世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

ピンクシティーの別名を持つジャイプールにある風の宮殿は見た目の美しさと裏腹に閉じ込められた女性のため息が聞こえそうです(インド)

2022-06-26 08:00:00 | 世界遺産
 迷路の交錯する旧市街に中庭に立つ列柱が美しい修道院や侯爵が建てた豪邸などが散在するのがポルトガルのギマランイス歴史地区でした。貴族と呼ばれる人々は、権力の象徴でしょうか豪華な宮殿などを建てたがるようです。インドではマハラジャと呼ばれる地方の豪族が地域で権力をふるい豪華な宮殿や城を建てています。今回はこれらの中から、ジャイプル旧市街の宮殿を、そして次回にはジャイプル郊外のアンベール城を紹介します。

 ジャイプルはインドの首都のニューデリーの南西約260kmにあり人口が300万人程の地方都市です。総延長10kmに及ぶ城壁に囲まれた旧市街がラジャスターン州の旧ジャイプール旧市街として世界遺産に登録されています。現在のジャイプールは18世紀に当時の領主のジャイ・シングによって東北に11km離れたアンベール城から遷都して作られたものです。筆者が訪問したのは、風の宮殿、シティ・パレスそれにジャンタルマンタルでした。順を追って紹介します。

 
 風の宮殿は、18世紀末に領主によって建てられた宮殿で、きわめて奥行きの小さな建物で、真っ赤な砂岩で作られ5階建てですがすが、小窓が593もあります。この宮殿は領主がお妾さんのために作ったようで、小窓は彼女たちが自身の姿を見られることなく外部を見ることができるように作られたもののようです。表通りから見ると窓だけが並ぶ壁のように見えますが、裏側の小高い丘から見ると、後方に普通に奥行きのある宮殿がくっついているのが分かります。

 
 
 
 シティ・パレスは、当時の領主がアンベール城から遷都をして建てたかつての宮殿で、現在もその子孫が建物の一部に居住しているそうです。宮殿の大部分は、博物館として公開されていて、豪華なしつらえが見学できます。貴賓謁見の間として使われた場所には、当時の領主がイギリス訪問時にガンジス川の水を入れて持って行ったという巨大な銀のツボが置かれています。旅行中も日々ガンジスの水で沐浴するためで、等身大のツボは銀製としては世界最大のものとしてギネス登録されているそうです。

 
 
 ジャンタルマンタルは、18世紀前半に当時の領主が作った巨大な天文施設で、いくつかの日時計や観測施設が並んでいます。石造りの傾斜をしたものが並んだ様子は、遊園地で滑り台を見ているような感じがしますし、観光客の一部はその斜面で遊んでたようです。その中で最も巨大な日時計は高さが27mあり、2秒の精度で時刻がわかるそうです。中国には同じような巨大天文施設が少林寺でも有名な登封にあり、観星台という名称で、太陽などの南中高度を測定し緯度などを計測したようですが、高さは13m足らず。ジャンタルマンタルはその2倍にもなるわけです。

 2秒の誤差の日時計はすごいものだと思いますが、江戸時代には携帯用の日時計もあったようです。影を作るための柱と方位磁石が付いています。現代ではもっと精度の高いクォーツの腕時計が\100ショップで手に入るようになりましたが、筆者の学生の頃の水晶時計(クォーツ時計)は洋服ダンスくらいの大きさで高価なものでした。放送局で時報を知らせるための標準時計でした。クォーツの腕時計は今から50数年以上も前の1969年に我が国のセイコーによって商品化され、売り出し当時は中型車が買える価格だったそうです。現在の世界標準時は水晶時計よりはるかに精度の高いセシュウム原子時計が用いられ、原子時計より精度の低い地球の自転に合わせるて、何年かに一度の頻度でうるう秒を挿入しています。このセシュウム原子時計よりも千倍も精度の高いストロンチュウム時計の実験も行われていますが、セシュウム原子時計でも1億年に1秒以内の誤差ということですが、誰が測定したのでしょうか。

泉南市の尾崎地区は南海の駅のすぐそばに尾崎御坊や造り酒屋を核とした古い町並みが迫ります

2022-06-19 08:00:00 | 日本の町並み
 泉大津、泉佐野、吉見ノ里と南海本線沿いの紀州街道を南下してきましたが、最後は阪南市の尾崎で締めくくりたいと思います。

 
 
 紀州街道は、泉佐野で峠越えで距離の短い雄ノ山峠超えの山街道と、距離は長くても比較的平坦な孝子峠越えの浜街道に分かれます。浜街道は、前回紹介した吉見ノ里そして今回の尾崎を通り、大阪湾の浜伝いに御三家の一つの和歌山を目指します。尾崎は江戸時代以前からも交通の要所で、四国や淡路へ渡る港としても栄えたようで、秀吉が四国に出兵するときにも尾崎で宿泊したそうです。

 
 
 
 
 古い町並みは、南海本線の尾崎駅の北西方向に隣接して広がっています。その中心あたりにあるのが本願寺尾崎別院(尾崎御坊)で北陸から近畿圏委多く存在する門徒寺院です。隣には江戸時代初期に尾崎村を興した吉田清房が開いた浄土宗の善性寺もあって、寺内町の様相です。またこの辺りには江戸時代初期に創建の尾崎神社もあり寺と神社のある街並みといった感じです。

 
 尾崎御坊や善性寺の周辺には微妙なカーブを描く道沿いに白漆喰と板塀の街並みが続きます。そして、東へ1ブロック離れたところには1716年に創業された造り酒屋の浪花酒造の登録文化財の本宅や土蔵が軒を並べて、心地の良い景観を作っています。

 南海電鉄は関西の5大私鉄の一つですが、軌道の幅は唯一1,067mmの狭軌を採用しています。この陰で、かつては和歌山で、やはり狭軌の国鉄線に乗り入れて白浜までの列車を運行してい他時代がありました。関西は私鉄王国と言われ、新幹線と同じ1,435mmの標準軌にものを言わせてスピードを競ったものです。ちなみに、東海道新幹線の軌道の上を乗客を乗せて最初に走ったのは半球の京都線で、これも同じ標準軌故のこと。並行する路線が見通しが悪くなるため、かさ上げ工事期間の暫定措置でした。スピードを競った私鉄ですが、今では狭軌のJRの列車のほうが速く、福知山線の事故もこの無理な運行のせいといわれています。狭軌ではなく狂気の沙汰で、事故の後に防ぐための電子制御システムが導入されたようですが、これとても人間がリセットできるのでは無意味ではないでしょうか。

丘の多い小ぶりの町にケーブルカーが走り緑あふれるサンフランシスコは何度も行ってみたくなる街の一つです(アメリカ)

2022-06-12 08:00:00 | 世界の町並み
 前回は、筆者が偶然に10年に1回の頻度で開催されるオランダの花博を見る機会に遭遇した状況について紹介しました。オランダはチューリップの輸出で世界一で、国中が花であふれている感じがする国ですが、緑豊かな都市はたくさんあるように思います。シンガポールでは、グリーン・シティとして「都市の中に緑」ではなく「緑の中に都市」というキャッチコピーで有名になりました。我が国の東京は、皇居や明治神宮のおかげで緑の面積はほどほどのようですが、それ以外の場所はまだまだのように思います。今回は最初の訪問から50年近くもたちましたが、緑がいっぱいという記憶が残っているサンフランシスコを、当時の様子を中心に紹介します。最近のTVでサンフランシスコの街並みの紹介がアありましたが、マイナーな人々の町のイメージでちょっとがっかりでした。例によって、古いポジフィルムから取り込んだカラー写真が多くかなり色変わりをしていることをお許しください。

 
 サンフランシスコの人口は80万人ちょっとで東京の/10以下、大阪府の堺市程度です。そのため町がこじんまりして、ロサンゼルスのように漠々としていません。観光にも便利な広さだし、ケーブルカーを始め観光客にも利用しやすい交通機関があって便利です。このケーブルカーは1873年に建設された世界でも有数の古さで、よく見かける2台の車両が行き違いする交走式ではなく循環式の構造をとっています。2本のレールの中央の地下に一定速度で動くケーブルが走っていて、車両はこのケーブルをくわえて走り、止まるときは離すといった仕組みです。このような仕組みで、数多くの車両が、数多くの停留所に停車しながら走るという運航形態を実現しています。

 
 
 
 坂の多いサンフランシスコで、通常の路面電車では登れない道路の移動を可能にしています。一方、自動車は急坂でも行き来していますが、ロシアン・ヒルの坂の傾斜を緩やかにするために8つのヘアピンカーブを作ったのがロンバード通りですが、この坂を下から眺めると一面の花の中にジグザグの道路があって、車がそろりそろりと降りてきます。逆に坂の上から眺めると、正面のテレグラフ・ヒルのてっぺんにはコイット・タワがにょっきりと建っています。サンフランシスコの重要な観光拠点のこの塔は1933年に地元の慈善家のコイットさんが私財を投じて建設し市に寄付したのだそうです。

 
 
 
 
 
 ケーブルカーの北側の始点はフィシャーマンズワーフで観光客であふれていますが、こちらのお土産屋さん街のビルの壁面も花でうずもれていました。近くの港から出るサンフランシスコ湾クルーズに乗ると、サンフランシスコが丘の多い町ということがわかります。現在は使われてない監獄島のアルカトラズ島の近くも通りますが、市街地に近いことに驚きます。1937年に架けられたサンフランシスコのシンボル的存在の金門橋の下を通過してましたから眺めることもできます。この金門橋のサンフランシスコ側の起点の近くにあるのがゴールデンゲート・パークで緑いっぱいの公園には日本庭園もありました。

 サンフランシスコのケーブルカーは循環式ですから、当然ながら線路は複線で行きと帰りとが別の線路になります。一方、通常の交走式のケーブルは単線で、上りと下りの車両がすれ違う中央部が複線ですれ違えるようになっています。車両を右左に振り分ける仕組みはおおむね次のようです。車輪には脱線を防ぐためにフランジと呼ばれるでっぱりが付いていますが、ケーブルカーでは一方の車両の右側の車輪にはフランジが双方に付き、左側の車輪には付いていません。他方の車両では左の車輪にフランジ付け右の車輪は無にします。すれ違う複線部分で一方は常に右の線路に、他方は左に行き衝突しません。一方、通常の鉄道の単線区間では、センサーで列車の場所を検出して自動信号によって衝突を防いでいますが、かつては、またローカルな鉄道ではタブレットと呼ばれる通行手形で管理を市、行き違いの駅でタブレットの交換風景が見られました。信号システムと違って呼称はありませんが、人為ミスが心配でもありました。

吉見ノ里の重厚な街並みをはさんで南東側は玉ねぎ畑、北西側の海の向こうは関空と対照的な風景です

2022-06-05 08:00:00 | 日本の町並み
 泉大津、泉佐野と紀州街道を南下してきましたが、今回は関空の対岸を南に通り越して吉見ノ里を紹介します。

 
 
 吉見ノ里は江戸後期に幕府領となり、漁業や農業で栄え、近年は江戸時代後期からの綿花栽培地をバックにした紡績業行が盛んになったところです。玉ねぎは特産品で京阪神の市場をにぎわしています。南海電車の駅名は吉見ノ里ですが、行政的には泉南郡田尻町の一部で、この田尻町はかつては日本一面積の小さな町でしたが、埋め立てによって土地が広がり、現在は二番目になったようです。そういえば、かつて大阪府は日本一面積の小さな都道府県でしたが、吉見ノ里の沖合にある関空の埋め立てで二番目になっています。

 
 
 
 
 
 古い町並みは、南海電車の線路に沿って横に細長く広がる地域で、平壁に腰板のある重厚な家々が並んでいます。この辺りも、江戸時代の前から門徒集団が多い地区だったそうで、寺内町の様相を引き継いでいるのかもしれません。駅の西にある浄林寺は安土桃山時代創建の浄土宗のお寺で、北西方向にある春日神社は、もっと古く創建は奈良時代までさかのぼる野だそうです。これまで紹介してきた泉大津や泉佐野は、街道状の比較的直線部分が長い道路に沿って街並みが続いていましたが、吉見ノ里では細い路地沿いにゴチャゴチャと家々が並んでいるという感じがします。ただ、街並みからちょっと外れると畑が広がっていて、玉ねぎ栽培がされているのでしょうか。こののどかな風景とは逆に、海側を望むと、沖合に関空島があって大型機が頻繁に発着をしています。

 吉見ノ里の対岸にある関空というと、なんとはなくネガティヴなイメージがします。技術的に埋め立てには向かない深すぎる海を無理に強行したため、今だに不等沈下が収まらず、空港島の建物はジャッキで持ち上げているのは有名な話です。また、関空島を某国のネットワーク業者が日本の通信規格とは異なる方式で構築する話も聞いたことがあります。おそらくこの話は立ち消えたのでしょうが、治外法権のまかり通る居留地になりかねないところでした。