goo blog サービス終了のお知らせ 

世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

丘の多い小ぶりの町にケーブルカーが走り緑あふれるサンフランシスコは何度も行ってみたくなる街の一つです(アメリカ)

2022-06-12 08:00:00 | 世界の町並み
 前回は、筆者が偶然に10年に1回の頻度で開催されるオランダの花博を見る機会に遭遇した状況について紹介しました。オランダはチューリップの輸出で世界一で、国中が花であふれている感じがする国ですが、緑豊かな都市はたくさんあるように思います。シンガポールでは、グリーン・シティとして「都市の中に緑」ではなく「緑の中に都市」というキャッチコピーで有名になりました。我が国の東京は、皇居や明治神宮のおかげで緑の面積はほどほどのようですが、それ以外の場所はまだまだのように思います。今回は最初の訪問から50年近くもたちましたが、緑がいっぱいという記憶が残っているサンフランシスコを、当時の様子を中心に紹介します。最近のTVでサンフランシスコの街並みの紹介がアありましたが、マイナーな人々の町のイメージでちょっとがっかりでした。例によって、古いポジフィルムから取り込んだカラー写真が多くかなり色変わりをしていることをお許しください。

 
 サンフランシスコの人口は80万人ちょっとで東京の/10以下、大阪府の堺市程度です。そのため町がこじんまりして、ロサンゼルスのように漠々としていません。観光にも便利な広さだし、ケーブルカーを始め観光客にも利用しやすい交通機関があって便利です。このケーブルカーは1873年に建設された世界でも有数の古さで、よく見かける2台の車両が行き違いする交走式ではなく循環式の構造をとっています。2本のレールの中央の地下に一定速度で動くケーブルが走っていて、車両はこのケーブルをくわえて走り、止まるときは離すといった仕組みです。このような仕組みで、数多くの車両が、数多くの停留所に停車しながら走るという運航形態を実現しています。

 
 
 
 坂の多いサンフランシスコで、通常の路面電車では登れない道路の移動を可能にしています。一方、自動車は急坂でも行き来していますが、ロシアン・ヒルの坂の傾斜を緩やかにするために8つのヘアピンカーブを作ったのがロンバード通りですが、この坂を下から眺めると一面の花の中にジグザグの道路があって、車がそろりそろりと降りてきます。逆に坂の上から眺めると、正面のテレグラフ・ヒルのてっぺんにはコイット・タワがにょっきりと建っています。サンフランシスコの重要な観光拠点のこの塔は1933年に地元の慈善家のコイットさんが私財を投じて建設し市に寄付したのだそうです。

 
 
 
 
 
 ケーブルカーの北側の始点はフィシャーマンズワーフで観光客であふれていますが、こちらのお土産屋さん街のビルの壁面も花でうずもれていました。近くの港から出るサンフランシスコ湾クルーズに乗ると、サンフランシスコが丘の多い町ということがわかります。現在は使われてない監獄島のアルカトラズ島の近くも通りますが、市街地に近いことに驚きます。1937年に架けられたサンフランシスコのシンボル的存在の金門橋の下を通過してましたから眺めることもできます。この金門橋のサンフランシスコ側の起点の近くにあるのがゴールデンゲート・パークで緑いっぱいの公園には日本庭園もありました。

 サンフランシスコのケーブルカーは循環式ですから、当然ながら線路は複線で行きと帰りとが別の線路になります。一方、通常の交走式のケーブルは単線で、上りと下りの車両がすれ違う中央部が複線ですれ違えるようになっています。車両を右左に振り分ける仕組みはおおむね次のようです。車輪には脱線を防ぐためにフランジと呼ばれるでっぱりが付いていますが、ケーブルカーでは一方の車両の右側の車輪にはフランジが双方に付き、左側の車輪には付いていません。他方の車両では左の車輪にフランジ付け右の車輪は無にします。すれ違う複線部分で一方は常に右の線路に、他方は左に行き衝突しません。一方、通常の鉄道の単線区間では、センサーで列車の場所を検出して自動信号によって衝突を防いでいますが、かつては、またローカルな鉄道ではタブレットと呼ばれる通行手形で管理を市、行き違いの駅でタブレットの交換風景が見られました。信号システムと違って呼称はありませんが、人為ミスが心配でもありました。

チャウシェスクの残像が残るブカレストから列車で少し乗ると一面のヒマワリ畑、しばらくするとルーマニアの軽井沢も待っています(ルーマニア)

2022-05-15 08:00:00 | 世界の町並み
 花の国のオランダの春を彩る花の祭りが毎年行われるハールレム近郊の花のパレードであり、10年に1度開催される花博のフロリアードでした。オランダを代表する花といえばチューリップで春を告げる花ですが、夏を代表する花の一つがヒマワリではないでしょうか。わが国でも、ヒマワリの巨大な畑があちこちにできていますが、ヨーロッパでは鑑賞というより油の原料として栽培されているらしいヒマワリ畑を見ます。今回は、ルーマニアに行った際に車窓から見かけたヒマワリ畑を紹介します。

 
 車窓から一面のヒマワリ畑を見たのは、ルーマニアの首都のブカレストから、シナイアへの列車でした。ルーマニアと聞くと、体操のコマネチを思い起こしますが、負の記憶として独裁者のチャウシェスクの存在が忘れられません。彼が国民の税金を使って建てた国民の館は、部屋が3,000以上もある無用の長物ですが、ルーマニア革命によって公開処刑された後の建物は、一大観光拠点となっているようです。ガイド付きのツアーで内部を見ることができますが、随分と豪華なしつらえで、名前とは裏腹に国民とは無縁の建物だったのでしょう。

 
 
 シナイアに向かう列車が出るのは国民の館の北西1.5km程にあるルーマニア最大の駅であるブカレスト北駅で、シナイアまでは120kmほど、IC特急で1時間半ほどかかります。筆者が訪問したのは18年も前で、列車の乗車券の発行は簿冊を手作業検索し、指定券も手書きの硬券でした。事前購入は駅ではなく、町中にある販売所で、最寄り駅から発車するものしか扱ってくれません、電算化されていないので当然かもしれません。ただ、驚くほどの安さで、1等の乗車券が1,000程でした。現在は電算化されて、このような不便さは解消されているようですが、値段は上がっているんでしょうね.


 ブカレスト北駅を出た列車は田園地帯を北にl北に進み、ヒマワリ畑はその途中に現れます。地平線の向こうまでヒマワリ畑ではないかと思うくらいです。ヒマワリ畑を通り過ぎて、最後の20~30kmほどは山が迫ってきて川沿いを走っていきます。

 
 
 
 

 シナイアの駅は、谷筋にあって、ホテルなどは小高い山の中腹にあるので、駅を出るとすぐに階段を上らなければなりませんが、周りの景色はのびやかです。標高は00m程で、ルーマニアの軽井沢と呼ばれるそうですが、世界遺産のシギショアラやドラキュラ伝説のブラショフなどと比べると、日本人の観光客はほとんど見かけません。しかしながら、にシナイア僧院、ペレシュ城それにペリシュル城と外観も内部も見ごたえがある建物があって、緑豊かな周りの環境も気持ちの良い環境です。後ろの山にはロープウェイもあって、シナイアの町や城などが見渡せます。ブカレストからシギショアラに直行するのではなく、1泊で立ち寄って損のない場所でした。

 インドに行ったときに一面の黄色の花の畑に「菜の花畑だ!」と叫んだら、ガイドさん曰く「あれは辛子です}と教えてくれました。たしかに、どちらもアブラナ科で、繁茂よく似ています。葉物の野菜の多くがアブラナ科で、大根や白菜など数多くあって、白菜もとうがたって花が咲くと、花だけ見ると菜の花化と思わせます。これらは、みんな食べられる野菜なので、間違っても命に別条はないようですが、最近よくあるのがニラと水仙を間違うケースです。葉が似ていて、水仙の葉を誤植すると、彼岸花と似たアルカロイドのせいで嘔吐や下痢、量によっては命の危険すらあるそうです。この場合は、ニラには独特の匂いがあるので摘んだ葉を匂えば区別がつくのではと思います。スマホのアプリで撮った植物の写真でその植物の名前を判別してくれるのがありますが、匂いまでは識別材料には使ってなさそうです。

30年以上前なので場所の記憶は消えそうですが、車を飾る花々の見事さの記憶は鮮烈です(オランダ)

2022-04-17 08:00:00 | 世界の町並み
 前回はオランダのハーグ近郊にあるミニチュアランドのマドローダムを紹介しました。オランダといえばチューリップをはじめとする花の国のイメージが強いのですが、今回はマドローダムとともに訪れたズーテルメールやハールレムの春の花まつりの様子を紹介します。30年前の訪問の記憶なので記憶間違いや誤認、それにやや退職したアナログフィルムからの画像をお許しください。

 
 
 
 
 
 オランダの花パレードは、毎年ゴールデンウィークの少し前に開催され、ノルドワイクからハールレムまで42kmを丸一日をかけて練り歩くようです。筆者は、記憶が定かでないのと、記録も曖昧なのではっきりしないんですが、アムステルダムから近いハールレムあたりで見たのではないかと思います。ただ、現在のコースだとハールレムに到着するのは夕方なので、ちょっと時間が違ったようですが、30年前は逆コースだったのでしょうか。随分と昔だったせいか、観光客はさほどすごくなく、パレードをかなり近場で見物できたように思います。フロートには人間も乗っていますが、主役は花々で、、スポンサー名なども無くあまり商業主義を感じませんでした。


 パレードのコースにあたるハールレムは、アムステルダムの西20kmほどに位置し、ニューヨークのハーレムの語源になる場所で、園芸栽培で栄えた花の町です。町の中心には、聖ぱふぉ教会があり、16世紀に建てられた聖堂が威容を誇っています。18世紀に作られたパイプオルガンは5千本超えるパイプがあって、建設当初は世界一だったそうで、モーツアルトやヘンデルも演奏したそうです。

 
 
 花のパレードの後に訪れたのが、ズーテルメールで開催していた花の博覧会(フロリアード)でした。10年委一度開催され、訪れた1992年は4回目の開催だったようです。ハーグから電車でいったのですが、この電車はループ状でハーグ発ハーグ行き、フロリアードの会場の最寄り駅で下車のはずが、出発点に戻ってしまいました。花博の会場なので大々的な看板を想像していたのが間違いでした、駅には駅名のみが表示され、見落としたのです。日本のように、おせっかいな案内は皆無でした。電車のループを一周半して着いた会場はさすがに花ばっかりで、それから随分と後に訪れた富山のチューリップ祭りと似ていたんですね。

 チューリップなどの秋植え球根は、いったん寒くなって暖かくならないと花が咲かないのだそうです。単純に温室で加温しても早咲きしないので、お正月ころに出回る早咲きの花は、夏の終わりころに冷蔵庫に入れて、球根に{冬が来たよ}って勘違いをさせてから、温室に植え込むのだそうです。球根の中に温度変化を記憶するメモリを持っていることになりますが、まさかスマホなどのSDカードではないでしょう。人類は半導体という記憶素子を作って巨大な記憶容量を手中にしましたが、自然界には記憶容量は小さくても、いろんな仕組みの記憶媒体がありそうです。

マドローダムはオランダらしい風景がたくさん、それにも増して緑いっぱいの中に模型の乗り物がいっぱいあります(オランダ)

2022-03-20 08:00:00 | 世界の町並み
 台湾にある小人国は中国の名所が1/25のミニチュアサイズで並んでいました。このようなミニチュアの建物は1/25のサイズがデファクト・スタンダードのようで、わが国のワールド・スクエアも同じアサイズのミニチュアが並んでいます。ただ、最近に東京にできたスモールワールドは屋内の施設のためか1/80と縮尺率は高いようです。小さな模型を作るのはアジア人が得意と思うのですが、意外やミニチュアランドはヨーロッパに多いようです。これらの中で現存最古のものはイギリスにあるベコンスコット・モデルヴィレッジと言われていますが、戦後まもなく開園されたオランダのマドローダムも古いミニチュアランドの一つです。今回は、このマドローダムを紹介しますが、訪れたのが30年も前になるので現状は変わっているかもしれませんし、写真もアナログのポジ画像を基にしているのでだいぶ退色しています。

 
 
 
 
 マドローダムはオランダの南部のデンハーグの郊外スケベ・ニンゲン地区に1952年に開園されたミニチュア・パークです。名前は戦時中にレジスタンス運動に参加して強制収容所で亡くなったジョージ・マドローに由来するものです。周りは多くの公園と池があって緑豊かな場所ですが、マドローダムは東西が150m、南北が100mぐらいで東京ドームのグラウンドの広さ程度で小ぶりです。建物などはすべてオランダのもので、数はさほど多くないのは広さとの兼ね合いでしょうか。
 日本人にはおなじみのアムステルダムの駅舎は無くダム広場や国立美術館の建物があったりします。特定の建物を中心に据えるのではなく、オランダらしい町並みを再現しているといった印象です。人形の模型は、小人国やワールドスクエア二にべると、やや写実にかけるきらいはあったようですが。もちろんオランダの象徴の風車も回っています。

 
 
 
 
 
 飛行場や運河それに鉄道は重点を置いて作られているような気がしました。流通が国の重要な産業だからではないかと感じます。今から30年前ですから、空港に駐機するのはジャンボが主体で、JALのジャンボも駐機していましたし、KLMではDC-10の姿もあります。台湾の小人国の空港の模型より航空会社の数が圧倒的に多かったように思います。模型の飛行機は飛び立ちませんが、青色と黄色のツートンカラーのオランダ国鉄の模型は縦横無尽に走り回っています。花の国のお国柄でしょうか、模型の船が行きかう運河の土手には一面の花が植えられていて、華やかですが、こちらは本物で原寸大です。

 飛行機の模型の中にはアメリカ機のジャンボに交じってエアバスのA300と思しき機体もありました。それまで大型機の市場はアメリカ機が独占していて、これを食い止めようとヨーロッパの複数の国が共同で立ち上げたのがエアバス社でした。最近の飛行機は、異常さえなければコンピュータが離陸から着陸までの大部分を制御してくれるようです。特に、エアバスの機体はフライバイワイヤが取り入れられて、その傾向が顕著ですが、A300が飛び始めたころに、パイロットがコンピュータの指示の意味が分からずに失速墜落する事故も起こりました。複雑化するシステムに、コンピュータと人間との分担をどうするのか難しい課題かもしれません。

開園間もない頃の台湾の小人国は素朴な中にも人形の数と精巧さに驚かされました(台湾)

2022-02-20 08:00:00 | 世界の町並み
 西安の東、兵馬俑のまでの道筋にはついでに立ち寄っても興味ある施設が数多くありました。兵馬俑を作った始皇帝陵にあるという地下宮殿を再現した施設まで現れましたが、イミテーションを作るのが得意なお国柄だけに力の入ったものでした。ミニチュアのイミテーションといえば、わが国では東武ワールドスクエアが有名ですが、台湾には小人国という名称で、名所をミニチュア化した公園があります。現在はミニチュアの種類も増えて遊園地としての性格も持たせているようですが、開園間もないころの姿を紹介します。



 
 台湾の小人国は1984年7月7日に開園しましたが、筆者が訪問したのは開園から2年後の4月でした。まだまだ整備中といった感じでしたが、その割に多くの人が訪れていたようです。場所は台北の南西0kmほど、当時は台北から新竹駅まで列車に乗って駅からバスで行ったように記憶しますが、現在のアクセスはもっと便利になっているのではないでしょうか。広さは南北が100mほど東西が300mくらいのようでした。

 
 
 
 
 ミニチュアは実物の1/25で作られ、筆者が訪問した開園して2年ごろは中国と台湾の有名建築のみでした。台湾の建築は中正記念館が記憶にあるくらいで、大部分が中国のものでした。記憶に残るミニチュアはほとんどが現在世界遺産に登録されている建物などばかりでした。ただ、当時は世界遺産会議はありましたが、これらの中国の世界遺産は未指定だったのではと思います。万里の長城、故宮、土楼そして龍門石窟などです。変わったところでは、世界遺産ではありませんが北京の四合院らしき建物もあったように思います。

 
 
 建物の他は、鉄道、港湾それに空港のミニチュアがあって、今ではほとんど見られなくなったジャンボジェットの模型が並んでいました。中華航空の機体デザインも当時の懐かしいものでした。また、現在は台北から高雄まで高速鉄道が走っていますが、模型の鉄道は当然ながら、在来線の特急の自強号でした。東武ワールドスクエアでも良くできた人間のミニチュアに驚かされますが、小人国の人間の模型にはその数で驚かされます。見ている人より人形の数のほうがはるかに多いという感じでした。

 わが国のミニチュアランドといえば、東武ワールドスクエアが有名ですが、これより先にTBSで放映された「兼高かおる世界の旅」の番組にちなんで淡路島に淡路ワールドパークONOKOROがありました。また一昨年には東京有明に屋内では世界最大規模のスモールワールズトーキョーができています。世界各国の有名施設が、現地に行かなくても見られるというメリット以外に、通常では見ることが難しい俯瞰や裏側などもみられる楽しみがあります。似たようなものに、コンピュータによるVRがありますが、こちらで見られるのは原寸大の映像、どちらが楽しいかは個人の好みでしょうか。

西安の東の兵馬俑までの道筋には、兵馬俑より歴史のある遺跡や、歴史を変えル舞台になった場所などなど(中国)

2022-01-23 08:00:00 | 世界の町並み
 世界遺産のエリア以外や郊外にも見どころの多かったのがベトナムのフエでした。本ブログで紹介した兵馬俑は大都市西安からかなり離れた郊外にありますが、西安からの道筋にも見どころが多く存在します。兵馬俑の紹介の時に一部紹介しましたが、今回はより詳しく紹介します。

 
 
 起点となる西安は、東京都と同程度の人口を擁する大都市で、かつては長安の名称で、前漢、北周、瑞などの都として繁栄した都市です。兵馬俑を作った始皇帝の都も西安の北の咸陽にありました。シルクロードの起点の国際的な都市として栄え、西遊記の玄奘も長安から出発し、持ち帰ったお経の原本は大雁塔に保存されています。広大な中国のほぼ中央、やや東寄りに位置し、かつてはJALの直行便が飛んでいましたが、現在は北京や上海などでの乗り継ぎが必要です。兵馬俑は西安の中心部の東北東30kmほどに位置し、その間にある施設を西安に近い順に紹介します。

 
 
 最初は半坡博物館で、この博物館は郊外というより西安市内の東寄りにあります。市内と言っても西安を囲む城壁乃外で、周りはだいぶ田舎めいてきます。この半坡遺跡は黄河中流域に新石器時代に形作られた遺跡で、その古さは半端ではなく長安よりずっと歴史が古いものです。遺跡は、雨風から程するために兵馬俑と同様に体育館のような建物で覆われていて、その中に数多くの住居跡が散在しています。先般に世界遺産となった三内丸山遺跡の保護シェルターの内部の様子と似ています。展示ブースには、やはり三内丸山遺跡の展示館と同様に
土器や石で作られた道具類などが展示されています。

 
 
 
 次はかなり東に走り、間もなく兵馬俑かと思われる場所にある華清池です。始皇帝の宮殿もあったという3千年の歴史のある温泉保養地です。古野温泉には楊貴妃も浸かったという伝承も残り、入浴中と思しき姿の巨大な楊貴妃増があって、観光客の撮影ポイントになっているようですが、むしろ池に咲く睡蓮や池を囲む建物などの方が絵になると思うのですが。

 
 
 この華清池が世界的に知られる事件の舞台となったのが、西安事件です。西安事件は、張学良らによって蒋介石が拉致監禁され、その後の国共合作、共同抗日戦線が形作られるきっかけとなった事件です。華清池の畔に建つ建物に、事件の現場となった部屋が残されています。

 
 さらに兵馬俑に近い場所にあるのが秦陵地宮で、これは始皇帝の陵墓を推定して再現したものです。発掘されていない始皇帝の地下宮を想像だけで作ったような代物で、はっきり言って見世物小屋ですが、見世物と割り切ってみる分には、それなりの豪華さがあってきれいで好奇心を満たしてくれます。

 中華民国は西安事件の後に国民政府と共産党は合同して抗日に成功しますが、その後は再び内戦状態となり、国民政府は破れて台湾に逃げ込みます。この時、国民政府は紫禁城の宝物類一式を所持したまま戦いを続け、最終的に、これらの宝物は現在台北にある故宮博物院の所蔵品となっています。戦争という異常な状況の中をあれだけ膨大な量の美術品を移動させ、整理された形で展示されているのは驚くべきことです。個々の美術品の管理資料は散逸してしまっていると想像できるので、膨大なマンパワーを費やしたのではないかと思います。現在では、博物館の所蔵作品は電子データ化が進んでいるようで、基礎データ作りは人間の手作業でしょうが、類似検索や分類などは早さのまさるコンピュータの活躍の舞台になっているようです。

フエの郊外にあるティエンムー寺院には静かなフォーン川の流れや美しい花々の景色とは真逆の焼身自殺の写真パネルが飾られています(ベトナム)

2021-12-05 08:00:00 | 世界の町並み
 マリアの出現と奇跡の起こった町としてカトリック信者の重要な巡礼地となっているのがポルトガルのファティマでした。敬虔な信者が、地面に身を投げ出しながら聖堂に進む姿を見ていると、部外者には信心の恐ろしささえ感じます。宗教というのはそれだけ人々を動かす不思議な力を持つようですが、ベトナム戦争中にサイゴンまで車で乗り付けて焼身自殺をした僧侶の話は心が痛みますが、その時の車がフエのお寺に保存されています。今回は、そのお寺であるフエのティエンムー寺院を中心に紹介します。

 
 
 ティエンムー寺院は、フエの市街地からフォーン川を少しさかのぼった左岸、王宮と同じ側に位置する仏教寺院です。17世紀初頭に建てられ、フエでもっとも古い寺院で、フォーン川の河岸段丘の上の境内からのフォーン川のゆったりした流れを眺めることもできます。川沿いの道から石段を登っていくと約21mの八角七層の慈仁塔がお寺の存在を主張しています。この塔は19世紀のもので、フエのシンボルとしてお土産のモティーフとして使われているようです。



 
 
 
 塔のところから北に向け奥に長い境内があって、中国風の神像が置かれた門を抜けると寺の中心の大雄殿があって、大雄殿の裏にもさらに木々の緑に囲まれた境内が伸びています。池には水連が咲き、南国の花と思しき花々も咲いていて気持ちの良い空間です。北の端に近いところには基壇の上に六角六層の石塔があります。こちらは小ぶりですが、慈仁塔と違って各層の出入りが深く、日本の塔にやや似ていると言えば似ています。

 そして、問題の車も境内の一郭に、車本体と事件を報じた写真がパネルになって壁に飾られています。僧侶の名前はディック・クアン・ドック、体が焼け落ちた後も心臓だけは元の形を保っていて、その写真もパネルになっています。飾られている車はイギリス製のオースチンで、なぜかアメ車ではありませんでした。


 
 
 筆者が訪れた時は、クリスマスの直前だったこともあって、フォーン川に日が沈んだ後、市内はイルミネーションであふれていました。同じベトナムのホーチミン市では市内の幹線道路の上はイルミネーションで覆いつくされていました(横位置の写真はホーチミン市の目抜き通り)。フエではそこまで派手ではありませんでしたが、町のいたるところが輝いていました。新市街と旧市街を結ぶフォーン川に架かる橋も色々と色の変わるライトアップがなされていましたが、こちらは通年のようです。

 僧侶の焼身自殺を人間BBQと言った人間が居ました、それは南ベトナムの当時の副大統領夫人で、このことから国民の非難を受けて軍事クーデターに発展しゴ・ディン・ジェム政権が倒れるきっかけになっりました。このゴ・ディン・ジェム政権は、ベトナム王朝を倒して成立した政権でしたが、崩壊の1年後からベトナム戦争が始まってしまいました。ベトナム戦争では、新しい兵器が数多く投入され、間接的に電子技術が発展したとされていますが、結果的にアメリカは敗北し、ベトナムは世界中で唯一アメリカに勝利した国と言われています。最新式の電子技術も、人々の反戦努力の熱意には勝てなかったわけです。

聖母の出現はにわかに信じがたいところですが青空に映えるファティマのバシリカは一見の価値があります(ポルトガル)

2021-11-14 08:00:00 | 世界の町並み
 台湾の東海岸から西に延びるタロコ渓谷は大理石の断崖が続く世界自然遺産級の迫力ある渓谷でした。大理石は石灰岩が変性したもので、中国の大理で産出したための命名だそうです。この白さは宗教的にも説得力があるのか、インドのタージマハル二代表されるように聖堂を作る素材に使われることが多いようです。今回は、大理石の白さが際立つカソリックの重要な巡礼地の一つであるファティマを紹介します。

 
 
 ファティマは、ポルトガルの中央部、リスボンの北120kmあまりポルトの南190kmほどの人口1万人ほどの小さな都市ですが、1917年に起こったとされるファティマの奇蹟で世界に知られるようになりました。それは、3人の子供の前に聖母マリアが出現したというもので、ローマカソリックもその奇蹟を認めているという聖地です。聖母が出現したという場所には出現の礼拝堂が建ち、巡礼者を迎えるためにネオクラッシックの様式で純白の大理石を用いた高さ65mの塔を持つ聖堂(バシリカ)と広場を囲む回廊が作られています。訪れた時は晴れていたこともあって、真っ白の聖堂は青空に映えていました。バシリカの内部の装飾は少なく、大理石の白さとステンドグラスの輝きが際立っていました。入堂した時には実さが行われていて、聖歌隊の歌に加えてパイプオルガンの心地よい響きも聴くことができました。

 
 聖母が出現したという5月13日には全世界から数万人の巡礼者が訪れるそうですが、筆者が訪問した時にも、巡礼者と思しき方々をたくさん見かけました。写真には撮ってませんが、ローソクを建てるところには信者が立てた背の高いローソクがグニャグニャsになりながらも得ていました。たださすがに、広場のどこにも我々以外に東洋人は一人も見かけませんでした。広場には祈りの道という白い一本の道が引かれていますが、敬虔な信者の中には、この道に沿って尺取虫のように地面に伏したり立ち上がったりを繰り返して前進している人を見かけました。信者でない筆者は、この一種異様な情景に、宗教の持つ怖さを感じてしまいました。

 これだけ科学が発達した現代においても、神の存在を説く宗教は健在です。たしかに、地球の歴史の長さに比べて、人類の歴史は瞬時ともいえる短さで、携帯を支える技術の電波も発見されてから高だか120年ほど。人類の短い歴史の中でもさらに短い一瞬の出来事です。この先に、どのような未知の未発見のことが存在するかわからないわけで、その中には神の存在もあるのかもしれません。ただ、現代のほとんどの宗教は、権力を得るための手段になり下がり、権力者の都合の良いように神に語らせているように思います。未来に発見されるかもしれない神のような存在は、宗教権力者が作り上げた神とは違ったもののになりそうです。

タロコ渓谷は政治的な問題が無ければ、規模と言い美しさと言い間違いなく世界自然遺産に登録されても文句はなさそうです(台湾)

2021-10-17 08:00:00 | 世界の町並み
 ガウディが建築のデザインのインスピレーションを得たといわれるモコモコの山がバルセロナ郊外のモンセラートでした。モンセラートは礫岩などがモコモコの山容を作っていますが、大理石が削られてできた渓谷が台湾の東海岸にあります。政治的な問題で世界遺産に登録されていませんが、文句なしに自然遺産の値打ちがあるのが今回紹介するタロコ渓谷です。35年も前に訪問したので、現在ではだいぶ様子が変わっているかもしれませんが、自然はそのままの状態を保っているのではないかと思います。写真はアナログ写真をスキャナで取り込んだものなので、退色や色変わりがあります。

 
 
 タロコ渓谷は、台北の南約100kmほど、台湾の東部中央よりやや北の花蓮が観光の基地になります。花蓮までは、台北の松山空港から国内線が、台北駅からは特急の自強号が足になりますが、筆者は往路は飛行機で復路が列車でした。当時は国内線の搭乗にもパスポートの提示が必要でしたが、乗ってしまえばほとんど水平飛行は無くて30分くらい、あっという間に到着します、東京から静岡よりも近いんですから。一方の列車の方は、それなりの時間がかかります・台湾の西海岸沿いは、高速鉄道も引かれて新幹線並みの速度で移動でき、在来線もほどほど早いのですが、日が視界が沿いは非電化でディーゼル列車です。当時は3時間ほどかかったのではないかと思います。最近は太魯閣号という優等列車も登場してもう少し速くなったようです。タロコ渓谷は花蓮の北10kmほどで海にそそぐ立霧渓に沿って西に延びる谷が中心ですが、国立公園の総面積は約10万ヘクタールもあって、東京23区の面積の1.5倍ほどになります。


 
 河口から約30kmほど遡上した標高480mほどの天祥と呼ばれる場所まで往復するのが一般的のようです。天祥という地名は、12世紀に中国にあった南宋の忠臣の文天祥にちなんで名づけられたそうで、その銅像がて建てられています。ここまでの道路は、よくもこんな場所に道を作ったと思われる断崖の難所が続きます。景色の良いところは難所が多いという定式通りで、断崖の上からは滝も流れています。規模は違うのでしょうが、わが国大分県の耶馬渓の青の洞門と似たような景色もあります。ただ、こちらは両方が断崖で、狭くて高くて耶馬渓の比ではなく、道路から落っこちると耶馬渓ならぬヤバイケーでは済まなさそうです。ただ、下を流れる水はとても透明できれいなのは、上流にはほとんど家屋が無いからではないでしょうか。また、耶馬英は凝灰岩など火成岩ですが、タロコ渓谷は水成岩の大理石を立霞渓が侵食したもので、岩肌の質感も全く違います。

 台湾は、一つのxx国と声高に叫ぶ国によって、国際舞台から締め出され、コロナ禍の時にもWHOに入れない台湾は、苦労も多かったように思います。世界遺産会議からも締め出されているわけで、登録数世界一、二位を争う声高な国と違って自然遺産間違いなしと思われるタロコ渓谷も、当然ながら無登録です。台湾は、世界のIT工場と呼ばれ、コンピュータなどの先進的な電子部品の大部分は台湾で生産されています。軽くて容積が小さく付加価値の高い電子部品は、空路での運搬にも向いているので、島である九州がそうであったと同じ理由でIT産業に向いているのかもしれません。声高に言っている国は、これらの大きな財産が欲しいからで、侵略行為で手に入れようとしているように思います。。

ガウデイも作品のインスピレーションを受けたといわれるモンセラートは、半日ほどの時間があればぜひとも訪れたい場所です(スペイン)

2021-09-19 08:00:00 | 世界の町並み
 前回はユーラシア大陸の西の端のロカ岬を紹介しました。ユーラシア大陸の東西南北の端農地比較的らくに行けるのは南端のインドシナ半島のマレーシアのタンジュンピアイ国立公園ですが、残念ながらジョホールバルや、東側の半島の先のデサルビーチまでで南端は極めていません。北端と東端はいずれもロシア領で簡単に行けそうもありません。話は大陸の端二なりましたが、今回はロカ岬の断崖からの連想でポルトガルのお隣スペインのモコモコの山と断崖が連なるモンセラートを紹介します。

 
 モンセラートはバルセロナの北西60kmほどにある山塊で、バルセロナのスペイン広場の地下駅ホームから出ているカタルーニャ鉄道でふもとの駅まで行き、そこからロープウェイで上ります。筆者が訪問した頃にはこのルートしかありませんでしたが、観光客の増加に対応するために現在はロ^プウェイの山麓駅の次の駅から登山鉄道が開通しこのルートでも上ることができます。麓の駅と山頂駅との間の標高差は550mほどもあり、遠くバルセロナ市街に向かって眺望が伸びています。

 
 
 このモンセラートとは、ギザギザの山都の意味で、礫岩などの堆積岩がモコモコの一度見たら忘れられないような山容を形作っています。カタルーニャ出身のガウディのインスピレーションの源がこの奇妙な山容のモンセラートと言われています。この奇妙な山にベネディクト派の修道院ができたのが11世紀で、俗世界から超越した場所は修道院の環境としては絶好だったでしょう。いくら俗世界と活舌した生活と言っても、ロープウェイや登山電車のないころの修道僧は上り下りが大変だってでしょう。

 
(写真はwikipediaより)
 モンセラートを有名にしている2つのことも修道院ゆかりのことです。一つは黒いマリア像で、もう一つはモンセラート修道院少年合唱団です。黒いマリア像は9世紀に牛飼いの少年たちが岩山の洞の中で発見したとの逸話が残り、祭壇の裏側の階段を上ったところに安置されています。左手だけがガラスの囲いから出ていて触れるようになっていて、先に進んでいった方々が触ってるのを見て、同じようにしてみました。この黒いマリア像にたどり着くまでは、かなりの行列でしたが、主堂ではちょうど結婚式の最中で、並んでいるのが苦になりませんでした。もう一つの有名な少年合唱隊が歌い始め、すごくいい気分になれました。教会での結婚式は、式を邪魔しない限り、オープンなところが多く、新郎新婦を祝福する方ならだれでもどうぞ!って感じです。ルーマニアではルーマニア正教による結婚式を最初から最後まで立ち会ってしまいました。しかし、モンセラート修道院での結婚式は最高の雰囲気の一つでした。

 見どころの多いバルセロナですが、半日程度の時間を作ることができればモンセラートはz人も訪れたい場所の一つです、ただ、最近は人気が出て、混雑がひどくなり、乗り物も、修道院の黒いマリア像も長蛇の列を覚悟なのだそうです。長蛇の列と言えば、病院や美術館を思い出しますが、最近になってコンピュータによるオンラインの予約ができるシステムの導入が進んでいるようです。特に、コロナ禍の中で、待合室で蜜状態で長時間待たされる心配が減ったことはありがといことです。一方、美術館の予約が進んだのは、ほかならぬコロナ禍のためのようで、予約のシステムで入場制限をして、会場の蜜状態を避けようということだったようです。炎天下を長時間ならばされることが無くなったのはありがたいのですが、展覧会の主催者が変わるごとにシステムが変更され、先払いで予約変更やキャンセルができないのは、ちょっとあくどい感じがします。