世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

かつては名鉄の特急に乗って訪れることもできた町、高山とは一味違う飛騨古河

2008-03-30 21:23:03 | 日本の町並み
 御殿場線の電化前には小田急のディーゼルカーが新宿から松田経由で乗り入れていましたが、中部地方でも2001年まで私鉄のディーゼルカーがJRに乗り入れていた線がありました。名鉄の特急「北アルプス」で高山線を経由して富山、高山や飛騨古河まで走っていました。今回は、その行き先の飛騨古川を紹介します。

 飛騨古川は、岐阜県の最も北に位置し、2004年に周辺の町村と合併して飛騨市となっています。高山との間は各駅停車に乗っても20分あまりの近さで、高山祭りと同様に屋台が繰り出す古河祭りもあって、どことなく高山と似ています。しかしながら、人口が1/6程度で、町がこじんまりしていて、その中を清冽な小川が流れていたりで、高山が持っていない魅力を持った町です。高山祭りと同様に、飛騨古川祭り会館という施設があって、祭りの様子や、平成に作られた屋台やからくり人形の実演などを見ることができます。

お祭りは現場に居て体感するのが最良ですが、日程を合わせたり人ごみを掻き分けてからくり人形の様子を見るのはけっこう大変でしょうから、このような施設が増えることは悪くないと思います。飛騨古川祭り会館では2階から屋台を見ることもでき、通常では難しい角度でみることもできます。

 古い町並みは飛騨古川駅の南西の200~300m四方の地域で祭り会館もその北西端にあります。古い町並みの中央やや南に瀬戸川という2m幅程度の小川があって、この川筋の風景が高山には無いんですね。

小川の両側には土蔵造りの家並みやお寺の塀が連なっていて、日本の原風景の一つを感じます。

 古い町並みの中には、伝統工芸店も多く、和蝋燭屋さんもありました。

和蝋燭というと四国の内子を思い出しますが、こちらでも現役で和蝋燭が作り続けられているのですね。古河の和蝋燭は風が吹いても消えにくく、ススが出ないというのが特徴なのだそうです。

 瀬戸川の清冽さから想像できるように、北アルプスからの名水を使った造り酒屋さんの杉玉もいくつか見かけました。

 土蔵や格子の家並みの中にあった、喫茶店もなかなかいい雰囲気を出しているようです。

 ところで、名鉄の特急「北アルプス」ですが、行き先が何度も変更になったようですが、基本的には名鉄の名鉄名古屋から犬山線を経由し、鵜沼の渡り線からJRの高山線に乗り入れていました。名鉄は当然ながら電車が走る電化区間ですが、高山線は未だに非電化の線ですから電車は走れません。このために、名鉄は専用のディーゼル車両を準備して乗り入れましたが、実はディーゼル車両が乗り入れる前から乗り入れが行われていたようです。その歴史は戦前まで遡り、名鉄の電車が下呂温泉まで運転されていたそうです。非電化区間の高山線では、蒸気機関車に牽引されての運行であったとか。この乗り入れは戦争のために中止となり、戦後の昭和40年に復活したときからはディーゼル車両が導入されました。当時の国鉄の車両より車内設備が良くって、人気の特急で特急券の取り難い特急の一つだったようです。

 蝋燭の形は、西洋では元と先が同じ太さか先ほど細くなるものが普通です。一方の和蝋燭は、元が細く先に行くほど太く作られています。火を灯した時に減ってゆくのをゆっくりにしたい、との思いからと聞きました。もちろん、途中から加速度的に減ってゆくのでしょうが、最初の綺麗な形をなるべく長く保ちたいとの思いもあるのでしょうか。元が太いほうが立てたときに安定するなどという合理的な理由だけでは片付けられない文化の差を感じます。インターネットやケータイの普及で、情報の流通の速度は目を見張るものがありますが、その情報の洪水によって文化まで押し流されそうで心配です。

小さな島の城壁に囲まれた中にロマネスクからバロックまでの建築が残るトロギル旧市街(クロアチア)

2008-03-23 21:25:23 | 世界遺産
 ヒラルダの塔には大きな鐘がつるされていて、上っている時に鳴り出すとすごい音ではなかったかと思います。12時少し前に上った鐘楼で、時計を見ながらそそくさと降りていった人がいて、われわれもつられて降りたのがトロギルの大聖堂でした。降りてきて分かったのですが、12時になると一斉に鐘が鳴り出しました。塔の下にいてもすごい音でしたから、鐘のすぐそばだと大変だってでしょう。今回は、小さな島の大部分が城壁に囲まれ古い町並みや建築がひしめき合って残っているクロアチアのトロギル旧市街を紹介します。

 クロアチアの地図を眺めていると、羽のある怪獣が火を吹いているようにも見えませんか。首都のザグレブは付け根に近い羽の位置にあって、火を吹いている先にはアドリア海が横たわっているって感じです。トロギル旧市街はその足の付け根辺り、陸地とは川のように見える狭い海峡を隔てた小さな島にある町です。空港もあるスプリト(この町も世界遺産になっています)の町からバスで40分くらい走って着いたところはまだ陸地側の新市街で、そこから小さな橋を渡るとトロギルの旧市街です。

 橋を渡ったところにある城門から入ってすぐのところにあるのが大聖堂で、前は広場になっていて時計台があります。

 写真の時計台は鐘楼の上から撮ったもので、鐘楼に上ったのが12時少し前だったことを示しています。

聖堂には前室があり、そこから聖堂に入る門の両側には、ライオンに乗ったアダムとイブの像がありますが、このライオンがなんとなくユーモラスなのです。

先ほど紹介の12時の鐘の鳴った鐘楼には、聖堂の前室の隅から階段を上ってゆきます。ヨーロッパの教会の鐘楼に初めて上って時に、一瞬驚きすぐに当たり前だな~と思ってのがこの階段です。料金を払って、どーぞと扉を開けた先には螺旋階段があったのです。えっエレベータのドアじゃなかったの?ロマネスクやゴシックの頃にはエレベータなぞ発明されていなかったので当たり前といえば当たり前ですが、歩かなくて頂上まで行けることを期待してしまいますよね。ただ例外もあるようで、教会の大きな空間にエレベータタワーをこしらえてしまったところもありました。さすがに、この教会の塔は高くって階段で上ると大変だろうという高さでしたが。

 島はサツマイモ状の形で東西に長く、北にある陸地と平行しています。バス停から橋で渡った所はほぼ島の東北端で、そこから2つの要塞のある西端までは500mあるかなしかです。城壁の北門から入って南進して南門に抜けるともうすぐ海で、幅も200mあるかななしかの小さな島です。城壁の内側は島の面積の60%程度かと思いますが、内部の道は比較的格子状になっているようなのですが、細くって迷路のような感じがする町並みです。道路の上にも渡り廊下があったり、建物がせり出していたりで、先が見えにくいことが迷路を連想するのでしょうか。ただこのような道路のほうが、先に何があるのかな~と期待を持たせて楽しいところもあるのですが。西端にある2つの要塞のうち、特に南西のカマルレンゴの要塞は大きくって存在感があります。要塞に行くには城壁を南に出て海沿いに西に行くことになりますが、島の南面はヨッハーバーになっていて、さらに南にある島とのこちらも狭い海峡の間に大小のヨットやクルーザがひしめいています。

 ヨーロッパの古い都市を訪問すると、城壁に囲まれていることが多いようです。にほんでは、天守閣などお殿様の住む城郭建築は発展しましたが、都市を囲う城壁はさほど作られなかったようです。京都に秀吉が作ったお土居の遺構が残るくらいで、小規模な土塁や環濠程度の遺跡くらいしか見当たらないように思います。お城には二重の堀などをめぐらして厳重に防備をして、城さえ守ればいいや、との考えだったのでしょうか。異民族が陸続きで入り乱れる状況ではない日本では、外敵から町を守るという必然性が小さかったのでしょうか。企業の事務センタなどの入り口では、指紋などの生体認証によるゲートがあり門外漢の入門を阻止しています。生体認証は個人の体の特徴そのものを認証に使うので成りすましを防ぐのに効果があるとされていますが、広い意味の生体認証である署名は、アランドロン主演の「太陽がいっぱい」でのように偽造されることがありようです。指紋を押し付けて入門する様子は、かつての城門での警護を思い起こしますが、跳ね上がる橋などはなさそうです。

かつては東海道本線だった御殿場線の沿線で春を見つけました、曽我と開成

2008-03-16 21:28:07 | 日本の町並み
 真壁の蔵布都では蔵の中でお雛様が飾られていたようですが、御殿場線の沿線の開成では茅葺の民家の中にたくさんのつるし雛が下げられていました。春の陽気に誘われて、同じ御殿場線の曽我の梅林も訪ねてきました。

 御殿場線は1934年の丹那トンネルの開通までは、東海道線の一部としてバリバリの幹線でした。ただ、国府津からも沼津からも御殿場までが急な登りになり、東海道の中での難所であったようです。現在は電化され、新宿から小田急線を経由した特急電車が松田から乗り入れて沼津まで走っています。1968年の電化前には、なんと小田急の気動車が御殿場まで乗り入れていました。新宿の小田急の駅から気動車が発車する光景はちょっと不思議な感じですね。そういえば、昨日からはロマンスカーの千代田線への乗り入れも始まりました。ただ、今回紹介する町は、小田急が乗り入れる松田の手前の国府津との間になります。

 開成町は、松田町の南に位置し、小田急の開成駅もしくは松田から関本行きのバスで10分くらいです。つるし雛が飾られているのは、町の北部に残された茅葺の屋根が見事な瀬戸屋敷と呼ばれる古民家です。

18世紀に作られ、数年前までは現役の民家として使われてきたそうです。現在は、町の管理になり、集会やイベントに使われています。

訪問したときには、いくつかある部屋のそれぞれの中に、段飾りのお雛様とつるし雛とが所狭しと飾られていました。先が見えないくらいのつるし雛は圧倒されるボリュームです。

 近くにはアジサイの里もあって、現在は冬枯れの枝のついた株が田んぼの畦に沿って見られるだけですが、6月の開花期は見事だろうと想像されます。アジサイの里ではアジサイの花は見れませんでしたが、瀬戸屋敷の管理事務所で冬咲きの真っ白なアジサイを見ることができました。

 アジサイは初夏の花ですが、早春の花は梅ではないでしょうか。国府津から御殿場線を1駅乗った下曽我の駅の近くには、大きな梅林がいくつかあって、見事な花を見ることができました。

梅といえば水戸の偕楽園を思い起こしますが、偕楽園よりずっと広い場所に梅の林が広がっています。本来は観賞用ではなく、梅の実を収穫するためのものだそうで、そのために畑状に広大な梅の林が広がっているのですね。白梅が多いのですが、観光客用にか紅梅や枝垂れ梅、香りの良い品種などいろいろな梅が植えられていて、梅の花だけの鑑賞でも飽きません。

 さらに、梅園の向こうには天気が良ければ富士山の姿も望めます。

曽我というと三大敵討ちで有名な、曽我兄弟の出身地で、兄弟の墓も残されているようですが、梅の花を愛でていると、血なまぐさい敵討ちのイメージとは結びつきません。

 春に咲く花は梅、桃、桜それに木瓜など形の似た花々が多いように思います。図鑑やWebを検索して、その違いを読んだときには分かったような気になるのですが、実際の花を前にすると、さてこの花は何の花だっけ?と思うことが多いようです。ケータイを使って、現場で情報を読み取ることも判別に役立つのかもしれませんが、どうも分かったようで分からないのが識別法です。いっそのこと、撮影した映像を送ると、即座に花の種別を見極めて、名前を返してくれるようなシステムが現れると便利なのですが。

ミナレットとして建てられた98mのヒラルダの塔を持つセビリア大聖堂(スペイン)

2008-03-09 21:30:46 | 世界遺産
 インドのクトゥブ・ミナールは72mもの高さでしたが、ほぼ同時代にこれを超える98mのミナレットがスペインに建てられています。それはヒラルダの塔と呼ばれ、四角な外観で内部に螺旋の坂道があって上ることができます。内部の坂道のせいもあって、一辺がかなりの大きさの四角い塔のため、さほど高さを感じませんが、細身で高さが強調されるクトゥブ・ミナールをしのぐ塔なのです。

 ヒラルダの塔は、イスラム化時代にミナレットとして建てられたのですが、レコンキスタ後に、もとあったモスクを破壊して教会が建てられたのですが、ヒラルダの塔はバルコニーと頂上に女神像を追加して残されたのだそうです。この女神像をヒラルダと呼び、塔全体の名称となったようです。

ミナレットとして使われた頃には、螺旋の坂道をロバに乗って登り、お祈りの時間を告げたとか。現在の観光客は、歩いて登るのですが、この坂道を足の不自由なお母様を車椅子に乗せて押して上られた方がいらっしゃいました。普通に歩いて上っても、息が切れる坂道でしたが、そのスタミナには感心してしまいました。

 ヒラルダの塔のあるセビリアの大聖堂は、世界で3番目に大きなキリスト教の聖堂なのだそうです。ちなみに1番はサン・ピエト大聖堂、2番目はセントポール大聖堂とのこと。近づいてみるとさすがに巨大で、全体の様子がつかみにくい教会の一つです。門を入って聖堂に入る前に中庭があるなどモスクの跡に作ったためにの遺構が残っているために、平面図も複雑なのかもしれません。内部には、コロンブスの墓があって、彼の棺は4人のスペイン王に担がれています。スペインにとって、後々に莫大な富の源を作ったコロンブスは偉大な英雄だったことを象徴しているようです。しかし、ネイティブ・アメリカンにとっては、後々の侵略のもととなった最も憎むべき人間の一人だったかもしれません。

 セビリアの世界遺産は、大聖堂だけではなく、周辺のアルカサールとインディアス古文書館をあわせたものになっています。石造りの巨大な建物が集まっていて、その一帯が巨大な茶色の塊のような感じがします。その茶色を縁取るように緑の木立があって、色の単調さを避けるだけでなく温かみを出しているように思います。

 ところで、セビリアというと、オペラのセビリアの理髪師やフィガロの結婚を思い出しますが、原作となる戯曲を書いたのはスペイン人ではなくてフランス人。蝶々婦人と同様に、異国趣味と誤解が多いのではないかと思います。ピレネー山脈の東側を隔てたヨーロッパの大部分の国から見ると、スペインは東洋の島国と同様のオリエンタル趣味的な対象だったのかもしれません。

 セビリアはまた、スペインの新幹線AVEが万国博の開催に合わせて最初に開通した都市として鉄道ファンに認識されています。日本の感覚からすると、新幹線と言えば狭軌(1067mm)から標準軌(1435mm)に広げて速度を上げると考えられるのですが、スペインでは逆に広軌の1668mmから狭くしているのです。速度を上げるには軌道幅が広いほうが有利だと思うのですが、もちろん幅を変えるだけではなくって、カーブを少なくしたり、軌道を頑丈にしたり、列車そのものも高速が出せるものを導入してのことでしょうが。スペインでは、侵略を恐れてわざわざ軌間の異なる鉄道を敷設したのですが、現在のように国際列車が走り回る環境では、このことが災いして国境で乗換えが必要になってしまいました。乗換えを不要にするために考え出されたのが、タルゴという客車で、国境の駅の軌間変換レールをゆっくり走行すると、車輪の幅が変化します。機関車は付け替えられますが、客車はそのままフランスなどに乗り入れられることで、乗客は乗り換えの手間が要らないわけです。

 鉄道の軌間をいくつにすればよいかというのはスペインだけでなく、日本においても問題でした。ただ、国際的な標準軌の1435mmというのもあまり根拠はなさそうで、一説にはローマ帝国の馬車のわだちがほぼ1435mmだとか。おそらく、標準と呼ばれるゆえんは、たまたまこの軌間を採用する鉄道がイギリスなどで多かった、といった理由のようです。次世代DVDの2種類の規格がBlue-rayに統合されたというニュースはまだ目新しいものですが、IT分野での標準化は難しい問題をたくさん含んでいます。各企業は、複数ある標準化案のうちから、自社が開発した規格を標準とするべく運動を行いますが、話し合いがこじれると複数の規格が出回って、結局迷惑するのは消費者なのですね。

数多くの土蔵が残っていて、かつて通っていた鉄道の駅の跡もある真壁

2008-03-02 21:32:52 | 日本の町並み
 蔵のモデルとなった女性の杜氏が活躍するのは新発田の酒蔵でしたが、東京から近く、川越と同様に数多くの土蔵が残っている町が真壁です。1987年までは、常磐線の土浦と水戸線の岩瀬とを結ぶ筑波鉄道が通っていましたが、現在は当時のホームの跡がバス停のそばに残るのみです。バスは岩瀬や下館や筑波との間で走っていますが、そのバスの本数も少なく、車ではない旅行者にとって足の便が悪いのですが、そのせいもあってか古い町並みに数多くの土蔵造りの家並みが続きます。

 真壁は2005年までは独立した町でしたが、町村合併で桜川市の一部となっています。茨城県の西辺の中央あたりに位置し少し北西に行けば栃木県となります。関が原の戦いまでは、真壁氏の城下町として発展をしたのですが、江戸初期に廃城となり、その真壁城址は、筑波鉄道の真壁駅跡の東側にありますが、堀と土塁の遺構がある程度で、現在も発掘調査が続いているようです。

 その後は城下町としての発展ではなく、商工業の町として発展しました。真壁の名を付けられた石材が、近くの筑波山から加波山につながる山塊から取れ、その集散地としても名を残しています。真壁石は白色系の花崗岩で日本銀行、東京商工会議所等に使われました。筑波鉄道の開通によって、運搬が楽になり、産出量が増えたのだそうです。これらの産業で蓄財を得た商人たちによって建てられた重厚な建物群が、現在の真壁の景観を作ることになったようです。

現在は、104棟の建物が国の登録文化財になっているそうですが、一つの市町村での登録数では最大のものの一つではないでしょうか。

 街中を散歩すると、漆喰で塗り固めた、いわゆる土蔵造りの家のほかに、石材の町らしく、石を積み上げた造りの建物もあります。

郵便局の建物がこの石造りでしたが、この郵便局は滋賀県の醒ヶ井(2006年9月10日紹介)の石造りの旧郵便局に感じが似ているように思いました。

 造り酒屋には真壁石ではなく大谷石の石蔵がありました。

現在はお酒造りには使用されていなくって、イヴェント会場などとして利用されているようです。漆喰造りとはちょっと感じが違い洋風な雰囲気もあるように思いました。ファサードの石の壁を見ていると、日本酒というより洋酒のイメージを浮かべます。ただ入り口に下がっていた暖簾は日本そのもので、暖簾には蔵布都と書かれていました。

この蔵布都では明日までお雛様が飾れれているようです。

 日本は地震国のためもあってか、石造りの建物が少ないように思います。分厚い石の壁の家は、断熱や遮音効果があって、木造家屋に無い利点があるようですが、開口部が小さくって薄暗いイメージがあります。ヨーロッパなど陸続きの隣国などと争ってきた歴史からか、外敵から内側を守るのが家という考え方から、石造りなどで外と内とを隔離する感覚が強いように思います。一方、日本の家屋は、亜熱帯の気候のせいもあって、夏に涼しいように、開口部が広く、開放的で、家の内と外とをあまり区別しない感じがします。この感覚が、日本人の良さでもあり、弱点でもあるのかもしれません。政府機関や企業のサイトの脆弱さが放置されていたり、ウィルス対策やセキュリティパッチの対策に無頓着なユーザが多かったりという現象は、外敵に対する甘さなのかもしれません。