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世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

根岸には子規ゆかりの場所だけでなく山手線のそばとは思えない昔の日本があります

2011-04-24 08:00:00 | 日本の町並み
 山頭火が終焉を迎えた庵が残され、子規の故郷でもあって俳句につながりの多い町が松山でしたが、その子規の終焉の地は東京の根岸になります。子規が住んでいた家は子規庵として保存されていましたが、戦災で焼失し、戦後になり復元されています。今回は、子規庵周辺の根岸を紹介します。

 根岸は東京都台東区のJR日暮里駅と鶯谷駅の東側にあり、戦災を受けなかった古い町並みも残されている一帯です。子規庵は2つの駅のちょうど中間辺りにあって、案内板が無ければ通り過ぎてしまうような普通の民家です。旧前田候の御家人遥の長屋で、松山から出てきた子規が母と妹を呼び寄せて暮らしていた家で、子規の存命中だけでなく没後も俳句、短歌の文人の拠点となっていたようです。子規というと結核をわずらって、病弱のイメージを受けますが、発病前は盛んに野球をやっていたようです。根岸から南東に丘を登り上野も森あたりでゲームをやったようで、ポジションは捕手を務めていたのだそうです。

 
上野公園には、アマチュア向けに子規の名前を冠した球場があります。
 子規庵の斜め向かいには区立の書道博物館があり、重要文化財を含む書道関連の資料が公開され、世界的にもトップクラスのコレクションだそうです。また、本館の建物は東京都の指定史跡で門の意匠も優雅な感じがします。

 さらに、子規ゆかりの場所として、子規庵から鶯谷方向に行くと豆腐料理の笹の雪があります。子規が愛したというにがりだけを使った豆腐料理を味わえるお店の前には、子規の句が彫られた石碑も立っています。






 子規ゆかりの場所が続きますが、子規庵を日暮里方向に行くと羽二重団子があります。羽二重のようにきめの細かい団子で焼き団子と餡でくるんだ団子が串に刺して売られています。この羽二重団子は子規の「道潅山」や「仰臥漫録」などの散文作品や俳句の中に取り上げています。子規と交友の深かった夏目漱石は甘党で知られ、「ぼっちゃん」にも笹飴が登場しますが、子規も甘党だったのでしょうか。店の前には王子街道の席もあり、街道を行く人々は、ここで一休みをし団子を食べて血糖値を上げて再び街道に出て行ったのかもしれません。

 根岸というと、落語ファンなら初代の林家三平を思い起こされるかもしれません。子規堂のすぐ近くに「ねぎし三平堂」という博物館があります。この建物は、生前に三平が家族や弟子たちと暮らしていた家を改造したそうで、三平ゆかりの品々が展示されています。また、月に一回は落語の口演も行われているようです。「どーも、すいません」という決まり文句にならって、土曜、水曜それに来訪者の便宜を図って日曜日に開堂されています。

 山手線のすぐそばの根岸は、今では失われてしまった、何処にでもあった町並みが残っています。戦災に遭わなかったためなのか、住む人たちが頑固に町並みを守っているせいなのか、入り組んだ路地に低層の住宅が密集して、一面のツタが張り付いた廃屋風の家などもありました。土曜か日曜の午後に一駅だけの散歩をされてはいかがでしょうか。日暮里から鶯谷に向かって、最後を笹の雪の豆腐料理とするか、逆コースで羽二重団子とするかは、好みと予算とでお決めください。

 文字数が少ないアルファベット世界では、早くからタイプライターが普及して、手書き文字や文字そのものへのこだわりは少ないように思います。一方、中国を起源とした漢字文化の国においては、文字そのものへの愛着が大きく、書道はそれが芸術に発展したものです。中国を旅行すると、有名な石碑のところでは、かならず拓本を撮る人を見かけますし、筆、硯、墨、紙を文房四宝といって、どこのお土産屋にも並んでいます。この手書き文字風のフォントを作ってくれる会社があるそうなのです。指定された文字を手書きで送ると、その特徴を抽出して4,000文字のフォントを作成してくれるのだそうです。3万円ほどと少しコストがかかりますが、手書き文字に自身のある方は、試されてみてはいかが。

近代、現代に建てられたデザインの優れた教会建築群もヘルシンキの魅力かもしれません(フィンランド)

2011-04-17 08:00:00 | 世界遺産
 これまでスカンジナビア3カ国の首都を紹介してきましたが、北欧の首都シリーズの4回目になる今回は、その最終回として、フィンランドのヘルシンキを紹介します。

 北欧の定義は、今回を含めて紹介した4カ国にアイスランドと3つの自治領を加えた地域を指します。アイスランドは、火山や氷河それにオーロラと魅力的ですが、まだ訪問していませんので訪問したら紹介したいと思います。ちなみに3つの自治領は、デンマーク領のグリーンランド、フェロー諸島とフィンランド領のオーランド諸島になります。この中のオーランド諸島は、住民の大部分がスゥエーデン人で、その帰属についてもフィンランドとスゥエーデンとの間で軋轢があったようです。現在の状況は、第2次大戦間に国際連盟の事務次官であった新渡戸稲造の裁定によるものだそうで、こんなところで日本とのかかわりがあったのですね。

 スカンジナビア3カ国が立憲君主国として国王や女王が国家元首になりますが、フィンランは共和国になります。国家体制に差があるためでもないでしょうが、スカンジナビア諸国とフィンランドとは交通システム面などでも距離を置くように思います。北欧を代表する航空会社であるSASは北極越えの航空路を開拓したことで有名ですが、SASを構成するのはスカンジナビア3カ国で、フィンランドは独立のフィンエアを擁しています。また、スカンジナビア3カ国の鉄道が、国際標準の1435mmの軌間を用いていますが、フィンランドではロシアと同じ1524mmの広軌を使っています。スカンジナビアでは列車の相互乗り入れを行っていますが、スゥーデンとフィンランドは北部で陸続きなっていますが、乗り換えが必要になります。貨幣単位もユーロを採用し、独立の貨幣単位を持つスカンジナビア諸国とは違うようです。

 さて、首都のヘルシンキは、フィンランドの最南部のバルト海に面した都市ですが、北欧の首都は何処も人口が100万人以下ですが、ヘルシンキは50万人程度のためか何とは無くのんびりした感じがします。町の中に緑と湖水が多いことはストックホルムと似ていますが、都会の喧騒さを余り感じません。路面電車が走る光景がのんびりさを増幅しているのは、オスロと似ているかもしれません。ヘルシンキを訪問して感じるのは、こののんびりさに加えて、デザインの優れた建築が多い点でしょうか。建築だけでなく、デザイン博物館にはいろいろな分野のデザインが集約されています。


 
 19世紀に建てられた教会建築の中から3つを紹介しましょう。ウスペンスキー大聖堂は、港の近くの小高い丘の上に1868年に建てられた正教会の大聖堂です。正教会の特徴である、ドームの屋根と椅子がない大きな礼拝空間が広がりますが、礼拝空間正面のイコノスタシスが迫力があります。
 ヘルシンキ大聖堂は、市の中央部に1852年に建てられたランドマーク的な真っ白に緑のドームを載せた教会です。屋根の周りには12使徒の像が飾られていますが、一揃いの真鍮製像としては世界最大級のものの一つだそうです。





 
 3つ目の、ヨハンネス教会は市の南部にあり、高い2つの尖塔を持つ1878年に建てられた石造りのネオ・ゴシック建築です。フィンランド最大の教会で、大きな内部空間には丸いシャンデリアが下がり、背面にはパイプオルガンの設置されています。ちょうど結婚式に遭遇しましたが、フィンランドのウェディング・ドレスは真っ白とは限らないようです。

 
 伝統的なスタイルの教会に加えて、これまでの教会の形とはずいぶんと違った個性的な教会も数多くあります。その中でも特に有名なものが、1962年に完成したテンペリアウオキ教会で、岩山をくり抜いて丸い屋根を掛けたデザインは、外からはとても教会があるとは思われません。入り口は石垣にコンクリートの横長の穴があるだけで、お城か地下駐車場への入り口のような感じです。ところが、一歩中に入るとコンサートホールのような明るい空間が広がりますが、周辺には岩がそのままむき出しになっているのが異様です。

 さらに、息子の勧めで一緒に行くことになった市の中心部から離れた2つの教会を紹介します。これはたまたま、ヘルシンキに出張していた息子が近代建築に興味があって、観光コースには入っていないデザインの優れた教会を調べていたようです。

 
 1つ目のラーアヤサロ教会は複数のダークグリンの立方体を積み上げたような外観で、集会所のような雰囲気です。屋上にある十字架と、そばに立つ望楼のような鐘楼にある鐘が無ければ教会とは思えない建物です。中に入ると、木のぬくもりのある空間が広がっており、屋根裏の木組みからたくさんの明かりが下がっています。

 
 天井から下がる照明がもっと印象的だったのがミュールマキ教会です。ランプのような形の証明がランダムな高さで下がっています。白を基調とした空間に点在するオレンジ色の明かりが作る風景は、ヘルシンキを訪れた方は時間を作って訪問して体験するだけの価値があるように思いました。

 携帯電話の分野ではフィンランドといえばNOKIAを思い起こすほど携帯端末の世界シェアは2位以下を大きく引き離した断トツです。ちなみに、携帯基地局の分野ではスエーデンのエリクソンで、世界の携帯電話市場は北欧に占められている形相です。日本では国産各社の端末に人気があるようですが、世界シェアで見るとほとんど1%台で問題になりません。通信会社の作ったビジネスモデルに乗って、あまり使いもしないような機能を次々に追加して買い替え需要をあおる戦略では、おとなり韓国の2社にも取り残されてしまってますよね。

三庵めぐりの一つはがけ崩れで全壊しましたが、俳句に縁の史跡の多い松山です

2011-04-10 08:00:00 | 日本の町並み
 自由律俳句を代表する種田山頭火が生まれた町が山口県の防府でしたが、亡くなった庵があるのが松山です。松山は子規の故郷でもあり、俳句に縁の深い町です。今回は三庵めぐりと呼ばれる庵や子規堂など松山の俳句関連の町並みを紹介します。

 松山はご存知、四国の西北の愛媛県の県庁所在地で、四国における国の出先機関は香川県の高松ではなく松山に集中しています。この松山で三庵めぐりという俳句ゆかりの庵を巡るものがあります。三庵とは庚申庵、一草庵それに愚陀仏庵ですが、2010年7月の集中豪雨による山崩れで愚陀仏庵は全壊してしまってい、現在は二庵めぐりとなっています。

  
 山頭火の終焉の地が一草庵で、松山城の北側の愛媛大学キャンパスの先の丘の麓にあります。二部屋くらいの、変哲の無いこじんまりとした家で、床の間の隣には山頭火の位牌と壁には笠がかけられています。通常は土日祝日のみの公開で、通常は外部からガラス戸越しの見学のようですが、訪れた時は偶然に句会が開催されるためにその前の時間に中に入れてもらいました。

 
 庚申庵は、江戸時代の俳人栗田樗堂が作った草庵で、JR松山駅の北東400mほどの場所にあります。こちらは、茶室を含むかなりの部屋数のある建物で、庭もあるなかなか立派な草庵です。庭の藤棚も花の季節には素敵だろうと思います。

 愚陀仏庵は、夏目漱石が松山に赴任した時の下宿先で、戦災で焼失したものを松山城の南側に復元したものでした。庵の跡は萬翠荘と呼ばれる洋館の裏手にあり、ブルーシートに覆われた場所は、山肌のみになってしまっていました。この萬翠荘は、松山藩の子孫が大正時代に建てた鉄筋コンクリート製洋館で、ネオ・ルネッサンス様式の優雅な建物で、2階には開放廊下やバルコニーがあり外観も内部もなかなか見ごたえがあります。

 
 三庵めぐりには入っては居ませんが、松山を代表する俳人の正岡子規の子規堂は外せないでしょう。子規堂は、子規が17歳まですごした住居を移築復元したもので、伊予鉄松山市駅の裏側の正宗寺の境内にあります。子規堂の前には、子規の旅立ちの銅像が置かれ、周辺には数多くの句碑が建てられています。これらの石碑の間に坊ちゃん列車の客車が置かれたいます。軽便鉄道の車両は、遊園地の子供列車のようにかわいらしいものです。

 俳句は5、7、5の17文字という世界でも最短の文学作品の一つであろうと思います。文字そのものによって顕在的に表された情報よりも、その後ろにある感覚的な情報のほうが大きいもので、想像力が無いと味わえない芸術作品とも言えるかもしれません。コンピュータが翻訳文やでは実用に近いレベルになり、芸術分野でも芸医術課の手助けをするようになってきています。しかしながら、感情を持たず、与えられた情報の処理機能が原則のコンピュータでは、俳句の翻訳や解析はもとも苦手な分野として残るような気がします。

無彩色のトゥルッリの屋根のそばに咲いたバラの花がアクセントのアルベロベッロです(イタリア)

2011-04-03 08:00:00 | 世界遺産
 第二次大戦で町中の建物が破壊されたにもかかわらず、見事に復興再建を果たした町がドイツのドレスデンでしたが、家の数で課税されるために簡単に破壊と再建できるように工夫をした家が建ち並ぶのがアルベロベッロです。今回は、長靴の形のイタリアのかかとの部分にある、トゥルッリと呼ばれる独特の形の屋根が連なる世界遺産の町を紹介します。

 アルベロベッロは、イタリア東南部の都市バーリから本数の少ない私鉄で90分ほど内陸に入ったところにあります。アルベロベッロに到着する前からトゥルッリと呼ばれる丸い屋根が車窓から見えてきます、どうも農具や穀物倉庫のようです。アルベロベッロの駅は何の変哲も無いローカル駅で、トゥルッリのかけらもありません。駅から急坂を上りきると、その先の低いところに道路があり、その向こうの丘のこちら向きの斜面に三角形の屋根の連なりが見えると、ちょっと感動です。

  さてトゥルッリですが、15世紀にアルベロベッロを支配していたアクアヴィーバ伯爵が農民たちに命令した決まりが元になっています。伯爵がナポリ王に支払う税金は、領地の家の数に比例したため、ナポリ王の役人が家の数を検査に来る時に農民の家を解体するよう命令をしたそうです。伯爵自身の税金逃れのため、農民は、えらい労力を強いられたわけです。そこで、農民たちは自衛手段として、簡単に解体、再建ができるよう石を積み上げただけの現在のような家の構造を考え出したとのことです。現在では解体と再建の繰り返しは無くなっていますが、接着剤などを持ちず石を積み上げただけの構造には変わりませんが、建物の維持のための石職人が減ってきているのだそうです。

 丘の上から眺めると、白い壁に灰色のとんがり屋根がず~っと続いている光景は壮観ですが、元は屋根の石の色は白だったのだそうです。材質の石灰石が紫外線に当たって黒ずんだ結果だそうです。この無彩色の風景の中にピンクのバラの花が咲いているのは見事な絵になっていました。ただ、これだけ同じような家が並んでいては自分の家を間違わないかな?という疑問も湧いてきます。そのためでしょうか、家によっては屋根に白色でいろいろなマークが描かれているようです。

 

 トゥルッリは民家だけかと思ったら、丘の頂上に近いところにある教会の屋根も三角形のトゥルッリの連続で作られていました。無彩色の教会は何かストイックな感じがします。一方、トゥルッリを見渡す手前の丘の上には、蜂蜜色の石造りの教会も建っています。この教会にはパイプの集合体が十字架の形をしたパイプオルガンが設置されていました。

 トゥルッリの構造が税金の軽減ということから、京都のうなぎの寝床状の町家の構造を思い出します。間口の広さによって税額が決まるので、間口が狭く奥行きの長い家並みが出現したわけです。ただ、京町家とトゥルッリとの違いは、京都は自分の税金を軽くする目的ですが、トゥルッリは支配者の税金逃れの目的で行った点です。住民にとっては何のメリットも無い上に、負担だけを強いられた後者のケースは悪政の見本みたいなものでしょうか。ただ、現代になって、世界遺産に登録され観光客がどっさりくるという思わぬメリットがありましたが。国税庁のホームページから電子申請のできる確定申告では、家の数をごまかすということがありうるのでしょうか。