世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

水路に影を落とす白亜のタージマハルも素晴らしいのですが、満月の夜の姿や、幻に終わった黒いタージマハルも見てみたかった(インド)

2021-10-31 08:00:00 | 世界遺産
 前回はイギリスのウェールズ地方のスレート関連の産業遺産を紹介しましたが、今回はスレートの真っ黒に対して真っ白の大理石でできたタージマハルを取り上げます。現在みられるタージマハルは真っ白の大理石のものですが、実はタージマハルに並んで真っ黒のモスクも建てられる予定でした。

 タージマハルは、インド中央のやや西寄りのアーグラの郊外にあります。アーグラは、風の宮殿で有名なジャイプールの東にあって、ニューデリー、とジャイプールとアーグラを結ぶとアーグラは正三角形の右下の頂点に位置します。市街地の北部を流れるヤムナー川を背にして建てられ、タージマハルの西2kmほどには、やはりヤムナー川の畔にもう一つの世界遺産のアーグラ城が建っています。タージマハルは、ムガール帝国の第5代皇帝であったシャー・ジャハーンが無きお后のムムターズ・マハルのために17世紀に建てた霊廟とその付属施設です。

 

 敷地は南北560m、東西300mほどあり、敷地の南側1/4程度は門と回廊に囲まれた前庭があって、その北端には大楼門があります。大楼門は、赤砂岩で作られ、高さが30mあり、入口のアーチの先に見える白の霊堂と好対照です。大楼門をくぐると回廊に囲まれたほぼ正方形の庭園が現れます。庭園の中央の池からは四方に水路が伸びていて、この水路に映る廟堂の姿も絵になる姿です。庭園の先の基壇の上には、真っ白に輝く廟堂、廟堂を取り巻く4つの尖塔、そして廟堂の西にモスク、東に迎賓施設が現れます。

 
 
 廟堂は57m四方の正方形ですが四隅が切り取られた八角形になっています。高さは58mで正面から見るとほぼ正方形の中に納まる感じです。真っ白に輝くタージマハルは、遠くから見ても美しいのですが、近くで見る壁一面に施されたアラビア文字や模様も中なk見事で奇麗です。廟堂の中央には夫婦の墓石が置かれていますが、これは象徴的なもので本来の墓石は地下にある玄室に収められています。このタージマハルは、満月の日の前後2日間は夜間に鑑賞できるそうです。200人ほどの狭き門のようですが、青白い月光に浮かび上がる、真っ白の廟堂を見てみたい気がします。

 
 
 廟堂を囲むように立つ4本の尖塔は皇妃に従える4人の待女と喩えられますが、モスクのミナレットのように見えます。ただ、この尖塔にはその機能は無く、灯台と小さなバルコニーだけで、最も醜悪な建造物の一つと酷評されることもあるようですが、横への広がりを感じない廟堂の外観を良くしていると思うのですが。基壇の東西の端に建つモスクと迎賓施設は大楼門と同様に赤砂岩で作られ、外観はおなじで、左右のシンメトリーを重んじた設計のためでしょうか。この赤色の建物は、同じインドの世界遺産野一つでデリーにあり、タージマハルのデザインにも影響を与えたというフマユーン廟を思わせます。

 さて、タージマハルの黒バージョンですが、タージマハルを建てたシャー・ジャハーンは現在はタージマハルに葬られていますが、ヤムナード川の北岸に黒大理石の廟を建てて葬られる予定でした。ところが、彼の息子の反乱に遭い、シャー・ジャハーンはアーグラ城に幽閉され、そのまま無くなってしまい、黒い霊廟の計画は頓挫してしまったそうです。アーグラ城とタージマハルとの間は2kmほどで、幽閉された窓からはタージマハルが見えたのではないかとも言われています。現在も、ヤムナード川の北岸には、低い塀に囲まれたほぼ正方形の庭園は黒い霊廟の名残だそうです。

 イギリスがインドを植民地にした19世紀には、タージマハルのドームの上の緊迫がはがされるなどの略奪行為が紳士の国と言われるイギリス人により行われ、タージマハルを解体して売ってしまう計画まであったそうです。フランスの文化相は、アンコール遺跡の東洋のモナリザ盗難や、日本では奈良や京都を戦災から救った恩人と言われるアメリカ人のウォーナも敦煌遺跡の壁をはぎ取って持ち去っています。彼らにとって、東洋の美術品は、属国にある金儲けの金づるで、現代まで続いている人種差別の一つに他ならなかったのかもしれません。もし遺跡の美術品にICタグが付けられたならば、イギリスやフランスの博物館や美術館では、タグの数が多すぎてセンサーが反応しきれないほどの状況になりそうです。

新潟の豪農の旧宅も素晴らしい風格ですが豪商の旧宅は外からは想像できない豪華さです

2021-10-24 08:00:00 | 日本の町並み
 前回は新潟の市街地を走る観光循環バスのちょうど中間あたりの西大畑坂上から古町花街入口のバス停をつなぐ散歩道を紹介しました。今回は、駅から出る観光巡回バスが前半で寄り道をする白山公園バス停、後半に寄り道をする旧小澤家住宅前と歴史博物館前バス停の界隈を紹介します。前回が三角州の中央あたりでしたが、今回は西と東になります。

 
 
 バスルートの西には県政記念館と新津祈念館がありますが、石油王が建てた迎賓館の新津記念館は残念ながら行き損ねました。県政記念館は、明治初期に建てられた県会議事堂で、中央に塔屋があり、左手が控室、右側が議場、中央部がバックオフィスに使われました。明治初期の議場の建物として唯一で重文指定されています。議場は2階までの吹き抜けで、議場内の2階部分には望調整木らしき場所があり、kレでカウンタがあると明治期の銀行の遺構かと思わせます。

 
 
 
 
 東側には、まず商家の旧小澤家住宅があります。前回紹介した旧斎藤家などは豪農の遺構ですが、こちらは江戸時代後期からの豪商の邸宅で、明治期の7棟の建物が残されています。町中の何でもない古民家風の外観にからは想像できないぐらいに内部は庭も部屋なども祖もまま残っていて、なかなか見ごたえのある空間です。

 
 
 バスを一駅乗って歴史記念館で降りると、歴史博物館とその付属設備があり、まずは、明治初期に建てられた旧新潟税関庁舎があらわれます。この建物は、運上所という名前で建てられ、すぐに税関の名称に変わったようですが、どこか同じ明治期の学校を思い起こします。中央に塔屋があり、その下はアーチ状に通り抜けられる通路があります。左右対称で疑似洋風の建物ですが、塔屋も含めてなまこ壁で覆われています。

 
 
 荷上場の跡の先には、昭和初期に建てられた旧第四銀行住吉町支店の建物があり、こちらは大正から昭和初期に建てられ古典的な銀行の建物です。現在は、店舗部分はレストランとして、2階部分は貸会議室として使われています。店舗部分の2階には周り廊下があって、ここから見下ろす風景はよく見る明治大正期の銀行の風景ですが、テーブルが並べられたレストランは、銀行の硬さではなく華やいだ感じ足ます。

 博物館の本館は、鉄筋コンクリート3階建てですが、昭和初期に焼失した2代目の市庁舎に倣っているそうです。平面図はL字型で、旧市庁舎が木造モルタル仕上げであったことから、外装はモルタルで仕上げられ、基壇部分は花崗岩を、屋根は玄昌岩に洞葺きが施され、博物館ぽく、やや威圧的に仕上げられてています。ただ、荷上場の跡の掘割の先に建っている姿は悪くありません。

 旧新潟税関は、新潟が幕末に通商条約によって開港した5つの港の一つであったことの名残です。かつての関所は、権力者が資金を得るために物の動きに税金を掛けていましたが、現代の税関は、国内産業の保護などのために輸入品に関税をかけるという性格が与えられているようです。ところが、現行制度では、原則的に物に対してのみ課税されるので、コンピュータ・ソフトの輸入ではソフトが入っている媒体であるCDやDVD二対してのみ課税され、形のない中身のソフトは課税されません。ネット経由での輸入では、媒体への課税すら無いことになります。現在の法体系は、ソフトについて大幅に遅れていますが、関税についても、現在のルールでいいのか早急に議論されるべきでしょう。

タロコ渓谷は政治的な問題が無ければ、規模と言い美しさと言い間違いなく世界自然遺産に登録されても文句はなさそうです(台湾)

2021-10-17 08:00:00 | 世界の町並み
 ガウディが建築のデザインのインスピレーションを得たといわれるモコモコの山がバルセロナ郊外のモンセラートでした。モンセラートは礫岩などがモコモコの山容を作っていますが、大理石が削られてできた渓谷が台湾の東海岸にあります。政治的な問題で世界遺産に登録されていませんが、文句なしに自然遺産の値打ちがあるのが今回紹介するタロコ渓谷です。35年も前に訪問したので、現在ではだいぶ様子が変わっているかもしれませんが、自然はそのままの状態を保っているのではないかと思います。写真はアナログ写真をスキャナで取り込んだものなので、退色や色変わりがあります。

 
 
 タロコ渓谷は、台北の南約100kmほど、台湾の東部中央よりやや北の花蓮が観光の基地になります。花蓮までは、台北の松山空港から国内線が、台北駅からは特急の自強号が足になりますが、筆者は往路は飛行機で復路が列車でした。当時は国内線の搭乗にもパスポートの提示が必要でしたが、乗ってしまえばほとんど水平飛行は無くて30分くらい、あっという間に到着します、東京から静岡よりも近いんですから。一方の列車の方は、それなりの時間がかかります・台湾の西海岸沿いは、高速鉄道も引かれて新幹線並みの速度で移動でき、在来線もほどほど早いのですが、日が視界が沿いは非電化でディーゼル列車です。当時は3時間ほどかかったのではないかと思います。最近は太魯閣号という優等列車も登場してもう少し速くなったようです。タロコ渓谷は花蓮の北10kmほどで海にそそぐ立霧渓に沿って西に延びる谷が中心ですが、国立公園の総面積は約10万ヘクタールもあって、東京23区の面積の1.5倍ほどになります。


 
 河口から約30kmほど遡上した標高480mほどの天祥と呼ばれる場所まで往復するのが一般的のようです。天祥という地名は、12世紀に中国にあった南宋の忠臣の文天祥にちなんで名づけられたそうで、その銅像がて建てられています。ここまでの道路は、よくもこんな場所に道を作ったと思われる断崖の難所が続きます。景色の良いところは難所が多いという定式通りで、断崖の上からは滝も流れています。規模は違うのでしょうが、わが国大分県の耶馬渓の青の洞門と似たような景色もあります。ただ、こちらは両方が断崖で、狭くて高くて耶馬渓の比ではなく、道路から落っこちると耶馬渓ならぬヤバイケーでは済まなさそうです。ただ、下を流れる水はとても透明できれいなのは、上流にはほとんど家屋が無いからではないでしょうか。また、耶馬英は凝灰岩など火成岩ですが、タロコ渓谷は水成岩の大理石を立霞渓が侵食したもので、岩肌の質感も全く違います。

 台湾は、一つのxx国と声高に叫ぶ国によって、国際舞台から締め出され、コロナ禍の時にもWHOに入れない台湾は、苦労も多かったように思います。世界遺産会議からも締め出されているわけで、登録数世界一、二位を争う声高な国と違って自然遺産間違いなしと思われるタロコ渓谷も、当然ながら無登録です。台湾は、世界のIT工場と呼ばれ、コンピュータなどの先進的な電子部品の大部分は台湾で生産されています。軽くて容積が小さく付加価値の高い電子部品は、空路での運搬にも向いているので、島である九州がそうであったと同じ理由でIT産業に向いているのかもしれません。声高に言っている国は、これらの大きな財産が欲しいからで、侵略行為で手に入れようとしているように思います。。

新潟の市街地にこんなに風情のある和建築や庭園が残されているのは驚きです

2021-10-10 08:00:00 | 日本の町並み
 諸外国からの開国圧力に屈して幕末に幕府が開港した港が5つあります。これまでこの中から長崎、横浜、神戸そして函館の4つを紹介しましたが今回は5つ目、日本海側の新潟を取り上げたいと思います。と言っても、港までは行かず、新潟駅の北西にある信濃川の作った三角州の中、観光循環バスの走っている町並みを中心に2回にわたって紹介します。

 
 
 今回は「予約のいらないまち歩き」というガイドツアーが土日限定で催行されていますが、そのコースを参考にした散歩コースで、観光循環バスの西大畑坂上から古町花街入口あたりにかけての町並みです。スタートは西大畑坂上バス停そばの砂丘館と呼ばれている旧日本銀行新潟支店長役宅です。昭和初期の邸宅で30代にわたり支店長が居住したそうです。おそらく居宅としてだけでなく迎賓館的な性格を持っていたと思われる贅沢なつくりです。砂丘館のある場所は、砂丘の続きで小高くなっており、ここから南東に広がる街中へは坂や階段を下っていきます。

 
 
 その坂の一つに「どっぺり坂」と呼ばれるものがあり、坂の上にあった旧制高校の寮から階段を下って街中に遊びに行くと落第(ドッペリ=二重)すると言われたための命名だそうです。ちなみに階段の数は落第点の上限の59段という落ちもついてます。坂を下って少し行くと右手に旧新潟県副知事公舎があり、現在はレストランとして使われています。左手に入ると、新潟カトリック教会があります。ロマネスクとルネサンスの折衷様式の木造で、2つの塔のあるかわいい教会です。

 
 
 ごちゃごちゃした道路をあちこち曲がって北東方向に行くと、豪農の別邸が2つ並んで建っています。北西側にあるのが旧斎藤家別邸で大正時代に建てられ、回遊式の庭園と開放的な和風建築が見事です。

 
 
 南東側には北方文化博物館新潟分館と名付けられた旧伊藤家別邸です。別館と言われるゆえんは、新潟市の南端の新津市に近いところに本宅がありますが、足の便が悪いのが難点です。この邸宅には会津八一が晩年を過ごしたところで、八一の書や資料などが展示されています。

 
 
 
 旧伊藤家別邸の西の小道を北に行くと地獄極楽故小路の入り口でそこを右折して東に進みホテルイタリア軒のところで大きな通りを渡ってしばらく進むと、花街の鍋茶屋通です。狭い通りに料亭や飲み屋さんが軒を連ねていますが、古風な料亭の建物には趣を感じます。南に通り抜けると観光循環バスの古町花街入口で散歩のゴールになります。

 今回紹介した地域は信濃川が作った砂丘の上に作られた町並みです。1964年に発生した新潟地震では、この地盤が液状化し、多くの県営アパートが傾いたり横倒しになったことで、液状化の言葉が有名になりました。液状化は砂の覆い土地で地下水位の高い場所で起こりやすく、地震によって土地の組成が個体から液体のように変化することです。砂丘上の土地のほかに、埋め立てなど人工的に作られた土地は液状化の危険が高いのだそうです。埋め立てられた土地に、新しい市街地が形成され、無機質な町並みが広がっているようですが、無機質なビル群に大型コンピュータを設置しているケースも多いようにも思います、大丈夫でしょうかね。

スランベリスのスレート関連施設では日本人をほとんど見かけませんが、世界遺産登録をきっかけにカナーヴォン城と共に訪問者が増えるかもしれません(イギリス)

2021-10-03 08:00:00 | 世界遺産
 2021年の世界遺産会議で新たに登録された世界遺産を日本の2件に続いてドイツのバーデンバーデンを紹介しましたが、今回はもう1件の新規登録の「ウェールズ西北部のスレート関連景観遺産」を紹介します。日本人にはあまりなじみのない場所のようで、情報もあまり多くは無いのですが20年以上も前に訪問した時の記憶を頼りに紹介します。

 世界遺産になった場所は、UKを構成する4つの王国のうちのウェールズの北西部で、スランベリスと呼ばれる地域です。このスランベリスはウェールズ語ではLlanberisとつづり、頭の部分はとてもスとは読めません。ウェールズにある世界一長い駅目のLlanfairpwllgwyngyllgogerychwyrndrobwllllantysiliogogogochもLが重なる部分がいくつもあって、この部分はシュやスと発音するようです。登録されている旧鉱山施設などは、世界一の駅名の駅を通り過ぎ、世界遺産で知られるカナーヴォン城から内陸に10kmほど入った所にあります。

 
 
 カナーヴォンからのバスを降りると、ウェールズで最も高い山のスノードン山への登山鉄道の麓駅があり、スノードン山については後述します。そしてその先に国立スレート博物館、その後ろにはスレートを掘った跡らしき岩肌の山が見えています。さらに、博物館の横からは、もう一つの鉄道のスノードン湖岸鉄道が出ています。博物館には、スレートとはどんな岩なのかの解説やスレートの発掘や加工に使った機械などが展示されています。地学に興味のある方には、面白い博物館ですが、一般的にはちょっと地味で、日本人の観光客はまったく見かけません。スランベリス湖岸鉄道は、1842年にスレートを運ぶために開通した鉄道で、1961年に廃止されましたが、後に保存鉄道として観光用に復活したものです。軌間が597mmで遊園地のおとぎ列車のようなかわいらしいもので、湖岸の線路を片道4kmほど1時間ほどかけて往復します。

 
 
                           (wikipediaより)
 スレート博物館の近くからスノードン山頂に上る鉄道が軌間800mmのスンードン登山鉄道で、イギリスで一般観光客が乗車できる唯一のラックレールを持つものです。蒸気機関車とディーゼル機関車があって、標高差940mほどを1両の客車を約45分かけて押し上げています。この列車は客車が1両しかないこともあって、なかなか乗ることが難しいようですが、カナーヴォンに止まって朝早くにスランベリスに向かったので乗車できました。ただ、機関車はSLではなくDLでしたし、頂上は霧が立ち込めて景色はほとんど楽しめませんでした。そのような天気だったので、混まなくて乗車できたのかもしれません。SLの列車や周りの景色が撮れなかったので、wikipediaからの写真をお借りして載せておきます。スノードン山はウェールズ一高いと言っても、標高1085mですから、神戸の六甲山よりちょっと高いくらいです。付近は、スノードニア国立公園に指定され、年間降水量も多く気象条件の厳しい山の一つだそうです。このような条件下でも、イギリスで最も人気のある山の一つで、観光客が集まる場所で登山鉄道も中々乗れないということです。

 
 
 スレートは粘板岩の一種で、薄く剥がせることから、西欧では屋根瓦の材料として盛んに使われた建築材料です。防水性、耐火性、対候性そして耐久性を備えた素材として欠かせないものでしたが、天然スレートの産出が少なくなり、手軽な素材から高級素材となり、現在は人口のスレートが用いられるようになっています。わが国の屋根素材というと瓦が一般的でスレート葺きは明治期以降にイギリスからやってきたジョサイヤ・コンドルなどが持ち込んだようです。コンドル建築で現存する建物を調べてみましたが、屋根の材料まではなかなか情報が見当たらず、分かったとろでは旧岩崎邸、旧古河邸などです。コンドルは東大の前身で工部大学校の建築の教鞭を取っていますが、その第一期の卒業生に辰野金吾や片山東熊などが居ますが、金吾の代表作の東京駅や東熊の作品の一つの京都博物館の旧本館は共にスレートで葺かれています。

 ジョサイヤ・コンドルは明治期のお雇い外人の一人で、鹿鳴館の設計で知られますが東京国立博物館の旧本館もコンドルの設計でした。しかし、関東大震災で大破して現在の本館は昭和期に再建のものです。自身の少ないイギリス出身では、耐震設計は念頭になかったのかもしれません。コンドルの弟子の金吾設計の東京駅も東熊設計の博物館の表敬館も関東大震災でビクともしなかったのは対照的です。ところが、日本で最初に地震計を作ったのはイギリスからやってきたお雇い外人だったというのも皮肉です。この地震計はごくごく短時間の記録しかできないので、常時は停止していて、起震計からの信号で動き出す仕組みでした。現在の地震計は、3方向の加速度センサーの出力をコンピュータ処理する装置で、20~30cm程度の小型になりし、回線を通じて気象庁に送られるシステムができ、地震があると震度や震源地がすぐさまわかるようになりました。かたうての震度は、気象庁の人が各地に居て人感で判断していたのですが。