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世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

豊橋城は隅櫓が再建されてるだけですが城跡の公園の周りには見どころがたくさんあります

2025-08-31 08:00:00 | 日本の町並み
 浜松市楽器博物館、東京芸大と音楽の話題が続きましたが、音楽分野がテーマとなった朝ドラには「ピアノ」や音楽家が主人公の「エール」をはじめ4作品ほどがありました。ピアノで舞台となった大分県の杵築はすでに紹介していますので、今回は作曲家の古関裕而負債の主人公のエールで舞台となった愛知県の豊橋を紹介したいと思います。

 豊橋は、先に紹介の浜松が静岡県の西の橋で、愛知県の東の橋の豊橋とは浜名湖を挟んで向かい合っています。JR豊橋駅から東に一駅の二川駅の近くには東海道の二川宿跡が残っており、こちらも豊橋市内ですが、二川宿も紹介済みなので、豊橋市の中心部、吉田城跡の周りを紹介します。

 
 
 豊橋には豊橋市営の電車(狭義の市電)ではありませんが豊鉄の市内線という路面電車が残っています。東海道で唯一の路面電車ではないでしょうか。この路面電車を駅前から乗って、市役所前と電停と豊橋公園前電停の間に広がる公園が豊橋公園で、東西が500m、南北が300mほどある吉田城の跡になります。豊橋城は16世紀に構築され、江戸時代には吉田藩の居城として東海道の重要な防衛拠点としての役割を担ったようです。明治時代にまで城が存続しましたが、明治6年に火災によってほとんどの建物が失われました。戦後になって本丸跡に隅櫓が模擬再建され豊川沿いに建っているお城はこの建てんので内部は資料館になっています。

 
 豊橋城が築城されるよりも前にあったのが安久美神戸神明社で、明治期に陸軍の用地となったために現在のように公園の南に移転させられたそうです。建国記念の日に行われる豊橋鬼祭は国の重要無形文化財にもなっている平安時代から続く田楽で、徳川家康も観覧したのだそうです。

 
 ところで朝ドラとなったエールですが、公園の南西隅に吉田城三の丸御門跡が公園の入り口のようにありますが、ここから少し公園に入っていくと、エールテーマダーデンという花壇があります。

 
 エールテーマガーデンの真南の公園外には、ハリストス正教会の真っ白な建物と尖塔があります。ハリストス正教会は函館が有名ですが、こちらの教会もなかなかきれいです。

 
 
 正教会を西に行くと昭和初期に建てられた公会堂があります。スパニッシ・コロニアル・リバイバルという20世紀初頭にカリフォルニアで流行した様式で建てられ、600名収容のホールは現役で利用されています。この公会堂の西側には三角屋根がかわいいカトリック豊橋協会があり、下見板張りのレトロな洋館の喫茶店も建っています。また、公会堂の背後には市役所があり、庁舎の最上階にあるレストランは豊川を眺めながら美味しいランチが食べられます。

 路面電車は一時期は交通渋滞の元凶として追いやられましたが、公害の少ない乗り物として新規に導入される都市も出てきています。何本もエスカレータを乗り継いで地下深く潜らないと乗せてもらえない地下鉄よりもずっと楽に乗れるのも魅力です。日本の路面電車は乗車券のチェックのためか編成の短いのが泣き所ですが、ヨーロッパでは乗車券のチェックは入口の機械に券を差し込むだけなので、長い編成でも各車両に乗降口があって問題はありません。周りの乗客の目を不正乗車のチェッカーに使っているのでしょうか。多くの乗客が利用するので、出入国管理のようにコンピュータによる顔認識は無理でしょうね。

東京芸大音楽学部にある2棟の赤レンガ館は建てられた当時は音大のためではなかったようですが、学内の雰囲気にしっくりと溶け込んでるようです。

2025-08-10 08:00:00 | 日本の町並み
 ピアノの製造メーカーが集中する浜松に膨大な楽器のコレクションが展示されているのが浜松市」楽器博物館でした。これらの楽器を演奏する芸術家を育てていくのが音楽系の大学ですが、日本最初の音楽系専門学校として設立された東京音楽学校と美術の専門学校とが統合されてできたのが、現在の東京芸術大学です。今回は、東京芸大の音楽学部の構内に残された煉瓦造りの建物を中心に紹介します。

 東京芸大の音楽学部は、JR上野駅の公園口を出て噴水公園を通り抜け、国立博物館に突き当たったら左に道なりに行くと右手に門があるのが音楽学部、左手は芸術学部になります。開校は1890年ですから明治の中頃で、芸術学部の前身の東京美術学校の開港から3年後だったようです。開港当時の本館と奏楽堂は都立美術館の北隣に移設され現在も現役で演奏会などが開催されています。

 
 学外にある奏楽堂は東京音楽学校のために建てられたものですが、音楽学部に残る煉瓦造りの2棟の建物は開校前からあった別の用途のために建てられた建物です。

 
 
 
 このうち赤レンガ1号館は教育博物館書籍閲覧書籍庫として1880年に建てられました。1978年に取り壊されそうになりましたが、モルタル塗りの下jから煉瓦造りの建物が現れ取り壊しは中段、その後2005年に耐震補強され現在の姿になりました。明治初期の建築に多いフランス積みではなく煉瓦をイギリス積みをして建てられています。2階建てで事務所や談話室として使われているそうです。

 
 
 一方の赤レンガ2号館は東京図書館書庫として1886年に建てられました。3階建てで、3階部分には丸窓があります。また、なぜか入口を狛犬が守っています。現在は文化財保存科のアトリエとして使われているそうです。

 煉瓦造りではありませんが、正門を入って右手にはレンガ色のあたらしい建物があり、この1階には外部者も利用できる学食があり、美味しい昼食が食べられますが、学生向きの食堂ゆえに、やや量が多くて食べきれない時があります。

 奏楽堂には小ぶりですがパイプオルガンがあって、日曜日にはミニコンサートで音色も聴けるようです。パイプオルガンは数多くのパイプに風を送ってリコーダーとクラリネットのようなで原理で音を出します。鍵盤は音程を指示し、ストッーと呼ばれるキーを弾いて音を出すパイプを選択することで音色を決めます。シンセサイザーなど電子楽器もパイプオルガンを意識して作られていて、音源となるのはオッシレータ(発信機)からでる正弦波などの電気信号です。パッチパネルなどで音源の組み合わせを音色を決めて鍵盤などでメロディーを演奏します。電子回路でできているので、コンピュータプログラムで演奏することも可能で、ミスタッチのない演奏も簡単なようです。

浜松市楽器博物館は音楽好きなら1日居ても飽きないかもしれません

2025-07-20 08:00:00 | 日本の町並み
 柳川の名物にウナギのせいろ蒸しがありますが、ウナギというと養殖の盛んな浜松を思い出します。うなぎパイは東海道線でも名の知れたお土産の一つのようです。ウナギで有名な浜松ですが、ヤマハや河合といったガッキメーカーでも有名です。今回は、楽器の故郷らしく全国で唯一の公立楽器博物館を紹介します。

 浜松市楽器博物館は1995年に開館し1,500点を越える楽器が集められて展示されています。浜松駅から歩いて10分位とアクセスもよく、音楽が好きな方にはぜひとも一度訪問されることをお勧めします・また、展示だけでなくミニコンサートも開かれていて、筆者が訪問の時にはクリスマス関連の演奏を聴くことができました。

 
 
 
 展示は、その楽器のできた地域ごとにまとめられていて、展示数が多いのはさすがにアジアですが、次に多いのはヨーロッパで日本と続きます。アジアの展示ではインドネシアのガムラン音楽で使う楽器が広い場所を取っていたように思います。

 
 
 
 
 
 
 ヨーロッパの展示では、オーケストラで使うような楽器が歴史順に展示され、特に管楽器のコーナーでは、現在とは全く違った形の楽器が並んでいます。楽器の展示の間には、かわいい人形のオーケストラ等もあって楽しめます。

 
 
 
 
 圧巻は地下にある鍵盤楽器のエリアでmさすがにヤマハ、河合のおひざ元だけあってオルガンやチェンバロやピアノがずらりと並んでいます。中にはパイプオルガンも!と思ったらパイプはリードオルガンの装飾でした。ピアノのコレクションでは、中国アモイのコロンス島にある個人のコレクションが圧巻ですが、浜松もなかなか負けていません。学芸員による展示されているピアノを使った演奏もあって半日でも足らないくらいの内容でした。

 ピアノの調律で、基準となる音の高さを知る道具が音叉で、電子チューナーが普及した現在でもプロの調律師は音叉を使っているようです。調律師にとって大切な耳を鍛えるには音叉が適しているからだそうです。通常音叉はA(ハ庁のラの音)の440Hzの物が使われ、かつてラジオなどの時報で使われた周波数です。時計は数は数の制度が高いほど精度の高い時計ができ、実用的には水晶振動子を使ったクォーツが普及し、電子チューナーもこの水晶発振器で安定的な周波数の波を作っています。音叉の周波数の高精度なことを利用して、音叉時計なるものも作られましたが、耳に聞こえる音がなり続けるため普及しなかったようです。

柳川の水郷観光は、柳川駅から、往復で川下り舟からと掘割り沿いの散歩を組み合わせると支店の違った楽しみができます

2025-06-29 08:00:00 | 日本の町並み
 天皇が出家する内親王に贈った人形を数多く保存する宝鏡寺かいわいにはお茶の家元の千家関連の施設も多い一郭です。お茶席には季節の花がいけられることが多いようですが、おの「お花」という名称のお庭が福岡県にあります。旧柳川藩主の立花家の別邸です。今回は、この立花氏庭園のある柳川を紹介します。

 現在の柳川は合併によって市域が拡大し、西鉄柳川駅も柳川市に入りましたが、柳川と名前の付く鉄道駅は、廃線となった佐賀線の築後柳川と2駅もありましたが、ともに柳川市ではありませんでした。現在は市内となった西鉄柳川駅とて、市域拡大で市内となっただけに、「お花」のある中心部までは2km以上あります。ただ、この距離をバスなどで移動するのではなく、駅に近くまで延びた掘割を利用した川下り船があって、お花の近くまで、観光をしながら連れて行ってくれます。

 
 
 お花(立花氏庭園)は、柳川藩の居城である柳川城の西南隅に江戸中期に作られた藩主立花家の別邸跡で、明治期に伯爵となった立花家が新たに洋館や和館を建てて整備したものです。お花の名称は、地元でこの地が御花畑と呼びならわされてきたこととの説が有力ですが、裏付ける資料は乏しいそうです。お花を代表するような建物は洋館で、その右手には資料館があって、立花家代々の生活用具や遊び道具、茶道具などが展示されていて大名の贅沢さを垣間見られます。

 
 
 
 
 お花の周りにもある掘割ですが、掘割と言えばお城の堀の名残と思ってしまいますが、柳川の掘割はお城よりずっと歴史が長く弥生時代にさかのぼるようです。低湿地地で干満差のおおきな御有明海に面する柳川は、満潮時に海面下になってしまう場所が多く、降り割りを作ることで排水をしたのだそうです。なんと総延長が900㎞を越えるそうです。柳川観光は、この掘割が重要な役割を果たしていて、川下りの船に乗っても良し、掘割に沿って散歩をしても吉です。川下りの船に乗ったのはアナログカメラの頃で、写真が見当たらなかったので散歩の時の写真の紹介になります。

 
 
 船からは陸路では見ずらい場所や、低い視点からの眺めが楽しめますが、陸路での散歩では古建築や、記念碑などを巡ることができます。古建築はお花の北北西にある旧戸島家住宅で、江戸末期の侍屋敷です。藁ぶきの母屋や庭園が残されています。記念補は、同社社を作った新島襄ゆかりのカタルパの木というのがあって木も植えられていますが、柳川とのつながりはよくは分かりませんでした。柳川は北原白秋の生まれた町で、生家も残されていますが、面白いのは掘割の蕎麦にある「まちぼうけ」の記念碑で、女の子が切り株に手をついて掘割に向かっている像です。叫んでいるようにも見えますが、ちょっと不気味な感じもします。

 柳川の名物にウナギのせいろ蒸しがあります。普通のうな重では普通に炊いたご飯の上にかば焼きが乗せられたものとちょっと違います。「蒸し」の名前通り、硬めに炊いたご飯にたれをまぶし蒸したものにウナギのかば焼きが乗せられ再度蒸されたものです。普通のうな重と比べて、べちゃべちゃして、筆者にとっては食感は良くありません。筆者は関西出身なので、うな重やうな丼は、たれをつけたウナギは焼くだけで蒸さないうな重を食べなれているからかもしれません。関東では、焼いたウナギを蒸してからご飯に乗せる、せいろ蒸しには抵抗が少ないかもしれません。同じ料理でも、関東とj関西では味付けが異なり、東京で食べたスープが真っ黒のうどんには面くらいました。日本の電力は東が50Hz、西が60Hzですが、これってうどんのスープの作り方に影響してるんでしょうかね。

天皇が出家の内親王に贈った人形を数多く所蔵する宝鏡寺の周辺には茶道関連の会館や長谷川等伯ゆかりの寺など多くの歴史深い施設が集中しています

2025-06-15 08:00:00 | 日本の町並み
 芝居小屋のお土産に人形が渡されたという名前の由来がある人形町は、都心にもかかわらず戦災の被害も少なく古い町並みが残る場所でした。人形を贈るという習わしは、子供の初節句にひな人形や五月人形を贈る風習がよく知られていますが、天皇が尼門跡に入寺した娘に季節ごとに人形が贈られることも多かったようです。孝明天皇が内親王に贈った多くの人形が数多く保存され、人形の寺と呼ばれているお寺が京都の北にあり、名前を宝鏡寺といいます。今回は、宝鏡寺の周辺を紹介します。

 
 
 
 宝鏡寺は、堀川通を北に一条戻橋のさらに1kmほど北に進んだ通りの東に建つ比較的こじんまりとしたお寺です。14世紀に二見ヶ浦で漁網にかかった聖観音増が手に小さな鏡を持っていて、その観音像を安置することから付けられた名前なのだそうです。昭和30年代から所蔵の人形を展示公開するようになり、境内には人形塚も作られています。人形の写真は撮れませんでしたが十二単が展示され説明文が添えられていました。その節っ名によると、十二単というのは俗称で、12枚の衣を重ねているわけではないとのこと。正式には五衣(いつつぎぬ)、唐衣(からぎぬ)、裳からなる平安時代の女性の正装でした。この十二一重は重ねていく過程で紐を使いますが、順に下の紐を抜いて重ねた上の衣に使い、最終的には紐は抜いてしまうそうです。自分の重みで重なっているのが十二単で、平安朝の女性は走り回るような古都は無かったので、脱げることはなかったのでしょう。

 
 宝積寺の北f隣りにあるのが慈受院で薄雲御所と呼ばれ源氏物語ゆかりのお寺といわれます。しかし、作者の紫式部が藤原道長の女房であったこと、そして慈受院が道長の故地であったことという説明文がありますが、なんとも舞わt陸土井話です。

 
 
 
 
 慈受院をさらに北に行くと茶道総合資料館があり、通り過ぎると本法寺があります。15世紀創建の日蓮宗の寺院で、境内に他方つもある、かなり広い寺域を裳sつお寺rづ。このお寺を有名にしているのは長谷川等伯ゆかりのお寺で、等伯の筆による絵画が多く残されています。その中でrも有名なものは涅槃図で、長さが10mに及ぶ巨大なもので、屋根の高いお堂に飾られており、通常は裳本ですが1年に1か月ほど本物が公開されます。この大作は、等伯の息子が親に先立って亡くなった七回忌に制作されたそうです。また、境内には火さおかぶって空を見上げる等伯の像も置かれています。

 宝鏡寺の周辺には茶道総合資料館だけでなく、表千家会館や裏千家今日庵など茶道関連の施設が多くあります。茶道は日本の美意識を代表する文化ですが、美しくふるまうためのルールが複雑で、素人にはなかなか覚えきれません。長い時間をかけて洗練された立ち居振る舞いは見ていて美しいのですが、覚えるのには骨が折れそうです。どうしても現代人には敷居が高いのですが、これをIT技術を使って少しでも克服しようとする試みもあるようです。オンラインで茶会を開いたり、入門者を対象にAIを使ったサポートなど、入口の垣根を低くする試みが現れてきているようです。ただ、AIを使ってもお茶の心を伝えるのは難しいでしょうね。

かつては色町であったところに芝居小屋ができて町の顔が変わりましたが、空襲の影響が少なかった人形町は古い町並みの顔を残しています

2025-06-01 08:00:00 | 日本の町並み
 博多旧市街はJR博多駅から近い場所であるにもかかわらず緑が豊かで静かな寺町でした。福岡と博多では言葉として受ける感じが異なり、博多と聞くと、なぜか文化的な香りがします。博多と聴いて思い出すのは博多人形ですが、この人形を冠した地名を調べたところ、東京の日本橋人形町くらいしか見当たりませんでした。江戸時代に日本橋人形町かいわいには2軒の芝居小屋があって、観客でにぎわったそうで、そのお客のお土産に人形を渡したことが地名の起源なのだそうです。戦災でも大きな被害を受けることなく、現在も古い町並みが残されています。今回は日本橋人形町を中心にそのかいわいの古い町並みを紹介します。

 
 
 
 
 
 
 
 
 日本橋人形町は、地下鉄の人形町駅から北西に向かって延び小伝馬町まで続く人形町通りの両側に延びる町並みで、近代的なオフィスや料亭などの古い建物が混在している場所です。自宅からさほど遠くないので何度か散歩に行きましたが、地図を見ないで行き当たりばったり、町並みの雰囲気の良いほうにぶらりぶらりと歩き回ったせいか、写真は数多く残っているのですが、同じ建物を何度も撮ったり、どうも整理が付いていません。それで、今回は、文章を省略(筋道だって説明ができない状態です)して、ほど写真のみで町の雰囲気を紹介したいと思います。写真の中には、人形町からはみ出した部分も含まれているかもしれません。

 
 
 
 
 
 
 
 
 人形著から小伝馬町に延びている地下鉄は東京メトロの日比谷線ですが、かつては北千住で東武線と、中目黒で東京線と相互乗り入れを行っていましたが、現在は東急線からの乗り入れは無くなりました。日比谷線はカーブが多く、長い車両は脱線の恐れから、当初の車両は18mでした。ところが、国鉄をはじめ大部分の大手私鉄では20mの車両が標準で、相互乗り入れをする区間を持つ東武と東急は長さの異なる電車の扱いで苦労をしたようです。ホームドアの普及が進み、ドア位置が異なるとホームドアの設計が難しくなることもあって、カーブを緩くするなどで現在の車両は20mに統一されたようです。一方、通信やコンピュータの世界では、製造会社の異なる機器を相互接続するのは当たり前で、そのために国際的な標準化の団体があって議論を重ねています。ただ、標準案には拘束力はなく、標準から外れた機器を作るとつながらない欠点はありますが、自分だけの世界を作り上げることが好きな製造会社は従わないこともあるようです。

福岡市内とはとても思えない静寂さと緑がいっぱいの博多旧市街は、一度訪問すると福岡のイメージをひっくり返すかもしれません。

2025-05-18 08:00:00 | 日本の町並み
 寺町の紹介も4回目になり、再び九州にわたり福岡県の県庁所在地の博多旧市街です。博多駅の近くに京都と見まがうほどのお寺が集中し、都会とは思えない緑豊かな町並みがあるのは、ちょと意外でした。博多のイメージが変わる散歩道です。今回は、この博多旧市街を紹介します。

 
 
 博多旧市街はJR博多駅の北西御笠川に沿って北西に延びる町並みで、南東端には出来町公園があります。この公園はかつて博多駅のあった場所で、記念碑や蒸気機関車の動輪が置かれています。公園を出て北西に行くと博多千年門が建っていて、ここから道路の両側にお寺が続きます。大部分は拝観できないお寺で、門から中の様子をうかがうお寺が多いようです。ただ、お寺をつなぐ道の両側の築地塀や木立の緑が心地よい雰囲気を作っています。すべての寺を紹介できませんが、記憶に残るいくつかを紹介します。

 
 承天寺は、千年門から近い寺ですが博多山笠の発祥の地ですが、境内が後からできた道路で分断されたそうです。

 
 節心院には越前勤王党の志士の一人である加藤司書の墓があります。

 
 
 
 
 聖福寺は日本最初の本格的な禅寺で、日本のお茶の発祥の地をちなんでお茶の木が植えられています。また境内には右手に茶筅、左手に浄瓶を持った茶筅観音が置かれています。

 
 
 東長寺には日本最大の木造大仏が置かれ、境内には回転式の六角堂や朱塗りの五重塔があります。

 今回紹介したのは博多旧市街、JRの駅も博多駅ですが、市や県の名前は福岡です。博多は旧市街のある御笠川と那珂川に挟まれた地区をを指し奈良朝時代から続く古い町で、商人の町です。一方の福岡は、江戸時代初期に黒田長政が築城をした後に生まれた地名で、那珂川の西側に広がる武士の街でした。博多人形、博多帯、博多山笠など歴史のある文物は博多であって、福岡は行政面での呼びならわしのように感じます。首都圏の浦和は、埼玉県ですが、かつてまだ浦和市の頃に東京都浦和区と表記された年賀状が数通配達されて来ると、浦和に済んでいた知人が言っていました。郵便を振り分けるコンピュータは福岡県博多市と表記されても、類推解釈でチャンと福岡市に振り分けてくれるでしょうか。

尼崎の寺町は、町の中に寺が割り込んだというより、寺ばかりの一郭を形作っています。

2025-05-04 08:00:00 | 日本の町並み
 長崎と東京の中野の寺町を紹介しましたが、神戸と大阪の間にある尼崎にもお寺が密集する寺町があります。尼崎城が築城された江戸初期に城下町の一区画として寺町が作られたようで、移転などで集まったものではないそうです。今回は寺町の3回目として、阪神電車の尼崎駅の南西に東西に広がる寺町界隈を紹介します。

 尼崎の寺町は江戸時代には20か寺もあったそうですが、現在は11か寺に減っています。阪神の駅に近い東の端が全昌寺で、西の端の専念寺まで寺の間に民家はほとんどなく、寺と寺とが敷地を接するように並んでいます。

 
 重文の多宝塔が建つのが西の端に近い長遠寺で、本堂も重文指定の大きなお寺です。

 
 
 節分には、鬼矢来や狂言が行われ、境内ではからくり人形の実演もあるの大覚寺で、当日は多くの観客が詰めかけ和歌山県からいらっしゃったという方も見受けました。

 
 法遠寺もは、秀吉に切腹を命ぜられた佐々成正の墓があります。

 
 
 善通寺には南朝の忠臣の秦武文の石碑が建てられていて、境内には首無し地蔵が祀られています。このあたりは煉瓦米が続いて、寺町らしい町の雰囲気を出しています。

 寺町の近くには、尼崎信用金庫の貯金箱博物館もあって、のんびりと散歩するには良い場所です。

 江戸時代に作られたからくり人形は、手や足などの動作の流れをプログラム的に制御してゆくものです。コンピュータプログラムで、制御するのは簡単なことですが、これらの人形は、歯車とカムの組み合わせによって、動作の手順がプログラム化されて、動力はゼンマイなどです。同じように、歯車とカムによってプログラム動作をする機会が科博に置かれている重文の万年時計で、江戸時代の複雑な時刻のシステムを見事に自動化しています。現在ではコンピュータ技術は全盛で、技術者もたくさん存在しますが、からくり人形の制御技術を継承している技術者はほとんど居ないのではないでしょうか。もちろん、この技術が汎用とは言えませんが、次世代の技術の開発にヒントになるのではないでしょうか。

中野上高田の寺町の多くのお寺は、ほとんどが牛込などの都心から明治後期に移転してきたようですが、その頃の中野は都心から遠く離れた田舎だったのでしょうか

2025-04-20 08:00:00 | 日本の町並み
 教会の町のイメージが強い長崎市の、それも長崎駅からすぐ東の山のふもとにお寺が軒を接する寺町がありましたが、東京にもお寺が軒を連ねる町並みが数多くあります。そのいくつかは、江戸時代に江戸の中心地が火事で被災したお寺が郊外に引っ越してきて寺町を形成したのが練馬の旧豊島園の東に広がる寺町で、本コラムでも紹介しました。今回は、筆者の自宅からも近い中野上高田の寺町を紹介します。

 中野の寺町は、中野駅の北を東西に延びる早稲田通り沿いに新宿方向に環六都の交差点の手前まで続いています。明治に都心の寺院が区画整理のために、まだ田舎であった中野に引っ越してきたようです。歴史が浅い寺院が多いはずですが、なかなか趣のある建物もあるようです。ここでは、中野駅に近い天徳院を起点に東に順を追って紹介します。

 
 天徳院は明治の末に牛込から移転してきたお寺で、身代わり観音と呼ばれている像が門前の歩道の蕎麦にポツンと立っています。
 
 少し東の保善寺も明治の末に牛込から移転したお寺で、三代家光から獅子に似た犬を拝領したことから獅子寺と呼ばれるようになったそうです。
 
 保善寺の東隣は宗清寺で同じように明治末に牛込から引っ越して居ます。この時に松雲寺と浄泉寺を合併したようです。
 
 続いての東には松源寺がります、明治末の牛込からの移転です。かつて境内に猿をつないでいたことから猿寺と呼ばれ、通りに面した石柱の上で猿の像が通る車を睨みつけています。

 
 やや新宿寄りに進むと龍興寺で、牛込から文京区の小日向に移転の後明治末期にこちらに移転したようです。
 龍興寺の東隣は高徳寺で、13世紀初頭に松本で創建されましたが、その後群馬県や千葉県、そして江戸と転々として、最後は上野にある報恩寺の境内から明治の末に中野に移転してきたそうです。新井白石ゆかりの寺で、墓所があり、記念ホールも併設されています。

 
 
 東隣が源通寺で江戸初期に神田に創建されましたが明暦の大火で浅草に疎開し、明治の末期に中野に移転してきたそうです。
 さらに東隣は青原寺で、室町時代に青山に創建された太田道灌ゆかりのお寺です。こちらも明治末期に青山から移転してきたそうです。
 北に延びる通りを挟んで正見寺があります。14世紀に滋賀県で創建の後、四谷などを経て博覧会会場の整備のために明治の末期に中野に移転したそうです。

 
 ここから、早稲田通りを外れて正見寺の手前の道を北北西に曲がります。しばらく行くと道路の右手に多くの寺院が立っている場所に着きます。道路に近いところにあるのが宝泉寺で、16世紀に江戸城近くに創建され、何度かの移転後の牛込から明治末期に中野に移転してきたそうです。

 
 
 宝泉寺の奥にあるのが萬昌院功運寺で、名前が示すように萬昌院と功運寺都賀合併したお寺で、三田などから大正年間に中野に移転合併したそうです。紹介した寺院の中で最も大きなお寺の一つで、お寺の裏にある墓所には吉良家、歌川豊国、林芙美子など有名人のお墓が並んでいます。

 


 宝泉寺の手前の道を右に折れると4つの寺院が並んで立っています。境妙寺、願正寺、金剛寺一番奥が神足寺です。境妙寺は外苑整備に伴い大正時代に、願正寺は牛込から明治末期に、金剛寺は13世紀創建の古いお寺で小日向から丸の内線開通に伴い中野に移転したそうです。最後の神足寺は銀座に創建後に転々として明治末期に移転してみました。東側が斜面になっていて、訪れた時にはアジサイがきれいでした。

 江戸時代の中野は江戸城から離れた鷹狩の場所として重要だったのだそうです。人間ではなく動物の方が多かったのかもしれません。挙句の果てに5代将軍の時には生類憐みの悪法による野犬のための小屋(お囲い)が作られた場所でした。最初は、寺町の南を線路を越したあたりに作られ、手狭になってどんどんと増築され、中野駅の西側の中央線の南北に拡大していったようです。その中心となる中野4丁目の旧町名は「囲町」、中野に越して最初に聞いた時には、女性を囲ったのかとも思いましたが、お犬様だったんですね。一方、線路の南側の旧町名は「桃園町」で、こちらは正真正銘、香り高い名前でした。都内では、これらの歴史的な町名が味気ない「なになに町〇丁目」になってしまいました。旧町名は複雑な区割りのために、郵便の配達など日常生活に不便都の理由ですが、コンピュータで地図の管理が簡単にできるようになった現在では、これら由緒のある町名を復活してほしいものです。

長崎というとキリスト教会のイメージですが、観光客の姿は見られませんが長崎駅の東側に個性的なお寺が軒を連ねる寺町があります

2025-04-06 08:00:00 | 日本の町並み
 竜宮城の門のような辰野金吾設計の門が入口に建っているのが武雄温泉でした。新幹線を長崎まで延伸する際に、フリーゲージ・トレインの研究に膨大な」税金を投入した結果、失敗してやむなく2度目の乗り換えをさせた駅が武雄温駅でもあります。そうまでして新幹線を無理やり引っ張ったのが長崎駅ですが、今回は観光客があふれる長崎の名所ではなく、新幹線の到着する長崎駅の東側の山麓にある築後通りから玉園通りにかけて,、観光客の姿を見かけない寺町を紹介します。

 
 
 長崎と聞くと教会を思い浮かべますが、今回紹介するのは一つの教会以外はお寺ばかりです。長崎駅の出口を出て東に、市電通りを越えて駅前商店街のアーチを通り抜けてさらに東に、通りの名前が築後通り変わるあたりを左に折れてすぐに寒暖の下に出ます。階段のそばには勝海舟寓居の地という石碑とサン・ラザロ病院と教会の跡の石碑が建っています。サン・ラザロ病院は、天正年間にポルトガル陣の寄付で建てられたハンセン病の病院でしたが、禁教令で教会とともにつぶされてしまいました。その跡地に建てられたのが本蓮寺で石碑の間の階段を上ったところに本堂があります。本堂まで上ると、墓地の向こうに二十六聖人殉教記念碑近くにあるカソリック西坂教会の2本の尖塔が見えます。

 
 本蓮寺の東隣にあるのが聖無動寺で江戸初期の創建で、海路の安全を祈願するお寺だったそうです。原爆投下で焼失し、航海安全を祈願した石灯籠と不動明王像が残るのみで、お隣の長崎観音の像がやけに目だちます。

 
 
 その長崎観音は、江戸初期に創建の福済寺の境内の南側に1979年に建造された万国霊廟の上部に立つもので、像高は18mもあり、どこからも目立つぞんざいです。霊廟は亀の形をしていて、観音像は亀の背中に乗っていますが、これって中国で亀が石碑をしょってる野をよく見かけましたが、同じ発想に思えます。筆者は見損ねましたが、像の内部には日本一のフーコーの振り子があるそうです。

 
 
 
 
 
 
 さらに東に行くと聖福寺に出ます。黄檗宗を伝えた隠元の孫弟子の道胖が江戸初期に開いたお寺ですが、この地域で重文の建築を残す大きな寺です。重文は大雄宝殿など4棟で、本堂にあたる大雄宝殿は宇治にある万福時を思わせる堂々たる建物です。傾斜地に建てられていて、鵜荒山から見ると大きな屋根の後ろに長崎に市街地が広がっています。この裏山に通じる道路に沿ってあるのが瓦塀で、土塀の表面に色々な瓦を張り付けたものでなかなか面白い造形をしています。常滑の窯元近くにも土塀に焼き物を張り付けたものがありますが、常滑では器を張り付けていて、聖福寺の塀ほど変化がありません。

 
 少し戻って、東本願寺の麓を市電通りの方に進むとカトリック中町教会があります。長崎市街地でも数少ない被爆建造物で残された唐や外壁を利用して風苦言されたものです。明治時代の長崎にはカトリック教会は大浦天主堂敷かなかったため、日本人信徒のためにフランス人の寄付によって建てられたものだそうです。シンプルな聖堂ですが、内部も含めてなかなか美しい教会の一つのように思います。

 長崎観音の像内にあるフーコーの振り子は、地球の自転を照明する装置の一つで、19世紀の中期にフランス人のフーコーが考案したものです。慣性の法則で振り子の市移動面は変わらないが、地球が自転をしているため、観測者からは振動面が開店しているように見えるものです。24時間に変わる角度は360×sinθ(θは置かれた場所の緯度)で、回転角を図れば現在地の緯度が判るというものです。科学博物館の日本館には戦前に設置されたフーコーの振り子がゆっくりと往復運動をしていますが、その1階には重たい錘の慣性の法則を利用した地震計がたくさん並んでいます。しかし、現用の地震計は、スマホにも内蔵されている小さな加速度センサーの出力をコンピュータで2回積分をして地震波形を求めています。これは、車や飛行機の位置検出のも使われているものなんです。