造という時間がかかる過程を伴うため、過去のデ^タを覚えこませたAIを利用して、この過程を短縮することも行われているそうです。