世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

九州の玄関口に大正時代の駅舎も残っている門司

2007-01-28 17:48:20 | 日本の町並み
 室積にも寄港する北前船は北海道から日本海を下り関門海峡を通り大阪まで荷物を運んでいました。関門海峡では下関が寄港地となりましたが対岸の門司は取り残されてしまいました。今回は、その取り残された門司のほうを紹介します。

 門司は福岡県の北東端に位置し、かつては門司市と独立の行政都市でしたが1963年に小倉、八幡、若松、戸畑とともに合併して北九州市となり政令指定都市となりました。本州とは1kmほどの海峡を隔て、鉄道で九州入りする場合の玄関口です。

 関門鉄道トンネルができる前は、下関との間で鉄道連絡船によって結ばれていて、その接続駅が当時の門司駅です。現在も下関の唐戸と門司港との間をフェリーが結んでいて、関門橋をはじめ海峡の風景を楽しみながら対岸に渡れます。1942年に関門トンネルができて本州との接続駅の大里が新たに門司となり、それまでの門司駅は門司港駅に改称されましたが、現在でも鹿児島本線の基点は門司ではなく門司港です。

 門司と下関を結ぶ道路や鉄道は現在4種類あり、古いものから順に在来線の鉄道トンネル、国道トンネル、関門橋それに新幹線の新関門トンネルで、九州との交通量需要のの多さをあらわしているようです。この中で、国道トンネルは人道が併設されていて、エレベータで降りて海底部分を徒歩で渡ることができます。もちろん、魚が泳いでいるのを見ることはできませんが、海の底を歩いて渡れるのは大阪の安治川にあるトンネルとこのトンネルくらいではないでしょうか。

 門司港駅の周辺には、重要文化財の門司港駅の駅舎をはじめ、旧大阪商船、旧門司三井クラブなど大正期の建物が残り、門司港レトロ倶楽部として観光客を集めています。

 港の近くの門司港レトロ展望室に上ると、前述の建物群や日本では珍しい現役の跳ね橋が眼下に、

遠くには関門橋も眺められ海と陸とがからみあった地形の様子がうかがえます。

 建物や町並み、それに蒸気機関車などレトロなものにノスタルジーを感じて人気が出ることが多いものです。ITや通信の世界では、効率性が前面に出るのかレトロなものは人気がないようです。ただ、どこの世界にも例外はあるようで、電話機に関しては、レトロなデザインのものがけっこう出回っているようです。箱に固定されたラッパ状の送話器と円筒状の受話器を持つ磁石式の電話機を模した公衆電話を見かけることも多いようです。また、一時期のラジオドラマでは、電話を終わって受話器を置く時の音は当時一般的であった600型ではなく4号電話機の重々しい音が好んで使われたとか。

現在もタケノコの名産地となっている安芸の小京都、竹原

2007-01-21 17:49:42 | 日本の町並み
 松竹梅の二番手は竹です。竹林の名所は嵯峨野をはじめ数多くありますが、今回はあえて地名に竹の付く竹原を紹介します。

(ちなみに、写真の竹は都内の六義園のライトアップされたものです)

 竹は、アジアが原産で日本では帰化植物とされています。木と草との両学説があるようですが、どちらとも違うような気がします。成長が早くって一日に1mも伸びたという記録もあるようです。ただ、この成長の早さと、地下茎で増えてゆくため、野放しにすると厄介な植物のようです。最近では、建材などとしての竹の需要が減って伐採される量が減り、竹林が荒廃し増殖して周辺に被害を及ぼしているといわれています。大きくなった竹は、極めて硬く、通常の鋸では歯がたたなく、伐採するのも並大抵ではないそうです。

 ところで、竹原市の名前の由来は、この一帯に竹の原っぱがあったという説と、竹原氏が治めていた土地との二つの説があります。広島県の中央部で瀬戸内海に面しており、JRの最寄り駅は呉線の竹原になります。山陽線から外れたために、昔ながらの街並みが残され、安芸の小京都と呼ばれる落ち着きをもっているのでしょう。現在の呉線はローカル線で列車の本数も少ないのですが、戦前は呉市に軍港があったために、山陽本線と同格程度の重要さだったようです。このため、レールなどの規格が本線並で、本線しか走れないC62などの重量のあるの蒸気機関車が走ることができました。昭和40年代に電化の波に押されて姿を消していった蒸気機関車が最後まで見られる線として鉄道お宅にとって有名な線でした。

 竹原は、製塩や酒造で栄えた町で、現在でも街中に造り酒屋の杉玉を見かけます。竹の地名からタケノコも名産品の一つとなっているようです。JRの駅から北東方向に600mほど、本川を渡ったあたりから川に平行に北宝庫に伸びる通りには、白壁に虫篭窓のある家並みが続いています。

この通りがまっすぐではなく、微妙に曲がっており、歩いてゆくと次にどんな町並みが続いているんだろうと期待を持たせます。

 通りの北端近くには頼山陽の父である春水の生家が残されています。陽明学者頼山陽は、春水が大阪に居住していた時に生まれたのですが、郷土の生んだ偉人として通りの入り口近くに銅像が建っています。

 竹の持つ軽くて強靭な性質は、金属や石油製品などの工業製品に負けないところがあるように思います。天然素材は、品質が均一ではないという欠点がありますが、電化製品などの筐体に利用できないものでしょうか。プラスチックと違って、廃棄しても自然に戻るとエコロジカルな点もいいですよね。製品寿命が短く大量に廃棄される、携帯電話やノートパソコンの筐体に使えないでしょうか。

北前船でにぎわった繁栄の残り香のなかに静かにたたずむ室積

2007-01-14 17:51:24 | 日本の町並み
 生麦事件の行列は陸路での移動中でしたが、現代のように動力による移動手段のなかった頃の旅は大変だったと思います。一方海路による移動は、風という動力を利用できたため比較的楽だったのではないでしょうか。ただ、風も思うように吹いてくれるとは限りません、風が吹いてくれるまで待ち合わせをしたのが風待ち港ですが、これらの港の中から今回は室積を紹介します。

 室積は山口県の中央やや東の光市に属した瀬戸内海に面する港町です。光駅は、徳山と岩国をショートパスする岩徳線を分岐した山陽本線が海沿いに南に弧を描いた部分の徳山寄りにあり、光駅といっても「ひかり号」は停車どころか新幹線の駅すらありません。室積はこの光駅からバスで20分くらい乗車したところから、弓なりに突き出した岬にそって町並みが伸びています。

 室積の歴史は遠く神功皇后の三韓征伐の時に立ち寄った港とされています。岬が天然の防波堤の役割をした良港だったからでしょうか。江戸時代から明治にかけては北前船の寄航地として栄えましたが、交通の手段が鉄道に移り、山陽本線が離れたところに建設されたため、岡山県の矢掛のように時代から取り残されたような町になったようです。

 岬の突端に向かって何本かの道が伸びていて、その中の海よりの道を海商通りと呼び、白壁に格子のある古い家並が続いています。この道から海に向けて細い路地が延びていますが、家並の隙間からのぞいた海は切り取り効果もあってスケッチをしたくなる風景でした。お土産屋やかつての醤油屋の建物を利用したという郷土館を通り過ぎてしばらく行くと普賢寺でこのあたりまでがメインストリートなのでしょうか。

筆者が訪れたのは早春の土曜日だったかと思いますが、ほとんど人通りがありませんでした。漁港を見渡す海沿いの公園に江戸時代の和式灯台が復元されていますが、天気も良くなくって、灯台の向こうにはちょっぴり寒々しい海が広がっていました。

 江戸時代の帆前船は、比較的大きな搬送能力を持つわりに風の力を利用した地球にやさしい乗り物のひとつだったように思います。風が吹かないと動けないために風待ち港も必要になるという短所もありましたが、風待ち港の発展による地域振興に寄与したところは利点かもしれません。最近、風力発電の大きなプロペラをあちこちで見かけるようになりましたが、化石燃料に頼っているエネルギー消費量を多少なりとも減らしうるのではないでしょうか。燃料電池についても携帯電話やPCそれに自動車の分野で試作装置が実用化までもう一歩のところまでのように思います。風や太陽光発電で得られたクリーンなエネルギーで作られた水素によってこれらの電源がまかなわれる日も遠くなさそうです。

高砂神社の松の他に巨石をご神体とする神社もある高砂

2007-01-07 17:52:52 | 日本の町並み
 最近はお正月の門松を見かけなくなりましたが、おめでたい植物としての松竹梅の筆頭はやはり松の木です。また、結婚式などに謡われるおめでたい謡として「高砂」がありますが、この中にも松が登場します。今回はこのおめでたい高砂神社のある高砂を紹介します。

 松をめでたいとする理由は、常緑で長寿な樹木であることによるものと思います。門松だけでなく、能舞台の背景に使われたり、城内にも好んで植えられたようです。城内に植えられたのは、実や樹皮が、いざ篭城となったときの非常食となったことも理由の一つとされています。高砂の松は、天然記念物に指定されていた松は、昭和12年に松食い虫の被害にあって枯れ、その幹のみが保存されています。

高砂神社の境内には、代わりの五代目の相生松が緑の葉をつけています。


 高砂市は、兵庫県の南部の神戸と姫路の間にあり、私鉄の山陽電鉄の高砂駅が中心となります。まるで、加古川市の南西角に飲み込まれてしまいそうなこじんまりとした市ですが、高砂神社にちなんだ市の名称を保持してがんばっているように思えます。かつては、JRの高砂線が山陽線の加古川駅から分岐していましたが、1984年に廃止されてしまいました。高砂神社は、高砂駅から加古川の河口方向に歩いても10分くらいで、途中には古い町並みや、並び蔵などがあります。

漁業や製塩業で栄えた町の名残でしょうか。

 高砂にはもう一つ変わった神社があります。生石(おうしこ)神社がそれで、通称は石の宝殿と呼ばれています。石の宝殿とは、神社の御神体の直方体の巨岩のことで、拝殿の後方に位置しています。巨岩の周りには小さな堀がめぐらされているため、まるで巨岩が水に浮いているようにも見えます。

天の逆矛、塩釜と並んで日本三奇の一つだそうです。周辺には石切り場もあって、このあたりは古くから良質の凝灰岩を産出したようです。JR山陽線に宝殿の駅がありますが、この名称はこの神社に由来するものです。

 かつて、結婚式で謡われたのは謡曲の高砂が定番だったようです。現在の定番は、「てんとうむしのサンバ」や「乾杯」ってところでしょうか。時代とともに歌われる歌も変化して、古いものは忘れ去られてゆく宿命かもしれません。歌を記録する技術は、口伝から楽譜、そして現在ではCDや映像を加えたDVDなど、より生に近い情報が伝えられるようになりました。ただ、歌が歌われた背景や気持ちなどを伝えてゆくのは技術では解決できないことのようですね。