世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

江戸との水運で栄えた川越は名産のサツマイモの焼き芋もおいしかったようです

2010-06-27 08:00:00 | 日本の町並み
 土蔵造りに格子がある古い日本風の古い町並みと、モダンでカラフルな洋風の建物とが同居した町が栃木でしたが、この栃木は川越、佐原と並んで小江戸と呼ばれています。今回は、小江戸と呼ばれる3つの町のうちで、このコラムでまだ紹介していない川越を取り上げます。
 
 川越は、埼玉県の南部にあって、東京からも40分ほどで手軽に訪問できる近さです。江戸時代には、歩くより楽な水運が待ちの発展に影響しましたが、小江戸と呼ばれる3ツの町は、すべて江戸との水運が便利なところでした。特に川越は、新河岸川により江戸と十三里と最も江戸に近い地の利を生かして発展した町です。この十三里という距離は、川越がサツマイモの産地であり、その焼き芋を売るため「栗(九里)より(四里)うまい十三里」というキャッチコピー二使われて有名ですが、そのいわれは距離という説以外に諸説あるようです。

 川越の町並みの特徴は、旧市街に並んだ平入りを中心とした土蔵造りの商家が続く風景でしょう。倉敷、喜多方と並んで日本三大蔵の町と呼ばれるのだそうです。ただ、川越の土蔵造りは、白壁が多く軽やかな感じの倉敷や喜多方と違い、黒壁が多いので、ちょっと重い感じがします。見方によっては、火事に遭ったような印象を受けますが、その火事の教訓から防火のために土蔵造りが多く作られたのは面白いですね。この、土蔵造りが連なる町並みは、ターミナル駅から少し離れていたのが幸いをしたのだそうで、ターミナルを中心とした、新市街の開発が及びにくい距離関係だったとのことです。地方都市では、鉄道の駅ができることを嫌って、駅が町の中心地から離れてしまったため、最悪のケースでは鉄道自体が廃線になってしまったところもありますが、首都圏では鉄道駅が新たな町の中心になることが多かったようです。

 
 東京からの足の便の良い場所に、まとまった家並みの日本的な古い町が残されいるために、川越は外国の賓客に紹介されることも多いそうで、一般の外国人観光客数も、総数では京都などとは比較になりませんが、人口当たりで比較をすると数分の一程度で上位に位置しているようです。ただ、この便利さと、駅から少し距離があること、それに古い町並みが災いして、歩道がはっきりしない狭い道路にバスを含めた車が入ってくるのには閉口します。ぼんやりと町並みを眺めながら散歩をしていると、車にぶつけられそうになります。土蔵造りの続く一番街あたりは、少なくとも休日には歩行者専用道路にしてもいいのではないでしょうか。

 JR川越線、西武新宿線それに東武東上線と3つの路線が走る川越ですが、開通したのは西武の前身の川越鉄道が1895年と最も早く、続いて東武の前身の東上鉄道が1914年に、JRの前身の国鉄は最も遅く1940年に、東北本線と八高線とを結び中央本線の迂回路として軍事目的で開通したようです。しかし、最初に開通はした川越鉄道ですが、現在の西武新宿線のルートではなく、中央線の国分寺と川越を結ぶものでした。この名残で、現在でも新宿線の距離標は本川越を起点として国分寺に至るものと、西武新宿を起点として東村山(実際には西武新宿から高田馬場と高田馬場から東村山までとに分割されている)に至るものに分割されています。

 電子レンジは、携帯電話で使う電波よりさらに高い周波数の電波が水に吸収されて発熱することを利用した調理器具で、50年ほど前に出現の時には高価な家電品の一つでした。現在では、電子レンジのない過程が無いぐらいに普及が進み、冷凍庫と電子レンジは独身者ならずとも必需品二なりました。食物中に含まれる水分が発熱するために、短時間で効率よく加熱ができるのですが、焼き芋作りにはあまり向いていないようです。石焼芋やつぼ焼きの焼き芋がおいしいのは、ゆっくりと加熱される間に奄美が増すそうです。電子レンジで急速に加熱すると、この過程が進まず、結果としておいしくない焼き芋ができることが多いとか。金属製の器が使えないだけでなく、万能のように思える装置にも弱点はあるようです。

教科書に載っている絵が無造作に飾られていたり、彫刻の巨大さに驚いたりのフィレンツェです(イタリア)

2010-06-20 08:00:00 | 世界遺産
 新大陸から得られる莫大な富により、金に糸目を付けずに作られた修道院がポルトガルのジェロニモス修道院でしたが、メディチ家による莫大な金融業収入などにより、ルネッサンスの文化が花開いた都市がフィレンツェです。今回は、メディチ家の残した文化財で、町中が屋根の無い博物館のような様子を紹介します。ただ、筆者が訪れたのは20年ほども昔なので、交通事情などは随分と変わっているようです。ただ、ルネッサンスから受け継がれてきた多くの文化財は、それまでと同じように変わらず町中にあふれているでしょう。当時に廻った場所を、古い記憶を呼び戻して紹介します。

 フィレンツェはローマから北に列車で2時間足らずの、イタリア半島の背骨のような位置にあります。歴史地区は東西と南北とが2kmに満たない場所に、美術館や博物館、宮殿に教会、それも世界的に著名な建物群が集中して建っています。場所的には集中していて、移動には時間はかからないのですが、何しろ見所ばかりなので見学には時間がかかります。これを2/3日程度で廻ろうとした筆者は、ちょっと無謀だったかもしれません。前日の夕刻にオーストリアのウィーンから夜行列車に乗り、朝早くにフィレンツェの駅に到着し、夕刻にはローマに移動するというスケジュールで駆け抜けてしまったのでした。

 
 美術館は、アカデミア、バルジェロそれにウフィツィ美術館に入ったように思います。最初に入ったアカデミア美術館では、ダビデ像の5mを超える巨大さにびっくりしました。もともとはヴェッキオ宮殿の入り口の屋外に置かれていたものですから大きくなければ存在感がなかったのかもしれません。19世紀の後半に風雨による大理石の劣化を防ぐなどの理由から現在の場所に移されたそうで、元の場所にはレプリカが置かれています。バルジェロ美術館は、ドナティッロのダビデ像などに加えて、サン・ジョバンニ洗礼堂にある天国の門にはめ込まれたレリーフの見本も間近で見ることができます。そして、最大の美術館がウフィツィ美術館で、展示物をすべて見て廻れば、一日かけても廻りきれないのではないかと思います。限られた時間では、どうしても教科書に載っているような有名な絵をピックアップして廻ることになりますが、これらの絵がけっこう無造作に飾られています。とにかく、ボッティチェリの春やヴィーナスの誕生など、その1点と少しの付属の絵を組み合わせれば、日本で特別展が開けそうな有名な絵ばかりですが、特別扱いしていたらきりがないのでしょう。

 宮殿は、ヴェッキオ宮殿とピッティ宮殿に張ったような記憶ですが、印象に残っているのはピッティ宮殿のグロッタです。洞窟風の空間で、内部には人口の池があります。入り口の上部には少々装飾過剰気味の彫刻がなされており、人工池にも正体不明の彫像が浮かんでいます。このグロッタがグロテスクの語源だとのことですが、人工池の奥に立っていたマリア像が、グロテスクというより清楚な感じがしました。
 

 フィレンツェの観光写真というと必ず登場するのがサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂です。大聖堂、鐘楼それに洗礼堂の3つの建物がありますが、中心となる大聖堂は15世紀初頭に建てられた時には世界最大のドームであったそうです。この巨大なドームを、建設途中にドームを支えるための仮枠を作らないで組み上げた建築技術は、すばらしいものだったのだそうです。洗礼堂の東側の扉の天国の門のレリーフについては、バルジェロ美術館のところで紹介しましたが、ロダンの未完の大作であり、考える人もその構成要素となっている地獄の門は、この天国の門にならって製作されたものです。地獄の門は、上野の西洋美術館の前庭にもありますが、こちらはブロンズの黒っぽい一色です。金色に輝く天国の門とは随分と印象が違い、まさしく、天国と地獄ほどの差なのでしょうか。
 

 フィレンツェの中央駅もローマのテルミニ駅も頭端式のホームを持つ駅です。頭端式のホームとは、ホームの端が行き止まりになっている構造で、行き止まり側ではホームがつながっているので、ホーム間を移動するのは階段を上り下りする必要がないので便利な構造です。日本では上野駅の長距離列車のホームや、門司港など行き止まりの駅でこの構造が見られますが、比較的少ない構造です。一方、ヨーロッパでは、ほとんどの大都市の駅は頭端式で、その駅が終点ではない列車は、ここで向きを変えて出て行きます。日本にはほとんど無くなってしまった、機関車牽引列車が多いヨーロッパで進行方向を変えるということはかなり面倒なことです。機関車を付け替えるか、最後尾の客車に運転台を付けて、機関車をリモコンで押して走らせる手間が必要です。このような手間をかけても、列車の乗り降りを楽にしたい、という人間優先の考え方が見えるように思います。また、機関車牽引にこだわることも、乗り心地の良さを追求する人間優先につながるのでしょう。ITは、電車の制御や車の制御を効率的にしてきました。エネルギー消費が少なく、加速、減速性能の向上などに寄与していると思います。しかし、合理性や効率を追い求めるあまり、乗り降りが大変で、乗り心地の良くない、人間を運ぶ荷物車を作っていやしないのか?とふと思ったりもします。

土蔵造りや下見板張りの洋館などがぎゅっと詰まって同居する懐かしい町並みの栃木

2010-06-13 08:00:00 | 日本の町並み
 洋風の学校建築の中で明治初期に建設され現存最古の旧中込学校は長野県の都会から遠く離れた佐久市にありましたが、明治から昭和初期までに建設された洋館の学校建築は、かなりの数が残されています。旧中込学校のような小学校の校舎から、慶応や同志社などの大学までさまざまなものが全国に散らばっています。今回は、旧中込学校と同じように木造洋館の学校建築で明治末期に建てられた旧栃木中学(現在の栃木高校)の記念図書館を初め、栃木市役所など町中に気持ちを和ませる和風や洋風の古くてモダンな建物が散らばっている栃木市を紹介します。

 栃木市は栃木県の南端に位置して、現在は一地方都市なのですが、かつては明治初期の廃藩置県により誕生した栃木県の県庁所在地でした。大正時代に建てられ塔屋を持つしゃれた木造洋館の栃木市役所は現在も現役の役所の別館として使われていますが、この場所がかつての栃木県庁があった一郭なのです。表向きの理由は、合併によって県域が北に広がり、件の南端の栃木市では南に偏りすぎて不便ということにより、県の中央部の宇都宮に移されたことになっています。しかし、当時の県令(現在の県知事)が、自由民権運動の拠点であった栃木を避けた、というのが真相であろうと言われています。県の名前と同じ名称の市が存在するにもかかわらず、県庁所在地ではないという唯一の例となってしまいました。(山梨市も県庁所在地ではない都市ですが、町村合併によって1954年に新たに誕生した都市です) 県庁が引っ越したおかげで雰囲気の良い町並みが保存されたのかもしれません。

  
 栃木は、中心部を流れる巴波川(うずまがわ)を利用した江戸との舟運により栄えた商都であり、日光への例幣使街道の宿場町としても賑わいを持った町です。巴波川沿を中心に、多くの白壁や石壁の蔵や板壁と屋根瓦が美しい商家が残されており、川越、佐原とともに小江戸と呼ばれています。秋から冬に掛けての「うずま冬ほたるキラフェス」では、巴波川に沿って3万個のLEDで飾り付けられ、昼間とは違う幻想的な風景が浮かび上がります。

 巴波川沿いの町並みは、日本的な白と黒それに茶色の世界なのですが、市役所別館の建つあたりは洋風のカラフルな世界です。市役所や旧栃木中学記念図書館は、かつて県庁が建っていてこれを取り囲むようにして掘られた県庁掘りと呼ばれる水路に囲まれた中に建っています。県庁掘りの少し北にある栃木病院の建物も2階のバルコニーやしゃれたファサードが素敵です。これらの木造洋館は、緑やクリーム色のペンキの塗られた下見板張りで、横浜や神戸などの異人館の雰囲気です。
 

 一方、例幣使街道に沿った町並みには、代官屋敷跡や土蔵造りの商店があるかと思うと、市役所などの洋館とは趣の違う白壁にレトロな窓を持つ昭和初期の洋館かと思われる建物も混じっています。さらには、昔ながらの商店や理髪店など、どこか懐かしい街並みが続いています。栃木は、古い日本家屋の町並みと、異人館風やレトロな洋館が、狭い範囲に隣接している珍しい町なのかもしれません。


 
 明治の初期には、交通も通信も不便だったので、県庁所在地が県の中心から偏っている、ということを理由に県庁を引越しできたのでしょうか。宇都宮と栃木の移動時間が1時間程度の現在では、この理由は通りにくそうです。交通だけでなく、役所のサービスも通信を使えば、役所の場所を意識させないようになってきています。コンビニで住民票などを受け取ることができたり、電子承認を使えば、申請もWebから可能になってきています。このようなことが進むと、役所はサーバーの中に存在するのみで、地球上のどこに置かれていてもいいようになるかもしれません。

高原のポニーと呼ばれたかわいい蒸気機関車の走った中込には、しゃれた校舎が残っています

2010-06-06 08:00:00 | 日本の町並み
 日本の表玄玄関のビルの林立する中に、一丁ロンドンの面影は失われましたが、昭和初期の西洋建築として重要文化財に指定されているビルも現存するところが丸の内でしたが、日本各地に明治期以降に建てられた重要文化財に指定された洋館が散らばっています。これらの中には丸の内の明治生命館のように本格的なコンクリート作りのビルもありますが、時代が古くなるにしたがって、擬似洋館と呼ばれる、外観はコンクリート作りのように見えて木造の建物が多く見かけられるようです。今回は、これらの建物の中から長野県の山奥に残されている日本最古の洋風校舎が残されている旧中込学校を紹介します。

 旧中込学校のある佐久市は、長野県の中央部の東の端で、東側は群馬県と接しています。JR線の中で最も標高の高い駅と地点とがあることで有名な小海線が通っていて、旧中込学校は小海線の滑津(なめづ)駅から300mほど西南西に歩いた県道沿いにあります。ちなみに、かつてこの小海線を走っていた小型のテンダー型蒸気機関車C56は高原のポニーと呼ばれて親しまれていましたが、その1台のC56 101が旧中込学校資料館のそばに静態展示されています。小型の蒸気機関車にはC10やC11と呼ばれた炭水車を機関車に組み込んだタンク機関車もあって、転車台を持たないローカル線でバックでも運転しやすいことから、全国で数多く導入され、動態保存されている機関車にもこの形式が多いようです。しかし、テンダーを後ろに従えて走るC56の方が、蒸気機関車らしい形で絵になるため人気が高いようです。

 さて、旧中込学校ですが、1875年に組合立の小学校の新校舎として建てられたものです。1875年といえば明治8年で、まだ日本の近代化は始まったばかり、こんな時代に都会から遠く離れた場所に、こんなにハイカラな校舎が建てられたということは驚くべきことです。
 
さすがに現役では使われてはいないのですが、こんな校舎で勉強してみたかった・・かな、とも思います。現役の校舎の中で最古のものは、岡山県の高梁市立吹屋小学校で、1900年に建てられたもので、板張りの壁を持つ素朴な校舎です。

 旧中込学校は、建物のすべての窓にガラスがはめ込まれたことも、当時としては珍しかったそうです。入り口や廊下の突き当たりの窓には、色ガラスが組み合わされていて、とても明治期に建てられた建物とは思えないほどしゃれています。
 
この頃に建てられた擬似洋館の学校の建物には、なぜか塔とバルコニーが付きもののようで、同じ長野県の旧開智学校や山辺学校などあちこちに残されているようです。こんな学校で勉強できたら素敵だろうと思いますが、これらの建物のほとんどが地元の日本人大工の設計になっています。この設計センスはどこから学んでのでしょうか。

 通常の学校は市町村あるいは区立ということですが、設立時の中込学校は組合立という聞きなれない名称でした。この形態は、実は現在でもある形態で、校区域が複数の行政地域にまたがる場合に採られます。校区域となる複数の行政が共同で組合を組織して、その組合が学校の設立、運営に当たるのが組合立と呼ばれる形式です。実は、筆者の通った高校に入学をしてくる中学の中に組合立のものがあって、最初に名前を聞いたときには奇妙に思いました。前述のような命名の理由は、その中学出身者に教えてもらい、なるほどと納得しました。

 かつては、高原のポニーと呼ばれた小型の蒸気機関車が走った小海線ですが、現在でも非電化のため1~3両編成のディーゼルカーが八ヶ岳の麓から小諸まで駆け抜けています。この中に2007年からJR初のハイブリッド車が含まれています。ディーゼルエンジンで発電した電力をバッテリーに蓄え、その電力でモーターを回して走行するものです。初期のディーゼル機関車の中には、この仕組みから電池を除いた構造のものが、多く見られました。その理由は、当時としては作るのが難しかった変速機が不要なことで、電気式変速方式と呼ばれました。内燃機関の機関車は、車と同様に変速機が必要になりますが、現在の主流は液体変速機を積んだもので、液体変速方式と呼ばれています。ところが、電池やIT技術の発展で電気式の効率が高くなり、出力も大型のものが作られるようになり、再び電気式が脚光を浴びるようになったようです。モールス通信のディジタルから、電話のアナログになり、再びインターネットに代表されるディジタル通信に発展したように、技術は螺旋状に進化することが多いものですが、ディーゼル機関車の分野でも同じ現象のようです。