世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

三木城跡には城の名残はほとんどありませんが湯の山街道のあとには宿場町の名残が多分に残されています

2021-02-28 09:00:00 | 日本の町並み
 終点が難読駅名の神戸電鉄粟生線の途中にあり金物で栄えた三木には2種類の趣の異なる古民家がありました。この町並みは、三木駅から美嚢川を渡った南側に広がっていましたが、美嚢川の上流には秀吉ゆかりの湯の山街道の町並みの名残があります。今回は、前回に続いて三木周辺の紹介です。

 湯の山街道は、織田信長に反旗を翻した別所氏の三木城を秀吉が攻めた時に、作戦行動に使ったり、負傷した兵士を有馬温泉(湯の山)に送る時に使った道筋です。江戸時代になって、参勤交代のための裏街道や有馬温泉の湯治客が通い、三木周辺は宿場町として栄えたそうです。有馬温泉の南側には六甲山系が立ちはだかるので、それを避けるためには三木から淡河(これも難読地名の一つで「おうご」と読みます)を通る谷筋を抜けて有馬に至る街道が生まれたのでしょう。

 
 
 
 
 
 町並み散策の始点は三木駅の2つ手前の恵比寿駅で、駅の出口を出て北に、車の多い道を行くと右手に古民家を模して造られた「らいだーすかふぇ」があり、店の前には、左よかわ、右ありま、の道標が建っています。店の前を左に入ったあたりから古い町並みが始まります。1階部分には格子がはまり、2階部分は白漆喰か黒漆喰で塗られ、虫籠窓が付けられている民家もあります。昔の街道の名残なのか、時々微妙にカーブして先が見えないところもあります。先にどんな景色が待っているのか期待を持たせます。カーブの途中に大塚薬師堂というお寺がありますが、仏像盗んで天罰覿面という言い伝えがあるそうです。本尊の薬師如来を盗んだ泥棒が逃げる道々で激しい腹痛に襲われ盗んだ仏像を返しに来たのだそうそうです。

 
 
 大塚薬師堂の先には造り酒屋もあって、店先にはこもかぶりや杉玉がぶら下がっている稲美酒造で代表するブランドは葵鶴というようです。もう一軒杉玉が下がっていて、いかにも造り酒屋風のる土蔵造りの古民家があるのですが、こちらは福太醸造というお酒屋さんですが、表通りの店構えは和食屋チェーンで現在もお酒は作っているかどうか不明です。

 
 
 
 
 福太醸造の前をさらに西に、美嚢川の手前を左に曲がり神戸電鉄のガードを抜けた先の左手の小山の上には三木城跡があります。神戸電鉄の最寄り駅も三木上の丸(本丸)とお城にちなんだ名前になっています。天守台は石垣も残っておらず天守跡の石柱一本だけ、近くには別所長治の像や長治と一族の辞世を刻んだ石碑があります。城跡には保育園や神社などが建ち、神社のうちの一つは金物の町らしく金物神社でその後ろには金物資料館もありその前には「村の鍛冶屋」の歌碑まであります。城跡の南300mほどの雲竜寺の境内には別所長治の首塚と言われる五輪塔が建っています。

 日本刀をはじめ日本の刃物は鉄を炭で加熱して叩いては折り重ねるという作業を繰り返して作られます。このように手間をかけることで、硬い炭素鋼と柔らかい純鉄がミルフィーユのように層状になり、硬いけれど折れにくい刃物が得られるそうです。相反する性質を併せ持つ日本の刃物は世界に誇る製品なのだそうです。相反すると言えば、ネットの利用においても便利さと危険とは相反することで、便利さを追い求めると、必ずと言ってよいほど危険な落とし穴が待っています。便利だけれど、安全という二律背反の解は日本刀のようには手に入りそうにありません。スマホが手放せない世代の人たちはこの危険についてどれほど理解しているか心配になります。

ボン・ジェスス教会はポルトからちょっと遠く不便ですが幾何学模様のつづら折り階段や水が動力源のケーブルカーなど寄り道の価値ありです(ポルトガル)

2021-02-21 08:00:00 | 世界遺産
 庭園にヴェルサイユにもない人工の滝を作ってしまった宮殿がカゼルタでした。ヴェルサイユの庭園でも大運河が中央にあって、水の役割は大きなものがあるようです。この水を使って、電気もエンジンも使わない水の重力だけで動くケーブルカーというものがあり、世界で最初に造られたものはナイヤガラの滝の近くの展望台に上るものだったそうです。日本の高知県にもあるようですが、現存最古のものがポルトガルのブラガ郊外のボン・ジェスス教会にあります。今回は2019年に世界遺産に登録されたボン・ジェスス・ド・モンテ聖域を紹介します。

 ボン・ジェスス教会があるブラガは、ポルトガルの北西部、ポルトガルの第2の都市であるポルトの北80kmほどの内陸都市です。リスボン都市圏、ポルト都市圏に次ぐ第3の都市圏の中心地です。現在はポルトから速い列車だと40分ほどで町の中心のブラガ駅に着くようですが、筆者が訪問した時は鉄道駅が改修中で、やむなく2時間以上をかけてバスで行きました。リスボンは楽しみの町、ポルトは働く町そしてブラガは祈りの町と言われ、市街地に数多くの教会があります。その中でボン・ジェスス教会は町の中心から東に3kmほどバスで15分くらい、都市圏を取り囲む山の麓からケーブルカーに乗るかつづら折りの階段を上ったところにあります。

 
 
 18世紀に新古典主義の様式を使いプロテスタントに対抗したカソリックによって建てられたのがボン・ジェスス教会です。堂内は淡いパステルカラーでまとめられ威圧感よりかわいらしさを感じます。堂内では結婚式の最中で、式に参列してパイプオルガンの演奏も聞くことができました。教会によっても違いますが、結婚式はオープンで二人を祝福する人は誰でも参列してもよいところが多いようです。

 
 
 さて、水の重力で動くケーブルカーの仕組みです。ケーブルカーの対になった籠の床下に各々水タンクがあり、上の駅にいる籠の水タンクに水を入れ、下の籠の水タンクからは抜くと、重力差が生まれて軽くなった下の籠は上に、上に居て重くなった籠は下に降りてきます。上の駅から下の駅に水が流れ落ちる時にケーブルカーの籠を道連れにしているとでも表現できるでしょうか。電気も燃料も要りませんが、水の出し入れに手間取るので、頻繁な運行は無理のようです。筆者が訪問した18年前は、台車のみが傾斜して車体は水平を保つような設計の古風なものでしたが、現在は新しいものになっているのかもしれません。上の駅に着くと、芙蓉らしき花が満開です。芙蓉は日本や中国など東洋原産でヨーロッパで見ることは珍しい植物で、日本との交易でポルトガル人が持ち帰ったものかもしれません。同じ株に色の異なる花が咲いていたので、咲いているうちに花の色が白から赤に変わる酔芙蓉(酔っ払ったように見えることからの命名)だったのかもしれません。

 
 
 
 
 ケーブルカーも面白いのですが、見どころは教会の正面に通じる階段で、片道はこの階段を通ることを勧めます。この階段は白と灰色が基調で、階段下の入り口のアーチなども白に灰色の縁取りでまとめられています。階段の下半分は通常の形ですが、上半分が幾何学模様のつづら折れの階段です。階段下から眺めると四角形と三角形白のパネルを灰色で縁取りしたものが幾重にも重なって見えます。実はこの白い部分はパネルではなく、階段の側壁なのです。教会に向かって中心軸となる位置には泉などが配され、両端で折り返す部分には聖人像が置かれています。筆者は下りで階段を利用しましたが、上りで利用しても泉や聖人像を眺めながら上れば、坂のきつさも忘れるかもしれません。

 水力ケーブルカーは、水の位置エネルギーを利用したもので、エネルギーの面からは水力発電と同じです。エネルギーの単位はジュールが使われていますが、これは位置エレルギーと熱エネルギーの関係を事件したイギリスの物理学者ジュールにちなんだものです。ジュールの実験装置の模型が科博にもありますが、重りが下降するときに水をかき回すプロペラを回し、その時の水の温度上昇を測定して、仕事量と熱量の関連を求めるものです。ITの分野で使われる単位名はほとんど人名ですが、面白いのはエジソンは無くてテスラがあるのです。現在テスラは電気自動車のメーカー名として知られますが、テスラは磁束密度の単位名に使われているクロアチア出身の科学者です、エジソンは、電気の送電に直流が良いと主張し、テスラは交流を主張し現在もその主張の流れで発送電は原則的に交流が使われています。エジソンの主張が通っていたら、電気の分野はこれだけ発展していなかったかもしれません。

金物の町の三木には趣の異なる2軒の登録文化財の邸宅が見ごたえです

2021-02-14 08:00:00 | 日本の町並み
 サクランボでおなかが、旧郡役所の建物で目が満足するのが寒河江でした。寒河江もほどほど難読ですが、寒河江駅のあるJR線は左沢線とかなりの難読地名です。難読地名は北海道に多いのですが、京都など関西にも存在し歴史のある土地が多いようです。神戸市の市街地と背後の町とを結ぶ神戸電鉄の北西部分の粟生(あお)線は難読地名の一つかもしれません。今回は、その途中にある三木駅の南側にある古い町並みを紹介します。

 粟生の地名は粟が採れた畑という単純なものですが、読み方がひとひねりといったところです。粟生線の終点の粟生駅は小野市内にあり小野駅は神戸電鉄の途中駅ですが粟生駅はJR加古川線の駅と三セクの北条鉄道の駅と3つの線が集まる要の場所にあります。今回紹介する三木は難読駅名ではありませんが、金物で栄え、秀吉が有馬温泉に通った道筋にある町です。かつては加古川線の支線が伸びていましたが三セクを経由して廃線になってしまいました。秀吉が有馬に通った湯の山街道の遺構が多く残るのは、神戸電鉄線の北側ですが、今回紹介するのは南側の美嚢川の左岸に広がる本町周辺です。

 
 
 
 
 
 
 三木駅を降りて明石方面につながる道を南に美嚢川に架かる福有橋を渡り30mほど行った左手のきのした整骨院のとことを左に曲がったあたりから本町の古い町並みが広がります。三木金物の伝統を引き継ぐ黒田金物店や黒田質店などの格子と虫籠まどのある土蔵造りの家並が続きます。屋根の上に煙出しと思われる子屋根のある建物もあります。電柱さえなければ江戸時代にタイムスリップしたような景色です。

 
 
 この町並みは突き当たって右に曲がって車の多い表通りに出ますが、その角に奇妙な建物がありました。3階建てで壁一面に皿を張り付けたような模様がある立石堂ビルがあります。1階にはレストランがあり、2階以上にも診療所があるようですが、失礼ながら廃墟の香りがするビルでした。そのビルの2階への階段の下には「右ひめぢ道」「左あかし道」との刻印のある道標がかくれていました。
 左折して表通りに出ると土蔵造りもどきの店舗があったり、レンガ塀のある駐車場があったりします。

 
 
 
 しばらく行くと左手に旧玉木家があります。江戸末期の切手会所(銀行)の建物で登録文化財になっています。間口はさほどではありませんが、間口の3倍ほどもある奥行きは美嚢川まで伸びています。内部は公開されていて、表通りに面した店舗であった部屋から竈などがある土間を通り抜けると中庭があり、そこに建つ土蔵の扉には琴柱をかたどった家紋が描かれています。

 
 来た道を引き返して南に入ると丘の上に大宮八幡があります。10月に行われる例大祭では1トンを超える神輿が急な階段を登って宮入りすることで有名です。

 
 
 大宮八幡の西には旧小河家別邸があります。明治後期に小河家の別邸として建てられたもので、こちらも登録文化財です。こちらの邸宅は広大な敷地を持つ邸宅で、門を入ると正面に池を配した池泉回遊式の庭園が奥に延びています。右手には万人小屋や物置などが塀に沿って渡り廊下のように奥に延び邸宅につながっています。この物置の上にひょっこりと三角のとんがり屋根が覗き、こんなモダンな建物もあるのかと思いましたが、隣接する宗教施設でした。母屋は銘木を集めた和風建築で、町谷風の建物の旧玉木家と違って式台玄関を持つ堂々たる邸宅です。客人を招く別荘として作られたためか、これだけ贅沢な作りりとなっているのかもしれません。お供が主人を待つための「供待ちの間」という小さな2畳間もあり、茶室として使えそうな感じもしました。

 2軒の登録文化財にゆかりの玉木家も小河家も三木銀行の設立にかかわった人物だそうです。玉木家の住宅は切手会所として建てられもので、切手会所は荷為替による金融業で、銀行の前身の一つで、銀行の設立は自然の成り行きだったのかもしれません。一時期は各地に銀行が乱立したようで、地方の金融を支えてきましたが、三木銀行もそれらの一つではないでしょうか。金融の自由化と言われますが、3つのメガバンクのサービスは、いつも横並びのような気もします。新規に紙の通帳の有料化というのも横並びのように思います。ネットの通帳は、いつでも過去にさかのぼって口座の状況が見られて便利なのですが、パソコンって予告なくシステムダウンする代物なので、紙が手元にないのは、なんとなしに心配になります。

仮面劇は見られませんでしたが安東の民俗村は70年前の日本で見たような風景が広がっていました(韓国)

2021-02-07 08:00:00 | 世界の町並み
 福建土楼の近くには中国人の描く桃源郷のようなのどかな村落があって、中国人のツアー客にも人気のようです。何でもない村が土楼の世界遺産登録で脚光を浴びたのかもしれません。一方、お隣の韓国には、田舎の風景を再現した民俗村があちこちに存在するようで、今回はダムに沈んでしまう村の遺産を高台に移転して保存した安東民俗村を紹介します。

 
 民俗村のある安東は韓国の中央北東よりの内陸部、慶州の北100km程度、ローカル列車で1時間半ほどある地方都市ですが、世界遺産の河回マウルがあることで有名になりました。民俗村は安東駅前から川沿いに北東へ3km、バスで10分ほど、右岸を走っていたバスが橋を渡って左岸に渡ったところが民俗博物館の正面玄関になります。湖底に沈んだ村というのは、渡った橋の500mほど上流に堰堤のある人造湖の湖面の下ということです。手前の博物館で、予備知識を得てから博物館の野外展示という位置づけの民俗村に入るとった手順です。川を渡る橋は2つあって、博物館正面に出る橋はそっけないのですが、下流の民俗村に近い橋は、途中で折れ曲がり東屋風の建物や横に突き出した見晴らし台が付いています。

 
 
 最初に入る博物館には安東の歴史や生活を表す物が陳列されていて、安東で有名な仮面劇の人形も置かれています。この仮面劇というのは、河回マウルや市内の広場などで9月から10月にかけて行われるもので、庶民が支配階級の両班を風刺するものが中心です。演者は仮面をかぶって人や動物それに超自然現象を表現するようです。

 
 
 
 
 
 博物館を出て川沿いに南西に100mほど天下代将軍と地下女将軍と書かれた2本の柱を通って村に入ります。民俗村の家々は、入口から南東に延びる谷筋に沿って建っています。池のある所から登ってゆくと、東屋風の建物の奥には藁ぶきの水車小屋があり、その後ろには瓦葺きの両班の家屋らしき家がのぞいています。瓦葺きの家屋はあまり目立たなくて、残りは農家の藁ぶき家屋が移築されています。両班はかつての高級官僚で支配階級ですから、数多くが居たわけがなく1軒だけなのかもしれません。上手にある畑では、日本では60年以上も前にしか見られなかった牛が耕している光景が見られました。また、焚口があって後方に囲いのある窯元か竈の跡らしき遺跡もありました。筆者は行きませんでしたが、さらに奥にはグルメリゾートのホテルもあるようです。

 仮面劇では演じる人の表情は見られないので身振りなどで感情表現などを行うことになります。日本の能では演者が顔を傾ける角度で、見え方が異なり微妙に表情が表現できる工夫がされているものもあります。一方、アンドロイドは人間に限りなく近づけた人工物でコンピュータを駆使した表情の豊かなものもあって表情で意思を伝えることができるものも多く作られているようです。仮面劇や能では、見る人には演者の感情を読み取る能力というか芸術として理解する必要があります。一方の、介護など癒しの効果を持たされたアンドロイドでは、人間側に感情などを理解する努力は求められない場面での利用なんですね。