朝鮮王朝時代の高級官僚の両班を数多く輩出し、名残の伝統家屋が並ぶ村が韓国中央部の河回村でしたが、日本から遣唐留学生として渡った中国で、帰国の機会を失って中国の高級官僚になった安倍仲麻呂の記念碑があるところが西安です。仲麻呂の記念碑は市の中心部の東にある公園に建てられていますが、気をつけないと見落としそうです。今回は、兵馬俑観光の基地と見られがちですが、唐時代に繁栄した長安の名残が町中にあふれている西安のあちこちを紹介します。
西安は、広い中国のほぼ中央部にある陝西省(せんせいしょう)の省都ですが、前漢から唐時代にかけての首都として、特に唐時代には世界最大の都市であった長安としての存在のほうが有名かもしれません。この世界最大の人口を養うには、長安周辺の食糧生産では間に合わず、江南地方から大運河を経由して食料を運んだようです。それでも、政情の不安定さも手伝って、首都機能は東の洛陽に移り、名前も西安と変わって地方都市の一つとなってしまいました。しかしながら、繁栄を誇った長安の残り香が数多く残されていて、1ヶ月あっても全てを見て廻るのは難しいとさえ言われています。
旧市街は3kmx4km程度の城壁に囲まれた地域ですが、玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典を納めたという大雁塔や阿倍仲麻呂の記念碑など、見所の多くはむしろ城壁の外に散らばっています。この城壁は高さが10m位で、幅は5~10m位でしょうか、城壁の上を周回する車も走っています。要所要所に車が通り抜けられる開口部があり、観光客が城壁に上る階段もあります。かつては、都市を外敵から守るための城壁だったのでしょうが、現在では交通の障壁になっているのではないでしょうか。城門の残っている都市は、ヨーロッパなどでもよく見かけますが、近代的な都市をぐるりと完全に囲った城壁は数少なく、西安の巨大な壁が連続する城壁は圧倒的な存在感があります。
かつての国際都市であった歴史を持つ西安には、仏教寺院だけではなく回教寺院もあります。地理的にも西に位置する西安は、イスラム文化の影響が大きく、夜店にも羊の肉を料理したイスラム風の食べ物が売られています。売っている人たちも、どことなく東洋人ぽくありません。これらの人たちの信仰を集める回教寺院が、城壁の内側に大きな寺域を持つ大清真寺です。もちろん回教寺院なのでモスクなのですが、通常見慣れたモスクとはまったく違った建物で、どう見ても仏教寺院そのものです。モスクにつきもののミナレットも、八角三重塔なのです。ただ、モスクですから、礼拝堂の軸線は正確にメッカの方角を向いているのだそうです。
城壁内にあって、大清真寺以外で目だった建物の一つが鐘楼かもしれません。大きな通りの交差点の中央に、ちょうど凱旋門のような格好で建っています。西安一の繁華街の近くで交通量が多く、とても道路を横切って鐘楼に近づくことはできませんから、横断地下道のわき道が鐘楼の地下入り口に通じています。上に上ると、交差点の中央の高みから眺めると、南側には城壁の城門が、西側には同じような楼閣の鼓楼も望めなかなかの絶景です。ただ、地形の関係なのか、排気ガス規制の関係なのか、も一つ空気がどんよりしていてクリアでなかったのが残念です。この鐘楼、鼓楼共に夜間はライトアップされ、回りの雑物がマスクされ、暗闇に浮かぶ姿も美しいです。
安倍仲麻呂が遣唐使船に乗って唐に渡っておよそ1300年になります。奈良では平城遷都1300年のイベントが開催されていますが、仲麻呂の乗った船も船と間もない頃に東シナ海を渡ったわけです。平城宮跡のイベント会場には、遣唐使船の復元模型が展示されていましたが、この小さな船に100人もの人が乗って外洋に出て行くのはあまりに無謀といった感じです。さらに、GPSや慣性航法装置、それに無線など航行を支援するシステムも皆無の状態ですから、遭難するのが当たり前、遭難したことも把握できない状況だったかもしれません。そこまでの危険を冒してでも、中国の新しい情報や技術を導入しようとしていたのでが、簡単に情報が手に入る現在は、新しいことにチャレンジする精神が薄れてしまったかもしれません、いや本当に有用な情報は、情報のあふれている現在でも簡単には手に入らないのかもしれません。
西安は、広い中国のほぼ中央部にある陝西省(せんせいしょう)の省都ですが、前漢から唐時代にかけての首都として、特に唐時代には世界最大の都市であった長安としての存在のほうが有名かもしれません。この世界最大の人口を養うには、長安周辺の食糧生産では間に合わず、江南地方から大運河を経由して食料を運んだようです。それでも、政情の不安定さも手伝って、首都機能は東の洛陽に移り、名前も西安と変わって地方都市の一つとなってしまいました。しかしながら、繁栄を誇った長安の残り香が数多く残されていて、1ヶ月あっても全てを見て廻るのは難しいとさえ言われています。
旧市街は3kmx4km程度の城壁に囲まれた地域ですが、玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典を納めたという大雁塔や阿倍仲麻呂の記念碑など、見所の多くはむしろ城壁の外に散らばっています。この城壁は高さが10m位で、幅は5~10m位でしょうか、城壁の上を周回する車も走っています。要所要所に車が通り抜けられる開口部があり、観光客が城壁に上る階段もあります。かつては、都市を外敵から守るための城壁だったのでしょうが、現在では交通の障壁になっているのではないでしょうか。城門の残っている都市は、ヨーロッパなどでもよく見かけますが、近代的な都市をぐるりと完全に囲った城壁は数少なく、西安の巨大な壁が連続する城壁は圧倒的な存在感があります。
かつての国際都市であった歴史を持つ西安には、仏教寺院だけではなく回教寺院もあります。地理的にも西に位置する西安は、イスラム文化の影響が大きく、夜店にも羊の肉を料理したイスラム風の食べ物が売られています。売っている人たちも、どことなく東洋人ぽくありません。これらの人たちの信仰を集める回教寺院が、城壁の内側に大きな寺域を持つ大清真寺です。もちろん回教寺院なのでモスクなのですが、通常見慣れたモスクとはまったく違った建物で、どう見ても仏教寺院そのものです。モスクにつきもののミナレットも、八角三重塔なのです。ただ、モスクですから、礼拝堂の軸線は正確にメッカの方角を向いているのだそうです。
城壁内にあって、大清真寺以外で目だった建物の一つが鐘楼かもしれません。大きな通りの交差点の中央に、ちょうど凱旋門のような格好で建っています。西安一の繁華街の近くで交通量が多く、とても道路を横切って鐘楼に近づくことはできませんから、横断地下道のわき道が鐘楼の地下入り口に通じています。上に上ると、交差点の中央の高みから眺めると、南側には城壁の城門が、西側には同じような楼閣の鼓楼も望めなかなかの絶景です。ただ、地形の関係なのか、排気ガス規制の関係なのか、も一つ空気がどんよりしていてクリアでなかったのが残念です。この鐘楼、鼓楼共に夜間はライトアップされ、回りの雑物がマスクされ、暗闇に浮かぶ姿も美しいです。
安倍仲麻呂が遣唐使船に乗って唐に渡っておよそ1300年になります。奈良では平城遷都1300年のイベントが開催されていますが、仲麻呂の乗った船も船と間もない頃に東シナ海を渡ったわけです。平城宮跡のイベント会場には、遣唐使船の復元模型が展示されていましたが、この小さな船に100人もの人が乗って外洋に出て行くのはあまりに無謀といった感じです。さらに、GPSや慣性航法装置、それに無線など航行を支援するシステムも皆無の状態ですから、遭難するのが当たり前、遭難したことも把握できない状況だったかもしれません。そこまでの危険を冒してでも、中国の新しい情報や技術を導入しようとしていたのでが、簡単に情報が手に入る現在は、新しいことにチャレンジする精神が薄れてしまったかもしれません、いや本当に有用な情報は、情報のあふれている現在でも簡単には手に入らないのかもしれません。