世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

七福神に誘われて巡った深川ですが、七福神以外にもいろんな発見がありました

2024-04-07 16:18:16 | 日本の町並み
 前回は近鉄の大和西大寺駅と奈良駅との間の北に広がる佐保路、佐紀路を紹介しました。多くの古墳群に加えて、首をかしげてほほ笑む秋篠寺の伎芸天もこのルートの魅力を高めているように思います。伎芸天は名前の通り芸事の仏様と言われ芸能界でもお参りに来る方も多いそうです。芸事の神さまというと、よく知られているのは弁財天のほうで、七福神にも入っています。お正月にはこの七福神を順に巡ることが初詣の一つになっていますが、東京近郊で調べると、ずいぶんと多くの七福神めぐりが存在するようです。今回は江東区にある深川七福神について紹介します。

 
 
 深川七福神は、地下鉄の門前仲町駅から森下駅まで5km程の道のりにある七福神です。どちらの駅をスタートしてもいいのですが、筆者は門前仲町の駅から歩き始めました。駅の近くにあるのは深川不動尊で初詣で長蛇の列でしたが、こちらには七福神はありません。お隣の富岡八幡に移動して本堂の裏手に回ると、小さな社に七福神の中で唯一の日本の神様である恵比寿さんが祭られています。富岡八幡は江戸三大祭の深川八幡祭りで有名ですが、恵比寿さんの社の付近はお正月だけにぎわうのでしょうか。

 
 
 400m程北に行くと冬木弁天堂でその名の通り弁財天が祭られています。弁天様の雰囲気とは違った怖い顔の獅子の像が版をしていました。500m程西に行くと清澄通りに出ますが、次の七福神の手前にえんま堂があって、巨大な閻魔像が参拝者を睨みつけています。

 
 
 えんま堂を通り過ぎると心行寺で境内にある小さな六角の祠に福禄寿が祭られています。福禄寿と寿老人は中国が起源の神様ですが、よく調べてみると同じ神様ではないかともいわれていて、七福神ならぬ六福神なのかもしれません。清澄通りを北に行って東に800m程で次の七福神の大黒天ですが、その手前に曲亭馬琴の生誕の地の記念碑があり、戯作者らしく和綴じ本を積み上げた形をしています。さらに、その先には小さな深川歯神様の像があり、この像の歯の部分をブラシでこすると虫歯にならない、歯医者顔負けの神様があります。

 
 
 大黒天があるのは円珠院で、境内には間宮海峡を発見した間宮林蔵の墓があります。大黒天は、国産の神様、因幡の白兎の大国主の尊と混同されますが、七福神の大黒天はインドの神様です。円珠院の先を北に回り込むと龍光院の毘沙門天です。毘沙門天は北を守護している四天王の一つの多聞天のことで、音訳をしたものが毘沙門天で意訳をしたものが多聞天です。

 
 龍光院を出た後は、次の布袋尊までは1.3kmでひたすら西に歩くのですが、途中に昨年暮れに亡くなった寺尾関の錣山部屋のそばを通ります。外観からはマンションの一角で看板が無ければ、相撲部屋とはわかりません。この辺りは隅田川にも近く、布袋尊の先では隅田川を行きかう松本零士デザインの水上バスが通っていきました。
 
 
 布袋尊のあるのは深川稲荷神社で無住のこじんまりとした神社です。お堂の右側には布袋尊の石像が置かれています。この布袋尊は中国では遠い未来に現れるという弥勒菩薩の生まれ変わりと言われて尊重されていますが、乞食坊主をみて誤解しただけとの説もあります。最後の寿老人の祭られる深川神明宮までは万年橋を北にわたって600mほどで、神明宮は深川で最も古い神社なのだそうです。寿老人は境内の右手の寿老神社にお祭りされています。境内にある手水に浮かべられた花々がきれいでした。

 7という数字が縁起がいいという由来は諸説あって、その中には七福神に由来するとの説もあります。宗教にまつわる説が多いようで、旧約聖書の神が世界を作った時に6日間で作って7日目を安息日としたとの説や、仏教の尊い宝物を七宝として敬うことなどがあります。天文学では太陽を含めて惑星の数が7(おそらく(天王星と海王星は未発見の頃の説)や月の満ち欠けが7日を周期とすることなどです。国が違えば縁起の良い数字も違うようで、韓国では3がよく、中国では8とのことですが、古くは9であったようです。我が国の江戸時代まで使われていた時刻の呼び方は真夜中の0時を九つそして2時を八つ(9の2倍の18の十のけたを省略)と呼んでいたのは中国の影響ともいわれています。宝くじを買うときに縁起の良い数字を選ぶ人もいますが、当たりは一様乱数で選ぶので偏りはないはず、ただコンピュータは内部を2進数で扱うので10進数の7は[111]と3桁のぞろ目、何か関連があるでしょうか。

佐保佐紀路は、仏像あり建築あり、古墳もあり、さらに遺跡もありで盛りだくさんの散歩路、途中をバスでワープすれば歩く距離もさほどではありません

2024-03-24 08:00:00 | 日本の町並み
 壱岐の島の中央部には長崎県で最大の古墳など、多くの古墳が集中して、重要文化財を含む多くの出土品が発見されていました。古墳群と聞くと世界遺産の仁徳寮などがある大阪府南部を思い起こしますが、古代政権の都であった平城宮の近くにも大きな古墳があります。今回は、奈良市内の喧騒から離れて、散歩にも向いている佐保佐紀路周辺を紹介します。

 
 
 散歩のスタートは近鉄の西大寺駅で、南に行くと垂仁天皇陵ですが、ここでは北に行って秋篠寺にお参りします。首を傾げた伎芸天像で有名で、芸能人が数多くお参りをするそうです。奈良時代に作られた脱乾漆像の頭部が、鎌倉時代に補修された木彫の胴体がの上に乗っかっていますが違和感はありません。すぐ東には競輪場がありますが、苔むす庭など、お寺の周辺は別世界です。競輪場のさらに東には神功皇后陵などいくつかの古墳があり、南に下ると平城宮後になります。

 
 
 平城宮後は東西1.5km、南北1km程のエリアで、朱雀門や大極殿それに東院庭園などが再現されていて平城宮歴史公園になっています。ただ、これらの建物が建つ以外は野っ原が広がるだけで、かつての平城宮の繁栄はしのぶことは難しい状況です。おまけに再建された朱雀門のそばを近鉄電車が横切っていきます。



 平城宮跡の北辺の路を東に1km程行って北に上がるとウワナベ、コネベの2つの巨大な前方後円墳が並んでいます。平城宮の北側に散在する古墳群の中でも最大の古墳の一つですが、被葬者は誰なのかは割っていないようです。コナベ古墳の北西には仁徳天皇皇后陵とされるヒシアゲ古墳もありますが、知名度はウワナベ、コナベ古墳ほどではないのは、墳丘の周りの水豪が枯れてしまって絵になりにくいからでしょうか。この3つの古墳に囲まれているのが航空自衛隊奈良基地ですが、なぜか滑走路は見当たりません。

 
 自衛隊の正門から南に延びる道を行くと海龍王寺と法華寺とが並んでいます。海龍王寺は国宝の五重小塔が有名で西金堂内に収められられた4m程の高さで、工芸品ではなく建造物として指定されています。お隣の法華寺は、光明皇后を移したとされる秘仏の十一面観音像が有名で、全国で7体しかない国宝の十一面の一つです。春と秋との開帳の時に拝観しましたが、和辻哲郎や亀井勝一郎が絶賛したほどは感激がなかったのは、手が異常に長く、表情もやy不気味だからでしょうか。

 
 法華寺の南の四つ辻を東に400mほど、北に曲がって200mほどにあるのが不退寺で、ちょっと地味なお寺ですが、本堂や多宝塔それに石棺は重文で、在平野業平が暮らしたという伝説もあるお寺です。こじんまりとした本堂はそれなりに存在感があります。

 
 元来た道を戻り、さらに東に1kmほど、北にお曲がって300m程行った突き当りに興福寺ならぬ興福院があります。拝観には予約が要り、地味なお寺ですが、遠州好みのお庭を煮ながら静かに一息入れるのにいい場所かもしれません。元来た道を戻って、車の多い道をひたすら東に1km程行くと突き当りが東大寺の転害門です。東大寺の大仏殿は、あまりにも有名ですが、1年に1度だけ大仏殿の正面にある小窓からお顔を見られる日があるのです。お盆の夜間拝観の時なのですが、大仏は、大仏殿の中から見上げることしかできませんが、この日だけは真正面から見ることができます。また、」ライトアップされた大仏殿も大きさが強調されて見ごたえがあります。

 
 
 大仏殿は何度も火災にあって、現在の大仏は、頭部は江戸時代、胴体の大部分は鎌倉時代で、台座の一部などに建立当時の天平時代の部分が残っているようです。天平仏像というと、聖林寺の十一面観音や新薬師寺の十二神将などに代表される仏像で、大仏ができたころのお顔はもっと凛々しかったのではないでしょうか。大仏殿も江戸時代債権のもので、創建当時の2/3の幅しかないのだそうです。よく、大仏殿は瀬かい最大の木造建築と言われますが20世紀には大仏殿を越える木造建築も出現していて、正確には世界最大の木造軸組建築なのだそうです。大型コンピュータの黎明期にコンピュータの共同利用で大きな比重を占めていたのは建築業界の強度計算だったそうです。コンピュータもない天平時代に、火災以外で壊れたことが無いあれだけの大きな木造建築を作れた技術基盤はどこにあったのでしょうか。

壱岐の島の中央当たりにある多くの古墳群は路線バスで行くと不便ですが、木漏れ日の中を森林浴をしながら散歩をすると気持ちのいいものです

2024-03-10 08:00:00 | 日本の町並み
 前回は辞し倭人伝にも記述されたと推定される一支国の遺構と思われる原の辻遺跡周辺を紹介しました。原の辻遺跡は弥生時代の遺跡ですが、その次の時代は古墳時代となります。古墳というと近畿一円、それも奈良周辺を思い浮かべますが、壱岐には256基が現存するそうで、今回は国の史跡に指定される6基の古墳が集中する、壱岐の島中央部を紹介します。

 
 古墳群は、郷ノ浦と勝本を結ぶ路線バスのうち、内陸部を走る路線の中央やや北寄りの壱岐風土記の丘のバス停がスタートポイントになります。このバスの本数がまた少ないんです、郷ノ浦と勝本を結ぶバスが2~3時間に1本で、その半分は海岸よりを走って風土記の丘には寄ってくれません。ただ、レンタカーで回るのも不便なんです、古墳群は散在していて、車の入れない山の中なので、ゴール地点から注射をしているところまで歩いて戻ることになるからです。風土記のお赤には、古民家を移築した資料館がありましたが、コロナのせいでしょうか、残念ながら現在は閉館中です。

 
 
 
 風土記の丘のそばにあるのが掛木古墳で7世紀に作られと推定される円墳です。石室内にある石棺は長崎県唯一のくりぬきで作られたもの。そこから森林浴コースと呼ばれる林の中の散歩道を南南東に下っていくと、最初に現れるのが百合古墳群で、小規模の古墳が斜面に23基も集中しています。百合古墳群のジグザグと下っていくと、河童が人間を生け捕りにしという池があった生池の跡があり、小さな石塔が立っています。平地になった道を西に行くと笹塚古墳で、二重構造の円墳です。ただ、古墳は雑木林に埋もれていて、全容はよくわかりません。この石室からは、数多くの亀型の金銅製品などが出土して重文に指定されています。

 
 
 
 
 来た道を少し戻り、南に曲がって、車道を横切り、さらに南に行くと長崎県最大の前方後円墳の双六古墳に出ます。こちらは、野っ原の中央に古墳があるので、全容が分かりやすいし、古墳の周りを一周できます。関市tsには入れませんが、伸びやかな感じがします。車道に戻って、車道を東に進むと鬼の窟古墳で、前室、中室、玄室の三室を持つ長さ17mの石室は九州でも屈指の規模を持つ物です。ただ、この古墳も林に埋もれて全体像はよく見えません。古墳群を後に車道を進むと、壱岐国分寺跡がありますが、広場に石仏と基石らしき物があるだけです。この国分寺跡の入口近くにへそ石と顎掛け石と取り巻くように石仏軍があります。へそ石は大きな石のてっぺんに擬宝珠状の石が乗っかりへそのような形をしているからのようです。一方の顎かけ石は、力自慢の大男が海岸で拾ってきて、自分の顎がかけられる高さに建てたものとの逸話があります。最後が国方主神社で、入口の普通の大きさの鳥居に加えて、境内にはちっちゃな鳥居があって、おそらくこれを来ぐることができれば、いいことがあるとのことのようです。

 
 双六古墳は「そうろく」と読むのだそうですが、最初にガイドを読んだ時には「すごろく」と読んでしまいました。祭られている人が双六が好きだったのかなと思ったりしました。枕の壮士にも登場する双六ですが、中国から伝来したのは7世紀ごろと言われるので、双六古墳が出j来た頃に伝来していたか微妙です。双六にはサイコロがつきもので、通常は正六面体で1~6までの数字がランダムに出てきます。一方、統計学などで疑似乱数を得るには正十面体のサイコロが使われ0~9までの乱数が得られます。学生の頃に疑似乱数を用いたモンテカルロ法というコンピューt・シミュレーション手法使ったことがありますが、これはコンピュータで疑似乱数を発生るもので、サイコロを振った結果を振った数値を入れるわけではありません。手間のことを考えれば、サイコロを使うのは非現実的ですが、果たしてコンピュータが出してくる乱数とサイコロの目の乱数と、どちらが偏りがないでしょうか。

壱岐には朝鮮通信使が立ち寄った時代よりももっと古く、弥生時代の魏志倭人伝に記述のある一支国の遺構とされる原の辻遺跡があります

2024-02-25 08:00:00 | 日本の町並み
 室町時代に始まった朝鮮通信使は対馬を最初の中継地として島伝いに九州に到達しましたが、対馬の次の中継港が壱岐の勝本でした。現在の勝本浦には通信使の遺構は残っていないようですが、もっと古い魏志倭人伝に出てくる倭国の島国の一大国、後の史書では一支国(いきこく)が壱岐であるとの説があります。そして、壱岐の原の辻遺跡がこの一支国の跡であると1993年に長崎県教育委員会が発表して話題となりました。今回は、一支国の遺構とされた原の辻遺跡の周辺を紹介します。

 原の辻遺跡は、壱岐の南東部のやや内陸にあり、壱岐にある旅客扱いする港で唐津からのフェリーが発着する印通寺港の北3km程の所にあります。公共の路線バスの頻度は極めて少なく、原の辻を経由するバスは一日に数本しかないので、バスダイヤとにらめっこしてパズルを解くか、タクシーやレンタカーを利用することになります。

 
 路線バスを下車したところにあるのが、原の辻ガイダンスで、原の辻一支国王都復元公園のガイドのために作られた施設です。原の辻遺跡の発掘の歴史や復元公園整備の記録が展示されています。また、壁には壱岐でよく見かける鬼凧が飾られていました。これは、昔に壱岐で人々を苦しめていてた悪毒王という鬼の首領の伝説に基づくもので、都から派遣された若武者に首をはねられて、首が天高く飛んで行ったという言い伝えを凧にしたものでしょうか。

 
 
 
 
 歴史公園は、原の辻ガイダンスの建物とは道路を挟んで東側の、少し高くなった台地の上に南に向かって開けていて、環濠集落は東西に350m、南北に750mの大きさで、この集落の東側に魏志倭人伝に記述されている国境警備の役所があったと推定されています。また、集落の北西には日本最古と言われる船着き場の跡も残っているそうですが、現在の幡鉾川沿いに海に出ていたのでしょうか。

 王都復元公園は、時代は原の辻遺跡よりもっと古い遺跡ですが世界遺産の青森にある三内丸山遺跡のような感じです。発掘調査で見つかった柱の跡などから、建物の規模を推定して復元したと思いますが、三内丸山遺跡の時も思ったのですが、建物の高さ方向はどうやって推定したのでしょうか。こちらでは高床式の倉庫のような建物が多く復元されていたようです。また、復元住居の中には、かつて住んでいたであろう人々の人形も復元されていて、その様子が、なんとはなくほほえましく思いました。

 
 原の辻の発掘調査で発見された多くの石器や土器などの出土品は、復元公園の北北東1.5km程の標高60mの丘の頂上にある一支国博物館で保管展示されています。独立峰のような丘で、博物館の展望台からの景色は雄大です。復元公園も、それぞれの復元家屋ははっきりはしませんが、その大きさが把握できます。展示品はさほど多くなかったようで、弥生時代の原の辻遺跡からの出土品に加えて、古墳時代の双六古墳などから出土した青銅器などでした。三内丸山の博物館でも、バックヤードにおびただしい収蔵棚に置かれた出土品の多さに驚かされましたが、一支国博物館でも巨大な収蔵棚に多くの出土品が置かれていて、整理が進むと新しい発見があるかもしれません。

 
 一支国博物館の展望台から、復元公園都は反対側の海の中に小さな島が見え、何やら鳥居も立っています。丘を下って2.5km程先にあるのは小島神社で、沖合200m程の直径が50mほどの島に建つ神社です。この小島は壱岐のモンサンミシェルと呼ばれていて、干潮の時にだけ陸から歩いて渡ることができ、満潮時には海に漬かっている鳥居のそばを通って、島のてっぺんにある神社に参拝できます。

 原の辻遺跡では、かろうじて魏志倭人伝という文字情報が残されていますが、我が国の文字情報は古事記や日本書紀を待つことになります。それ以前の歴史は、出土したり遺跡の調査で現れる地面など、物理的なものがすべてで、この物を頼りに玄室がどうであったかを推定することになります。時代の推定には放射性炭素を使うことがよく知られますが、物理、化学の分野での最新の技術が総動員されるようです。それでも、曖昧さは残り、哲学的な推論で、仮説が立てられ、論戦にまで発展しています。コンピュータの分析手法の一つにインテリジェントマイナーというのがあり、一間関連性が無い事象の間に、ある関連性が存在することの発見に使われます。自動改札の通過データが、本人に無断で売り買いされているのは、この解析のためのデータの一つです。考古学でもこのような解析手法が使われているのでしょうね、おそらく生成IAは使われていないと思いますが。

壱岐の中で旅客船ではなく漁業の港として栄えている勝本浦には海に沿って弓なりに通る旧道沿いに平入りの古民家が軒を連ねます

2024-02-11 08:00:00 | 日本の町並み
 室町時代に始まって江戸時代まで続いた朝鮮通信使の最初の寄港地が対馬でした。対馬には通信使ゆかりの施設が残り、現在も韓国の観光客が島中にあふれている感じがします。この通信使一行は、港伝いに大阪まで行って、最後は江戸まで到達していたようですが、今回は通信使が対馬の厳原の次に寄港をした壱岐の勝本を紹介します。

 壱岐は北側にある対馬が南北に長いサツマイモのような形をしているのに対して、ジャガイモのような丸い形をしています。いくつかある港のうち、最も開けているのが南西にある郷ノ浦で、島内の路線バスの大部分は、この郷ノ浦を起点にしていますが、バスの本数はきわめて少なくて、最も頻繁な路線でも2~3時間に1本の割合です。路線バスのメインは郷ノ浦を出て郷ノ浦に戻る一周路線で、右回りと左回りがあり、ほぼ中間にあるのが島の北端の勝本です。壱岐の中で対馬から最も近い港なので通信使の2番目の寄港地になっていたのかもしれませんが、対馬と違って、使節使関連の遺構は見当たりませんでした。

 
 
 壱岐には九州からや対馬からの客船が入港する港は3港ありますが、勝本港は基本的には漁港なので客船は入港しませんが、辰の島行きの観光船が出ています。この辰の島は、玄界灘に浮かぶ無人島で、夏の間は海水浴客でにぎわうようで、海水浴客用の施設も用意されているようです。海水浴シーズン以外でも魅力的な島で、海の色が絶品なのです。また、上陸してハイキングで行く蛇の谷の絶壁も一見の価値ありで島の周りを遊覧して上陸するユウランコースはお勧めコースの一つです。ただ、蛇の谷の絶壁は高所恐怖症の筆者は少々怖かったのですが。

 
 
 
 
 
 
 この勝本浦は、朝鮮通信使の寄港地というだけでなく、秀吉の朝鮮出兵の補給基地として、また江戸時代には鯨量で栄えた壱岐の中では早くから発展した港だったようです。最近ではブリやイカなどの沿岸漁業の基地といて潤っているようです。この、勝本浦の古い町並みですが、漁港に至る旧道沿いに平入りの民家が軒を並べています。バスなどの大型車は、旧道より海寄りの道路ができて、この旧道には入ってきませから、川越のように車を気にしながら散歩する必要はありません。この町並みでは朝市が観光客を読んでいるようですが、訪問した時は昼前だったので、ほぼ店じまい準備状態でした。ちょうど、近くの神社のお祭りだったようで、万国旗が道路を横切ってまで飾られていて、ちょっと古い町並みにはそぐわない風景の感じもしました。

 壱岐の島内を走る路線バスは過疎化に加えて運転手不足が追い打ちをかけて、路線の維持が難しいと乗車した運転手の方が話していました。路線バスのマインルートと思われる一周路線でも、乗客は10人どころか数人で、途中で下車した後は乗客無しで走り去っていました。路線バスが不便だから、自家用車を利用し、そのことが乗客の減少を招いて、バスの本数が減って、さらに不便になるといった悪循環です。無人運転の技術が進んでいますが、田舎の細くて曲がりくねった道路で、どこまで安全に走れるのか疑問です。観光客はレンタカーかタクシーを使い、住民は人が動かないで、物を動かすようにしたほうがいいのかもしれません。

室町時代から続いた朝鮮通信使の入口は、その面影を残しているだけでなく、九州より韓国に近い制もあって観光客は日本人より韓国人のほうが多いようです

2024-01-28 08:00:00 | 日本の町並み
 前回は江戸時代に外国への唯一の門戸であった長崎を紹介しましたが、対オランダと中国とは長崎が出入口でしたが、お隣の朝鮮との窓口は朝鮮通信使の最初の寄港地であった対馬でした。対馬には今も朝鮮通信使関連の施設や資料が数多く残っています。今回は、朝鮮通信使の歴史館もある対馬の中心地である厳原周辺を紹介します。

 対馬はな行政的には長崎県なのですが、距離的には福岡に近く、高速フェリーも福岡港から壱岐を経由して4時間ほどで運行されています。一方、空路は長崎県ということもあってか長崎空港と福岡空港からDHC8が飛んでいます。南北が80kmあまり、東西は20kmに満たない南北に細長い島で、万関水道で上下の島に分かれています。島で唯一の空港は下(南)島の北端あたり、厳原の町は下島の東海岸の中央当たりにあります。九州との間は130km以上もありますが、韓国の釜山との間は50km程で高速船で1時間半の距離です。釜山とのフェリーは、上(北)島の北端にある国際港から出ていますが、島内バスの国際港行きに乗ると、韓国からの観光客であふれていて、いまだに少々マナーの悪さが気になります。この近さが、朝鮮通信使の玄関となったのでしょう。

 
 
 
 
 朝鮮通信使歴史館は、厳原の市街地の西にそびえる有明山の麓にあり、表には朝鮮国通信使之碑と刻まれた石碑があります。館の内部は通信使の歴史が展示されていて、通信使の服に着替えて写真が撮れるコーナーもあったようです。歴史館の前をそのまま西へ行って突き当りが万松院で対馬藩藩主の宋家の菩提寺です。本堂横の少々きつい階段を上っていくと天然記念物の大杉が立っていて、それを通り過ぎたころに歴代藩主夫妻の墓石がずらりと並んでいます。万松院の手前を左に入ると旧金石城の庭園跡で、長く土砂に埋まっていたものが発掘調査で出現したそうです。この庭園跡のさらに東には金石城の楼門が復元されています。また北側には対馬博物館があって、対馬の歴史や自然が紹介されています。

 
 
 博物館の裏手の険しい道を上っていくと、清水山城の跡で朝鮮出兵の時に築かれたという山城で、三の丸、二の丸そして本丸跡という石垣も少しは残っていますが大半はがれきに近い状態の石の塊が残っています。二の丸までを往復しましたが、こんな険しいところに城を作らされたのは大変だったのではなかろうかと思います。万松院の方の「簡単に上れますよ」との言葉で上ることにしましたが、三の丸まででもかなりきつく、ガイドブックによると、ちょっとした登山の心構えだと書かれてました。ただ、上からは厳原の町並みや、その先の玄海灘まで見渡せる絶景が開けていました。

 
 
 朝鮮通信使をもてなしたのは、市街地の東側にある国分寺で会ったそうで、お寺そのものは明治の火事で焼失し、本堂などはその後再建されたものですが、焼け残った山門だけが江戸時代の面影を伝えています。また市街地を2km程南に行った久田川の河口には対馬藩お船江跡があります。江戸初期に作られた船の係留港と造船所を兼ねた跡で、4つの突堤の大部分は石組もしっかりと残されています。ずいぶんと大きなもので、ここを起点にして朝鮮半島まで船出をしていったのでしょうか。

 
 
 
 
 
 
 厳原の市街地には八幡神社などの神社も多く、石塀の続く武家屋敷通りなどもあります。市街地の北には、武家屋敷の門が2つ、家老家の長屋門と旧藩主の門から藩校の門になった旧日新館門が車の行きかう表通りに面して立っています。また、武家屋敷通りの近くには、樋口一葉の師匠であった半井桃水の生誕地とされる生家跡が地域コミュニティのセンターとなっていました。

 朝鮮通信使の船は玄界灘を渡るといっても50km程ですから、方向を見誤ったということはなかったでしょうが、それより昔の遣唐使船は沿岸伝いに航行する航路のほかに東シナ海を横切る場合もあったそうです。航路を誤ったわけではなく、荒らしなどの影響もあったのでしょうが、空海の船も寧波ではなくもっと南に到着ではなく漂着したそうです。現代の船はGPSなどで自分の位置がわかり加速度センサとジャイロを併用してさらに正確に目的港に入港できるのでしょうが、当時の船は北極星などの磁石や天測などで方向を定めて板のでしょうか。ただ、地球年齢で考えると、磁石の指す北磁極も北極星の位置も不変では無いのですが、人類の歴史程度の尺度ではほぼ不変の指標なのでしょう。

観光客であふれている長崎の新地中華街の奥にあるかつての色町の丸山地区では観光客は見かけませんが見どころがたくさんあります

2024-01-14 08:00:00 | 日本の町並み
 東京四宿の一つで日光街道の最初の宿場跡の千住には、色町をはじめ、いろんなゆかりのある場所がてんこ盛りでした。かつては江戸の場末だったのか小塚原の刑場跡まであります。この経常跡では、後に解体新書を執筆するきっかけとなった杉田玄白などの腑分け(解剖)の立ち合いがありました。江戸時代の西洋医学はオランダから長崎のみに入ってきたわけです、オランダが唯一の利権を得ていたのは、ずいぶんと黒い部分があったようですが、今回は入口の長崎の出島の山の手、それも千住宿の色町つながりで丸山界隈を紹介します。

 
 
 
 長崎は路面電車が健在で、その理由はいくら道路が渋滞していても軌道敷きには車を入れさせないからです。大都市で次々と路面電車が廃止されたのは、その逆で軌道敷きに車の乗り入れを認めて、電車が身動きできなくなったからです。長崎では、道路が混む時間でも、路面電車はすいすいと走るので、最も早くて便利で、地下に潜らなくて済む乗り物です。江戸時代にオランダからの入口となった出島は、この路面電車の新地中華街ですが、この電停を出島と反対側を中華街を右手に見ながら北東方向行くと丸山になります。銅座川沿いに行って路面電車の思案橋電停から南に延びる道とぶつかるところに丸山公園があります。公園の周りにはカステラの老舗の福砂屋本店があり見返り柳や変わった建物の交番が建っています。交番の横の路地を突き当たると料亭の花月で遊女屋の引田屋の名残です。

 
 
 
 
 花月の前の道を左右と鍵の手に曲がって上っていくと、梅園身代わり天満宮があり、境内には七力稲荷などの付属の神社や、天神さんにつきものの牛が寝そべっています。この牛の一つは撫で牛とと言われていて、さらに天神さんにつきものの梅にちなんで梅塚など狭いい境内にはいろいろな物が建っています。梅園身代わり天神はには逸話があり、ある日、賊に襲われた主人公が自邸に担ぎ込まれたが、傷一つなくて済んだのだが、自邸内の天神様が地を流し身代わりになっていたというものです。

 
 
 その先には小説の長崎ぶらぶら節の石碑もあり、上り切ったあたりに、中の茶屋があります。中の茶屋は、遊女屋の一つが江戸時代に建てた茶屋で、文化人のたまり場になっていたところだそうです。残念ながら江戸時代の建物は昭和46年に類焼で失われ、原罪の建物はその後の再建です。ただ、庭園は長崎品では寺院を除いては数少ない江戸時代駐機のものが残されています。

 
 
 坂を下っていくと寄合町で寄合町稲荷神社の玉泉神社があり、近くの祠には寄合町地蔵尊がひっそりと建っています。この地蔵尊は江戸時代に冤罪を晴らしてくれたというご利益のあるものだそうですが、なんとはなく地味な存在のようです。西に進むと江戸時代にオランダと並んで入国できた唐人の屋敷跡があり、北東に進むと中華街を経て、出発点の新地中華街の電停に戻ります。

 天満宮の境内には臥牛の像がつきものですが、そのいわれはいろいろあるようです。単純には菅原道真が丑年だったいうことですが、菅原道真を祭る北野天満宮は雷神を祭っていたいた場所で、後に道真と雷神が同一化されていきます。ヒンドゥー教の雷神にささげられていたのが白い牛であったことからという説もあります。道真はきわめて頭脳明晰な人物でしたが、その才能をねたんだ権力者の藤原氏に疎まれて失脚してしまいました。道真の場合は、権力者にとって都合が悪かったわけですが、日本ではすぐれた能力があっても、それに見合う待遇が受けられない悪平等がまかり十ているように思います。コンピュータをはじめ、先端分野の優れた技術者は、どんどん日本から逃げ出しかねない状況を憂います。

芭蕉が奥の細道のスタートポイントとした千住宿には芭蕉の旅立ちの碑だけでなく町中に説明パネルや石碑が建っています

2023-12-17 08:00:00 | 日本の町並み
 地名の由来の板橋はコンクリート橋に架け替えられていますが、中山道の宿場町であった雰囲気を残す町並みが板橋でした。江戸時代の各街道の最初の宿場を江戸四宿といって板橋はその一つでした。残りの三つは品川、内藤新宿そして千住でしたが、今回はその千住宿の名残を残すJR南千住から北千住あたりを紹介します。

 
 
 
 スタートは、JRの南千住駅になります。駅の西の南に延命寺の首切り地蔵が北側には回向院とがあり、この近くにあった小塚原刑場の処刑人を弔うためだそうです。回向院の境内には、杉田玄白などが処刑された人を解剖し、後の解体新書の翻訳に結びついたという記念碑が建てられています。この回向院は両国にもあって、さらにネズミ小僧の墓と言われるものもどちらにもあります。両国の墓石のかけらを持っていると「運が強くなる」都の俗信から長年削り続けられた、現在のものは二代目だとかですが、千住のものにはそのような形跡は見当たりませんでしたJRの南側を西に行くと浄閑寺で別名投げ込み寺と言われるのは、安政の大地震の時になくなった多くの遊女の遺体が投げ込まれた悲しい歴史があるからだそうです。これらのいわれなどは、それぞれの場所に解説のパネルがあって、なかなか便利です。

 
 
 
 
 
 JR線を北側に越えると左手が三ノ輪橋駅で、唯一残る都電の起点の一つです。路面で電車都と言っても、大部分が専用軌道でそのために残ったといわれますが、併用軌道の姿もごく一部の区間で残り、これだけでも貴重な存在かもしれません。三ノ輪橋の電停を越えて北に進むと、左手に古寺を証明したという松のある向春院、少し行くと境内に彰義隊の墓のある百観音圓通寺が続きます。さらに進むと小塚原富士という藤塚のある素戔嗚神社、やがて隅田川の南に至り千住大橋で川を渡りますが、その前後に芭蕉ゆかりの石碑やパネルがあります。

 
 
 
 
 
 千住大橋を渡ると北千住の町並みで、旧日光街道は表通りからそれて商店街になります。紹介しきれないような数の説明パネルや石碑が次々と現れます。やっちゃ場の地、旧本陣跡、絵馬屋、古民家の横山家と下村家、江戸時代から続く名倉医院などなど、

 
 
 
 
神社仏閣では足立区最大の狛犬が居る河原町稲荷神社、東大ではない赤門の勝専寺、千住七福神の大黒天が収まる氷川神社、長延寺の門外には目やみ地蔵が境内には魚籃観音堂や六地蔵、道祖神らしき像もあります。

 俳句は世界一短い詩と言われていて、17文字ということは数学の組み合わせの数から、そろそろ上限が来ているのではないかと疑問が浮かびます。しかし計算上は、俳句の総数は17の50乗で、およそ10の61乗ですから、日本人すべてが1秒に1句作ったとしても10の45乗年程かかる計算です。もちろんこの中には「あ」が17文字並ぶ句も含まれますが。短い詩であることから北海道大では「AI一茶くん」という俳句を作る人工知能が開発されています。作成された俳句は、専門家が見ても、りっぱな出来栄えとのことですが、俳句を作る元は過去の膨大な俳句のデータであって、目の前の景色や心情などではないのですから、形だけの美しさに過ぎないのではと思います。

板橋はコンクリート橋に架け替えられていますが、仲宿商店街の中にも中山道の宿場町の雰囲気が漂う板橋です

2023-12-03 08:00:00 | 日本の町並み
 中山道と日光例幣使街道の分岐点の宿場町の倉賀野には旧脇本陣の建物などの古い町並みが残っていました。中山道は日本橋を起点とする五街道の一つで、軽井沢あたりまでは現在の北陸新幹線沿いに伸びていましたが、都内では唯一の街道の宿場町が板橋宿になります。今回は、板橋の地名の元ととなった板橋が残る中板橋周辺を紹介します。

 
 古い町並みが残るのは都営地下鉄の板橋本町駅から板橋区役所駅の間の東側を地下鉄路線と平行に走る旧中山道沿いで、区役所よりは仲宿という商店街になっています。北側の環七通りから通りに入って200m程行くと縁切榎とそばに祠があります。男女の悪縁や断酒を願ってこの榎の樹皮を削ぎ落してひそかに飲ませれば効果抜群とのいわれがありますが、婚姻の時には縁起が悪いので、婚礼行列は避けて通るようにあり、皇女和宮の下向の際には迂回路まで作られたそうです。

 
 
 
 板橋の地名の由来となった板橋は現在も健在で、縁切り榎からさらに南に200mほど、石神井川に架かっていますが、板の橋ではなくコンクリートの橋になっています。

 
 
 ここから南が仲宿商店街で、基本的に商店が続きますが、ポツポツと板囲いの古民家が残っています。いくつかのお寺もあって、成田山の末寺となっている編照院は、江戸時代には板橋宿の駒つなぎの場所として使われたそうです。

 
 
 そして板橋区役所駅近くに土蔵造りのりっぱな商店が、周りの空気とは異なる雰囲気で存在感を示して建っています。大正時代に建てられた米屋で、現在はコメの販売を行われていませんが板五米店の名称でお弁当などの食料品が売られています。

 縁切りといえば、DVなどにより絶縁もその一つでしょう。いつも問題になるのが、加害者側からのアクセスを、いかに遮断するかで、被害者の所在を隠ぺいしたにもかかわらず、加害者に漏れてしまうということです。これは、現在のように情報が氾濫されいる社会では、むしろ遮断すること自体に無理がありそうです。SNSやLINEなどの情報や会員登録情報の名寄せでターゲットになる人物の住所などは簡単に分かってしまうそうです。また、システム管理者側からの情報漏洩も完全には止めることは不可能で、どのような組織にも数パーセントの不良分子が存在するという分析もあり、内部漏洩もありえます。このようなネット社会って、本当に幸せなんでしょうか。

中山道と例幣使街道の分岐点の宿場町だった倉賀野は日本に2台しか導入されなかった交換機が置かれた町でもありました

2023-11-19 08:00:00 | 日本の町並み
 かつては白砂青松の保養地だったようで著名人の別荘が多く建ったのが稲毛海岸でした。電電公社の無線局も、人口が少なくて雑音の発生が少ない地ということで稲毛近くに建てられ、現在のようなひきょになったのでしょう。無線局は、海に浮かぶ船との通信が目的ですが、固定電話の接続を司るのが交換機です。関東大震災を機に自動交換機が導入されたのですが、2024年から順次インターネットに切り替わり専用の電話交換機は姿を消してしまいます。ステップ・バイ・スッテップ交換機から最新のディジタル交換機までの歴史の中に中に、たったの2台しか設置されなかった交換機がケッログ製クロスバ交換機でした。2台ともに群馬県に設置されましたが、今回はそのうちの1台が設置された倉賀野の町を紹介します。

 現在の電話の交換機は、ダイヤルされた数字の全部を解析して、どの回線につなぐかを判断しており、その走りがクロスバ交換機でした。当時の技術陣はクロスバ交換機というふれ込みを聞いて勇んで導入しましたが、この交換機はそれまでのステップ・バイ・スッテップ交換機の回転スイッチをクロスバ・スイッチに置き換えただけのもの。その後に開発されたクロスバ交換機とは似ても似つかぬ装置で、融通性や発展性の無いしろもので、2台だけが継子として残っただけでした。

 
 
 さて倉賀野は、群馬県の南部の高崎市の一部で、上野からJR高崎線で行くと高崎駅の一つ手前の駅が倉賀野の駅です。旧中山道の宿場町で日光例幣使街道の分岐点として、現在も旧脇本陣の家が残っています。古い町並みは、高崎線の南側に平行に走る旧中山道沿いに伸びており、街道に出る手前には九品寺があります。九品寺は15世紀創建で、創建当時の領主の倉賀野家の菩提寺だったそうです。また町並みの向こう街道の南には、古い町並みよりも古い数多くの古墳も残っています。

 
 
 
旧脇本陣を含めて、町家の多くは土蔵造りに格子が連なる平入りで、道路からは茶色の世界です。ところが、この茶色の世界の中に、青や白の下見板張りのモダンな洋館も建っていて、面白いたい肥を作っています。

 
 
 
 
 古い町家のほかにちょっと違ったポイントをいくつか紹介しましょう。まずは目直し薬師です。民家の庭のようなところにある石仏で、眼病にご利益があるそうですが、石仏の前にある「め」の字を八つも並べた石碑が面白しろかった。同じように馬頭観音の石仏も、道路わきにぽ通と置かれていました。もう一つは、これも道路わきに無造作に置かれている庚申塔と道祖神で、安曇野の田んぼ路でよく見かけますが、これが町中に置かれています。同じ石づくりの常夜灯は、ちょっとした広場の中にありました。

 2024年からの電話網のIP網への移行では、またぞろ詐欺商法が横行しそうです。網はインターネットに移行しますが、電話機はそのまま使えます。インチキ商法では、電話がインターネットに移行するから、これまでの電話機はつながらなくなると言って、新しい電話機をバカ高い値段で押し売りしてくるものです。決して、このような悪徳商法に乗らないよう気を付けてほしいものです。これまでも、IP電話として、電話もパソコンもつながるサービスがありますが、各家庭に置かれたアダプタで電話機のインタフェースをIP手順に変換しています。2024年の移行では、このアダプタが電話局にあると考えればよく、変わるのは目に見えない場所だけで、固定電話は、何もいじらなくても、そのまま使い続けられます。