世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

山陰最大の都市圏人口を擁する米子は、古くからの商業都市の面影を残す白壁と格子の家並みも美しい町です

2008-10-26 16:08:50 | 日本の町並み
 忍者ハットリくんのキャラクタ列車が走るのは富山県の伏木を通る氷見線でしたが、ゲゲゲの鬼太郎列車が走るJR線があります。氷見線が高岡から海に伸びる盲腸線でしたが、こちらも米子から海に延びて境港までの盲腸線の境港線で走っています。今回は、境港線の起点の米子を紹介します。

 妖怪列車は現在4パターンあるようで、ゲゲゲの鬼太郎の代表的なキャラクタの鬼太郎、ねずみ男、ねこ娘それに目玉おやじとあるそうですが、筆者の見たのはどのパターンであったのか、写真を撮り損ねたので確認ができません。(代わりに、隣の安来のどじょうすくいにちなんだキャラクタ列車の写真を載せておきます。)

このキャラクタ列車は、忍者ハットリくんと同様、作者の水木しげるさんの出身地が境港市ということにちなんでいるようです。

 米子は、鳥取県の西の端で、鳥取市より、島根県の県庁所在地の松江に行くほうが近く、島根県の町と勘違いしそうな場所にあります。市の中心部は湖のような中海に面した城下町です。城下町といっても、大阪のような商都のとしての色彩が強く、中海に面した港の水運と山陰道の交通の要所として、流通業が発展した町です。

古い町並みの残る町としては隣の松江が有名ですが、土蔵造りや格子のある家並みは、米子のほうが見ごたえがあるように思います。

これらの家々はかつての商家、商都としての名残なのでしょう。
松江は松江城の天守やヘルン旧宅など、観光客を引き付ける求心力のあるポイントを持っているので、観光都市化していますが、米子ではわざわざ途中下車をして町並みを散歩する人は少ないようです。米子で下車した観光客の大部分は、郊外の皆生温泉に直行するのではないでしょうか。

 水運に恵まれた町の古い町並みは、水路の近くに残っていることが多いように思いますが、ここ米子においても旧加茂側の北辺に沿って格子のある白壁作りの家並みが残されています。

お酒屋さんの酒ばやしや、駄菓子屋さんでしょうか一銭硬貨を模った看板も見られます。

 旧加茂川に面して建つ5つの窓のある土蔵など、大きな口を開けた人間の顔に見えてしまいます。

この土蔵の近くから、中海までを往復して観光する小型の和船が出ていますが、残念ながら一日に2便で時間が合わず乗ることができませんでした。川面から見上げる町並みも視角が変わって面白かったと思うのですが、次回訪問の時に時間を合わせましょう。

 古い土蔵造りの家並みに混じって、昭和初期に建てられた温かみのあるビルも残されています。

米子市役所旧館は現在は山陰歴史館として使われていますが、坂口合名会社ビルは現役のオフィスとして使い続けられています。
 重い荷物を陸路で運ぶのは、交通や輸送手段の発達した現在においても大変なことは変わらないようです。ましてや、陸上交通の不便な頃は、荷物のかなりの部分は船を用いて運ばれたといっても過言ではないかもしれません。古くから開けた町には、港町が多いのもこのためかもしれません。現在の船は、大海原をGPS(Global Positioning System)やINS(Inertial Navigation System)を用いて、自船の位置を確認しながら航海しています。このような技術の無い頃は、磁石や天測によっておおよその位置を推定したので、北前船などでは陸地から遠くないところを航行し、継ぎの港までの距離もさほど取らず、結果的に多くの港町が栄えたのかもしれません。現在の1GPSは船だけではなく、航空機や車、さらには携帯電話にまで受信機が組み込まれて便利さを享受しています。ただし、システムの基は軍事衛星に頼っていて、軍の意向でわざと誤差を大きくされたり、暗号化で使えなくされる可能性があることを認識しておく必要があるでしょう。

秦の始皇帝も入浴したといわれる温泉も近くにある兵馬俑(中国)

2008-10-19 16:11:35 | 世界遺産
 その地名のとおり、ローマ時代に栄えたイギリスの温泉地がバースでしたが、三千年の歴史のある温泉が中国の西安郊外にある華清池です。秦の始皇帝も入浴したという温泉地には、唐時代に玄宗皇帝によって宮殿が建てられ、楊貴妃と共に毎冬をすごしたところといわれています。この温泉地からさらに東に行くと、始皇帝陵と兵馬俑があります。今回は、今から30年ほど前に世紀の発見として世界を驚かせた兵馬俑を華清池付近をも含めて紹介します。

 華清池は、西安の東30kmほどの場所にあって、池を中心としてかつての宮殿の遺構があります。

玄宗皇帝や楊貴妃が入浴したというお風呂の跡もありますが、屋内プールと小さなくぼ地にしか見えません。ただ、温泉は現在でも湧出していて、足湯の施設もあります。この宮殿施設は代々の権力者にも利用されたようで、現代の中国史にも西安事件の起こった場所として登場します。日華事変の前夜の中国は、蒋介石の国民政府軍と毛沢東の共産軍とが内戦を行っていました。西安事件は、戦線の視察で西安を訪れ華清宮に滞在していた蒋介石が、部下の張学良に撃たれるという事件で、その後の抗日民族統一戦線へと進むきっかけとなりました。

 さて、世界遺産の始皇帝陵と兵馬俑はさらに東に走ったところにあります。始皇帝陵のほうは、小高い丘といった感じで車窓から眺めただけで詳細は紹介できませんが、その地下には巨大な宮殿が存在するであろうといわれています。ただ、現在のところ、発掘調査は困難で当分の間は、想像するしかないようです。その想像上の地下宮を作ってしまったものが秦陵地宮で、ディズニーランドと同じレプリカの遊園地です。

いや、こちらは本物がまだ発見されてはいないので、レプリカとはいえないかもしれません。

 寄り道をしましたが、いよいよの兵馬俑です。田んぼの中で発見されたというだけあって、周りは何も無い原っぱの中に、ゲートが現れます。このゲートから兵馬俑の1~3号坑まではかなりの距離があって、ちゃっかりと有料のトラムが走っています。馬や兵隊が並ぶ俑坑の他に、始皇帝陵近くで発見された銅馬車を展示する秦銅車馬陳列館があり、この馬車の作りも見事です。

実物の1/2の縮尺で作られているとのことですが、車を引く馬も乗っている人物も生き生きしています。

 俑坑は1号抗がもっとも大きく、保護のために作られたドームは体育館か格納庫のようです。

いや、それ以上に巨大かもしれません、210mかける60mもあるのですから。数え切れない兵隊と馬の人形が並んでいて、表情が全部異なるというか、モデルとなった人物そっくりとのことですが、大変な労力をかけて作られたことだけは間違いなさそうです。

まだまだ、発掘調査の最中のようで、未整理状態のような人形もたくさん転がっているといった風です。2号抗3号抗は、1号抗を見た後に訪れた目には、小ぶりで、人形の数も少ないのですが、小ぶりな分だけ近くに見られるといったメリットがあります。

時間の都合なのか、こちらまで見に来る人は少ないようにも思いますが、もったいないように思います。調査が進むと、4号抗や5号抗というのも出現するのかもしれません。

 兵馬俑の兵隊は、殉死の変わりに作られたわけですから、実際の兵隊もこの人形と同数以上居たことになります。1㎡に1体以上の人形が並べられているように見えますから、おそらく総数は数万体になるのでしょう。こんなに多くの個々の人間をどのようにして認識し、作成済みなどの管理をしたたのかと思います。コンピュータやICタグなんて当時は存在しなかったでしょうから、各自の名前を書き留めていたのでしょうか。そもそも、当時の兵隊個人に名前は付いていたのでしょうか。限られた、条件の下で問題解決をした、先人の知恵には感心してしまいます。現代の世の中では、何でもコンピュータに頼るきらいがあります。40年ほど前のコンピュータは、まだまだ能力も低く、使用料も高価でした。コンピュータで計算をする前に、概算値を求めたり、1ポイントだけを手計算で計算したりもしました。現在のコンピュータでは、このような過程を踏むのは難しいのかもしれませんが、とんでもない過ちを犯していても気が付かない恐れは大いにありそうです。

北陸地方に多い本願寺派の寺院に加えて北前船の残照も残る伏木

2008-10-12 16:14:25 | 日本の町並み
 伊勢地方の一向宗の本拠地は一身田の専修寺ですが、一向宗というと北陸地方での勢いが強く、その中でも越中の瑞泉寺と勝興寺とは一向一揆の中心勢力でした。今回は、そのうちの勝興寺の寺内町を擁し、古代において越中国の国府が置かれ、後には海運で栄えた伏木を紹介します。

 伏木は、富山県高岡市の北辺の富山湾に面した町で、JRの氷見線の伏木が最寄り駅となります。この氷見線には、忍者ハットリくんのキャラクタが車体の内外に描かれたディーゼルカーが走っています。

作者の藤子不二雄A氏が氷見の出身であることにちなんでいるようです。ちなみに、コンビを組んでいた藤子不二雄F氏は高岡の出身で、小学校の頃の藤子不二雄A氏の高岡への引っ越しが2人のコンビの始まりだったようです。氷見線は高岡からの支線で、通勤、通学時を除いては1時間半に1本ほどのローカル線ですが、藤子ファンの中には、この列車に乗るために来訪する方も居るのではないでしょうか。

 勝興寺は、伏木駅から西に向かうだらだら坂を上った正面に小ぶりな総門と唐門をくぐった先に巨大な本堂があります。訪問したときには本堂以外は解体修理中で本坊などは鉄骨造りの素屋根に覆われて、その姿を見ることはできませんでしたが、七不思議の一つといわれる本堂の屋根を支える猿の姿はなんとなく確認できました。この猿、実は天邪鬼で、法隆寺の五重塔でも軒を支えていますが、真宗寺院にあるのが珍しいとか。

 この勝興寺に上る坂の途中に、消防署の望楼のような塔を持つ建物があります。入ってみると、伏木気象資料館との表示があり、日本で最初の私立の測候所とのことで、現在も無人で観測データを送り続けている現役とのことです。

このため、富山の気象情報のうち高岡の部分の地名が伏木になっています。私立の測候所が生まれた背景には、伏木港の存在があり、船の航行に重要な気象データを得ることが目的でした。遠く、万葉の頃からの良港は、江戸時代には北前船の中継港として、町の発展に寄与してきたようです。

 この北前船で富を得た豪商の館跡が北前船資料館で、勝興寺の手前を右に入ってしばらく北北東に行ったところ、高台の崖の端のような場所に建っています。こちらの家にも望楼のような当夜があって、純和風の家屋の屋根の上ににょっきりと突き出しています。

ここから、入港する船を監視していたようで、狭くて急な階段を上ると、崖の下の町並みの向こうに伏木港がよく見えます。崖の下の町並みの中にも、格子のある家並みなどが残っていて、北前船で繁栄した頃の余韻を感じます。

 この町並みの先に、小矢部川を渡る如意の渡しがあります。ほんの200m余りの距離の渡しで、小さな船で5分くらいで対岸に着いてしまいますが、義経伝説にも登場する由緒ある渡しです。義経と弁慶が奥州に逃げ延びるときに、この如意の渡しに差し掛かり、乗船というときに渡守に義経であることを見破られてしまったそうです。弁解が持っていた扇で義経を打ち据えるという機転で無事に船に乗れたということですが、この話に似た逸話を聞いたことがありませんか。舞台は石川県の安宅の関で、関守とのやり取りがそっくりです。実は、この安宅の話は、如意の私の事件を元に、能や歌舞伎の勧進帳で脚色されたものなのだそうです。

 如意の渡しで義経だと見抜いた渡し守は、どのような情報を基にしていたのでしょうか。もちろん写真などは無い頃ですし、似顔絵といってもその手配書的な紙媒体を全国に配布するのも大変だったのではないでしょうか。曖昧な情報を元に判断するのは、人間の第六感が大いに働いたのではないかと思います。通信手段の発達した現在の手配書は、鮮明な写真入のものが、短時間のうちに全国津々浦々に伝送されて、現代の義経一向は逃げるのがもっと難し駆ったかもしれません。ただ、最近の犯罪の検挙率は下がり続けているようにも思います。大都会に逃げ込めば探すのが難しいとも言われています。過度の情報の氾濫などで、人間の感も鈍ってきているのでしょうか。

ロンドンから2時間ほどで、お風呂と美しい石造りの家並みの町バースに着きます(イギリス)

2008-10-05 16:16:53 | 世界遺産
 マテーラの洞窟住居は、黄土色一色でノッペリした印象でしたが、同じように色の石造りの家が並んでいても、暖かく感じの良い風景を作っているのがイギリスのコッツウォルズです。コッツウォルズの説明の文書では、石の色を蜂蜜色と表現しています。コッツウォルズはかなり広い地域に跨っていますが、その南部のキャッスルクームには、かつての領主の館(マナーハウス)を利用したホテルもあります。このキャッスルクームの近くに、同じような色をした美しい石造りの建物や温泉の遺跡があるのがバースです。今回は、世界遺産のバース市街とあわせてカッスルクームも紹介します。

 ロンドンのパディントン駅からインターシティーなどの列車を使ってバースにいく場合、バースの手前にあるのがチプナム駅で、そこからタクシーで15分くらいのところにキャッスルクームがあります。ロンドンから2時間足らずの距離なので、バースとキャッスルクームを合わせて日帰り件といったところです。チップナムからの道は、起伏の少ない緑の中を走ります。

コッツウォルズ全体が、このような丘陵地帯のようですが、どうもイングランド全体が、起伏の少ない土地のように思います。日本で、列車に乗ると、山が見えないところはほとんど無いように思いますが、イギリスでは、逆に丘程度の起伏しか見当たらないように感じます。よく、日本とイギリスは狭い島国で似ているといわれますが、利用できる土地の広さは圧倒的にイギリスが広いように思います。

 蜂蜜色の建物ですが、思ったよりずっと狭い所に残っているだけで、周りは延々と緑の丘が続いています。中心となるマナーハウスも、同じように蜂蜜色をした石造りで、ツタの緑とのコントラストが美しい建物です。

マテーラとの印象の差はこの緑の有無のようです。マナーハウスに立ち寄ってアフターヌーンティーを楽しみましたが、これが日本人の感覚では半端な量ではありません。3段重ねのトレイにサンドイッチ、スコーン、ケーキのほかに果物もあったように思います。ちょっと早い夕食って分量です。ところで、イギリス人って、サンドイッチというときゅうりを挟むのですが、美味しさが理解できないのは民族差なのでしょうか。

 さて、列車を乗り継いで、本題の世界遺産のバースです。バースの地名は、英語のbathの語源であると誤って伝えられることもありますが、実際は温泉の湧く土地なのでBathという地名になった、といのが本当のようです。温泉の歴史は古く、紀元前からケルト人によって利用されていたそうですが、温泉の保養地として発展したのはローマの支配下になった1世紀頃とされています。ローマのカラカラ浴場やチュニジアにもローマ時代の遺跡として浴場がありましたが、ローマ人ってお風呂好きだったんですね。
 ローマの支配後は、廃れていた温泉も、17~18世紀に温泉保養地として復活し、蜂蜜色の町並みも作られたようです。駅の北のほうにある石造りの橋も周りの建物と調和しているようです。

 ローマ様式の浴場が残されて観光名所になっていますが、入浴はできません。凝った造りの温水プールって感じです。

 駅の正面から1本西の広い道を北北西にたどると、円形の広場に突き当たります。この広場を囲んでThe Circusという建物があります。ロンドンにのピカデリーサーカスには湾曲した壁面を持つ建物がありますが、こちらの建物は、広場への3箇所の出入り口で切れている以外は、完全に円形で広場を囲んでいます。

これだけ完全な円形の建物も珍しいのではないでしょうか。建物の切れ目の道を西に行くと、Royal Crescentがあります。こちらも円形の建物ですが、南側の無い半円状で、このため三日月(Crescent)と呼ばれています。この二つの建物は、なんと親子の建築家が設計したそうで、The Circusが父、Royal Crescentが息子の設計になるそうです。Royal Crescentの端の部屋は博物館になっていて、18世紀に作られた頃の生活様式が再現されています。驚くのは、その部屋以外は現役の住居として使われていることです。木と紙でできた家屋と違い、朽ちてゆかないためでしょうが、古いものを大切にする文化のためでもあるのでしょう。

 このブログのもう一方のテーマで訪ねる日本の町並みの古民家群は、訪ねてみると新しい家並みになっていてガッカリすることも多いものです。現役から外れて、資料館の名前を付された博物館となっていることもあります。博物館になった場合は、建物が残されるので救いがありますが、プレハブ造りの家並みになってしまうと、なにか貴重な財産が失われたような気がします。たしかに、新しい家は一見合理的で、住みやすいようにも思いますが、日本の風土に本当に合っているのか疑問にも思います。日本人は、古いものを大切にする面と、新しいもの好きの面との2面性があるようで、ITをこれまでに発展させたのは、後者の面が影響しているようです。しかし、このところは古いものを大切にするのは、自分の身の回りから距離のある物に向けられるようで、身近なものは新しい物質文明を追い求めているように感じてしまいます。