前回はイギリスのウェールズ地方のスレート関連の産業遺産を紹介しましたが、今回はスレートの真っ黒に対して真っ白の大理石でできたタージマハルを取り上げます。現在みられるタージマハルは真っ白の大理石のものですが、実はタージマハルに並んで真っ黒のモスクも建てられる予定でした。
タージマハルは、インド中央のやや西寄りのアーグラの郊外にあります。アーグラは、風の宮殿で有名なジャイプールの東にあって、ニューデリー、とジャイプールとアーグラを結ぶとアーグラは正三角形の右下の頂点に位置します。市街地の北部を流れるヤムナー川を背にして建てられ、タージマハルの西2kmほどには、やはりヤムナー川の畔にもう一つの世界遺産のアーグラ城が建っています。タージマハルは、ムガール帝国の第5代皇帝であったシャー・ジャハーンが無きお后のムムターズ・マハルのために17世紀に建てた霊廟とその付属施設です。
敷地は南北560m、東西300mほどあり、敷地の南側1/4程度は門と回廊に囲まれた前庭があって、その北端には大楼門があります。大楼門は、赤砂岩で作られ、高さが30mあり、入口のアーチの先に見える白の霊堂と好対照です。大楼門をくぐると回廊に囲まれたほぼ正方形の庭園が現れます。庭園の中央の池からは四方に水路が伸びていて、この水路に映る廟堂の姿も絵になる姿です。庭園の先の基壇の上には、真っ白に輝く廟堂、廟堂を取り巻く4つの尖塔、そして廟堂の西にモスク、東に迎賓施設が現れます。
廟堂は57m四方の正方形ですが四隅が切り取られた八角形になっています。高さは58mで正面から見るとほぼ正方形の中に納まる感じです。真っ白に輝くタージマハルは、遠くから見ても美しいのですが、近くで見る壁一面に施されたアラビア文字や模様も中なk見事で奇麗です。廟堂の中央には夫婦の墓石が置かれていますが、これは象徴的なもので本来の墓石は地下にある玄室に収められています。このタージマハルは、満月の日の前後2日間は夜間に鑑賞できるそうです。200人ほどの狭き門のようですが、青白い月光に浮かび上がる、真っ白の廟堂を見てみたい気がします。
廟堂を囲むように立つ4本の尖塔は皇妃に従える4人の待女と喩えられますが、モスクのミナレットのように見えます。ただ、この尖塔にはその機能は無く、灯台と小さなバルコニーだけで、最も醜悪な建造物の一つと酷評されることもあるようですが、横への広がりを感じない廟堂の外観を良くしていると思うのですが。基壇の東西の端に建つモスクと迎賓施設は大楼門と同様に赤砂岩で作られ、外観はおなじで、左右のシンメトリーを重んじた設計のためでしょうか。この赤色の建物は、同じインドの世界遺産野一つでデリーにあり、タージマハルのデザインにも影響を与えたというフマユーン廟を思わせます。
さて、タージマハルの黒バージョンですが、タージマハルを建てたシャー・ジャハーンは現在はタージマハルに葬られていますが、ヤムナード川の北岸に黒大理石の廟を建てて葬られる予定でした。ところが、彼の息子の反乱に遭い、シャー・ジャハーンはアーグラ城に幽閉され、そのまま無くなってしまい、黒い霊廟の計画は頓挫してしまったそうです。アーグラ城とタージマハルとの間は2kmほどで、幽閉された窓からはタージマハルが見えたのではないかとも言われています。現在も、ヤムナード川の北岸には、低い塀に囲まれたほぼ正方形の庭園は黒い霊廟の名残だそうです。
イギリスがインドを植民地にした19世紀には、タージマハルのドームの上の緊迫がはがされるなどの略奪行為が紳士の国と言われるイギリス人により行われ、タージマハルを解体して売ってしまう計画まであったそうです。フランスの文化相は、アンコール遺跡の東洋のモナリザ盗難や、日本では奈良や京都を戦災から救った恩人と言われるアメリカ人のウォーナも敦煌遺跡の壁をはぎ取って持ち去っています。彼らにとって、東洋の美術品は、属国にある金儲けの金づるで、現代まで続いている人種差別の一つに他ならなかったのかもしれません。もし遺跡の美術品にICタグが付けられたならば、イギリスやフランスの博物館や美術館では、タグの数が多すぎてセンサーが反応しきれないほどの状況になりそうです。
タージマハルは、インド中央のやや西寄りのアーグラの郊外にあります。アーグラは、風の宮殿で有名なジャイプールの東にあって、ニューデリー、とジャイプールとアーグラを結ぶとアーグラは正三角形の右下の頂点に位置します。市街地の北部を流れるヤムナー川を背にして建てられ、タージマハルの西2kmほどには、やはりヤムナー川の畔にもう一つの世界遺産のアーグラ城が建っています。タージマハルは、ムガール帝国の第5代皇帝であったシャー・ジャハーンが無きお后のムムターズ・マハルのために17世紀に建てた霊廟とその付属施設です。
敷地は南北560m、東西300mほどあり、敷地の南側1/4程度は門と回廊に囲まれた前庭があって、その北端には大楼門があります。大楼門は、赤砂岩で作られ、高さが30mあり、入口のアーチの先に見える白の霊堂と好対照です。大楼門をくぐると回廊に囲まれたほぼ正方形の庭園が現れます。庭園の中央の池からは四方に水路が伸びていて、この水路に映る廟堂の姿も絵になる姿です。庭園の先の基壇の上には、真っ白に輝く廟堂、廟堂を取り巻く4つの尖塔、そして廟堂の西にモスク、東に迎賓施設が現れます。
廟堂は57m四方の正方形ですが四隅が切り取られた八角形になっています。高さは58mで正面から見るとほぼ正方形の中に納まる感じです。真っ白に輝くタージマハルは、遠くから見ても美しいのですが、近くで見る壁一面に施されたアラビア文字や模様も中なk見事で奇麗です。廟堂の中央には夫婦の墓石が置かれていますが、これは象徴的なもので本来の墓石は地下にある玄室に収められています。このタージマハルは、満月の日の前後2日間は夜間に鑑賞できるそうです。200人ほどの狭き門のようですが、青白い月光に浮かび上がる、真っ白の廟堂を見てみたい気がします。
廟堂を囲むように立つ4本の尖塔は皇妃に従える4人の待女と喩えられますが、モスクのミナレットのように見えます。ただ、この尖塔にはその機能は無く、灯台と小さなバルコニーだけで、最も醜悪な建造物の一つと酷評されることもあるようですが、横への広がりを感じない廟堂の外観を良くしていると思うのですが。基壇の東西の端に建つモスクと迎賓施設は大楼門と同様に赤砂岩で作られ、外観はおなじで、左右のシンメトリーを重んじた設計のためでしょうか。この赤色の建物は、同じインドの世界遺産野一つでデリーにあり、タージマハルのデザインにも影響を与えたというフマユーン廟を思わせます。
さて、タージマハルの黒バージョンですが、タージマハルを建てたシャー・ジャハーンは現在はタージマハルに葬られていますが、ヤムナード川の北岸に黒大理石の廟を建てて葬られる予定でした。ところが、彼の息子の反乱に遭い、シャー・ジャハーンはアーグラ城に幽閉され、そのまま無くなってしまい、黒い霊廟の計画は頓挫してしまったそうです。アーグラ城とタージマハルとの間は2kmほどで、幽閉された窓からはタージマハルが見えたのではないかとも言われています。現在も、ヤムナード川の北岸には、低い塀に囲まれたほぼ正方形の庭園は黒い霊廟の名残だそうです。
イギリスがインドを植民地にした19世紀には、タージマハルのドームの上の緊迫がはがされるなどの略奪行為が紳士の国と言われるイギリス人により行われ、タージマハルを解体して売ってしまう計画まであったそうです。フランスの文化相は、アンコール遺跡の東洋のモナリザ盗難や、日本では奈良や京都を戦災から救った恩人と言われるアメリカ人のウォーナも敦煌遺跡の壁をはぎ取って持ち去っています。彼らにとって、東洋の美術品は、属国にある金儲けの金づるで、現代まで続いている人種差別の一つに他ならなかったのかもしれません。もし遺跡の美術品にICタグが付けられたならば、イギリスやフランスの博物館や美術館では、タグの数が多すぎてセンサーが反応しきれないほどの状況になりそうです。