世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

町の真ん中に数多くの古墳が集中した公園のある慶州歴史地域(韓国)

2008-05-25 22:00:41 | 世界遺産
 デンマークのロスキレ大聖堂にはデンマーク王室の代々の棺が収容されていましたが、韓国の慶州には、旧市街のほぼ中心に王族のものをも含む大小の古墳が集中した場所があります。古墳の中で最も有名な天馬塚からは韓国の国宝になっている冠が出土しています。今回は韓国の京都というよりは奈良とも位置づけられる古都の慶州歴史地域を紹介します。

 慶州は韓国の東南部、釜山の国際空港から直行バスで70分ほどの距離にあります。慶州は10世紀まで新羅王朝の都が置かれた場所で、わが国への中国文化の通り道として、これをお手本とした飛鳥や奈良朝の文化に強い影響を与えた地域の一つといわれています。市の中心部にも高い建物が少なく、バスにちょっと乗ると田園風景が広がるのんびりとした雰囲気の町並みは飛鳥の風景にも似ているように思います。訪れたときには、郊外の仏国寺(これも別に登録された世界遺産)への道路わきには一面の菜の花畑が広がっていました。

 市街地のほぼ中央部にあり、古墳が集中する場所は大陵苑と呼ばれ、塀に囲まれた40万平米の地域に23基の古墳があります。

もっとも接近している古墳同士では、古墳の裾が接しているようなものもあります。公園内に付けられた道は、古墳の小山を縫うように右に左にうねうねと続いていて、この先どこまで続いているのだろうという気持ちにさせます。天馬塚から出土した宝物の本物は、市街地の南部にある博物館に収められ、古墳の中にはレプリカが飾られていますが、レプリカといえども豪華な冠はなかなか見事です。

 世界遺産に登録されている慶州歴史地域は大陵苑以外に五箇所ほどに分散していて、市街地から一番遠いのはバスで田舎道を南に4kmほど行った南山地区で、山全体に寺院の跡、山城の跡、石塔、王陵それに石仏が散らばっています。南山が一つの博物館のようで、ハイキングコースにもなっていて、多くの現地の人たちがやってきていました。韓国の人は山登りが好きなようで、急な斜面も苦も無く追い越して上っていきます。こちらは、頂上までは極めることはできず、途中で引き返しましたが、それでもかなりの数の石仏を見ることができました。

 南山に登る前に途中下車をして鮑石亭と呼ばれる離宮跡を訪れましたが、鮑(あわび)の形をした石造りの遺物に興味が惹かれました。鮑の外形をかたどって水路が彫ってあり、そこに水を流すのだそうです。その水に杯を浮かべて、詩を歌い踊を舞ったようですが、京都の上賀茂神社に曲水宴という王朝時代からの遊びが残されていて、どちらも中国を起源とする同じ遊びのようです。

 離宮ではなく新羅の宮廷は現在の市街地の南に接する半月城跡にあったようで、河岸段丘のような場所の半月状の草原を松林が取り囲んでいます。この半月城址エリアには7世紀に作られ東洋に現存する最古の天文台といわれる瞻星台があります。

外見は小さめのサイロのように見える地味な石造りの塔ですが、東西南北に正対しており、塔を形作る石の数も陰暦の一年の日数に合わせてある、なかなか科学的な根拠のある建物です。

 曲水宴というのは、小川に杯を浮かべて、この杯が通り過ぎる前に詩を読まなければならないという遊びです。宴そのものは見たことは無いのですが、上賀茂神社の近くの宴が行われる小川のそばは通ったことがありますが、ほどほど流れは速かったように思います。昔の人はのんびりしていたと思いがちですが、けっこうさっさと詩を書いたり、機敏な動作をしていたのかもしれません。時間に追いかけられている現代人は、機械の力を借りて効率化、スピード化を果たしています。移動における乗り物や、仕事をこなす上でのIT機器類などといったところです。パソコンや携帯電話の助けが無いと仕事にならん!とおっしゃる方も多いかもしれません。機械の助けに頼る現代人は、これらの助けが無ければ非効率で、のろまな動物になりつつあるのかもしれません。

東京駅の東側にはいろいろな記念碑があります、まずは日本橋界隈

2008-05-18 22:02:45 | 日本の町並み
 鎖国の間に外国との唯一の窓口となったのは長崎でしたが、江戸初期にヨーロッパから日本に漂着してヨーロッパ文明を紹介したのがオランダ船のリーフで号でした。その乗り組み員のうちのウイリアム・アダムスとヤン・ヨーステンは、徳川家康に信頼され、やがて帰化して三浦按針と耶楊子と名乗りました。東京駅の八重洲側には、この二人にちなむ記念碑があります。日本橋から京橋にかけては、この二人の記念碑だけでなく、いろいろな種類の記念碑があって、いろいろな記念碑を発見する散歩も面白いかもしれません。今回は日本橋の近く、次回は京橋の近くを紹介します。

 東京駅の東側は八重洲口ですが、この八重洲という地名は、ヤン・ヨーステンがなまったもので、彼の屋敷が丸の内界隈にあったことにちなんで付けられた地名です。ヤン・ヨーステンとリーフデ号の記念碑は東京駅の八重洲口を望む八重洲通りの中央分離帯にあります。

都心部の記念碑はビルの谷間にうずもれて目立たないことが多いのですが、この記念碑だけは意外な場所にあって、かえって見落としがちです。一方のウイリアム・アダムスの旧宅跡に建てられた記念碑は、三越本店の東側の日本橋室町にあるはずなのですが、まだ発見できていません。次回の散歩の楽しみ、といったところでしょうか。

 日本橋といえば、東海道53次の起点で、明治以降の日本国内の道路の基点にもなっています。かつては、橋の中央に東京市道路元標の柱が建っていましたが、現在では橋の袂に移され、橋の中央には日本国道路元標のプレートが埋め込まれています。東京市道路元標の移設先には日本国道路元標のレプリカも置かれていますが、本物をご覧になりたい方は、橋の両端の信号が赤になったときを見計らって車道の中央まで行ってみることもできますが左折車あってかなり危険です。

 この日本橋のそばにはもう一つ、日本橋魚市場発祥の地の記念碑もあります。現在は魚市場というと築地ですが、関東大震災までは日本橋に魚市場があり、被災後に築地に移されたようです。魚市場としての歴史は古く江戸時代から300年も続いていたとのことです。

標柱の後方には女性の像がありますが、これって乙姫様なのだそうです。竜宮城のの住人の魚がことごとく日本橋に集まったということで乙姫様の形にしたとか。

 その魚を取引する時には秤が必需品ではないかと思います。江戸時代に重さを統一するため秤の製造販売を行った事業所の跡を示す記念碑も日本橋にあります。度量衡の統一は施政の重要な一つとされていますが、甲斐の国の秤師であった守随家が家康の江戸開府と共に江戸に出て、関八州を始めとして全国の秤の製造・販売を独占し、量目の統一が図られたとのことです。明治時代になって政府の度量衡取り締まり条例により、秤座は廃止され、記念の銘板がぽつんと建つのみになっています。

 江戸時代の日本橋は東海道の起点であったことから、付近は商店でにぎわったようで、三越本店もその名残です。三越は越後屋呉服店が前身ですが、その越後屋と肩を並べる呉服屋が白木屋で、その名もズバリの白木屋デパートが日本橋の交差点にありました。1967年に東急百貨店に改称され、現在はコレド日本橋のとなりましたが、百貨店として日本初のエレベータの導入など先進的なデパートでした。白木屋呉服店の2代目は江戸中期に掘った井戸が名水の誉れ高く、付近の住民だけでなく江戸じゅうの評判となったそうです。白木名水は失われましたが、コレド日本橋の裏側に井戸の跡を示す記念碑がひっそりと建っています。

 ビルの谷間にある記念碑などを探し当てるのに、地図やGPSは有力な武器になることが多いものです。GPSを装備した携帯電話も当たり前になってきたようです。GPSによる位置検出は、人工衛星からの電波を受信して、電波を発している衛星との距離を割り出し、2個以上の衛星からの距離が解れば、地上での位置が特定できるというものです。ただ、GPSに内蔵する時計の精度はさほど高くないので、時間は相対的なものになり、3個以上の衛星からの電波を受信して位置決めを行います。4個以上の衛星の電波が受かれば、標高も計算できる事になります。ただ、都会のビルの谷間では、見える空の広さが狭く、3個以上の衛星の電波が受からなかったり、ビルで電波が反射して誤動作するなど、都心の散歩には不向きなのかもしれません。

江戸時代の外国への窓口の長崎は海と山と西洋館の町です

2008-05-04 22:07:44 | 日本の町並み
 佐久間象山が電信の実験を行ったのは松代でしたが、鎖国の江戸時代に唯一の外国の窓口を果たし、西欧文明が入ってきた町が長崎です。山が海に迫って坂の多い街ですが、その坂の途中に数多くの西洋館が残され、現在でもハイカラな町の一つとして人気の高い場所ではないでしょうか。今回は、長崎の出島跡から山手あたりを紹介します。

 出島や山手の旧居留地の西洋館の遺構が残るのは、長崎駅から南方向に1km程度のところで、西洋館のある東山手あたりは山が海に迫って平地が回廊状になっているあたりにあります。山手という地名は、横浜、神戸にもあって、港町には地形的にも類似性があるということでしょうか。中華街があるのもこの3箇所という共通性も面白いと思います。ところが、西洋館の呼び名では、神戸だけが異人館と呼ぶようで、他とは異なるようです。ただ、個人的には「異人館」という呼び方はあまり好きではありません。鎖国からの意識を引きずっていて、無意識に自分たちとは異なる人間という感覚に根ざした呼び方で、現在にはそぐわない感じがします。

江戸時代の外国の窓口となった出島の遺構は、周りが埋め立てられて島ではなくなっています。周りのビル群を見ていると、出島跡の先が海であったとは信じがたい風景です。

出島は50m×100mくらいの扇形の人工島で、現在は西洋館などが復元されています。面白いのは、出島のジオラマで、東武ワールドスクエアの歴史版といったところでしょうか。

 出島から東山手までは歩いても500m足らず、路面電車に乗っても100円です。日本の大都市で路面電車が、車の邪魔者扱いをされて廃止される中で、車の軌道内通行禁止を維持して定時運行を確保して生き残った長崎の例は、他の都市でも学ぶべきではなかったかと思います。長崎市内で、安くって早く、当然エコロジーでもある乗り物は路面電車なのです。最近は超低床電車も導入され、ますます元気に活躍しているようです。さて、東山手付近の西洋館ですが、3大ガッカリの一つとも言われるオランダ坂を上った、

港を見晴らせる斜面に建てられています。

 神戸の異人館、横浜の西洋館も山の斜面に建っていますが、当時の外国人は足が丈夫だったのでしょうか。あるいは、移動は人力車か車で歩いてはいなかったのでしょうか。不便さのマイナスより、眺めの良さのプラスを買ったのかもしれません。

東山手の西洋館は、無料で公開されており、付近の土産物屋も節度があるようで好ましい感じがします。

神戸の北野町は、少々商業化されすぎた感じで、かつての北野町を知るものにとっては不快感を覚えます。

 東山手から谷を一つ隔てた高台にあるのがグラバー園です。路面電車の石橋駅からの道の先には、グラバースカイロードができて、息せき切って坂を上らなくても、グラバー園の頂上にある入り口から入れます。筆者が初めて訪れた頃はグラバー邸と呼ばれ、まさしくグラバー邸のみでしたが、現在では数多くの西洋館が移築されて、明治村の様相です。何度か訪れたグラバー邸ですが、日暮れた後にライトアップされた建物は一見の価値がありました。

 坂を下りて、大浦天主堂の前に出ると、こちらもライトアップされていました。派手さはありませんが、暗闇に浮かび上がる天主堂は幻想的でした。

 江戸時代の鎖国では、情報や文化が物理的に物や人の移動によって運ばれた時代ゆえ、不都合な情報などの流入の遮断が可能であったのでしょう。現在のように、電子的に情報が流通する時代では、鎖国といっても、遮断は難しいと思うのですが、その状況に近い国々も存在するようです。電子的な情報といえども、操作することが可能ということでしょう。自由と思われているわが国でも、意識されない情報操作が行われないか、注意する必要がありそうです。