世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

ベンガラのふるさと吹屋には明治時代の校舎が現役で残っています

2005-09-28 16:38:31 | 日本の町並み
 卯之町の明治時代に建てられた校舎を使った学校博物館に対して、全国で唯一明治の校舎が現役で使われている小学校があります。岡山県の山奥の高梁市の西に位置する吹屋小学校がその小学校です。1899年に建設されたとのことですから100年以上の歴史があり、100回もの卒業生を送り出してきたことでしょう。
 中央の入り口に続く廊下を挟んで両翼の張り出した2階建ての校舎は、非公開なので窓ガラスを通して中をうかがうしかありませんが、校長室の表示などに混じって、理科で使うビーカや試験管なども置かれていて、休日でしたが生徒のざわめきが聞こえてくるようでした。
 吹屋と聞かれても、卯之町と同様になじみのない地名だと思いますが、かつては日本最大のベンガラの産地だった町です。ベンガラとは、酸化鉄の粉末で、インドにおける産地名のベンガルがなまったものとされています。木材の保護塗料としてさかんに利用され、ベンガラ格子とバッタリ床机は京都の町屋を象徴する風景でした。
 吹屋のベンガラ生産は、原料の硫化鉄を加熱して酸化させ、水洗いをして硫酸分を洗い流すという手法が採られたようです。かつての工場が博物館になっていて、これらの様子が解説されていますが、工程が単純なのにもかかわらず、硫酸分が完全に取りのぞけたかどうかの判断が難しいなど、熟練とたいへんな人手とを必要としたようです。
 さすがに、かつての産地の町は、朱色のベンガラ格子とベンガラを混ぜたピンク色の塗り壁に彩られ、古い町並みにもかかわらず、ちょっと華やいだ雰囲気があります。
 電気回路にとってサビは厄介なものです。特に接点部分がサビると接触不良になるので、金メッキを施すなどの対策がとられます。ベンガラはサビを利用して、木材の劣化を防ぐものですが、同じサビが劣化を進めたり、防止したりするのですね。

日本一長い廊下の校舎が博物館になっている卯之町

2005-09-25 16:41:17 | 日本の町並み
 町じゅうが博物館になる大阪の平野に対して、小学校の校舎を利用した博物館が2種類もある町が四国にあります。宇和島と松山との間にある愛媛県の卯之町がその町です。
 卯之町と聞いてもあまりなじみの無い地名ですが、JR予讃線の特急「いしづち」や「しおかぜ」も停車する駅を擁する歴史の古い町の一つです。特急が停車するわりにはこじんまりとした町で、漆喰で塗られた妻入りのしっとりした町並みの主だった所へは、歩いても10~20分くらいで回れてしまいます。
 卯之町は、藩医の二宮敬作らがシーボルトに師事した縁で、蘭学への関連も深い町としても特徴があります。脱獄中の高野長英が隠れ住んだ家が残っており、シーボルトの娘のイネも住んでいたことがあるそうです。現在は、時間に取り残され忘れ去られたような町ですが、かつては時代の先端をゆく文化都市であったのかもしれません
 校舎を利用した博物館の一つは、明治時代に立てられ重要文化財にもなっている開明学校の旧校舎を利用した学校博物館です。松本にある旧開智学校とは姉妹校で、洋風のハイカラな校舎です。明治時代などの学校の資料に混じって、ドイツ製の古いグランドピアノが展示されています。この古いピアノは、みんなの募金によって演奏できる状態に蘇らせたそうです。
 もう一方の博物館は、校舎を利用していますが教育とは関係のない米の博物館です。この校舎は木造ですが、さほど古くないようです。変わっているのは、廊下の長さが100mを超えている点です。雨が降っても、廊下と並行する土間で100mの徒競走が可能な長さです。端に立つと、他方の端はかすんでるように見える、というのはオーバーかもしれませんが、とにかく長~い建物です。毎年、この長い廊下の雑巾がけ競争が行われ、廊下の端から端までに雑巾がけをする時間を競うものです。壁に張り出されたチャンピオンの記録を見ると30秒そこそこで駆け抜けるつわものがいるようです。
 この長い廊下の両端で大声を出して会話をしたらどうなるかを計算してみました。音波の速度は約340m/秒ですから、片道でおよそ0.3秒ほどかかります。衛星を使った携帯電話は、どんな山の中でも使えて便利ですが、少し音声の遅延があります。この遅延時間が約0.25秒ですから、ここでの会話は衛星携帯電話を使った通信より遅延が大きいことになります。

町中が博物館の大阪、平野

2005-09-19 16:43:48 | 日本の町並み
 平野と呼ばれる地名は平らな野原という意味のせいか各地にあるようで、東京都では江東区と足立区に、大阪の隣の神戸市でも兵庫区と西区にあります。
 大阪の平野は、戦災を免れた古い町並みが残されていて木造住宅が入り組んだ道路に面してつらなっています。戦国時代には環濠と土塁によって町を防備し、堺と同様に町民によって自治を行った歴史を持っています。
 この平野は町じゅうが博物館になることで有名で、毎月第4日曜日には、普通のお店屋さんなどが町の博物館に早代わりします。和菓子屋さんはお菓子の博物館になって菓子作りの道具を公開し、映像資料館として古い平野の町並みを8mmの映像などで公開しているのは呉服屋さんです。説明をしてくださる方も、いつもなら呉服屋や和菓子屋の店主や店員さん達です。映像資料館では饒舌な店主の説明にひきこまれて、ついつい時間のたつのを忘れてしまいます。この他にも新聞の博物館や自転車の博物館、それに駄菓子の博物館もあり、それぞれが生活の臭いのする博物館です。
 これらの博物館の中で年に1日だけ7月第4日曜日に開かれるのが大念仏寺の幽霊博物館です。幽霊が残していったという「亡女の片袖」をはじめ数多くの幽霊の掛け軸が公開されるとのことですが、残念ながら、まだ公開日には行く機会がありません。暑い7月の下旬にも霊気のためか、あたりには冷気がただよっているとか。本堂は大阪府下で最大の木造建築物で、高い建物の少なかった頃には、天王寺からもその屋根が見えたそうです。
 日本の幽霊というと、足が無いのが一般的です。これは円山応挙の描いた幽霊に足が描かれなかったのが広まったとの説ですが、応挙の活躍の頃には幽霊=足無しは一般化していたとも言われています。一方、牡丹灯篭のお露さんは下駄の音を響かせて現れるのですから、当然足はあるのだと思います。カメラの付いていない携帯電話を探すほうが難しいこのごろですが、常に身につけている携帯で、幽霊に出合ったときにすぐに証拠写真が撮れて、足の有無を確認できるかもしれません。

月夜に見てみたいタージマハル(インド)

2005-09-19 16:42:50 | 世界遺産
 タージマハルは真っ白の壁にレリーフが彫られていて、近づいて見るとこれらのレリーフもはっきりして、さらに美しさが際立つようです。この建築は、ムガールの王さまがお妃に送ったイスラム様式の廟なのですが、王さま自身はタージマハルが完成した時には失脚してしまって、幽閉された部屋の窓から完成した建物を眺める身になったそうです。通常イスラム教のモスクには丸いドーム屋根と尖塔を持っていて、タージマハルと似た形状の建物も多く見うけられます。しかしあの真っ白の優美な姿は他に類を見ないように思います。
 同じインドのデリーにフマユーン廟といって、こちらの方もタージマハルと同様に世界遺産となったイスラム建築があります。赤茶色をベースに白の線がアクセントになっていますが、多少地味で、くすんだ感じがします。
 これらの建物は廟つまりお墓なので、当然ながら棺が安置されています。棺は下層階に安置されているのですが、その上層階を土足で踏み歩かれないように、上層階には下層階の棺の真上にレプリカの棺が作られていて、真上には踏み込めないような配慮がなされています。
 タージマハルの観光は通常日中の時間帯のみですが、満月の夜だけは夜間の入場ができたようです。筆者が訪れたのは13夜ぐらいだったようで、月明かりの中の幻想的なタージマハルは見ることはできませんでした。ただ、最近は治安上の問題から、夜間の入場は中止されてるとのことで残念です。
 治安上の問題といっても、訪れる方に危害の及ぶ場合は、その問題の時間や条件を避ければいいのですが、文化遺産そのものに危害が及ぶのは文化財を退避させるわけにもいかないので困りものです。このコラムでも取上げたアンコール遺跡は、カンボジア内戦によって砲火による被害を被っただけでなく、保存の対策も打たれないまま放置され傷みが進んだようです。アフガニスタンのバーミアンの大仏の破壊事件は、ショックでした。これで実物は見れなくなったんだな、との思いです。
 コンピュータといえば、基本的な演算は2進数つまり0と1の組み合わせで処理されています。この0という概念と位取りで数を表すことはインド人の発明とされています。位取りによって数字を表す方法をアラビア数字と呼びますが、本来はインド数字と呼ばれるべきものです。この手法をヨーロッパに伝えたアラビア商人に因んでアラビア数字と呼ばれるようになったようです。インド人の発明が無ければ、コンピュータも生まれてなかったかもしれません。
 0の発見国は現代でも伝統的に数学分野での教育が盛んで、日本人が9×9の掛け算を暗誦しているのに対し、インドでは20×20まで暗誦しているそうです。したがって、有効数字が2桁どうしの掛け算であっても、20までなら暗算でこなしてしまうそうです。また、指を折って数字を数える場合も、我々日本人では片手で5まで、両手を使っても10までですが、インドの人は片手で16まで数えてしまいます。人差し指から小指まで4本の各指、それぞれの指の3つの関節と指先の合計4ポイント、4×4の16箇所を残された親指で順に押さえて行きます。「指折り数えて」という表現がありますが、インドでは「指押し数えて」とでも言うのでしょうか。16は2の4乗で2進数の4桁分です。やはりインドはコンピュータに縁の深い国なのでしょうか。

大阪の中心にレトロな建物が残る北浜

2005-09-12 16:46:04 | 日本の町並み
 大阪市中央区の北浜界隈は東京の兜町と並んで株屋さんの町という印象がありますが、地下鉄の北浜駅近くには近代的なビルに混じってレトロな建物が同居していて趣のある町になっています。和風建築の小西家住宅、蔦の絡まる青山ビル、それに壁に鳥のレリーフが施された生駒ビルなど、それぞれの建物の周りの時間だけが止まったような印象を受けます。
 小西家住宅は明治の日本建築で重要文化財にも指定されていますが接着剤でおなじみのコニシの旧店舗で、隣のビルに引っ越すまでは座敷にじゅうたんを敷いて使われていたそうです。現在も関連会社が現役のオフィスとして使っておられます。青山ビルは大正期の洋館で、テナントビルとして喫茶店や理髪店が入っているようです。ステンドグラスが美しいとのことですが、入り損ねたので確認できませんでした。また昭和初期のアールデコ風建築の生駒ビルは、数年前に外観を保存したまま内部がリニューアルされオフィスビルとして使われています。
 各々の建物は古いながらも現役の建物として機能しているわけですから、さぞや維持が大変でしょうが、古いながらも新しいオフィスとして必要最小限の条件を満たしているのだと思います。通信の世界でも、最新の機器が出現した時にでも、既存の古い機器とつながる必要があるのが一般的です。携帯電話のFOMAといえども従来の携帯電話やPHSと通話ができるようになっているのはネットワークのなかで方式の差を吸収しているからなのでしょうね。

東洋のモナリザが微笑むアンコール(カンボジア)

2005-09-12 16:45:14 | 世界遺産
 「東洋のモナリザ」と呼ばれる像があるのをご存知でしょうか?カンボジアのアンコール遺跡群の中でも北東に位置するバンティアンスレー遺跡の建物の壁に彫刻されたレリーフ群の中にあります。かつて、フランスのアンドレ・マルローが盗もうとして有名になりましたが、現在は遺跡の中で東洋的な微笑をたたえて観光客を迎えてくれます。
 インドシナ半島では各国が距離的にさほど遠くないため相互に文化的な交流があったものと思います。タイのアユタヤ遺跡にもアンコール遺跡と似たものがありますが、共にクメール文化を代表する遺跡の一つです。
 カンボジアは長い間内戦状態が続き、現在でも国民の数と同じくらいの地雷が放置されているそうです。プノンペンやアンコール遺跡群など観光客の訪れる場所は整備が進んでいるようですが、それ以外の場所では残留地雷による事故が絶えないと聞きます。設置するときには1基が数百円程度の費用で埋め込めるのですが、これを排除するにはその100倍もの費用がかかるそうです。なにか人間の愚かさを見るような気がします。
 カンボジアを代表する観光地のアンコール遺跡群も内戦によって随分痛めつけられたようで、遺跡の壁には銃弾の痕も残っています。平和が戻った後、ユネスコやわが国の支援で、遺跡の復旧や調査が精力的に行われているようです。中心となるアンコールワットやアンコールトムには美しい塔や像が整備され訪れる観光客の目を楽しませてくれます。
 アンコール遺跡の中では、アンコールワットやアンコールトムが特に有名ですが、時代も様式も異なる数多くの遺跡群がジャングルの中に散らばっていて、主だった遺跡だけを回っても数日かかります。足の便も悪く、自分の足で回る派の方のためには、バイクタクシーが移動の足になります。バイクの後部座席に乗るのですが、未舗装の道を走り回るので、振り落とされない注意と、猛烈な砂埃の中を走ることを覚悟する必要がありそうです。カンボジアは熱帯に位置するため、砂埃だけでなく暑さ対策も必要かもしれません。筆者の参加したパッケージツアーでは、宿泊ホテルが遺跡群の近くであったせいもあり、昼食を取りにホテルに戻った後は3時頃までお昼寝タイムで、3時頃から再び遺跡めぐりに向かうスケジュールでした。一番暑い時間帯を冷房の効いたホテルでゆったりした時間をすごせることで、ちょっと贅沢な気分になれました。
 アンコールワットのそばには広大な灌漑用の池が残っています。西バライと呼ばれるものでアンコールワットの西側にプールのように長方形の水面を見せています。元々は東バライといって東側にも同様の灌漑池があったことが確認されています。
 人工衛星から撮影された写真を見るともとの池の部分が素人の目にも明確に区別できます。人工衛星からの探査で、東バライの様子だけ出なく、ジャングルの中に埋もれてしまっている遺跡も発見されたようです。高い位置から視点を変えることで、それまで見えなかったものが見えるようになったのではないでしょうか。人工衛星からは可視光線だけでなく、赤外線や紫外線さらには電波を使っていろいろな探査が行えるようになっています。
 携帯電話を使った位置検索サービスでは、GPSや基地局情報を使って端末機を持っている人がどこに居るのかを探査できるという、一種の視点を変えた探査といえるかもしれません。