世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

兵馬俑観光の基地というだけではありません、長安の歴史の重みを感じる西安です(中国)

2010-08-29 08:00:00 | 世界の町並み
 朝鮮王朝時代の高級官僚の両班を数多く輩出し、名残の伝統家屋が並ぶ村が韓国中央部の河回村でしたが、日本から遣唐留学生として渡った中国で、帰国の機会を失って中国の高級官僚になった安倍仲麻呂の記念碑があるところが西安です。仲麻呂の記念碑は市の中心部の東にある公園に建てられていますが、気をつけないと見落としそうです。今回は、兵馬俑観光の基地と見られがちですが、唐時代に繁栄した長安の名残が町中にあふれている西安のあちこちを紹介します。

 西安は、広い中国のほぼ中央部にある陝西省(せんせいしょう)の省都ですが、前漢から唐時代にかけての首都として、特に唐時代には世界最大の都市であった長安としての存在のほうが有名かもしれません。この世界最大の人口を養うには、長安周辺の食糧生産では間に合わず、江南地方から大運河を経由して食料を運んだようです。それでも、政情の不安定さも手伝って、首都機能は東の洛陽に移り、名前も西安と変わって地方都市の一つとなってしまいました。しかしながら、繁栄を誇った長安の残り香が数多く残されていて、1ヶ月あっても全てを見て廻るのは難しいとさえ言われています。

 旧市街は3kmx4km程度の城壁に囲まれた地域ですが、玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典を納めたという大雁塔や阿倍仲麻呂の記念碑など、見所の多くはむしろ城壁の外に散らばっています。この城壁は高さが10m位で、幅は5~10m位でしょうか、城壁の上を周回する車も走っています。要所要所に車が通り抜けられる開口部があり、観光客が城壁に上る階段もあります。かつては、都市を外敵から守るための城壁だったのでしょうが、現在では交通の障壁になっているのではないでしょうか。城門の残っている都市は、ヨーロッパなどでもよく見かけますが、近代的な都市をぐるりと完全に囲った城壁は数少なく、西安の巨大な壁が連続する城壁は圧倒的な存在感があります。


 
 かつての国際都市であった歴史を持つ西安には、仏教寺院だけではなく回教寺院もあります。地理的にも西に位置する西安は、イスラム文化の影響が大きく、夜店にも羊の肉を料理したイスラム風の食べ物が売られています。売っている人たちも、どことなく東洋人ぽくありません。これらの人たちの信仰を集める回教寺院が、城壁の内側に大きな寺域を持つ大清真寺です。もちろん回教寺院なのでモスクなのですが、通常見慣れたモスクとはまったく違った建物で、どう見ても仏教寺院そのものです。モスクにつきもののミナレットも、八角三重塔なのです。ただ、モスクですから、礼拝堂の軸線は正確にメッカの方角を向いているのだそうです。

 城壁内にあって、大清真寺以外で目だった建物の一つが鐘楼かもしれません。大きな通りの交差点の中央に、ちょうど凱旋門のような格好で建っています。西安一の繁華街の近くで交通量が多く、とても道路を横切って鐘楼に近づくことはできませんから、横断地下道のわき道が鐘楼の地下入り口に通じています。上に上ると、交差点の中央の高みから眺めると、南側には城壁の城門が、西側には同じような楼閣の鼓楼も望めなかなかの絶景です。ただ、地形の関係なのか、排気ガス規制の関係なのか、も一つ空気がどんよりしていてクリアでなかったのが残念です。この鐘楼、鼓楼共に夜間はライトアップされ、回りの雑物がマスクされ、暗闇に浮かぶ姿も美しいです。

 安倍仲麻呂が遣唐使船に乗って唐に渡っておよそ1300年になります。奈良では平城遷都1300年のイベントが開催されていますが、仲麻呂の乗った船も船と間もない頃に東シナ海を渡ったわけです。平城宮跡のイベント会場には、遣唐使船の復元模型が展示されていましたが、この小さな船に100人もの人が乗って外洋に出て行くのはあまりに無謀といった感じです。さらに、GPSや慣性航法装置、それに無線など航行を支援するシステムも皆無の状態ですから、遭難するのが当たり前、遭難したことも把握できない状況だったかもしれません。そこまでの危険を冒してでも、中国の新しい情報や技術を導入しようとしていたのでが、簡単に情報が手に入る現在は、新しいことにチャレンジする精神が薄れてしまったかもしれません、いや本当に有用な情報は、情報のあふれている現在でも簡単には手に入らないのかもしれません。

紅葉の季節以外には静まりかえった足助ですがマンリン書店というハイカラ名の店もあります

2010-08-22 08:00:00 | 日本の町並み
 東京の中心にありながら、古風で人間くささが残る町が神田周辺でしたが、神田というと本の町というイメージが強いものです。近くに大学が多くて、本のリサイクルの需要と供給の環境が整っているからかもしれません。一方、愛知県の足助には、小さな町にたった2軒の本屋さんですが、そのうちの1軒が、蔵の中にある本屋さんで、この本屋さんの名前が通りの名前にもなっています。今回は紅葉の名所の香嵐渓にも近い足助の町の周辺を紹介します。

 足助町は、愛知県のはほぼ中央のやや北寄りに位置し、2005年に近隣町村と共に豊田市に編入されています。豊田市の中心部から東に15kmほどの山の中に分け入った所に位置します。筆者が訪問した頃は、名鉄の三河線が西中金まで伸びていて、そこからバスに乗り継ぎましたが、2004年に猿投(さなげ)ー西中金間が廃止されてしまったようです。戦前には、西中金からさらに延伸して足助までを鉄道で結ぶ計画があり、一部の区間では工事もなされていたようですが、戦争などの影響で断念されたのだそうです。

 さて、通りの名前にもなっている本屋さんですが、マンリン書店という名前です。看板にもカタカナでマンリンと書かれていて、さてどういういわれの命名なのかと興味がありましたが、書店の本家の商家、萬屋林右衛門の屋号からとったものだそうです。カタカナ表示ということもあって、日本語離れのハイカラさがありますが、種明かしされると、なんとも単純なンーミングだったようです。
 
マンリン書店が面してる表通りから、書店の右側に入っていく路地がマンリン小道と呼ばれている通りです。少し上り坂の道の両側は、白漆喰に、下半分が黒い板張りの土蔵が続いていて、何とはなしにモノクロームの写真を見ているような風景です。

 足助は、愛知県の岡崎と長野県の塩尻を結ぶ三州街道の宿場町の一つとして重要な役割を果たした町です。この三州街道は、中仙道の脇街道としてだけでなく、三河湾で取れた塩を信州に運ぶための塩街道としても重要な街道だったそうです。ところが、明治期に塩尻と名古屋を結ぶ中央線の誘致に破れて、人や物の流れが木曽谷の方に変わってしまい、鉄道が通らなかった他の宿場町と同様に古い町並みが残されたのかもしれません。宿場町の古い並みが数多く残されているのは、足助川が南側に「く」の字に曲がったあたりの北側付近で、マンリン書店もその近くにあります。

 書店のある通りの西側には昔の旅籠の面影を残す木造の旅館玉田屋もあります。朱色で丸い郵便ポストがあったり、神社が収められているらしい祠があったりで、映画のセットのようですが、りっぱな現役の生活空間なのです。






 

 かつての街道沿いを走る国道が、古い町並みの川向こうを走っており、さらにバイパスが背後の山をトンネルで抜けています。このため、余計な車が町に入ってこなくて、あまり車や人の姿を見かけない、落ち着いた雰囲気を保つことができ、宿場町が冷凍保存で残されたのかも知れません。ところが、この静かな町の近くにある香嵐渓には、紅葉の季節には、駐車場に入りきれないほどの車が押し寄せます。足助の町の下流で右側に分岐している川の500mほど上流の川沿いに見事な紅葉が見られるそうです。ただ、この季節には、名古屋殻の飯田街道、豊田からの足助街道の2本の道路に車が集中して、大変な渋滞になるとのことで、住民としては生活道路が渋滞で通れないのは迷惑でしょうし、急病の時はどうするのでしょうか。

 渋滞に耐えるだけでなく、見事な紅葉を見るのは、かなり難しいようです。綺麗な紅葉の期間がせいぜい1週間程度と短いうえに、紅葉の状況が秋までの天候に左右されるからで、場合によっては紅葉しないで、茶色になって落葉してしまう年もあるようです。同じ楓も、5月の新緑の方が期間も長く、当たり外れが少ないかもしれませんし、朱色という派手さには欠けますが、こちらの方に美を感じる人も多いかもしれません。観光地にWebカメラを設置するところが増えて、どこに居ても目的地の状況を見ることが可能になりましたが、きらめくような紅葉の感じはWebカメラの情報ではとても判断はできません。数多くの情報を集めても、最後はその時の運しだいという要素が残ります。未知数が残るところが旅の楽しみの一つなのかもしれません。

ブリッゲンは、海から見える妻の部分と、建物の間の細い路地との顔が随分と違います(ノルウェー)

2010-08-15 08:00:00 | 世界遺産
 ハンザ同盟の盟主として発展した都市が、北ドイツのリューベックでしたが、このハンザ同盟の都市はバルト海沿岸だけでなく北ヨーロッパ諸国に広がっていました。今回は、ハンザ都市の中で最北の都市の一つであるベルゲンにある世界遺産ブリッゲンを紹介します。

 ブリッゲンのあるベルゲンは、ノルウェーの西の端に近く北海のフィヨルドに面した町です。ノルウェーでは首都のオスロに次ぐ第2の都市で、そのオスロから鉄道で約7時間、500km程度の距離にあります。この鉄道は、ノルウェーのなかで標高1237mと最も高い場所を通り、最高地点近くのフィンセ駅からは夏にでも積雪が見られます。日本のJRの最高地点は小海線の野辺山近郊の1375mでフィンセよりも高いのですが、とても雪という気候ではありません、気温の差は25度という緯度の差のせいなのでしょうか。ベルゲンは、フィンセから下りに下った海のすぐそばですから、もちろん夏に行って雪を見ることはできません。最高地点からベルゲンまでは100km以上もあり、下りに下るといっても、緩やかなのですが、最高地点から少し下ったミュルダールとソグネ・フィヨルドの奥に位置するフロムとを結ぶフロム鉄道は20km程度の距離で900mほどの標高差を駆け下りています。フロム鉄道などについて詳しくは、このブログの2009年9月6日版をご覧ください。

 ブリッゲンは、ベルゲンの中心部に食い込むような形の湾の北東部にあり、海に面してカラフルな妻面を見せた倉庫街が湾に沿うような形で広がっています。ブリッゲンという言葉は、ノルウェー語で埠頭という意味だそうで、まさしく埠頭そばの倉庫群といった感じです。妻の部分の規則正しく並ぶ三角屋根が作るギザギザが面白いリズムです。
 
建物と建物の間には、細い路地が奥行き方向に伸びていて、薄暗いアーケイド状の1階部分、窓の少ない建物、ところどころ荷物の出し入れに使った滑車なども残り、表から見る風景とはまったく違った印象を与えています。通りに面した部分は、レストランやお土産やに使われていますが、奥のほうは店舗として使われている部分は少なく、現在でも倉庫なのでしょうか、はっきりは判りません。

 ブリッゲンは、13世紀にハンザ同盟の拠点の一つとして、ドイツ商人の居留地となり、ここを中継地点としてノルウェー北部で採れる干し鱈を独占的に扱って富を得ていたそうです。ブリッゲンの倉庫群は、この干し鱈を収めておく場所として使われていたわけです。倉庫群の右端には、窓の少ない倉庫とは雰囲気の違う建物があり、この建物は当時は貿易事務所として使われていたものが現在はハンザ博物館になっています。

 日本でも、あちこちの都市で見かけるようになりましたが、マンホールの蓋にその都市の観光名所などを描いたものが使われています。旅行に出た時に、蓋に注意をして散歩をするのも面白いものですが、足元ばかりを見て歩いていると、けつまずくことは無くても、なにかにぶつかりそうになるので気をつけたほうがいいかもしれません。ベルゲンでも、ブリッゲンの三角屋根と前方の海、後方の山をデザインとして採用したものがありました。

 そのマンホールに描かれている、後方の山のフロイエン山へのケーブルカーは、ハンザ博物館の近くから山頂まで10分足らずで運んでくれます。320mとさほどの高さはありませんが、山頂からは麓のブリッゲンはもちろんのこと、ベルゲンが深いフィヨルドの奥に位置することも解ります。岬の突端には、ノルウェー北端のノールカップ付近まで11日間かけて往復する沿岸急行船が停泊しているのも見られるかもしれません。

 ノルウェーを代表する作曲家といえばグリーグですが、そのグリーグが生まれたのがベルゲンで、晩年もベルゲン近郊に住んだようです。ベルゲン市内にはグリーグの名前を冠した音楽ホールも作られベルゲン・フィルの本拠地となっています。グリーグというと、「ペールギュント」の作品名を思い浮かべるほどに有名で、イプセンの戯曲の劇中音楽として作曲されました。主人公ペールギュントの行動はきわめて身勝手で、どこかの超大国の行動に似て不愉快ですが、グリーグの曲は、情景が浮かぶような曲のように思います。全部で27曲ありますが、通常聞かれるのは、その中からおのおの4曲ずつ取り出した2つの組曲のようです。第1組局の第1曲は、「朝」で筆者は、携帯に記憶させて目覚ましの曲として使っています。携帯の着メロなどに、あまりに有名な曲を使うと、着信以外で聞いて体が反応してしまって困ることもあるのですが。

周りのビルに飲み込まれそうながら神田の古い町並みは現役です

2010-08-08 08:00:00 | 日本の町並み
 今では珍しい木造の長屋風の社宅が現役で残っていたり、ステンドグラスの美しい公会堂が図書館に生まれ変わって現役で図書館として使われていたりした町が兵庫県の加古川でしたが、この加古川に夜間人口が0人という珍しい町があります。金沢町といって工場のみの町のためなのですが、工場ならずともビジネス街では昼間人口の大きさに比べて、夜間人口が極端に少ないところも多いものです。日本の中心のような千代田区でも夜間人口が減少して、小学校が併合されるというような記事を見ますが、その千代田区にあって、昔風の町並みが残されていて、人間くささが感じられるところが神田です。今回は、神田須田町や淡路町近辺を中心に紹介します。

 神田は、日本の中心的な存在の千代田区の北半分を閉める地域で、かつては神田区という独立の区を形成していました。ちなみに、現在の千代田区の南半分は、かつて麹町区と呼ばれ、昭和22年に神田区と併合されて千代田区になったそうです。かつての神田区地域の町名の先頭には神田が付されて、例えば神田須田町という名称になっています。千代田区と聞くと、近代的なビルが林立する町並みを思い浮かべますが、神田須田町界隈には、ビルの谷間に昔風の町並みが残されています、ちょっと佃島の風景にも似ている感じがします。ただ、ビルがすぐそばまで押し寄せていて、この懐かしいような町並みも、いつまで残ることができるかなとも思います。

 
 神田須田町や淡路町は、JR神田駅の北西方向、地下鉄の淡路町近辺で、表通りをちょっと入った裏通りに沿って古い町並みが断片的に残っています。江戸時代には、日本橋を起点とする中山道が通る町で、江戸城外堀の東に広がる町人町の一部でした。戦災でも焼け残ったために、現在でも下町風の家並みが残されているようです。老舗の料理屋も多いようで、必ずしも庶民になじみの場所でもないのかもしれません。ただ、これらの店を除いては、現在では珍しくなったたたずまいの店がかなりの数で残っています。中には、もう死語になってしまったかと思われる「ミルクホール」の看板を掲げるお店もありました。この、お店は築地などに多い、表に面している部分を銅版で覆った「看板建築」の様式を採るものでした。

 
佃島など東京の下町を散歩すると特徴的な風景が家の前面を覆い隠すばかりの植物です。道路からすぐに家屋になっていて、あたかも道路が庭のような役割をしています。もちろん、直植えはできませんから全てが鉢植えなのですが、山の手の鉢物のちょっと取りすましたような並べ方とは違って、何とはなしに雑然と置かれているのがかえって面白い風景のように思います。車の少ない頃には、この道路でメンコやビー玉などで遊んでいたのではないでしょうか。

 神田と聞くと、古書の町というイメージで、最近では神保町あたりのスキー店街を思い起こす人も多いかもしれません。神保町から少し北に水道橋方向に行くと、カトリック神田教会が建っています。関東大震災で被災した先代の聖堂に代わって、1928年に再建され、国の登録有形文化財に指定されている建物はなかなか立派です。先代の聖堂はレンガ造りだったそうですが、現在の建物は耐震性を持たせるため鉄筋コンクリート造りで、外観はロマネスク様式を採っています。内部にはパイプオルガンも設置されているとのことですが、ちょうど結婚式の最中で内部に入ることはできませんでした。

 千代田区の一部では、昼夜の人口比が10倍以上にもなるところが多いようです。一日の中で、これだけ人口が変動すると、携帯電話のトラフィックも昼と夜とでは激変するのでしょう。とうぜん、昼のピーク時のトラフィックで設備を準備しているのでしょうが、夜はガラガラなのでしょうね。一つの波を共用するパケット系の通信では、夜に通信すると理論上の最高速度に近い速度が出るのかもしれません。お祭りなどで、一時的に人間が狭い範囲に集中したときに携帯電話がつながりにくくなることを経験された人も多いかもしれません。かつて使っていたPHSが、東京駅近辺ではほとんど役に立たなかった記憶もあります。PHSのアンテナのカバー範囲は狭いので、使える通話チャネルも少ないのですが、人が集中する昼間の東京駅では、とてもそのように少ないチャネル数ではトラフィックをさばききれなかったのでしす。ただ、この状態は定常的なものですから、システムそのものに問題があったといえるのではないでしょうか。

川が大きく蛇行して川中島のようになった河回村には数多くの伝統家屋が残されています(韓国)

2010-08-01 08:00:00 | 世界の町並み
 長靴の形のイタリア半島のかかとの部分にあって、蜂蜜色の石で作られたバロック建築が町中にあふれている町がレッチェでしたが、同じように黄土色でも東洋では、石ではなく土とわらの黄土色でできた民家が素朴な雰囲気をかもし出します。今回は、川が大きく蛇行して、三方を川に囲まれて、まるで川中島のような地形に、黄土色の土壁と藁葺きの使用人の家と思しき家と、黄土色の塀の向こうに白壁にそりのある屋根に瓦を乗せた両班(ヤンバン)と呼ばれた支配階級の家とが建ち並ぶ韓国の河回村(ハフェマウル)を紹介します。

 河回村は、韓国の中央やや東部に位置する安東(アンドン)市の西部にあって、駅前からバスに乗って45分くらいで村の入り口に着きます。村に入るためには、入り口のゲートがあって入村料なるものを徴収されます。中国でも見かけられましたが、普通に日常生活をしている町や村に、観光客として入ろうとすると、まるでディズニーランドに入るように入場料を払わなければならないのですね。遊園地なら作るのにコストがかかったということで、コスト回収のためと考えられますが、生活の場に入るのに料金を徴収するというのは、取れるところから取ってやろう<という魂胆を感じます。例えば、京都の嵯峨野や倉敷の美観地区に柵ができて、入場料を払わなければ、その地区に入られない、といった状況なのです。

 河回村は16世紀に作られ、その後は同族集落として存続してきましたが、一族から両班と呼ばれる朝鮮王朝の高級官僚を数多く輩出しています。村内に、現在も残されている瓦葺で立派な家は、この両班の家屋で、韓国の伝統的な高級住宅の典型として貴重な家屋のようです。





 これらの家屋を見て感じるのは、意外と開放的な作りということです。こんな家だと冬には寒いんではないかと思ったりしますが、韓国の伝統的な床暖のオンドルが装備されているので大丈夫なのでしょうか。むしろ、夏は夏で暑い内陸性気候をしのぎやすくするために、亜熱帯風の風通しの良い家屋となったのかもしれません。韓国は半島部分に位置するので、寒暖の差は大きくないだろうと思っていましたが、海岸部分を除いて、冬の寒さは厳しく、夏も酷暑が続くのだそうです。

 この立派な両班の家々に比べて、その使用人達のわらぶき屋根の家の粗末さは、対比して見ることができるだけに大きな落差です。この河回村には有名な仮面劇が伝えられていて、土日には観光客向けに公演があるようですが、筆者は見損ねました、ただ安東市内の民族博物館に仮面劇の人形が飾られていて様子を伺うことができます。



 この仮面劇の大部分は、使用人から見た両班達の風刺がテーマになっているようです。日常の不満を、演者の顔の判別ができない仮面劇という形にぶつけたのではないのでしょうか。

 河回村のある安東は、朝鮮王朝時代に活躍した儒学者の出身地で、現在も韓国の中でもっとも儒教の影響が強く残っており、韓国の精神文化の故郷といわれています。序列を重んじる儒教社会の中で、支配階級と非支配階級との落差は、埋めることのできない大きなものだったのでしょうか。また、男尊女卑の風潮も激しいようで、お嫁に来た女性の、「私の世界は、家に囲まれた中庭から見える空がすべて」という言葉が紹介されていました。韓国では、電車やバスの中で、若者が老人に席を譲る光景をよく見かけます、儒教の良い面が生かされてほしいと思います。

 科学技術が発展して、ITによってあらゆることが実現可能と思われるような時代になっても、宗教が大きな影響力を保持していることは驚きです。儒教など世界の4大宗教のすべてはアジアで生まれています、もちろんキリスト教もアジアの一部の中近東で生まれたわけです。物質面で問題を解決するのがITなどの技術であり、精神面での問題解決の役割を担うのが宗教という住み分けは今後も変わらないのかもしれませんが、両輪のうちの精神面を重んじる東洋文化がもっと見直されてほしいものです。

補記 河回村は、2010年7月25日~8月3日ブラジリアで開催の第34回世界遺産委員会で「朝鮮の歴史的集落群」として世界遺産に登録されました。