世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

小豆島の特産品の塩を原料として醤油産業が興り、その醤油を原料として佃煮が名産品となるという食物連鎖ならぬ産業連鎖で島が栄えてきたのですね

2024-07-28 08:00:00 | 日本の町並み
 小豆島の特産の一つである花崗岩でできた石垣を利用したものが中山の千枚田であり、池田の桟敷でした。小豆島の特産は、石材だけではなく島を有名にしたオリーブや素麺そしてその素麺を作るためのごま油などがあります。さらに、江戸時代に全国で2位の生産量を誇った製塩業が栄えましたが、競争の激化で、その塩を利用した醤油産業が起こり、その醤油を原料として戦後には佃煮が名産となりました。今回は神戸と高松を結ぶフェリーが寄港する坂手港の北に広がる醤の郷を中心に数多くの醤油蔵が並ぶ町並みを紹介します。

 
 20年ほど前には神戸港から坂手港に高速船が運行されていて便利だったのですが、車載フェリーのルートが増えたせいか、旅客専用の船はいつの間には無くなってしまいました。坂手港は土庄港と並ぶ2大旅客ターミナルでしたが、20年ぶりに訪れた坂手港はずいぶんとさびれてしまった漢字を受けました。小豆島というと「二十四の瞳」の舞台で有名ですが、作者の坪井栄の生家跡が坂手港の近くにありました。建物はなくなってしまい、庭だけが残されていますが、高台で眺めの良い場所でした。二十四の瞳は2度映画化され、それぞれのヒロインの像が作られていますが、筆者は土庄港にある像が好きです。

 
 
 
 坂手港から北に向かって最初に出会うのが島で最大と思われるマルキン醤油の工場です。広大な工場内には古い醤油蔵から近代的な生産工場まであり、醤油を絞る現役工場も覗けますが、金属のタンクが並ぶだけで味気がありません。味と言えば、構内のお土産屋で売られている醤油ソフトは安曇野のワサビ田で食べたワサビソフトと同様に意外といけることでしょうか。

 
 
 
 
 
 マルキン醤油の工場から海岸線に沿って幾つもの醤油蔵が立ち並び、醤(ひしお)の郷と呼ばれています。醤油蔵に交じって、小豆島唯一の造り酒屋の蔵もありました。金両醤油の前にある広場には、醤油絞りに使われた石がオブジェのように並べられていました。この辺りは大きな古民家も残っていて、醤油関連で財をなしたのでしょうか。

 
 
 
 
 安田大川の手前を川の上流に向かって1km程も入っていくとヤマロク醤油で、こちらは伝統的な木桶を使った仕込みが行われています。醤油蔵の中も見学ができて、マルキン醤油でのガッカリを打ち消してくれます。ただ、安定した品質で大量生産をするには、金属タンクが優れているそうで、木桶による生産は製品にばらつきが出るそうです。ただ、それだけに味わい深い醤油が」生まれる要素を持っているように思います。全国にある木桶は2,000あまりでその半分がヤマロク醤油和はじめとする小豆島の醤油屋さんで使われているのだそおです。このヤマロク醤油の手前に栄光寺というお寺があり、境内には仏足石も置かれていましたが、このお寺の石塀がりっぱでした、小豆島の特産でしょうか。

 
 
 
 
 ヤマロク醤油から安田大川の左岸を海に向けて折り返し、バス停の安田に向かいます。こちらにも醤油蔵が多く、土蔵造りと黒カビで真っ黒になった板壁の町並みが続きます。町並みの好感度からすると、こちらの町並みの方が絵になるような気がします。バス停近くまで戻ってくると、バス通りの手前に玉姫神社があります、祭神は玉依比売(たまよりひめ)でミコをお祭りしたものだそうです。南北朝時代に足利尊氏の味方し、後に軟調に寝返ったとされる塩飽初冬を本拠とする地方豪族の佐々木信綱の廟が境内になりました。説明文に佐々木信綱とあって、あの歌人の?と思いましたが、明治から昭和にかけて活躍した佐佐木信綱とは同姓同名の別人でした。.

 醤油づくりで金属のタンクを使った安定的な品質の醤油がいいか、杉樽を使った伝統的で品質にばらつきはあるけれど、より味のある醤油がいいか悩ましいところです。企業として安定生産を行うには前者でしょうが、木樽生産の醤油にも需要があることは、多くの工場が現役であることから推定できます。木樽の寿命は100年程度ということで、今から10年ほど前には今ある木樽が朽ちてしまうと後が無いという危機的な状況だったそうです。そこで紹介したヤマロク醤油の山本さんが立ち上がり、全国で唯一の製桶所に出向いて修行をし、小豆島に製桶所を立ち上げたのだそうです。伝統製法は工業製品ではない杉の桶や季候などに品質が左右されるでしょうが、これらのファクタってすべてが数値化できるんでしょうか、AIとて入力情報が無ければ、最適解は出せそうにありません。

堂内を圧するようなワット・シー・チュムの巨大仏を見るだけでもスコタイを訪問する値打ちがあるように思います(タイ)

2024-07-21 08:00:00 | 世界遺産
 前回はスコタイの歴史公園の中にある寺院群を紹介しましたが、今回は歴史公園を取り巻く城壁の北側の外部あるワット・シー・チュムとワット・プラ・パーイ・ルアンの2か所紹介します。

 
  
 
 






ワット・シー・チュムは城壁の北西角の外部にある寺院跡で、14世紀に作られた寺院遺跡です。寺院名は菩提樹の森の意味を持ち、濠に囲まれた字息を持ちますが、主だった建物は中央の仏堂で、スコタイを代表するような巨大な仏像が収まっています。厚さが3mもあって32m四方、高さ15mもある壁で囲まれ屋根のない無いお堂の中に15m程もある降魔仏の座像が空間を圧するように収まっています。入堂すると、押しつぶされるような威圧感です。寺院の入口から入ると、遠くに湖のお堂が見え、近づくに連れて、動の正面に開いた隙間から仏像の中央あたりが見え隠れするのも、演出されたわけではないのでしょうが、期待を膨らませます。多くの日本人ツアーはワット・マハタートを見て帰ってしまうようですが、スコタイで一か所だけ見るとすれば、むしろワット・シー・チュムかもしれません。

 
 
 
 
 
 
 
 
 もう一つのワット・プラ・パーイ・ルアンはワット・シー・チュムの東1kmほどに広がる東西75m、南北600mもの広大な二重環濠に囲まれた市内最大の遺跡群です。ワット・プラ・パーイ・ルアンはスコタイ以前の12世紀に宗教の中心としてさかえましたが、スコタイ成立後に仏教寺院の中心はワット・マハタートい移り、宗教的役割を失ったそうです。このためか、建物はあまり残されておらず、仏塔や仏堂やかつての塔堂の基壇が広い草原に散在するのみで、廃墟のような滅びの美学といった景色です。ただ、3基あった仏塔のうち保存の良い1基には、見事なレリーフが残されていて、単なる廃墟とは違った見どころがあるようです。

 ワット・シー・チュムの居大仏は現役で信仰を集めている仏像だそうです。我が国の大仏も巨大なものは見えざる力を宿すものとして信仰の対象として尊重されたものですが、そもそも原始仏教では仏像は存在せず、釈迦も仏像には否定的でした。仏陀の死後500~600年後にガンダーラ地方(諸説あり)で作られるようになったもので、ギリシャ文明の影響と言われています。釈迦の思想は、仏像など信仰の対象は持たず、もっと哲学的なもので、現在の宗教とは異なるものでした。信仰というものは、何か目に見える対象が必要なのかもしれませんが、見えないから神秘性があるのかもしれません。電気は目に見えませんが、果たして信仰の対象になるのでしょうか。

大阪城の石垣にも使われた小豆島の特産の花崗岩や安山岩は中山千枚田の護岸になり、池田では神社の祭礼の観客席の桟敷に使われていました

2024-07-14 08:00:00 | 日本の町並み
 比叡山の里坊が数多くある坂本には京都の町並みでも珍しくなった犬矢来やばったり床机が残っていましたが、古民家にも穴太衆の仕事と思われる石垣のある民家の風景も目立っていました。石垣は、傾斜のある土地の土留めには必要欠くべからずの土木技術ですが、狭い日本で「耕して天に至る」と言われる棚田も土留めとして石垣が組まれます。この棚田は各地に残りますが、今回は小豆島の中山千枚田と、同じ石垣技術の野外劇場の階段状の観客席として石垣が積まれた池田の桟敷の周りを紹介します。

 農村歌舞伎の舞台や千枚田があるのは中山地区と言って、小豆島の高松や岡山からの入口になっている土庄港から中山経由池田行という一日に5本しかないバスで20分と少しという不便なところ、一方の池田の桟敷はそのバスの終点近くで、池田も高松からの船が着く港で、バス便の数は20本程と格段に便利です。

 
 
 土庄港からのバスはどんどん山の中に入っていき20ほどで春日神社前で下車しますと、目の板壁がの尊歌舞伎の背面でした。舞台を回り込んで鳥居を越えるとその先が神社で神社にむかった上り坂が観客席になった居ます。農村歌舞伎は毎年10月に講演されるそうでs、訪問した時は人の気配すなく、舞台の正面は板戸で閉められています、しかし隙間から中を覗くと、回り舞台らしい切り欠きが見えました。実はこのバスのルートには肥土山農村歌舞伎という舞台も存在するのですが、一度バスを降りてしまうと次は数時間待ちといった所では一か所に絞らざるを得ませんでした。

 

 農村歌舞伎の舞台のある神社から山の上手に向かって折り重なるように連なっているのが千枚田で、実はバス停の下の方にも続いていました。こんな傾斜地で農作業をするのはさぞや苦労妥当と思いますが、少し上ったあたりに天皇皇后両陛下下中山ご視察地という石柱がありました、平成16年においでになったのだそうです。

 
 
 
 
 中山を経由するバスの終点の池田の少し手前のバス停で下車し、池田港の東に張り出した岬に向けて南下すると、江戸時代に重税に苦しめられていた農民の窮状を江戸幕府に直訴をして処刑されてしまった平井兵左衛門を弔う五輪塔があったり、古い町並みが残っていたりします。そこを通り抜けたところに、池田の桟敷があります。亀山八幡宮の観覧席として、島特産の花崗岩を積み上げたもので、海に向かってローマの円形劇場の観覧席のような形で伸びあがって居ます。上ってみると、上がるにつれて景色が広がっていいのですが、一段の高さは意外と高くて、かなり往生します。この観覧席は、現在でも秋祭りの見物席として利用されているそうです。

 花崗岩は別名を御影石と言いますが、六甲山の南にある地名の御影が名前の由来だそうですが、御影石の中には花崗岩でないものも含まれているのだそうです。地球上ではごくありふれた岩石で、どこにでもありますが、地球以外の太陽系では、ほとんど見出せないのだそうで、これは花崗岩の生成に水が関与するためだそうです。荒い斑点のある花崗岩には、多くの鉱物が含まれ、中には水晶やトパーズ、トルマリンなどを含む場合があるそうです。トルマリンと言えば別名を電気石と呼ばれ、結晶を加熱すると電気を帯びるための命名のようです。このために、トルマリンを用いた健康製品が多数作られましたが、どれも根拠に乏しいものでした。加熱して発電に使う、というほどのものでもなさそうです。

日本では治安の良さから夜景を見に行くのに危険は感じませんが、国が違えばホテルの窓からしか眺められない都市もあるようです

2024-07-07 08:00:00 | 世界の町並み
 アジアとヨーロッパの夜景に続いて、今回は最終回として北アメリカ、オセアニアそしてアフリカの夜景を紹介します。前回までと同様に、訪問してかつ夜景にお目にかかった都市のみで、けして網羅的なものではありません。

 
 北米からはカナダが3都市とハワイの夜景です。カナダの最初は、東寄りの世界遺産の都市ケベックの夜景です。河岸段丘から臨んだ町並みと、その向こうを流れるセント・ローレンス川そしてケベックのランドマーク的ホテルのシャトー・フロンテナックです。

 
 少し西に行って次はナイアガラ滝の夜景です、幸運にもホテルの窓から眺めることができました。

 
 最後は、世界自然遺産のカナディアンロッキーのバンフの夜景は絵本に出てくるようにかわいらしさがありました。

 
 北米大陸ではありませんが、ハワイの夜景はフラショーです。

 
 オセアニアからはオーストラリアのシドニーです。

 
 アフリカ大陸はチュニジアの4か所で、最初は首都のチュニスですが、ヨーロッパの都市と見まがうきれいさです。

 
 2番目はチュニジア中央の海岸に面したスファックスで、ちょっと南国風になります。


 3番目は、南部のリゾート・アイランドのジェルバ島で、ヨーロッパからの観光客であふれているホテルの夜景です。

 
 最後はスファックスの北に位置する世界遺産の円形闘技場のエルジェムと、ホテルで行われていた結婚披露宴の様子、イスラム世界では、新郎側の出席者は男性ばかり、新婦側のパーティーがあるのかどうかは不明でした。

 スファックを訪問したのは20年ほど前で、インターネットは普及しつつありましたが、スマホはまだ出回っていませんでした。このスファックスで、父の具合が悪いとのFAXを受け取り、あわてて国際電話を掛けた記憶があります。スファックスでファックスとしゃれみたいですが、電話の内容からは大事にはならなりませんでした。スマホの普及で、よほどの辺鄙な山奥にでも行かない限り、連絡がつくようになって安心ですが、現役の人の場合は、海外まで仕事の話が飛んで来て、気が休まらない問題もあるようです。ただ、このような風習は、どうも日本独特のようで、休日でも自宅に仕事の話で連絡が入るのは日本以外では考えにくいのだそうです。