世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

世界遺産登録おめでとうございます、石見銀山

2007-06-29 17:14:03 | 世界遺産
 日本で14番目の世界遺産に島根県の石見銀山が決まりました。石見銀山のある大森はかつて、このコラムでも「日本の町並み」の一つとして紹介しましたが、改めて紹介をしたいと思います。

 石見銀山といっても、その場所も定かでない、という方が多いと思います。島根県(島根県そのものが場所を特定できにくい県の一つだそうですが)の海岸線を走る山陰線の中央あたりの大田市からバスで広島方向に20~30分ほど山に分け入った大森町に属します。バスは山陰線の仁摩からも走っていますが、どちらも本数は少なくかなり不便なところでした。今回の世界遺産の登録動きで、大田市からのバスの本数は増えているようです。遺産に登録された範囲は、銀山の遺跡だけでなく、大田の町並みや五百羅漢のある羅漢寺なども含むかなりの広さになるようです。大田市からのバスが停車するところは、代官屋敷などのある大田の町並みの入り口で、石見銀山の鉱山遺跡まで歩いて移動するには、ちょっと無理な距離といえます。この間を結ぶバスの本数もずいぶんと増えたようですが、筆者が訪問した頃は極めて少なく、滞在時間も限られていたので、鉱山跡は訪問できませんでしたので、詳細は紹介できません。ただ、現在の便利さからすると、かつて世界の銀の1/3を産出したという鉱山跡は訪れてみる価値はありそうです。

 バス停に近い代官屋敷跡は石見銀山資料館になっています。江戸幕府が毛利から取り上げた石見銀山の利権を守るため、監視役としておいた代官屋敷の跡です。

 代官屋敷跡から微妙に曲がる道を歩いてゆくと、大森の古い町並みが続きます。芸術家がアトリエとして使っている家などもあり、残してほしい町並みの一つです。世界遺産の登録で、観光バスから吐き出された観光客がわんさか来ると、町の顔が変わってしまわないかと心配です。観光客にこびたような土産物屋は、この町並みには不要に思えます。

 さらに歩を進めると羅漢寺に着きます。道路から階段を登ったところにある本堂は、なぜ羅漢寺?と思うごくありふれたお寺です。いったん道路に戻り、道路と並行する川を石橋で渡った向こうの石窟に羅漢寺と呼ばれるゆえんの五百羅漢像があります。

五百といっても、おそらく500体はなさそうですが、いろいろなしぐさや表情の羅漢像がひな壇状に並んでいます。信仰の対象となる仏像は、崇高で近寄りがたい威厳を感じるものが多いのですが、五百羅漢像は人間臭さが魅力のように思います。羅漢寺は代官所跡から鉱山跡に至る道からちょっと外れますが、寄り道をするだけの値打ちがあるように思います。

 大森への最寄り駅の一つの仁摩には世界一大きな砂時計があることで知られています。鳴き砂の浜で有名な仁摩で、その砂で大きな砂時計を作ろうという話が持ち上がったのは1986年。それから5年、いくつもの技術上の困難を克服し、1年かかって砂が落ちる砂時計が完成したのだそうです。IT全盛の現在、ややもすると論理上の処理で何でもできてしまうように錯覚し、ソフトウェア万能のように勘違いをしてしまいます。物を造る技術がおろそかになっているように思います。砂時計を完成させたのも、パソコンやケータイがちゃんと動作するのも物造りの技術の上に成り立っているのです。

ドゥブロヴニクの赤い屋根と青いアドリア海は内戦の悪夢を忘れさせます(クロアチア)

2007-06-24 17:15:41 | 世界遺産
 チュニスの旧市街は城壁に囲まれたメディナと呼ばれる一帯でした。ヨーロッパには城壁に囲まれた都市が多いように思います。陸続きの国々では、外敵から都市を守るために城壁は必須なのかもしれません。現在は無くなっていても、かつては存在した都市も多いかもしれません。今回は、現在も城壁に囲まれている都市の中からクロアチアのドゥブロヴニク旧市街を紹介します。

 ドゥブロヴニクはクロアチアの南東にアドリア海に面して細長く伸びた先端あたりにあります。ちょっと内陸に入ると、ボスニア・ヘルツェゴビナ領になり、陸路で首都のザグレブに行く場合にはボスニア領を横切る必要があります。これは、細長く南東に伸びたクロアチア領の一部に、ボスニア領が海岸まで伸びで分断しているからです。かつては、チトー大統領率いる旧ユーゴスラビアの頃は、同じ国だったのですが、その後の民族紛争による内戦状態で多くの犠牲者を出したことは、記憶に新しいところです。ドゥブロヴニクも戦場になり、危機遺産リストに登録されましたが、1998年にリストから外され再登録されています。しかし、旧市街を展望するスルジ山のロープウェイは破壊されたままで、旧市街からも山上駅の廃墟が痛々しく望めます。

 城壁は物理的な防備になりますが、論理的というか外交手腕により国の独立を保つのも重要です。ドゥブロヴニクは、地中海貿易の拠点として14~17世紀にわたって独立都市国家として栄え、その反映は優れた外交手腕によるところが大きいと評されています。旧市街取り囲む城壁は一周2kmに及び、歩いて巡ると高低差があって、けっこう疲れます。

しかしながら、かなりの高さとなる山側の城壁からは、赤い屋根瓦の連なりが印象的で登っただけのことはあります。その向こうには真っ青のアドリア海が広がっていて、絵葉書より美しい?景色です。

こんな風景を見ていると、ほんとにここで戦争があったんだろうか、と信じがたい思いにかられます。

 城壁に囲まれた、旧市街には、新しい建物はなく、細い通りがほぼ碁盤の目状に通っています。もちろん車などは入って来れません。観光客は城門の外でバスから降ろされます。町のほぼ中央を東西に伸びる広い通りがプラツァ通りで、教会や修道院、それに宮殿などはがこの通に面しているかすぐ近くにあります。観光客がぞろぞろと歩いているこの通り、かつては運河でこの通りから南側が本来の旧市街だったそうです。

 城壁は外敵から町を守るものでしたが、インターネットの世界で、外敵から自分のサイトを守るものがファイアウォールといえるでしょうか。ファイアウォール=防火壁という名前が付いているのは、外部からの害は火事だけを想定してるのでしょうか。城壁がそうであったように、完全というものは存在しないようで、ファイアウォールも、これを破ろうとする不心得者との知恵比べです。インターネットの世界にも、かつてのドゥブロヴニクが得意であった、外交手腕による防備ってのはあるのでしょうか。

のどかな風景の中に道祖神や美術館が点在している安曇野

2007-06-17 17:17:45 | 日本の町並み
 身代わり猿がぶら下がるのは庚申堂でしたが、庚申のいわれは60日に一回訪れる庚申(かのえさる)の日の深夜に体の中の虫が抜け出してその人の悪事を天帝に報告するので、神仏を祭って徹夜をする風習です。この風習によって作られたものが庚申塔で、神社や道端に置かれた石塔です。この庚申塔と同様の目的にもされたのが道祖神(どうそじん)で、村はずれなどの道端に置かれました。前置きが長くなりましたが、今回はこの道祖神や庚申搭が点在する安曇野(あずみの)を紹介します。

 安曇野は長野県の松本から北に伸びる大糸線の穂高を中心としてアルプスの東側に広がる地域を呼ぶようですが、確たるエリア定義はなさそうです。アルプスの峰峰を背景に、ゆったりとした田園風景は、いつまでも変わってほしくない日本の原風景の一つのように思います。アルプスの伏流水が冷たくて清冽な湧水を作り出していて、この水を利用した大小のわさび田ものびやかな風景に変化をもたせています。わさび田の売店で、わさびのソフトクリームを食べましたが、もちろん甘くはありましたが、ツンとくるわさびの刺激がこれまでに味わったことの無い食感でした。

 ところで、道祖神像は、のどかな風景の中の自動車道路や田んぼの畦に散在しています。本来は村の入り口に置いて悪霊の侵入を防ぐもので、男女ペアの像が彫ってあります。男女ペアの像の形から安産や豊穣を祈る意味合いもこめられたようです。中には庚申搭と並べて置かれているところや、いくつかの道祖神像を寄せ集めた場所もあります。

 散在といえば、安曇野にはユニークな博物館や美術館が点在しています。散在しているために、はしごをするにはちょっと不便なのですが、その中で比較的足の便がよく、歴史も古い美術館の一つが碌山(ろくざん)美術館ではないでしょうか。

穂高駅から線路沿いに北に歩いても10分そこそこの場所にあり、萩原碌山(守衛)のゆかりの土地に建てられた彫刻作品を中心とした小さな美術館です。萩原碌山は明治時代を生きロダンに師事した彫刻家で、重要文化財にも指定されている作品の「女」にも見られるようにロダンを思わせる作品はなかなか力強いものがあります。最初に訪れたのは約40年も前で、教会風の建物が線路の向こうにぽつんと建っていましたが、現在では2つの展示館が増築され、周辺も立て込んだ感じになり、ちょっと雰囲気が違って戸惑いました。

 安曇野を効率よく回るには自転車が活躍します。狭い道にも入っていけ、風を感じながら道祖神や美術館、それにわさび田などを回れます。時間尺度も周りののんびりさに合っているかもしれません。貸し自転車やさんで簡単な地図をくれて、だいたいのところは、この地図で判別が付くのですが、ときおり自分が何処に居るのか見失う時があります。道を聞こうにも、時期によっては出会う人もあまり多くは見かけません。車の場合はカーナビがあって現在地がすぐさま分かりますが、さすがに自転車には付いていません。このような時に活躍するのが磁石とGPS付きのケータイかもしれません。

スークの喧騒と住宅街の静寂の対比が面白いチュニス旧市街(チュニジア)

2007-06-10 17:20:01 | 世界遺産
 ベルンは首都の旧市街が世界遺産に指定されていましたが、首都に世界遺産がある国も意外と多いものです。いやむしろ、首都に世界遺産の無い国のほうが少ないのかもしれません。首都に世界遺産おある国々の中から、今回は北アフリカのチュニス旧市街を紹介します。チュニスはチュニジアの首都で、世界遺産の旧市街は新市街の西より、城壁に囲まれたメディナと呼ばれる一画です。

 北アフリカにあるチュニスと聞くと暑い!というイメージですが、その通りで、7月に訪問したときにはカーッと射す太陽に暑くって閉口しました。ただ、地図で見ると東京より少し北にあるし、地中海に面していて内陸性の気候でもないので、なぜこのように暑いのか理解できません。ただ、湿度は低いので、木陰に入ると東京のジメジメあひた暑さより過ごしやすいようです。

 メディナの東端の中央にはフランス門があり、この門からグランドモスクまでの一帯がスーク(マーケット)になっています。アクセサリーや銀器などのお土産、衣服や履物など道路にまで張り出した店屋がひしめいています。

日本人と見るとナカターと呼びかけられます。日本人すべてが中田姓だとでも思ってんでしょうか。

 この猥雑な一画を通り抜けたところ、メディナのほぼ中央あたりにグランドモスクがあります。ちょうど工事中で、内部はよくは見れませんでしたが、アーチの連なる回廊に囲まれた中庭は、意味のある空間のように思えます。

グランドモスクの周りでは、「我が家の屋上に上がらないか}と声をかけられます。グランドモスクを俯瞰できるというのが売りのようですが、回廊の高さがけっこう高いのでどの程度の眺望が開けるのかは疑問でした。モスクの裏側には多角形のミナレットがあり、なかなか美しいのですが引きが足らなくって写真を撮るのには苦労しました。

 グランドモスクを南に折れると、スークの喧騒がうそのような住宅地になります。人通りも少なくって、ちょっと不安になりますが、子供が飛び出してきたりして生活のにおいがします。メディナの大部分はこのような住宅密集地なんですね。この住宅街の中にも、いくつかの観光ポイントがあり、地球の歩き方などにも紹介されていますが、訪れる人は多くなさそうです。施設に入場しても、他の人に会わないんです。ゆっくりと見れていいのですが、石棺がずらりと並ぶベイの墓などでは、人気が無いとちょっと不気味です。これらの施設にも中庭があって、中央に噴水のあるものがあります。

どこかで見た景色だなと思ったら、スペインに似ているんですね。北アフリカはイスラム世界そのものですから、スペインがチュニスに似ているんですよね。

 チュニジアは、かつてフランスの植民地であったところから、英語よりフランス語の方が通じるようです。英語でもままならないのにフランス語では完全にお手上げです。数少ない単語の訳語が表示される電子辞書を持っていって、駅の方向を訪ねるときなどに表示を見せて尋ねたりしましたが、どうもまどろっこしい。音声認識と音声合成で同時通訳をしてくれる、携帯通訳マシーンが手ごろな安価に出現してくれませんかね。今から35年ほど前に研究所にいた頃には、録音音声を認識するだけで、大きな部屋にドーンととしつらえられたコンピュータをフル稼働していましたが、現在ではPCで簡単に実現できるようになりました。携帯同時通訳なんてのも意外と早く、ケータイ電話のおまけ機能に追加されてしまうかもしれません。

公園の中に大伽藍のお寺がある場所だけが奈良ではありません、奈良町

2007-06-03 17:21:45 | 日本の町並み
 埼玉県の小川町は和紙の故郷でしたが、和紙といえば障子紙としての用途の他に書道で使われることも多いのではないでしょうか。書道で消費されるものは和紙の他に墨がありますが、今回はその墨の国内生産の90%を生み出す奈良、それも東大寺や興福寺などのある地域ではなく、古い民家の建ち並ぶ奈良町周辺を紹介します。

 奈良町は、修学旅行生などが闊歩する近鉄奈良駅から若草山にかけて公園の中に大寺院が連なる場所ではなく、その南側に広がる民家を中心とした町並みです。近鉄奈良駅から南東方向に歩くと、お寺中心の風景を見慣れた目には、ちょっと新鮮な奈良の町が広がります。奈良町にも元興寺極楽坊(がんこうじごくらくぼう)など大きな寺院もありますが、町並みの中に溶け込んでいて、あまり自己主張をしていないようです。

 町並みの中に伝統的な町家を再現した格子の家が内部を公開していて、奥行きの深い町家の状況が見学できます。

坪庭や箱階段それに吹き抜けのある通り小庭など、京都の町家とも共通点が多いように思います。このほかにもユニークな博物館などが点在していて、町並み散歩を楽しくさせています。庚申堂(こうしんどう)、今昔工芸美術館、奈良町資料館それにちょっと変わったところでペルシャ文化を展示する奈良オリエント館もあります。これらの建物も、多くは町家を利用したもので、町の風景に溶け込んでいて、場所を探すのに苦労するくらいです。庚申堂には身代わり猿という、ちょっと見には猿と判別が難しいような丸まった猿の人形が紐にくくられてぶら下がっています。この猿は庚申さんの使いとして魔よけの意味があり、奈良町の民家の軒先でも良く見かけます。

 ところで、書道に使う墨の原料は、油が燃えた時に出る煤(すす)で、この煤を膠(にかわ)で固めたものが墨となります。燃料などに使う炭と墨とは字は違っていますが主成分は同じ炭素で、発音も同じ「すみ」です。炭のほうも柳やプラタナスなどの炭をデッサンの筆記具として使うところは、似ている面の一つでしょうか。木材を加熱して揮発分を追い出して残った塊が炭、油を燃やして揮発した不完全燃焼分を集めたのが墨、似ている「すみ」も作り方は正反対のような気がします。

 炭も墨も炭素原子でできていますが、宝石のダイヤモンドも炭素原子でできていることは良く知られています。不純物や結晶構造の差によって希少価値のあるダイヤになるか、燃料にして燃やされるかの分かれ道になるようです。純度を極限まで高めたり、結晶構造を変えたりすると、通常の状態とはまったく異なる振る舞い方をする材料も多く、地球上に酸素の次に豊富に存在する元素で今日のITを支えている珪素などはその代表格ではないでしょうか。