世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

八尾の街中の大きな茅葺屋根のお店で買ったもなか、おいしかった

2013-08-25 08:00:00 | 日本の町並み
 駅前に中国渡来の徐福の記念公園があり、町の真ん中に緑豊かな浮島の森があるのが新宮でした。一方、大都市のど真ん中に、人間の乗るものを浮かせる施設、つまり空港があるのは、東京都の調布と大阪府の八尾ではないでしょうか。今回は、そのなかで新宮の姉妹都市の一つでもある八尾を紹介します。

 八尾市は、西側を大阪市と東側は奈良県と接しています。八尾空港は市の南端に近いところにあり、小型機の発着空港として使われています。大阪市の中心からも近い所に位置していますが、調布空港とは違い、定期便は飛んでいないので、この空港から飛び立つチャンスは少なそうです。ただ、まいど暴言を吐く政治家が、「友好国?に対して垂直離着陸機の訓練空港にどうぞ!」とのたまって新聞をにぎわし、空港の名が有名になったようです。空港があるのは八尾市で、大阪市の権限は及ばないはずなのですが。

 
 
 
 南にある空港とは逆に、近鉄八尾駅は市の北よりにあり、駅の南側に八尾御坊を中心とした寺内町の本町やその周辺に古い町並みが残されています。板塀や板壁それに格子のはめられたの商家風の建物が多く、土蔵造りの白黒の町並みとは違った、茶色の世界が広がります。通りに面した家屋では、格子の連なりが美しく、庭のある家屋では、板塀の上から見越しの松がのぞいていたりします。町並みの中にあった多嘉地蔵という石仏も、なかなか凛とした顔立ちで、手入れの行き届いた様子から、地域に愛されている仏様のようでした。

 
 
 茶色の町並みは、上部に黒の屋根瓦が乗っていますが、その中に屋根も茶色の茅葺の家がありました。随分と大きな建物で、農家の作りとは違います。桃林堂という看板と、お菓子の表示があったので、おそるおそる入ってみました。入ってみると、そこは土間でお菓子を並べたケースや一休みできるような席が設けられています。もなかが名物のお菓子屋さんで、與兵衛桃林堂という店舗です。もともと、八尾にあったお菓子屋さんの桃林堂が、東京などに店舗を拡大する過程で、創業地に創業者の名前を冠した別の菓子店を構えたものなのだそうです。店舗の建物は、江戸中期に建てられた河内木綿の問屋の遺構で、大和棟茅葺屋根と呼ばれる住宅なのだそうです。店舗の前の道には、八尾街道と立石越おうとう越の分岐の道標が建っています。

 八尾空港は1,200mと1,500mの2本の滑走路を持ち、小型機専用空港としては、大きな規模の空港です。しかし、旅客機が離着陸する空港では当たり前の計器着陸装置(ILS)は設置されていません。このILSは、空港周辺から発信される電波を利用して、飛行機に積まれた自動制御のためのコンピュータで安全に飛行機を着陸させるシステムです。ILSにもいくつかの種類があり、視界がほとんど無くても着陸できるカテゴリⅢまであります。このカテゴリⅢを設置している空港は、成田空港や中部空港のほか、釧路空港、青森空港などがあります。釧路などは霧が多いと言う地帰性ゆえでしょう。ただ、いくら自動制御が進んでも、最終判断はパイロットなど人間ですから、A航空のような事故が起こるのでしょうね。

人口6万人ほどの小さな都市に2つの世界遺産があるのがヴァイマールです(ドイツ)

2013-08-18 08:00:00 | 世界遺産
 都会の喧騒から離れて、質素な生活を送ったシトー会が立てた修道院が、フォントネー修道院でした。建物は、華美な装飾がなく、宗教活動にに必要な機能がシンプルに具現化されているように感じます。機能的な建築と言えば、20世紀初頭にドイツで設立された学校であるバウハウスが、合理主義的、機能主義的な様式を掲げ、その後の建築様式に大きな影響を与えました。バウハウスの学校は、当初ヴァイマールで開校され、その後はデッサウに移転し、その両方の関連施設が世界遺産に登録されています。今回は、ワイマールのもう一つの世界遺産である古典主義の都の面からもヴァイマールを紹介します。

 ヴァイマールは、ベルリンの南西150km、ドイツ中央部のやや東より、チェコが西に張り出してドイツに食い込んでくびれている角の北西あたりに位置しています。かつては、東ドイツの南西端の都市だったようですが、北ドイツで感じた「かつては東欧圏}という、雰囲気は受けませんでした。鉄道駅は、旧市街の南に位置をしていて、駅から旧市街までは歩いてもいける程度の距離です。バスで行くと時間は短縮できますが、途中の川沿いの道は、小さな滝などもあって往路か復路のどちらかを散歩すると気持ちのいいものです。


 
 ヴァイマールは、20世紀初頭までは、ザクセンの首都として栄え、バッハも宮廷音楽家として活躍した町です。そのバッハと入れ替わるようにして生まれたゲーテの活躍の場もヴァイマールで、旧市街の中心部に晩年を過ごした旧宅が残されています。同時代にヴァイマールで活躍をしたシラーの家もその近くの残されていて、世界遺産「古典主義の都ヴァイマール」として登録されています。ヴァイマール憲章が採択された国民劇場の前には、ゲーテとシラーとが並んで立つ像が建っています。


 
 その像の目線の先にあるのが、バウハウスの博物館で、かつてのヴァイマールでのバウハウスの拠点となった建物です。ヴァウハウスは、わずか14年間、ヴァイマールでは、わずか6年という短い期間のみ存在した学校ですが、その後の建築デザイン分野に大きな影響を残したと言われています。博物館内には、作品の一部が展示されていますが、余計な装飾をそぎ落としたシンプルなデザインでしたが、博物館としては展示品が少なく物足りなさを感じます。

 
 
 
 
 これらの建物がある旧市街には、グラーナハの家、市の教会、美術館となっているヴァイマール公のお城、それにシュバイツアー記念館などがあります。ただ、シュバイツアー記念館がヴァイマールにある理由が、よくはわかりませんでした。生まれも育ちもドイツのフランス国境のあたりで、ドイツ東部のヴァイマールからは遠いのですが。旧市街の中心部のマルクと広場の周辺は、緑も多く、石造りと思われる建物が並ぶ微妙に曲がりくねった道を散歩するのは気持ちのよいものです。このあたりには、観光用の馬車も走っています。

 シラーと聞くと、ベートーヴェンの第九交響曲を思い起こします。第4楽章の合唱のもとになった歓喜の歌は、シラーの詩を引用であることは、よくしられています。かつて、CDの規格を決めるに当たって、カラヤンが、ベートーヴェンの第九が入る長さにしろ!といったという逸話も有名ですが、当然カラヤンの指揮による第九の長さが基準だったのでしょう。現在では、親指のつめほどのメモリカードに第九が何曲も入ってしまいますが、便利になった反面、芸術に使い捨ての風潮が大きくなってきたのが気になります。

新宮の浮島の森には中国から渡来の徐福も足跡を残したのでしょうか

2013-08-11 08:00:00 | 日本の町並み
 静かな入り江に舟屋の連なるのが、丹後半島の伊根でしたが、丹後半島は大陸から京都への通り道に位置することから、大陸との交流の歴史も残されています。その一つに徐福伝説があり、日本への第一歩が丹後半島とされています。徐福は始皇帝の不老不死薬を探す命令は果たせず、日本で命を全うしたといわれ、無くなった場所とされるのが新宮です。今回は、熊野古道の南の入り口の一つでもある新宮いったいを紹介します。

  
 新宮は、和歌山県の南東部、三重県との接するところに位置し、熊野川に沿って南北に細長い市域を持っています。北東端には飛び地があり、その近くには瀞峡があります。今回紹介の町並みは、熊野灘に面した紀勢線の新宮駅周辺で、徐福ゆかりの公園も、駅のすぐそばにあります。公園の入り口には、1994年に中国風の楼門が作られ、公園内には徐福の墓や像などがあります。ただ、墓といっても江戸時代18世紀に作られたもので、徐福の存在自体が伝説の域を出ないものです。

 
 徐福ゆかりの公園は少々マイナーですが、新宮駅の周辺でメジャーといえば、世界遺産に登録されている熊野速玉大社です。紀伊山地の霊場と参詣道の一部を成すもので、2002年の登録後の2004年に追加してをされています。新宮の地名は、元は近くの山にあった社が現在地に祭られるようになり、それを新宮と呼ぶようになったことに由来するのだそうです。社殿は明治期に打ち上げ花火が原因で全焼し、昭和40年代に再建され、緑と朱色の鮮やかさが目立つ建物です。境内に後鳥羽院の歌碑が建っていますが、この歌碑は岩なので焼けなかったのでしょうか。

 
 
 
 
 速玉大社から東へ熊野川にの河口方向に進むと新宮城跡に上る階段が見えてきます。明治維新で城の建物は取り壊され、現在は公園として使われていますが、昭和30年代頃には、本丸跡に上る小規模なケーブルカーがあったそうです。この周辺から後述の浮島の森にかけて、お寺や神社に混じって古い町並みが少し残されていて、格子を連ねた家並みや、昔風の店舗が健在です。

 
 その浮島の森は、新宮駅の西300mほどの所にある、沼地の中に泥炭でできた直径70mほどの島の上にできた森です。ただ、都市化の影響などもあって、浮いていた島は沼地に座礁をしてしまっているそうです。島には、遊歩道があって森の様子が間近で観察できますが、遊歩道を歩いても浮遊している感触はありません。外部から眺めると、堀を持った小さな古墳といった感じに見えます。

 徐福は、始皇帝の命で遠く日本まで不老不死の薬を探しに来たそうですが、マルコポーロの黄金の国伝説と言い、昔の日本は未知数の不思議の国だったようです。不老不死は、科学技術が進んで、病気の早期発見にはIT技術が役立っていますが、不老不死とはいきません。ただ、人間には寿命があるからいいのかもしれない、といった考え方もあると思います。いっぽう、マルコポーロの時代にさかのぼらなくても、日本の文化は西欧人からは不思議な面が残っているようです。国や歴史が違えば、文化が違うのは当たり前です。ヨーロッパ人は、自分たちの文化のほうが優れていると勘違いをして、それを押し付けてきますが、日本人はもっと自国の文化に誇りをもって、押し付けを押し返す努力をするべきと思います。

日本には少なくなった戦前の洋風の建物が現役で使い続けられている台湾です(台湾)

2013-08-04 08:00:00 | 世界の町並み
 丘の上の廃墟となったお城が存在感を示すハイデルベルクは、旧市街に散らばった大学施設に多くの学生を抱える大学の町でもありました。日本でも、大都市の中心に広大なキャンパスを持つ大学は多いものですが、台北にある台湾大学も緑豊かな広々としたキャンパスの中に建っています。その建物の中のいくつかは、旧日本統治時代に建てられたものも残されています。今回は、台湾に残る日本統治時代の建物をいくつか紹介してゆきます。

 
 
 台湾大学は、日本統治時代の1928年に旧帝大の一つとして設立され、戦後は台湾の国立大学として引き継がれています。その本部は、台北市の南部の町並みの中に、東西1km、南北500mほどの広大なキャンパスを擁しています。東大の本郷キャンパスの2倍くらいでしょうか。日本統治時代の建物を探してみましたが、内部が広すぎてなかなか判りません。煉瓦作りの図書館があったので、この建物かと思って尋ねてみたら、「これは新しい図書館で、かつての図書館が統治時代の建物で、記念館になっている」ということが判りました。訪ねてみると、運悪く休館日で、そうでなければ内部が見られたようです。隣に建っている学舎も、作りからして統治時代の名残のようです。

 
 台湾大学は、本部のほかに、市内のあちこちにキャンパスがあるようで、その一つが医学部とその付属病院です。この建物も日本統治時代の建物で、台北駅からも近い、東京で言えば丸の内のような便利な場所で外来の患者さんでいっぱいです。外観はレンガ造りで温かみがあり、エントランスの吹き抜けも贅沢な感じがします。

 
 
 台湾大の付属病院の近くにあるのが、台湾博物館で、ギリシャ神殿風のエントランスの奥にドームを乗せた建物です。このドームの下部が吹き抜けになっていて、エントランスから入った広間は、台湾大の付属病院と似ていますが、さらに華やかです。博物館の別館が、通りを挟んで筋向いにありますが、こちらは銀行の建物を流用したもので、内部には金庫も健在です。こちらは、まるでギリシャ、ローマの神殿です。

 
 博物館の南西には台湾総統府があります。これは統治時代の総督府を、台湾政府が行政府として使っているものですが、太平洋戦争末期に空襲を受けて、内部は全焼、外壁も随分と損傷したそうです。こちらもレンガ造りですが、さすがに権力の中枢ゆえか、装飾が多くて華麗で、どことなく威圧的でもあります。業務に影響をしない範囲での内部見学ができ、9時開始前にかなりの行列ができ、入場までも手荷物検査などもあって、時間がかかりますが、内部もなかなか見ごたえがあります。ただ、内部は中庭以外では写真は撮れませんが。

 
 
 台北からMRTで北に行くと、新北投温泉があり、水着で入る露天風呂もあります。ここの温泉博物館は、昭和天皇も着たことがあると言う、旧温泉施設で、この建物も統治時代の建物です。こちらは、がらっと雰囲気が違って下部がレンガ造り、二階部分は下見板張りの山小屋風です。かつての浴室であった所には、ステンドグラスもはめられていて、上諏訪の片倉館の浴室を思い浮かべます。

 
  統治時代の建物は、台北に多いのですが、他の都市にも残されています。その中から、台中と高雄にある行政府の建物を紹介します。台中では、駅の北西部にある旧台中州庁の建物です。正面には噴水があって、真っ白の建物は、シンガポールにあるコロニアル・ホテルと見まがう豪華さです。現在は台中市政府の庁舎として使われていますが、門衛の方に声をかけて内部を見学することはできるようです。もちろん、部屋の内部などは無理で、廊下や中庭などですが、庁舎の煉瓦色と中庭の芝生のグリーンの対比が見事です。この庁舎と道路を挟んで市役所があり、役所は普通のコンクリートのビルですが、その前に独立して建っている玄関がギリシャ神殿風なのです。
 
 高雄では、高雄駅からMRTで西南西に行った高雄歴史博物館で、統治時代の旧高雄市役所の遺構です。この建物もコロニアル風ですが、旧台中州庁とは違って、オリ-ブ・グリンに塗られていて、華やかさは抑えられています。四角な建物の中央に寄せ棟の塔屋が乗っていて、ちょっと北京西駅の幹事に似ている感じがします。博物館の展示も見るべきものが多く、建物ともども訪れる価値が十分です。

 台北市内には、鉄道管理局(工事中でした)や賓館(公開は年に数日)など、まだまだ日本統治時代の建物が残されています。台中でも時計塔がある台中駅や台中教育大学に統治時代の名残の建物が残されています。高雄でも旧高尾駅の建物がそうでしたが、新しい駅舎の完成により、保存建築物として手入れがされていました。戦前の日本の建物を見るなら、明治村か台湾に行けばよい、といった感じすらします。

 日本では新規のレンガ造りの建物はほとんど見かけなくなりました。レンガ造りかな?と思う建物も、コンクリートの躯体に煉瓦タイルを貼り付けたものがほとんどです。レンガは地震に弱いと言うのは誤解のようで、レンガ造りが消えたのは、手間がかかってコスト高になるのが理由では内科と思います。ところで、「煉瓦」とは英語の当て字のように思われますが、中国語由来の日本語です。英語ではbrickですが、これは外来語のブリキ板の語源です。明治期の日本では、外国語のカタカナ表記は避けて、できる限り日本語化を行ったようです。現代では、流入する外来語の量が増えて、日本語化するのは無理かもしれませんが、カタカナ表記は、似て非なるものとして、原語の発音から遠ざかるようにも思います。かつて、アマチュア無線の試験問題では、アンテナは空中戦、アースは接地、コンデンサーは蓄電器などと日本語表記されていましたが、現在はどうなっているのでしょうか。鉄ちゃんは、トンネルを隧道と言いますが、街中の信号機はシグナルではなくtraffic lightsが正しい英語です。