ドーハで開催の第38回世界遺産委員会で富岡製糸場の世界分化遺産登録が承認されました。富岡の町並みは、このブログですでに取り上げ製糸場に着いても紹介しました。今回は富岡製糸場に焦点を絞って、やや詳しく紹介したいと思います。
富岡製市場は、高崎駅から上信電鉄で約40分の上州富岡駅から、古い町並みの残る道を南西に600mほど歩いた所にあります。かなり不便な場所だと思うのですが、筆者が訪問した7年前でも、すでに暫定リストに載せられていたこともあって、かなりの観光客を見受けました。正式登録された現在は、大変な数の訪問者になっているのではないかと思います。
製糸場は200m四方の塀で囲まれた敷地の中に、工場や倉庫に混じって、工場で働いた人や指導をした人たちの生活の場も残されています。門を入ると正面に見えるレンガ造りの建物は、観光ポスターなどで良く見る象徴的なものですが、これが工場(操糸場)の建物というわけではないのです。東西に2棟ある2階建ての建物は、置繭所と呼ばれる材料の繭の倉庫で、2階部分に合計30トン以上の繭を貯蔵できたのだそうです。どうりで、この建物には扉はあっても窓が無いのです。東置繭所の入り口アーチの上部の要石には明治五年の刻印が残されています。
操糸場の建物は、同じようにレンガ造りですが、糸繰りには手元が明るくなければならないので、こちらは天井にも届きそうな大きなガラス窓があります。このガラスは、製糸機器の輸入元であったフランスから輸入をしたそうです。内部には1987年まで操業を続けていた繰糸機がビニーリシトの向こうに並んでいます。シートを外して、電源を入れれば、すぐにでも動きそうな存在感があります。
繭置所や操糸場の周辺には、フランスから招いた技術者一家の邸宅や、やはりフランスからやってきた工女たちの宿舎などの遺構が残っています。これらの建物群は、彼、彼女達の帰国後は色々な用途に使われたようです。コロニアル風の建物は、当時のお雇い外人の待遇の良さを垣間見る思いです。さらには、片倉診療所の看板を掲げた建物もあり、これは工場を引き継いだ片倉工業が建てたものですが、この建物もコロニアル風で周りの建物と溶け合ってます。
明治期には、鎖国時代に取り残された技術力を補うために、数多くのお雇い外人が来日して、技術の結果だけを吸収したようです。その後、わが国は技術先進国の模倣野歴史を経て、世界に冠たる技術先進国に成長を果たしました。しかしながら、このところ状況に変化の兆しが見えてきて、少々気になるところです。国内の優秀な技術者の海外流出が加速しているのです。筆者の頃には理科系卒業者が金融業や商社に就職することはほとんどありませんでしたが、最近は製造業に就職する者より増えているのかもしれません。製造業における技術者の待遇が相対的に低いことが原因の一つのように思えますが、金や物を動かすだけで、国が成り立つとは思えません。
富岡製市場は、高崎駅から上信電鉄で約40分の上州富岡駅から、古い町並みの残る道を南西に600mほど歩いた所にあります。かなり不便な場所だと思うのですが、筆者が訪問した7年前でも、すでに暫定リストに載せられていたこともあって、かなりの観光客を見受けました。正式登録された現在は、大変な数の訪問者になっているのではないかと思います。
製糸場は200m四方の塀で囲まれた敷地の中に、工場や倉庫に混じって、工場で働いた人や指導をした人たちの生活の場も残されています。門を入ると正面に見えるレンガ造りの建物は、観光ポスターなどで良く見る象徴的なものですが、これが工場(操糸場)の建物というわけではないのです。東西に2棟ある2階建ての建物は、置繭所と呼ばれる材料の繭の倉庫で、2階部分に合計30トン以上の繭を貯蔵できたのだそうです。どうりで、この建物には扉はあっても窓が無いのです。東置繭所の入り口アーチの上部の要石には明治五年の刻印が残されています。
操糸場の建物は、同じようにレンガ造りですが、糸繰りには手元が明るくなければならないので、こちらは天井にも届きそうな大きなガラス窓があります。このガラスは、製糸機器の輸入元であったフランスから輸入をしたそうです。内部には1987年まで操業を続けていた繰糸機がビニーリシトの向こうに並んでいます。シートを外して、電源を入れれば、すぐにでも動きそうな存在感があります。
繭置所や操糸場の周辺には、フランスから招いた技術者一家の邸宅や、やはりフランスからやってきた工女たちの宿舎などの遺構が残っています。これらの建物群は、彼、彼女達の帰国後は色々な用途に使われたようです。コロニアル風の建物は、当時のお雇い外人の待遇の良さを垣間見る思いです。さらには、片倉診療所の看板を掲げた建物もあり、これは工場を引き継いだ片倉工業が建てたものですが、この建物もコロニアル風で周りの建物と溶け合ってます。
明治期には、鎖国時代に取り残された技術力を補うために、数多くのお雇い外人が来日して、技術の結果だけを吸収したようです。その後、わが国は技術先進国の模倣野歴史を経て、世界に冠たる技術先進国に成長を果たしました。しかしながら、このところ状況に変化の兆しが見えてきて、少々気になるところです。国内の優秀な技術者の海外流出が加速しているのです。筆者の頃には理科系卒業者が金融業や商社に就職することはほとんどありませんでしたが、最近は製造業に就職する者より増えているのかもしれません。製造業における技術者の待遇が相対的に低いことが原因の一つのように思えますが、金や物を動かすだけで、国が成り立つとは思えません。