世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

台風銀座の室戸で、いしぐろと呼ばれる石垣と水切り瓦が家を守っている吉良川の家並み

2009-02-22 09:51:22 | 日本の町並み
 穴太衆による野面積みの石垣の上に、明智光秀が改修した天守閣がそびえていたのが福知山城でしたが、丸い石や切石を使って積み上げた石垣が台風の風を防いでいるのが、吉良川地区のいしぐろと呼ばれる石垣です。さらに壁には水切り瓦または庇と呼ばれる庇で壁を伝う雨を防いで、台風銀座に備えた家並みが続いています。今回は、室戸岬の近くの吉良川の町並みを紹介します。

 吉良川町は、合併によって室戸市を構成する一地区で、市の中央やや南、西ノ川と東ノ川に挟まれたあたりにあります。いしぐろに囲まれた町並みの残る地区は、二つの川の河口近く、高知と室戸岬を結ぶ国道55号線から少し入ったところに、国道に沿って家並みが続いています。四国の南岸、特に室戸岬あたりは大型の台風の通り道で、過去に室戸の名称の付いた大型台風が2つもありました。台風は上陸すると、海からのエネルギーの補給が無くなり、山脈などにぶつかることもあって勢力が弱まります。ところが、室戸岬あたりでの台風は、最も勢力の強い状態で接近するので、風や雨は猛烈であることは想像にかたくありません。この台風などに備えて、家屋を守る知恵として生まれたのが、いしぐろと水切り瓦だったようです。

 石垣については、やはり台風の襲来の多い沖縄でも、家屋を守るために多くが築かれているようですが、水切り瓦は土佐独特のもののようです。壁の部分に二重、三重に奥行きの短い庇を出して、壁を伝う雨水をカットしてしまおうというものです。通常見られる庇の下には窓がありますが、水切り瓦では、庇の下には窓が無いのが普通で、白い漆喰壁に庇が幾重も重なっています。多くは妻側に付けられているようですが、出入り口や窓など開口部の少ない土蔵造りでは平側にも付けられているようです。

なまこ壁の上に水切り瓦のある土蔵は、上部が単調になる土蔵にアクセントを持たせ、なにか計算されたような美しさがあります。

 古い町並みには、なまこ壁や虫篭窓と並んで、格子のある家並みがつきもののようにも思えますが、この町で見かけた格子は、上下で同じ密度ではなう、上部の格子が間引かれているような構造になっていました。他の町にもあるのかもしれませんが、格子の作るリズムが単調にならずより美しさを感じさせました。

格子の上部は、多少間引いても防犯上は問題が少なく、採光や風通しには格子は少ないほうがいいでしょうから、そのあたりの兼ね合いから生まれた意匠ではないかと推定しました。

 これだけの家並みが残る吉良川は、土佐備長炭の生産/集散地として栄えた歴史があり、明治から昭和初期頃までに財を成した商人の土蔵などが町並みの核になっているようです。吉良川は、もともと火力の強い薪を産出し京阪神地方に供給していたようです。明治期に炭の生産を始め、大正期には後背地の馬目樫の原料と和歌山からの製造技術とを得て、良質の備長炭を生産するようになったとのことです。

 備長炭は白炭の一種で、長時間火力が衰えず煙が出ないことから炭火焼の料理屋では、使っていることを宣伝材料にされるほど有名ですが、産地もいろいろ、材料も樫以外を使ったものが備長炭の名称で出回っていることも多いそうです。良質の備長炭は、たたくと金属製の音がして、風鈴などに仕立てられ硬質な感じがします。炭素原子が、規則正しく配列して結晶化したものがダイヤモンドですから、多少は通ずるところがあるのかも知れません。ありふれた炭とダイヤモンドが同じ元素でできているわけですが、ITを支えているLSIの原料となるシリコン結晶も、地球上に4番目に多く存在し岩や砂に含まれる珪素が結晶化したものです。いくら同じ元素が身の回りにあるといっても、不純物を極限まで取り除いて、単結晶にするのは簡単なことではないようです。同じ性格を持つ人々をふるいにかけて、一まとまりにすると、新しい価値が生まれる?いやいや、その前に何か事件が起こりそうです。

明智光秀が築城した穴太積みの石垣がその上に再建された天守閣より存在感のある福知山

2009-02-15 17:31:15 | 日本の町並み
 一乗谷は福井から延びる盲腸線の越美北線の沿線で、計画ではかつての越美南線とつながって南北を短絡する路線となるはずでした。一方、北近畿への短絡線として計画され、国鉄末期に工事が始まり、最終的に第三セクターの鉄道として開業したのが福知山と宮津を結ぶ宮福線です。今回は、宮福線の一方の起点、かの明智光秀が初代城主を勤めた城下町の福知山を紹介します。
 福知山は、京都府が兵庫県に食い込んだような形で西に張り出したところにあります。京都府というより、兵庫県のような感じもしますが、それもそのはず明治初期には、豊岡県(兵庫県の北部)の一部だったこともあります。関西から丹後地方や山陰に行く場合には、京都から山陰線を廻るより、大阪と福知山をバイパスする福知山線を経由することが多く、JR線の名称としての知名度の方が高いかもしれません。また事故の記憶も未だ癒えないネガティブな線の名称の一つになってしまったかもしれません。かつて関西から天橋立に行く時は、京都から山陰線で綾部に行き、そこから舞鶴線で西舞鶴に、さらに宮津線に入って天橋立というルートで走るディーゼルカーの準急に乗って行っていました。当時の準急は、京都発の城之崎行きで、綾部、西舞鶴そして豊岡で3度も進行方向が変わった珍しい列車でもありました。宮福線が開通してからは、京都や大阪から福知山を経由し、走る方向を変えることなく、JRの列車がそのまま3セク線を通って天橋立まで直行しています。

 戦国武将の明智光秀は、一般的には負のイメージが強いのですが、地元では福知山の基礎を築いた名将として厚い信望を集めているようです。その光秀が、それまであった横山城を大改築をして出来上がったのが福知山城で、明治の廃城を経て1985年に天守閣が復元されています。天守は復元されたものですが、支えている石垣は穴太衆による野面積みが残されています。穴太衆は、滋賀県の坂本あたりの石積みの技術集団で、安土城跡や彦根城、さらにはおひざもとの坂本に野面積みの石垣が残っています。


 城下町としての雰囲気はさほど残されていないように思いますが、町のそこここに面白い建物や、気持ちのよい町並みが残っています。駅からお城に向かう途中にある市立惇明小学校は藩校を前身とする由緒正しき学校と言うことですが、その本館校舎が昭和初期のモダンな建物で国の登録文化財になっています。丸窓に組み込まれた珊の形がしゃれています。

古い町並みは、お城の北側に残されていて、碁盤の目状の通りと、狭い間口に奥行きの深い家並みが城下町の名残を保っているようです。中でも、松村家住宅は松村組の創始者が自宅として使用していた建物で、府の指定文化財にもなっている建物です。

敷地内には和風の建物と洋風の建物とがあり、内部には入れず外から垣間見ただけですが、明治期を代表するような洋館でした。

筆者の訪問した後、松村組は民事再生法の適用を受け、松村家住宅も不動産会社の手に渡り、一時は解体の危機にあったようですが、その後も不安定な状況が続いているようです。
 
 文化財の保存と言うのは、むつかしい問題が多いように思います。あれもこれも文化財と言うことで、古いものをすべて残していたら、町中が古建築で埋め尽くされて、新しい建物を建てられませんし、行政が所有すると費用も膨大になるでしょう。かといって、すべてを壊して新しくすると、文化も破壊してしまう恐れがあります。線引きのコンセンサスは時代と共に判断が変わるのでしょうが、一度壊してしまったものは基に戻せないということも事実です。建築の、ある特定の分野では古い技術の方が優れていて、現在の技術では作れない建物も多いと聞きます。一方、IT分野では次々と新しい技術が生まれて、古い技術を淘汰しているようにも思います。筆者が研究所に入社した40年前には、大規模な情報伝送には導波管と呼ばれる細い四角の管の中に電波を閉じ込めて伝える技術がさかんに研究されていました。光ファイバも存在しましたが、通信分野ではなくファイバースコープやおもちゃの世界のもので、通信に使えるとは誰も思いもよらなかったようです。ただ、IT分野においても、実現技術や考え方の基礎になるようなところは変わらないように思えますが、えてして軽ろんざられることも多いのかもしれません。

地震で被害に遭うもボランティアの手で修復されたサン・フランチェスコ聖堂のあるアッシジ(イタリア)

2009-02-14 14:34:16 | 世界遺産
 エヴォラの大聖堂には、500年以上も前に訪れた日本の少年使節団一行が弾いたとされるパイプオルガンが残されていましたが、800年ほど前の13世紀に建てられ20世紀まで引き継がれてきた聖堂が、突然襲った地震によって一瞬にして壊滅してしまったのがアッシジのサン・フランチェスコ大聖堂です。幸いにも、その後ボランティアの手によって再建が進みもとの姿に修復された年に世界遺産に登録されました。今回は、サン・フランチェスコ聖堂とそれが建つアッシジの町を紹介します。

 アッシジは、ローマの北100kmほど、サッカーチームで有名な町ペルージャの20kmほど手前にあり、ローマから列車で2時間程度の町です。町は小高い丘の上にあって、鉄道駅からはバスで15分程度乗ると、サン・フランチェスコ聖堂の東側の広場に着きます。丘の上の町は、民家やホテルそれにお土産屋の間に数多くの聖堂が建っていて、その中で最大のものがサン・フランチェスコ聖堂になります。アッシジは、ローマ帝国時代からあった城壁都市でしたが、アッシジで生まれ、死後に聖人に列せられたフランチェスコの功績を称える聖堂が13世紀に完成したことでカソリックの巡礼地として脚光を浴びるようになりました。

 さてそのサン・フランチェスコ聖堂ですが、町の西の端に突き出すように建って居ます。北側には森が迫り、南側の眼下には田園風景が広がっています。聖堂の中は二層になったいて、上堂はゴシック、下堂はロマネスクと様式が異なりますが、そのどちらの壁面にも数多くのフレスコ画が描かれています。特に奥行き方向の壁という壁はフレスコ画で覆われていて、その数に圧倒されます。上堂はジオットによりフランチェスコの生涯が28枚の絵になっていて、なんとなくストーリが解るように思います。上堂は天井の高い通常の聖堂に入った感じがしますが、下堂は天井が低く地下室のような圧迫感がありました。この聖堂が1997年にこの地方を襲った地震によってる崩落してしまいましたが、たまたまその時に撮影された映像を見ると、すさまじい砂煙と共に壁が崩れていく様子が映っていました。2000年に再建され、筆者は再建後に訪問したのですが、被害にあったということを聞かないと解らないくらい美しい聖堂でした。フレスコ画を含めてよくぞもとの形に戻せたものだと思います。

 サン・フランチェスコ聖堂と共に有名な修道院が、丘の東の方にあるサンタ・キアーラ修道院です。聖フランチェスコの精神に従って財産を放棄して修道院を作り清貧に生きたキアーラが作った女性たちのグループが作ったもので、聖堂は彼女の死後13世紀に建てられたものです。こちらの聖堂は、ピンク色の外壁に装飾の少ないシンプルな聖堂です。

 この2つの聖堂の間は、上ったり下ったりの曲がりくねった道が続き、

道を曲がるとその向こうに聖堂の尖塔が見えたり、突然に広場に出たりします。

その広場で、子供たちが持っている旗を回したり、投げ上げたりするマスゲームをやっていました。お祭りの様子でもなかったのですが、何かの宗教行事の一環だったのでしょうか、時々落としたりもするのがご愛嬌で、かわいらしいものでした。

 地震は突然にやってくるので厄介ですが、その地震の予知や、地形の正確な把握のためにGPSの高精度な測定が役に立っているようです。かつては軍需目的のために、民需用にはわざと精度を落としていましたが、現在では高精度のものも使えるようになったので、小さな地殻変動も捕らえることができるのだそうです。それによると、日本の3,000m級の山々は少しずつ低くなっているそうで、数万年後には日本には3,000mを越える山が無くなってしまうかもしれないとのことです。ただ、山々が3,000mより低くなるまで人類が生き延びているかどうかはわかりませんが。

町ごと無くなって唐門だけがぽつんと建ち滅びの美学を感じる一乗谷

2009-02-01 14:14:52 | 日本の町並み
井波は広い砺波平野にぽつぽつ家が散在する散居村のはずれに位置しましたが、ぽつぽつの家どころか町ごと消えてしまって石垣や庭園の跡だけが残っているのが一乗谷です。朝倉氏の城下町として1万人規模の人口を擁した町も、織田信長との戦いで焼き討ちに遭い、一夜にして消滅し、残ったものは石垣や庭園のみ、唐門がぽつんと建っていますが、これとて後世のものです。今回は、何もない美しさとも言うべき一乗谷を紹介します。

 一乗谷は、福井から越美北線で20分ほどの山の中で、この越美北線が不便なのです。不便にして、乗客を減らし赤字なので廃線、というシナリオに持っていきたたいというJRの意志すら感じます。もともと、この越美北線は、旧越美南線(現在は3セクになった長良川鉄道)とくっつけて、福井から山越えで岐阜に抜ける構想だったのです。ただ、開通していても、さほどの乗客は見込めなかったかもしれません、越前大野まで乗車しましたが、山の中ばかりで家がほとんど無いところを走っていますから。

 JRの駅から朝倉氏の館跡までは1.5kmくらいの距離があり、途中の谷が細くなっているところには土塁と石垣の一部が残されています。おそらく一乗谷への関所的な場所ではなかったかと思います。朝倉氏の館跡までの途中には、町家や武家屋の基石も散在しており、一部が復元されています。朝倉氏の館跡は80m四方ほどのほぼ正方形の区画で、周りを環濠と土塁に囲まれています。
 
入り口の部分には唐門がありますが、この門は後世に豊臣秀吉が寄進したもので、朝倉氏の遺構は燃えなかった石しか残っていません。その石組みが造形を残しているのが館の背後の山の麓にある庭園跡です。

主が居ない庭園は後世に手が加えられなかったため、かえって室町時代の庭園様式を知る上で貴重な遺構なのだそうです。

この庭園跡は、少し高台になっていて、そこから見下ろす館跡は、生垣に囲まれた空虚な空間で、その向こうには山鹿迫っています。谷間に作られたかつての都の地形がよくわかりますが、明日香村の遺跡より、もっと、さばさばして何もない風景は、一種の美しさを感じます。

 一乗谷の城主であった朝倉義景は、一乗谷が総攻撃に遭う前に、さらに内陸で盆地で守りやすい越前大野に逃れ形成の建て直しを図ったようです。越前大野はこのブログの2007/12/16版でも紹介した、一乗谷からは越美北線の列車でさらに40分ほど乗った湧水の町です。しかし、この大野で当てにしていた平泉寺の僧兵の味方も得られず、味方の裏切りにも遭って、義景は自刃して果てたようです。大野の湧水の一つの近くに義景の墓所があります。近くには水琴窟も作られ小さな公園になっています。

 日本の建物は、木と紙でできているために焼き討ちに遭うと何も残らなず、滅びてしまうとヨーロッパの遺跡のような廃墟すら残しません。太平洋戦争で、焼夷弾によって民間人が無差別攻撃に遭ったのも、この木と紙の弱点を突かれたわけです。奇石しか残さない日本の遺跡は、考古学の研究を難しくしているのではないでしょうか。いろいろな出土品や奇石の状況などを総合して、推論をして仮説を立てて検証するという繰り返しをされるのだと思いますが、このような分野では人間の知恵がものを言うのでしょうね。コンピュータでは、解析はできてもひらめきは苦手分野でしょう。膨大なデータの中から隠れた規則性を見出すBIも進んでいるようですが、データが極めて少ない状況では歯が立ちそうにありません。コンピュータの出番は、人間の推論の結果で描く、かつての建物を図面化するCGの分野でしょうか。