世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

旧乾邸のあたりは旧住吉村、日本一の富豪村であった名前に負けない豪邸が建っています

2020-08-30 08:00:00 | 日本の町並み
 紀尾井坂には旧大名の邸宅がありましたが、現在では大名屋敷は跡形もなく、レトロな建物としは赤坂プリンスクラシックハウスが唯一です。1884年にコンドルの設計により北白川宮邸として建てられ、その後の宮家の引っ越しにより、1924年に李王家の東京邸として使われました。この邸宅を舞台にした「虹を架ける王妃」というテレビドラマが作られましたが、李王朝の東京邸としてロケに使われた邸宅が神戸の山手にあります。今回はロケに使われた旧乾邸を中心に紹介します。

 
 
 
 旧乾邸は、乾汽船の創業者が昭和初期に現在地に建てた邸宅で、設計は関西モダニズムの建築を数多く手がけた渡辺節によるものです。1993年に相続税として国に物納され、阪神大震災による和館の倒壊などがありましたが、2009年に神戸市の所有となっています。ロケや展示会、見学会などに使われていて、1年に2回ほど開催される見学会に参加すると洋館の内部が見学できます。

 
 
 
 
 
 洋館はコンクリート造りの2階建てで、外観の質感はどことなく旧甲子園ホテルとも似ているようにも思えます。どこをとっても、美しい建物で、写真で切り取るのが難しい場面ばかりです。ロケの場面でよく出てきた吹き抜けのゲストルームは圧巻で、階段から見下ろす景色はシャンデリアも前景に見えて、絵になるな!って感じがします。また、邸宅の裏手にある駐車場が一段高くなっているので、ここに上ると正面からは分からなかった邸宅の全景が塀越しに望めます。

 旧乾邸のあるあたりは、阪神間の高級住宅地の一つで、旧乾邸のようなレトロな雰囲気を残す邸宅や博物館それに料亭などが数多く見られ、外から内部が分からないおうちばかりです。このあたりには、日本一の富豪村と呼ばれる住吉村の一部で1950年に神戸市に併合されるまで存在しました。

 

 旧乾邸には阪急の御影やJRの住吉から坂を上ることになりますが、住吉の駅の西を南北に通る通りはまっすぐ山に向かって伸びていて、「ありまみち」の名前が付いています。神戸や大阪から有馬に通じる4本の道の一つで、本住吉神社を起点に六甲山を越えて有馬まで伸びています。このありまみちを上り阪急神戸線のガードを越えて少し行くと灘目の大小2つの水車があります。このあたりには100基を超える水車があったそうですが時代とともに無くなり、2002年にかつての景観を再現したそうです。水車を左手に行くと旧乾邸で、さらに進むと白鶴美術館に突き当たります。白鶴酒造の7代目当主のコレクションを展示し、国宝や重文を数多く所蔵しています。戦前に作られた数少ない美術館の一つですが、通年の公開ではなく春秋の期間限定なのが残念です。

 
 
 
 旧乾邸の裏側まで戻り、西に行くと若宮八幡神社があります。どこにでもありそうな名前の神社ですが、後方に鬱蒼とした鎮守の森を持つ住吉村山田区の氏神で、現在も地域の現役の神社のようです。神社の南西には武田記念館の巨大な敷地があります。記念館という名称なので公開されているのかと思いましたが、武田薬品の社有で非公開のようです。外部からかろうじて眺められる家屋はハーフティンバーのおうちでした。さらに南に行くと蘇州園というレストランがあり、この建物は日本生命の創業者であった弘世助三郎の邸宅を戦後に中華料理店として利用したようです。蘇州園の西にはこのあたりのため池の名残の深田池があります。深田池を東に住吉駅の方角に戻ると、阪急の南側には朝日新聞創設者の村山龍平のコレクションを展示した香雪美術館があり数多くの重文を所蔵しています。さらに南に下ると川崎造船社長であった平生釟三郎邸の跡にある甲南学園平生記念館のレトロな建物も目に入ります。

 有馬温泉はよほど行きたい温泉だったようで、住吉を通る有馬道のように六甲山を超えてまで往来していたんですね。秀吉は大阪から有馬に行くのに、有馬からずっと西にある三木まで大回りをし、湯の山街道沿の名前が残っています。現在は神戸電鉄に乗るのが一般的です。4本の有馬街道のうちの1本が平野を起点に、神戸電鉄と並行して有馬に通じていますが、かつては細くカーブの多い道で、車の免許を取って有馬街道を運転できると一人前と言われました。このような条件の悪い道でも、コンピュータにデータを教え込めば自動運転可能なのでしょうか。

森林の中や畑の雑草の中から廃墟と化した妙な形の楼閣がニョキニョキの開平です(中国)

2020-08-23 08:00:00 | 世界遺産
 異なる民族の中に一族が外部と遮断できる巨大な円形集合住宅を建てたのが福建土楼でした。ヨーロッパや中国では常に外敵から生命や財産を守るために知恵を使って城壁や環濠などが作られ、土楼もその具体的な産物です。土楼は外敵に対して、土の壁を作って侵入を防ぎましたが、楼閣を建てて外敵が容易に登れないようにしたのが、同じ中国にある開平です。

 
 
 開平は、福建土楼と同じく中国南東部で、どちらも海岸からやや内陸に入った場所で、福建土楼から直線距離で500kmほど西に離れていますが、広い中国ではお隣といった感じでしょうか。広州とマカオを結ぶ線を底辺として西に正三角形を描いたときに3番目の頂点のあたりに位置します。広州からもマカオからも高速バスでおよそ3時間程度で開平の市街に到着します。筆者の時には無かった高速鉄道が開通し広州南駅から開平南駅まで約1時間、開平南駅から市内までバスで30分くらいで行けるようになったようです。我々が泊まったホテルは市内を東西に流れる潭江の川中島の東の突端に建つ高層のホテルで、隣には同じような形の中国銀行のビルが並んで建っています。なかなか眺めがいいのですが、夜になると川沿いに建つ大きなビルの明かり以外は無く、都市というにはずいぶんと暗いという印象を受けました。

 世界遺産の楼閣群は、市街地からさらに西側に散在していて、路線バスなどの公共輸送機関を使って回るのは、かなりの困難を伴うようです。筆者の場合は、地元の旅行会社が主催するツアーを申し込みましたが、我々2人以外には申込者はおらず、結果的にはワゴン1台に運転手、ガイド、ガイド見習いの3人を貸し切り状態にしました。2人分の料金を足しても、タクシーのチャーター料金の2/3程度で、ガイドだけでなく昼食まで付いてずいぶんと得をした感じです。

 開平の楼閣は、19世紀ごろのこのあたりの治安が良くなく土楼と同じく自衛のために造られました。この地方では多くの人々が華僑としてアメリカやカナダへ移民として渡りましたが、おりしも北米の好景気に支えられて収入が増え、母国の開平への送金が増えました。そのお金を狙った盗賊も横行したために、防備のために作られたのが望楼形式の住居です。この時に、海外の華僑から送られる欧米の写真に写った建物を真似てビルを作ったために、中国とも西欧ともつかない奇妙な外観を持った楼閣が出現したわけです。

 
 
 最初に訪れたのは市街地に近い3つの門のある三門里と呼ばれる村落(鎮)で、背の高い望楼はありませんがレンガ造りの家々が細い路地を挟んで密集して、独特の景色を作り出しています。村落の周りには池があり、望楼と同じく外敵の侵入を防ぐための環濠の役割なのかもしれません。

 
 
 
 そこから先は、個性的な単独に建っている望楼をいくつか見学します。個性的ゆえに残されたのかもしれません。最初は、傾いた楼閣で、地盤の悪いところに建てたために、背の高い望楼は10度くらいも傾いてしまったようです。ピサの斜塔が5.5度ですが、その倍くらい傾いていそうです。万が一倒壊した場合は、道路の方ではなく川の上に倒れこみ多少は救いでしょうか。もう一つは、ロボット楼と呼ばれるもので、幹線道路のそばにぽつんと建っています。その姿が、まるでロボットが立っているようなところから命名されていますが、背の高い雑草の中に立つ姿は武者の亡霊のようでもありました。雁平楼は緑の木立の中に埋もれてしまいそうです。これらの楼閣の大部分が住む人も無くて、打ち捨てられている感じで、廃墟そのものです。周りには、どこにでもある農村風景が広がっています。

 
 
 
 
 馬降龍村落群は、緑の中に望楼のてっぺんが顔を出し、楼閣の内部も公開されていて、開平を代表する村落の一つです。村落の中は、三門里と同様にレンガ造りの家並みもあり、その向こうに望楼がそびえています。無住になっている内部が見学できるものがあり、階下に台所、上の階に昇っていくと机や生活用品が残されています。家具に混じってご先祖の位牌の祭壇が一番目立つところに置かれていました。一族の血のつながりを尊ぶ現われでしょうか。頂上のベランダから眺める緑の中の楼閣群の眺めも、楼閣に登ることができる馬降龍の良いところでしょうか。

 
 
 
 赤坎鎮は、西欧風のアーケードが続く町並みで、連続して建てられた家並みのところどころに望楼が付けられています。他の望楼軍とは趣が異なり、こちらでは日常の生活が、これらの家並で行われ、一郭には博物館もあります。川に面した長屋と表道路に面した長屋とがあって、川の向こうに見える家並みも美しいのですが、微妙なカーブを描く表道路沿いの家並みも捨てがたい味があります。ここには、何度も映画のロケが行われ、ロケに使ったというセットらしき家並が残され赤坎影視城という映画村になっているようです。筆者が訪問の後には「グランドマスター」というアクション映画も街中でロケが行われたそうです。
 
 土楼は中庭があってそこには井戸も掘られているものが多かったようで、土楼の中である程度の籠城ができたように思いますが、開平の楼閣は外敵を防ぐことはできても、長期間立てこもるのは無理なようです。高床式の蔵といった感じで一時的に避難をしたり財産を保管しておく場所という位置づけでしょうか。ネットワークにつながるパソコンなども、いろいろな外敵が侵入する恐れがあります。防ぐ手段もファイアウォールなど入り口から入らなくしたり、ウィルスチェッカーなどでは敵味方を識別して排除する手段を使ってます。ただ、どの手段も完全ではないのは、実世界と同じのようです。

大大名のお屋敷跡の紀尾井町には巨大ホテルや政治家の好んだ料亭、それに総合大学と民家とは縁遠い建物が集中しています

2020-08-16 08:00:00 | 日本の町並み
 水戸、尾張と御三家のうちの二つにゆかりのある場所の紹介が続きましたが、東京の中心に御三家のうちの二つと親藩の一つの合計三つの屋敷が隣接していたのが紀尾井町です。字の通り、紀伊、尾張そして井伊家の頭文字をとったものです。今回は紀尾井町を中心に四谷から赤坂見附にかけての街並みを紹介します。

 三つの屋敷のうち、紀伊家中屋敷は、現在のプリンスホテルから清水谷公園にかけて、尾張家の屋敷は上智大学のキャンパス、そして井伊家の中屋敷はホテルニューオータニあたりに建っていたそうです。三か所のうち二か所までもに大きなホテルが建っているのは、都心の一等地でありながら、まとまった土地が手に入ったからなのでしょうか。

 
 
 
 
 紀伊家の屋敷跡は、三か所の中で南東寄りで、北に清水谷公園、南にプリンスホテルが建っています。清水谷の名前は講演の西の谷筋に沿って清水が沸いていたことに由来するようです。明治期に宮家の邸宅が建てられ、その後に都立公園、区立公園という変遷をたどったようです。緑の多い公園に中央に池があり、湧水のモニュメントや名水を利用したという偕香苑と呼ばれる茶室、それに地盤沈下の状況を把握するため地下水の水位を観測する井戸もあります。さらには、近くから出土した玉川上水の石桝も置かれ、どれも見ずに縁のあるものが並んでいます。目を引くのは、明治11年に公園の北側にある紀尾井坂で暗殺された大久保利通を哀悼する大きな碑です。

 
 
 一方のプリンスホテルは、1955年に現在の赤坂プリンスクラシックハウスとして使われている旧館を使って開業しました。この旧館は、日韓併合後に元大韓帝国の皇太子であった李垠の日本の住居として建てられたものをコクドが買い取ってホテルにしたものです。かつて友人の結婚披露宴が、この旧館でありましたが、外観も内部も優雅な建物です。その後丹下健三設計の新館が1983年開業して赤坂見付のシンボルとなりました。クリスマスには、窓を使って巨大なクリスマス・ツリーが描かれたこともありますが、2011年には取り壊しが決まり、その後に建った東京ガーデンテラス紀尾井町の巨大なビルの一部がホテルになっています。新館は東日本大震災の避難所に使われた後に解体されましたが、解体時の騒音や粉じんを避けるテコレップシステム工法が採られ、あたかも大きなビルが地下に潜っていくような光景が見られました。

 
 
 尾張家の屋敷跡は、四ツ谷駅に近く上智大学のキャンパスと聖イグナチオ教会とが建っています。上智大学は、16世紀にやって来たフランシスコ・ザビエルが日本の首都に大学を建学したいとローマ法王庁に送った書簡に基づくとされているそうです。ただ、実際に大学としての発足は1928年で、現存の1号館はその3年後に建てられたものです。赤煉瓦の5階建てに見える、美しい学舎ですが、実際は鉄筋コンクリート製の建物です。この上智のキャンパスのそばには、政治家が密談に使ったことで有名になった料亭の福田屋がありますが、かつての和風の建物は取り壊され、近代的なビルが建ち、その一郭を料亭としているようです。ただ、近代的なビルになってしまうと、秘密の裏の廊下は無くなって、政治家の密会は難しくなったのではないでしょうか。

 
 
 
 最後の井伊家のお屋敷は、最も西側の紀尾井町通りに西面したホテルニューオータニが建っているあたりです。ニューオータニは、江戸の御三家ならぬ、日本を代表するホテルの御三家の一つで、有名人が宿泊されたり、政治家のパーティーが開かれることで知られています。ただ、ホテルの御三家の歴史は思ったほど古くなく、帝国ホテルの明治時代は別格として、オータニもオークラも1964年の東京五輪対策で建てられたようです。さて、ニューオータニですが、井伊家の武家屋敷は、やがて大谷家の私邸となり、政府の要請でその土地に建てられたのが現在のホテルです。この歴史のため、ニューオータニには他の御三家には無い日本庭園が残され、石灯篭や池、それに滝まであります。ホテルを出た紀尾井坂には、東京ガスから贈られたホテルの開業25周年記念のガス灯が木立に囲まれて立っています。

 日本人は3大ナニナニというのが好きなようで、三名園、日本三景、三大名湯、三大稲荷・・・、ただ世界にも三大はたくさんあって、三大宗教、三大瀑布、三大料理・・・。ちなみに三大通貨はドル、ユーロそれに円が入っているのだそうです。また、三大IT企業はIBM、インテル、マイクロソフトなのだそうですが、最近はソフト産業の台頭でGAFAと呼ばれる4巨大企業にシフトしているのかもしれません。

西安の西にある宝鶏はわざわざ出かけるほどではないかもしれませんが、ユニークな見どころがあります(中国)

2020-08-09 08:00:00 | 日本の町並み
 数多くの租界が存在して、中国にありながらヨーロッパの香りがする町が天津でした。この天津は首都の北京からさほど離れていませんが日本の新幹線をコピーした高速鉄道で北京とに間を結ばれています。都市間を短時間で移動するのに便利になりつつありますが、まだまだ寄せ集めの技術でできた高速鉄道は不安があります。現在では、中国全土で高速鉄道網の整備が進んでいますが、当初は大都市と近郊都市とを結ぶ試験船として作られました。北京と天津間の高速新線はその皮きりでした。その一つに西安と宝鶏とを結ぶ新線がありますが、筆者が訪問したころは在来線をわが国のE2をベースとしたCRH2型で高速化した列車が走っていました。今回は、その宝鶏を紹介します。

 
 宝鶏は西安の西150km足らずの所にあり、北京と天津間よりやや長い距離になります。中央駅は宝鶏市のほぼ中央の宝鶏駅で、2013年に高速新線が開通して宝鶏南駅ができています。この高速新線経由では西安との間は40分ほどだと思いますが、10年ほど前の在来線経由では80分ほど、それでも最高速度が200km/hくらいで走っていたようです。

 
 
 宝鶏のおもな見どころは、宝鶏駅の周辺に集中しているようですが、アショカ王が全世界に建てた塔の一つと言われる大塔がある法門寺は市の北東端にあります。この法門寺を訪れる観光客は、西安から長距離バスで直接行くようで、筆者も中国人向けの西安の西にある乾稜などの史跡をめぐる現地ツアーで訪問しました。筆者が訪問した時には、ブッダの舎利が出てきたと言われるかつての塔の後に再建された塔が目立つのと、その地下部分だったかにあった博物館の展示が盛沢山くらいで、さほどのインパクトはありませんでした。しかし、訪問の翌年に、金ぴかで菱形の合十舎利塔や金ぴかの仏像などが立ち並んだテーマパークのような施設ができて、地味寺がド派手寺になってしまったようです。

 一方の宝鶏駅周辺の見どころですが、筆者が訪問したのは金台观、炎帝祠、青铜器博物馆の3か所ですが、ガイドブックでもこの程度のようです。

 
 
 
 
 金台观は、駅の裏の高台にある道教寺院で、太極拳の道場になっているのだそうです。高台なので、宝鶏の市内が眺められるのですが、木立が多くてちょっと邪魔です。山の斜面に建っている割には、多くの建物がありましたが、お堂の中には極彩色の像が置かれてあり、中国のお寺でよくみられる光景です。また、屋根の両端にはインド神話に登場する怪魚のマカラと呼ばれる像が置かれ、日本の鯱と似ていますが、こちらは想像上の動物です。このマカラは、インド神話に出てくる象の頭を持つ魚で、ヒンドゥー教の神様のいくつかの乗り物になっているようです。これが、中国などに渡って魔除けとして建物の装飾として用いられるようになったとのこと。

 
 
 炎帝祠は、宝鶏駅の西1.5kmほどにある炎帝を祀るお寺で、周りは広大な公園の中に、大きな建物がドンと建っています。炎帝は夏を司り人々に医療と農耕を伝えた伝説上の皇帝とされています。堂の中には巨大な炎帝と思われる像が鎮座していました。

 
 青铜器博物馆はちょっと遠くて、駅の南東3~4kmほど渭河の南に位置し、市内バスに乗る必要があります。こちらも緑の多い公園の中に建っている巨大な青銅器を模した建物の博物館です。膨大な青銅器のコレクションが展示されていて、おそらく中国最大級ではないかと思います。周秦時代の青銅器のほかに玉器、陶器など400点余りが展示されていますが、中国語以外の解説がほとんど見当たりません。ただ、見て美しければ良しとすればいいのかもしれませんが、用途などが分かればもっと楽しいかもしれません。

 宝鶏の青銅器博物館の青銅器は紀元前3~10世紀の物ですが、中国の青銅器文明は紀元前20世紀ころから始まったそうです。それまでの石器文明に比べて、硬くて加工のしやすい青銅器が文明を後押しするだけでなく、兵器にも使われて争うごとで人殺しに利用されたのは悲しいことです。青銅器はやがてより硬い鉄などの文明に発展していきましたが、現代のITはゲルマニュウムに始まりシリコンなど石と呼ばれる材料に根差しています。これって、石器文明に戻ったのかもしれません。ただ、この石器文明も人殺しに使われることが多いんですね。

「文化のみち」の町並み保存地区は名古屋の中心街とは思えない緑豊かな地区ですが開発の手も迫っているようです

2020-08-02 08:00:00 | 日本の町並み
 名古屋城の東に位置した尾張藩の藩校の跡地に建つ明和高校の南側には市役所や県庁それに旧控訴院の3つの重文の役所が集中していました。この旧控訴院と東にある徳川園に挟まれたエリアは「文化のみち」の名前が付いた江戸、明治、大正、昭和初期の建築が残る町並みがあります。出来町通の南、国道41号の東の主税町3丁目、4丁目で400m四方ほどのエリアが町並み保存地区になっています。

 「文化のみち」のパンフレットによると、載っている建物は旧控訴院を含めて16棟で、実業家や商人の邸宅や料亭、それに教会などで、大正期の建物が多いようです。筆者が訪問した建物を中心に紹介します。

 
 
 起点になるのは、町並み保存地区の東南角にある文化のみち二葉館で、日本の女優第一号と言われる川上貞奴が居住していた和洋折衷住宅を移築復元したものです。大正期に建てられ、入り口を入ってすぐの大広間はステンドグラスや吹き抜けの中に造られた階段など、なかなか美しい空間です。

 
 
 二葉館の南の道は橦木筋と呼ばれていますが、この道を西に行くと名前の由来の建物が橦木館です。陶磁器商が、大正から昭和にかけて、広い敷地に洋館、和館、茶室に蔵などを立てたもので、こちらも、玄関の↑洋間の欄間部分にはめられたステンドグラスの美しい洋館です。

 
 国道41号に出て北に行くと名古屋市内で最古の教会堂であるカソリック主税町教会があり、白い聖堂と鐘楼は清冽な印象です。角を東に入ると料亭の香楽で、こちらは武家屋敷風の門構えが重さを感じます。

 
 
 
 そのまま東に進むと旧春田鉄次郎邸で大正期に建てられた洋館と和館が並んでいます。こちらの1階は現在レストランとして使われているようです。その隣にあるのが、旧豊田佐吉邸で、こちらも大正期の洋館と和館が並んでいます。豊田佐助は豊田佐吉の弟で兄を支えた実業家だったそうです。洋間の換気穴のグリルには豊田家の家紋があしらわれ、廊下には電灯ならぬガス灯のパイプが残されていました。

 
 
 東に進んで初めての通りを北に折れ、さらに1ブロック進んで西に曲がった角が料亭の「か茂免」です。戦前に紙問屋の邸宅として建てられ、戦時中は皇族の居所としても使われたのだそうで、オレンジの壁と緑の屋根とのコントラストが印象的です。西に進むと、桜井家住宅と旧豊田家門・塀が通りを挟んであります。桜井家は明治期の洋館で、旧豊田家の門は大正期に佐吉の娘婿が居住した屋敷の名残です。

 
 さらに西に国道41号線に向かって進むと、文化のみち百花百草と旧料亭・樟が並んで建っています。ともに大正期の建物で、百花百草は大正期の書院、茶室、土蔵に多目的ホールを追加したもので、徳川美術館所有の百花百草図屏風に模した庭園があり、ギャラリーとしても使われているようです。一方、旧料亭の樟の方は平成9年に店じまいされ、母屋などは取り払われ門と黒塀だけになってしまっています。町並み保存地区は、表から内部がうかがえないような現役の豪邸も数多く残されていますが、あちこちで重機が入って建物が壊されています。現に、古い町並みの上に虫食い状態で高層マンションが顔をのぞかせています。

 トヨタというと現在では自動車を思い浮かべますが、豊田佐吉が発明したのは自動織機だったんです。佐吉が発明したG型自動織機が科博にも展示されていますが、比較的最近まで現役だったようです。この織機の製造ノウハウを基に立ち上げられたのがトヨタ自動車だったようです。豊田自動織機の繊維機械事業部門は小さくなったようですが、創業者の誇りを持ち続けているそうです。自動織機も自動車もメカ機械ですが、現在の自動車は電気製品の塊になってきているようです。エンジンまで電気のものもありますが、エレクトロニクスの恩恵を手ごろな価格で手に入れられるのは車を買うのが最も早道とも言われてています。ただ、現状の環境では遠隔制御での運転はご免こうむりたいです。