世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

登録おめでとうございます富岡製糸場、けれど遺産というより現役の工場のように生き生きしてます(日本)

2014-06-29 08:00:00 | 世界遺産
 ドーハで開催の第38回世界遺産委員会で富岡製糸場の世界分化遺産登録が承認されました。富岡の町並みは、このブログですでに取り上げ製糸場に着いても紹介しました。今回は富岡製糸場に焦点を絞って、やや詳しく紹介したいと思います。

 富岡製市場は、高崎駅から上信電鉄で約40分の上州富岡駅から、古い町並みの残る道を南西に600mほど歩いた所にあります。かなり不便な場所だと思うのですが、筆者が訪問した7年前でも、すでに暫定リストに載せられていたこともあって、かなりの観光客を見受けました。正式登録された現在は、大変な数の訪問者になっているのではないかと思います。

 
 
 製糸場は200m四方の塀で囲まれた敷地の中に、工場や倉庫に混じって、工場で働いた人や指導をした人たちの生活の場も残されています。門を入ると正面に見えるレンガ造りの建物は、観光ポスターなどで良く見る象徴的なものですが、これが工場(操糸場)の建物というわけではないのです。東西に2棟ある2階建ての建物は、置繭所と呼ばれる材料の繭の倉庫で、2階部分に合計30トン以上の繭を貯蔵できたのだそうです。どうりで、この建物には扉はあっても窓が無いのです。東置繭所の入り口アーチの上部の要石には明治五年の刻印が残されています。

 
 
 操糸場の建物は、同じようにレンガ造りですが、糸繰りには手元が明るくなければならないので、こちらは天井にも届きそうな大きなガラス窓があります。このガラスは、製糸機器の輸入元であったフランスから輸入をしたそうです。内部には1987年まで操業を続けていた繰糸機がビニーリシトの向こうに並んでいます。シートを外して、電源を入れれば、すぐにでも動きそうな存在感があります。

 
 
 繭置所や操糸場の周辺には、フランスから招いた技術者一家の邸宅や、やはりフランスからやってきた工女たちの宿舎などの遺構が残っています。これらの建物群は、彼、彼女達の帰国後は色々な用途に使われたようです。コロニアル風の建物は、当時のお雇い外人の待遇の良さを垣間見る思いです。さらには、片倉診療所の看板を掲げた建物もあり、これは工場を引き継いだ片倉工業が建てたものですが、この建物もコロニアル風で周りの建物と溶け合ってます。

 明治期には、鎖国時代に取り残された技術力を補うために、数多くのお雇い外人が来日して、技術の結果だけを吸収したようです。その後、わが国は技術先進国の模倣野歴史を経て、世界に冠たる技術先進国に成長を果たしました。しかしながら、このところ状況に変化の兆しが見えてきて、少々気になるところです。国内の優秀な技術者の海外流出が加速しているのです。筆者の頃には理科系卒業者が金融業や商社に就職することはほとんどありませんでしたが、最近は製造業に就職する者より増えているのかもしれません。製造業における技術者の待遇が相対的に低いことが原因の一つのように思えますが、金や物を動かすだけで、国が成り立つとは思えません。

奈半利の石塀の中の水切り瓦のお家にはお雛様が微笑んでいました

2014-06-22 08:00:00 | 日本の町並み
 全国の3セク鉄道は、JRのバイパス線の役割のおかげで黒字経営の会社以外は、ほとんどが赤字です。赤字であっても特色のあるサービスで元気な3セクも多く、その一つが富山県高岡の万葉線でした。一方、高知県にも、JR通らない観光地を結ぶ元気な3セク鉄道が存在します。土佐くろしお鉄道がその鉄道で、今回はその起点の一つである奈半利を紹介します。

 土佐くろしお鉄道は、高知県の西南と東南に突き出した2つの岬である足摺岬と室戸岬に伸びる分断された2路線を持ちます。しかし、共に岬には到達できず、足摺崎までは20km程離れた中村から内陸に入って宿毛まで、室戸岬も同様に20km程手前の、今回紹介する奈半利で途切れています。

 
 
 
 奈半利町は、室戸市と接する人口3千人程度のこじんまりとした町です。土佐くろしお鉄道の終点駅があるように、江戸時代から阿波と土佐とを結ぶ交通の要として発展した町で、太平洋を前にした漁村としても栄えたようです。町並みの特徴は、2種類ある石塀で、丸石を赤土で固めたものと、丸石を半分に割って小口を表にして積み上げたものとがあります。この2種類の塀に混じって、薄い石を層状に積み上げたものも見かけました。この、塀の奥には、漆喰の白い壁に水切り瓦がコントラストになっている母屋が見えます。高知から室戸岬に掛けて、このように水切り瓦のある民家が多いのは、台風による雨の被害を避けるためなのでしょうか。

 
 
 
 
 訪問したのは2月下旬で、町中に雛飾りをした古民家が公開されていました。高知県では他の町でも同じような催しがされていますが、訪れた中では、奈半利のおひな祭りが最も規模が大きかったように思います。お雛様は、伝統のありそうな人形に加えて、掛け軸のものや、子供の絵のものもありました。雛人形に加えて、古民家の中の一部も拝見できるのがうれしい企画です。山形県の村上では、民家の持つ屏風を飾って公開してくださるお祭がありましたが、この時も屏風に加えて町家の中も見ることができて興味深い経験でした。

 雛人形というと、人形に付随する道具類のミニチュアも良くできていて、刀などを抜いてみたくなります。刀といえば、拳銃なども3Dプリンタで簡単に作れるようになりつつあるようです。もちろん材料は、金属製は無理なために、本物の拳銃に比べれば威力は劣るようですが、使い方によっては殺傷能力もあるとのこと。人形の製作過程にも、3Dプリンタの導入が検討されているようで、もっと本物に近いミニチュアが出回ってくるのは時間の問題かもしれません。ただ、お雛様のお顔は、面相筆で一体一体人間の手で描いて欲しいものです。

チュニジアン・ブルーと白の建物と地中海と空の青さが溶け合うシディ・ブ・サイドです(チュニジア)

2014-06-15 08:00:00 | 世界の町並み
 ノスタルジックな雰囲気が漂う台北郊外の丘が九份でした。しっとりとした、東洋の情緒がいっぱいの場所でしたが、逆に陽光サンサンとして開放的な気分にあふれている丘の一つがチュニジアのシディ・ブ・サイドです。今回は、前回の九份とは雰囲気が対照的なチュニジアの町の紹介です。
 シディ・ブ・サイドは、北アフリカのチュニジアの首都であるチュニスの北西にある丘の町です。チュニスの中心からはTGMという私鉄で30~40分ほど走った、その名もシデ・ブ・サイド駅で下車し坂を上り詰めた所にあります。訪問したのは6月でしたが、この丘を登るのに大汗です。緯度的には東京と同じ程度で、そばに地中海があるのに、とにかくものすごく暑かったんです。TGMは、カルタゴ関連の遺跡の近くを通る鉄道で、観光客や地元の海水浴客などがわんさか乗ってきて、日本のラッシュ時の電車のように混雑します。休日に乗車の場合は1等にしたほうがいいかもしれません。

 
 
 
 丘に登るとそこは、チニュジアン・ブルーと白とに塗り分けられた建物のオンパレードです。チュニジアン・ブルーは、コバルト・ブルーに白を混ぜたような色合いで、窓枠や扉に塗られたいます。このブルーと、地中海と空のブルーとが溶け合って、さらに木々の緑がアクセントとなり、楽園という感じがいっぱいです。この2色の色分けの建物の一つが、通りから階段を上がった所にあるカフェ・デ・ナットで、250年前から続いているそうです。世界的にもっとも古いカフェーの一つとも言われています。

 
 カフェ・デ・ナットをはじめとして、町の中に散らばるカフェでコーヒーを飲みながら、眼下に広がる地中海を眺めてのんびりするのがシディ・ブ・サイドの正当な楽しみ方なのかもしれません。ただ、日本からの旅行者にはあまり時間は持ち合わせないので、コーヒーを飲むところまでで我慢するってところでしょうか。

 チュニジアは、ジャスミン革命の後は、政情が不安定で、国全体が危険度1の「十分注意してください」で、南部や西部の国境地帯は危険度3の地域もあります。南欧からは飛行機で1~2時間程度で、美しい海岸や世界遺産にも指定されている多くの遺跡群、さらに内陸部には砂漠もあるバラエティ豊かな国です。同じ地中海沿岸でも、ヨーロッパ側は物価も高いのですが、チュニジアは、満足できる設備のホテルが随分と安く泊まれます。

 ブルーという色は、人間の心を沈静化する作用があるそうです。町の街灯を青い色に変えたところ、性犯罪が減ったという報道も見たことがあります。ナトリウム・ランプで照らされた人間の顔は、ちょっと不気味ですが、青色の光だと、もっと不気味なのではないでしょうか。青い色が沈静化作用があるのではなくて、人間の顔色が不気味で、犯罪者も引いてしまう、という効果なのかもしれません。青色といえば、青色発光ダイオードの特許をめぐっての訴訟が話題となりました、仕事としての研究とその成果がどこまで個人の権利なのかが争われた初めてのケースではないでしょうか。この問題の根底には、日本では成果主義といっても、さほど収入には反映されてきていない、ということもあるかもしれません。ただ、成果といっても、判断は人間としての上司ですから、どこまで客観的なのでしょうか。

義経弁慶も渡ったという如意の渡しのそばには米の流通拠点であった吉久の商家の家並みが残ります

2014-06-08 08:00:00 | 日本の町並み
 東海道線の開業を早めるために、琵琶湖を船で渡るという手段が使われたのは鉄道黎明期のころで、連絡線は長浜から大津までを結んでいました。長浜に残る日本一ふるい駅舎はその名残で鉄道記念物に指定されていました。連絡船は海底トンネルができたために廃止になった関門海峡や津軽海峡のほか、橋ができたために廃止となった宇高連絡線がありますが、同じように2本の橋ができたために、小さな連絡船が廃止になったのが如意の渡しです。義経と弁慶も利用したという伝統の渡しも、お客の減少には勝てなかったようです。今回は、2009年まで小矢部川河口に存在した如意の渡しの右岸の乗り場の近くの吉久の町並みを紹介します。

 
 如意の渡しは、富山県の日本海に面した、高岡市伏木と射水市六渡寺との間の300mほどの小矢部川河口を運行していました。高岡市側の乗り場のそばには義経と弁慶との像も建っていました。しかし、1974年に渡しの上流1kmほどの所に伏木港大橋が開通して乗客が減少し、2009年に渡しと同じ位置に伏木万葉大橋が開通をして止めを刺されました。

 
 
 今回紹介する吉久の町並みは、如意の渡しを射水側で降りて、単線の万葉線に沿って2駅ほど南に行ったあたりです。江戸時代には、小矢部川と庄川の舟運を利用した米を中心とする物量の拠点として商家の町が形成されました。万葉線の吉久と新吉久の間に、板壁や漆喰壁に格子を連ねた家並みが、微妙にカーブをする道の両側に連なっています。カーブをする道路沿いの町並みは、いつも感じることですが、カーブの先にどんな町並みが続いているんだろうという期待を持たせます。ただ、この吉久の町並みは、6年ほど前の訪問でしたが、過疎化のためなのでしょうか眠ったような感じを受けました。

 とこで、そばを走っている万葉線ですが、高岡駅と越ノ潟とを結ぶ第3セクターの路面電車です。現在は営業キロ数が13kmほどの小さな路線ですが、かつては現在の越ノ潟から海岸沿いに東進をして富山駅まで伸びる路線長が30kmほどにもなる私鉄でした。ところが、富山新港の築港のため、越ノ潟と堀岡が開削されて、線路が東西に分断されてしまいました。しばらくは、開削部分をフェリーで結んでいましたが、乗客の減少のため1980年に富山駅側の路線共々廃止となりました。残った高岡駅側も乗客減少は同じでしたが、地元の津用要望もあって3セクとして生き残りました。さすがに営業収支は赤字ですが、がんばっている3セクとして真っ赤なLRTが人気を呼んでいます。どうも、万葉線は連絡船の廃止に縁のある路線のようです。

 如意の渡しも万葉線のフェリーも人と自転車程度を乗せるだけでしたが、かつての青函や宇高連絡線はデッキにレールが敷かれて列車ごと運んで(航送)いました。現在でもドイツとデンマークとを結ぶ渡り鳥ラインでは、旅客列車を航送することで人気があります。船のデッキにギリギリまで詰めて乗せるそうですが、車の輸出用の船ではもっとギリギリの積み込みが行われているようです。レールがあり1次元の列車とちがって、2次元方向に他の車との接触を回避するのは、専門のドライバの腕なのだそうです。最近の車は、センサーとコンピュータとの連携で衝突防止のシステムを搭載するものが増えましたが、車の積み込みシーンでは役に立ちそうにありません。日本中で毎日12人もの交通事故による死亡者がゼロになるのはまだまだ先のようです。

かつて通行税を取り上げたライン川の古城群は船からのんびりと眺めるのが優雅です(ドイツ)

2014-06-01 08:00:00 | 世界遺産
 スペインとの国境に近く三重の堅固な城壁を持つのがカルカソンヌでした。城門で出入りの人間をチェックして城内を守っていたわけですが、同じように街道の途中でチェック機構を果たしていたのが関所です。関所はチェックだけでなく、通行料を徴収する利権も持っていたようで、やたらと関所が作られた場所の一つがライン川沿いではないでしょうか。現在のように陸路や空路の移動が楽になる前は、水路が最も楽な移動路で、ヨーロッパの大きな河川は、陸路の街道より人と物の移動が激しかったようです。今回は、川に沿っておびただしい数の城跡(関所の跡)が残るライン川中流域を紹介します。

 ライン川は、スイスからフランス、ドイツを通りオランダで北海に注ぐ国際河川です。このうちドイツ領内のコブレンツからビンゲン・アム・ライン間の65kmの流域が世界遺産に登録されており、城跡や教会建築などの建物群に加え都市景観などを含む3,000平方キロという広大な広さです。この景色を楽しむためには、一般的に列車の車窓からかライン川の遊覧船から眺めることになります。時間があれば、途中下車もしくは下船をして、古城ホテルにも泊まりたいところです。

 
 
 列車は、ライン川の右岸にも左岸にも走っていますが、通常は旅客列車の多い左岸に乗車することになります。ICでマインツからコブレンツまで1時間余で到着をします。間違っても、フランクフルトからケルンまでをショートカットするICE専用路線は急ぐ時にしか乗ってはダメです。この路線は、両都市間を直線で結ぶため、ライン川から離れた所をトンネルで抜けているからです。



 
 
 
 一方の船ですが、これは時間のある方でないと無理です。マインツからコブレンツまで、5時間半、流れに逆らうコブレンツからマインツまでは7時間半もかかります。列車ではあっという間に通り過ぎる景色を、6~8倍も時間を掛けて、食事を取りながら眺めるのは、贅沢な時間です。ただ、日本人のパッケージツアー客の大部分は、途中のリューデスハイムから乗り込んで、そそくさと昼食をし、100分乗船してザンクトゴアで、どやどやと下船をしてゆきます、効率は良さそうですが。

 日本人ツアー客の乗船コースでも、ねこ城、ねずみ城それにローレライを見ることができます。14世紀には、この区間に60もの通行税を徴収する関所があったそうです。現在残る城跡は、観光の目玉として景色に変化をもたせていますが、こんなに沢山の関所で通行税を取られたのでは、当時は流通経費が高かったでしょうね。

  ライン川と聞いて、すぐに思い出すのがローレライですが、この岩の付近でライン川が急カーブをし流れが急で難破をする船が続出したことによる逸話です。20年前に列車から眺めた時には、岩の上に美少女が居るのではなく、ペンキで「ローレライ」と日本語で書かれていて興ざめしました。現在は、ペンキは消されているようですが、美少女は現れません。ノルウェーのフロム鉄道では、滝のそばに妖精が現れる演出があるのですが。

 中世の街道沿いの税関は、地方豪族などが通行料を聴取した利権の拠点でしたが、現在の税関はだいぶ性格が異なってきているようです。地方豪族の利権ではなく、国家の利権を代表する点では共通点もあるかもしれません。ただ、麻薬などの流入などを、国境というフィルターで阻止する役割はプラスの役割かもしれません。ただ、帰国ラッシュ時には税関の行列は、ちょっと憂鬱です。この行列を回避するため、ワインなどを規定数以上購入して、空いている課税のラインに並ぶのも選択肢の一つです。税関の隣にあるイミュグレーションですが、こちらも行列が悩ましいのですが、前もって指紋登録をして空いている自動ゲートを通る手があります。ただ、この認識率があまりよくなくって、拒否されると再度一般の行列に並ぶ羽目になり、かえって遅くなるリスクがあります。指紋の認識の先にはコンピュータ二よる顔認証の導入が検討されていますが、度の程度の認識率なのでしょうか。