世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

リル・シュル・ラ・ソングは骨董市で有名ですが果物や野菜が目立つ青空市場がお伽の世界のような街に店を広げていました(フランス)

2021-05-30 08:00:00 | 世界の町並み
 チュニジアのポート・エル・カンタウイ、スペインのトレモリノスと地中海沿岸が続きましたが、今回はフランスのコート・ダ・ジュール(紺碧海岸)を含んだプロバンスを取り上げます。プロバンス地方というのはかなり広い地域を指すようで、東はイタリア国境から西はローヌ川、南は地中海に面し、北はアルプス山脈の南側までと南仏の東南部のほとんどということになります。今回紹介するのはアヴィニョンの郊外にある小さな村のリル・シュル・ラ・ソングです。

 リル・シュル・ラ・ソングはアヴィニョンの東15kmほど、バスでも鉄道でも行ける距離の村で日曜日に開かれる骨董市で有名なところです。筆者は、アヴィニョンからプロバンスを10時間ほどかけてワゴンで走り回る現地ツアーで最初に立ち寄った村でした。アヴィニョンから30分ほど走って、1時間ほどの自由時間でしたが、旅行会社のパンフレットには、この村のことは書かれていなくて、運転手兼ガイドさんから青空市場のある所といった説明だけだったように思います。場所も帰ってから分かったわけで、これだけ便利な所ならば、公共輸送機関を使って自分の足で行ってみたくなりました。

 
 
 
 
 町は中央駅の北東にソルグ川が作る東西300m、南北200mほどの中の島状態の部分で、我々は、乗って来たワゴンの駐車場からこの範囲の一部をを散歩しました。青空市場が中心でしたが、それ以外の町の雰囲気が素敵でした。フランスには美しい村があちこちにありますが、ここもその一つと言っていいようです。青空市場には骨董市と呼ばれる割には、あまり骨董らしいものは見かけず、農産物を中心とした食料品が多かったように思います。日本ではフリマが盛んですが、口の悪い人い言わせれば「ゴミ捨て場」と言われるように、いまいちで。観光地の朝市も単なる土産物売り場で安いわけでもありません。リル・ソル・ラ・ソングに限らず、ヨーロッパ各地の青空市場は、新鮮な果物や野菜が並び価格も安くって魅力的です。

 
 
 
 
 町に入るためソルグ川に架かる橋の手前にあるのが水車、かなり古そうですが現役かどうかはわかりませんし、観光用なのかもしれませんが景色に変化を与えています。橋を渡って狭い通りを通り抜けると右手に現れるのがノートルダム・デ・サンジェ教会で、さほど大きな教会ではありませんが、壁画が壁一面で装飾も豪華な教会です。戻りは少し東寄りの斜めの通りを通ってソルグ川まで戻ると、ソルグ川が作るさらに小さな中州があり、その再合流点の中州側に建つ華麗な銀行がなかなk絵になる美しさです。ヨーロッパなどでは町全体が古い景観を保存しているのですが、日本ではどうして再開発の名のもとに破壊がまかり通るのかガッカリします。原因の一つが、社会が貧困だからとも言われていますが、そうかもしれません。

 
 
 
 
 リル・シュル・ラ・ソングの南東へ畑の中の道を7~8kmほど走ったところにはラベンダー博物館があります。周りの畑はラベンダー畑が多かったように思いますが、時期的に少し早かったせいか花付きはまばらでした。博物館の中には、ラベンダーの花を原料として香油を作る装置が展示されていて、製品も販売されていました。博物館で聞いたところによると、ラベンダーには花茎が3本の品種と1本の品種とがあり、ほとんどは3本で、プロバンスの物は1本である特徴があるそうです。富良野のラベンダーは3本の品種でしょうね。

 以前、IT分野で最も遅れているのがニオイと味覚のセンサーであると書いたことがあるように思います。視覚や聴覚は電磁波や音波といって波動を検出するのに対して、嗅覚や味覚は分子の存在を検出するからかもしれません。ただ、最近は嗅覚センサも新しい技術が開発されつつあるようで、薄膜からできたセンサにニオイの分子が付着するとたわんだ変化を信号として検出するそうです。前もってニオイの種別と信号波形との対応をAIで学習させて、測定すべきニオイが何であるかを判別するそうです。AIに教えるのは人間の嗅覚なので、人間臭い技術なのかもしれません。

巨石、展望台、お寺、仏象それに古い町並みなど、行き当たりばったりで散歩しても楽しい明日香村です

2021-05-23 08:00:00 | 日本の町並み
 両国の回向院には勧進相撲のゆかりの場所ということで力塚という巨石の碑がありました。また、最寄り駅の領国は、通り抜ける線とは別に始発用の先頭式ホームが残っています。このようなホームがある東京近郊の駅は上野駅と東京駅の京葉線くらいしか思い当たりません。今回と次回は、私鉄でこのような駅がある近鉄の樫原神宮駅が最寄りの明日香村を紹介します。明日香村と言えば巨石遺跡が多い古都でも有名で、巨石つながりでもあるのです。今回は、村の北東部分を中心に、次回は南西部分を中心に紹介します。

明日香村の最寄り駅は北から畝傍御陵前、橿原神宮前、岡寺そして飛鳥になります。橿原神宮前駅と飛鳥駅との間は明日香周遊バスが30分~1時間ごとに運行されていて、明日香の観光ポイント一巡してくれるので便利です。橿原神宮駅は橿原線の終点駅でホームは先頭式、そして阿部野橋が起点の南大阪線の中間駅で吉野方面に通り抜けるホームとがあります。大和八木駅から飛鳥駅には、必ず橿原神宮駅で乗り換えになるので直通運転をしてほしいと思うのですが、橿原線は1435mmの標準軌、南大阪線は1067mmの狭軌なので無理なのです。

 
  
 散策の始点は本薬師寺跡で、最寄りの駅は畝傍御陵前で他の明日香村のポイントからは離れています。西の京にある薬師寺が元あったところで、民家の裏庭のようなところに大きな基石が残るだけですが、遠くに畝傍山が見えて絵になります。筆者が学生時代の約55年前に訪れた時の白黒写真です。そこから南東に1kmほど歩くと甘樫丘で、148mの丘ながら頂上からは明日香村をはじめ大和三山などが望める絶好の展望台です。学生時代の明日香村には食堂はほとんどなく、昼食時に登った丘の頂上では遠足に来ていた小学生が弁当を食べているのを横目に見て空腹を辛抱した辛い思い出があります。天下氏の丘の麓には蘇我入鹿の邸宅があったとされ、丘の東側には入鹿の首塚があります。その東には飛鳥大仏で有名な飛鳥寺(安居院)があります。日本最古の大仏ですが、補修部分が多いことから国宝ではなく重文扱いです。

 
 
 ここからは談山神社から続く丘陵の麓を南下すると石造遺跡があらわれます。最初のポイントは亀形石造物で万葉文化館造営の199年に発見され、昔に訪れた時には、この遺跡の裏山にある酒船石しかありませんでした。酒船石だけの頃は、石の上のくぼみでお酒を絞ったのではないかとの説があって、酒船石と命名されたようです。現在では亀形石造物と酒船石とが一体で両槻宮の遺跡の一部で、この二つの石造物は呪術に使われたのではないかと推定されています。

 
 
 
 
 
 岡寺への街道沿いには古民家が多く残されていて、格子や漆喰の壁、虫籠窓のあるおうちもありました。この細い道を大型の路線バスが走っているのは、ちょっと異質な感じがします。岡寺は、この街道から石の鳥居のところを東に折れて急な坂道を登ったところにあります。この石の鳥居は岡寺の物と勘違いをしますが、神仏混交ではなく参道の途中にある治田神社のもの。飛鳥の観光ではサイクリングで走り回る人が多いのですが、さすがにこの坂は上れないようで、坂の下に駐輪していました。岡寺の本堂には日本最古で最大の塑像の観音像があり、土の質感があり存在感のある仏像です。傾斜地に建つ岡寺の三重塔は本堂よりさらに上った境内でさらに高いところにあり、遠望した塔は桜の花の中にうずもれていました。

 
 
 
 さらに南に行くと石舞台古墳、墳丘の中の石室が露出したものと言われ、曽我馬子の墓との説が有力です。この巨大な石の塊は総計で2千トンを超えると推定され、玄室の入るとちょっと恐怖を感じます。玄室の中には何も残されておらず、石棺の復元模型が外部の土手の上に造られています。学生時代に訪れた時の記憶はかなり薄れていますが、先日再訪した時には、あまりの変わりように驚きました。前の時には、野原の中に巨石が転がっているだけ、との印象でしたが、現在は周りに空堀ができ、その斜面には階段までできて、ステージの中央に石舞台がしつらえられているといった感じでした。

 ニュートンの万有引力の法則によると、質量のある物はすべて互いに引き合う力を持っているので、巨石の最たるものであるピラミッドの周辺では、引力は地球の中心に向けてではなく微妙に傾いでいるといわれています。明日香の巨石の周辺でこの現象があるかどうか、厳密にはあるのでしょうが、測定限界を超えていると思います。この引力の大きさ、重力加速度を厳密に測定する装置が科博に展示されていますが、真空中で物が落ちる時間を厳密に測定して求めるようです。落っことすものは、なぜか宝石のキャッツアイが使われています。測定技術は、多くのセンサーが開発され、瞬時に結果がディジタル表示されますが、重力加速度計では長さも時間も超精密に測定する必要があるわけで、お手軽にというわけにはいかないようです。

フエは王宮だけで終わりにしてはもったいない、カイディン帝廟のモザイクの美しさはタクシーのチャーター料以上に値打ちがあります(ベトナム)

2021-05-16 08:00:00 | 世界遺産
 ベトナム戦争で王宮の後ろ半分が無くなって夏草が茂る原っぱになってしまっていたのがベトナム中部のフエの王宮跡でした。世界遺産のフエの建造物群には王宮だけでなく郊外にある歴代皇帝の陵墓も含まれています。今回はこれらの中から筆者が訪問したカイデン帝廟とドゥドゥック帝廟とを紹介します。

 カイディン帝廟もドゥドゥック帝廟もフエ市内からフォン川を遡った所にあり、この2つの廟だけでなく他の皇帝の廟もジャングルの中に散在しているようです。ドゥドゥック帝廟はフエ市内から5kmほど、カイディン帝廟はさらに奥にあって10kmほどの距離にあって、とても歩ける距離ではありません。路線バスはなさそうで、筆者は車を1日チャーターしてフエをあちこち連れて行ってもらいました。

 カイディン帝はグエン朝の第12代皇帝で在位は1916~25年、宗主国のフランスに擁立された皇帝でした。陵墓は生存中から作られ始め没後6年たって完成しました。フランスの傾倒していたこともあって、陵墓はバロック様式で建てられ、陵墓の規模こそ他の皇帝の物よりも小ぶりですが、建物内外の装飾などは時間を掛けて華美と思えるほど贅を尽くしています。

 
 
 
 

 前庭には文官や武官それに兵士の石像が並んでいて中国の兵馬俑(兵馬俑は石像ではなく焼き物)を思わせます。象の像も置かれてありました。広場の中心には碑亭があり、外部も内部の柱にまでレリーフが施されて、内部には皇帝の功績が書かれた碑が置かれています。

 
 
 
 正面の石段を上がると、廟の中心的な建物で礼拝堂と度所である啓成殿があります。建物の外部は碑亭と同様に一面のレリーフが施され、華やかですが灰色の世界です。ところが、建物に入ると、目を疑うくらいの豪華絢爛のモザイク模様のオンパレードです。これだけの装飾だと作るのに時間がかかるのは当たり前のようです。中央にカイディン帝の像があり、地下9mのところに遺体が葬られているそうです。

 
 ドゥドゥック帝はグエン王朝の第4代皇帝で在位は1847~83年でグエン王朝最盛期の最後の皇帝です。陵墓は存命中から作られ大きな池を中心に陵墓と離宮が併存し、皇帝は生前に完成した離宮に休養のため訪れ詩文を作ったり、舟遊びをしたそうです。カイデン帝廟に比べると作られた時代が古いと言っても60年ほどですが、くすんだ感じがして華やかさには欠けますが、景色の中に水の存在があり変化に富んでいます。

 
 
 
 この池に面して西に一列に並ぶ建物群が寝殿で、小ぶりの紫禁城を感じさせます。その南側にはレンガ塀に囲まれた廃墟があり、これはこれで一種の美しさがあるように思います。

 
 
 
 
 逆に北側にはドゥドゥック帝の陵墓があり、やはり東から西に向かって手前に碑亭と奥に陵墓があります。碑亭はカイデン帝廟と同様に帝の功績が書かれた巨大な石碑を収めたもので、ドゥドゥック帝が自ら書いたものだそうです。奥の陵墓の中央には石棺が置かれていますが、帝の遺体が収容されているわけではなく、グエン朝の習わしで親族によって秘密裏に埋葬されたのだそうです。遺体の場所が分かっているのは、前述のカイデン帝がゆいつの例外なのだそうです。

 カイデン帝廟でもドゥドゥック帝廟でも碑亭は重要な位置を占めているようです。自分の功績を後世に残したくなるのが権力者の常なのでしょうか。巨大な石碑に彫り込むというのは中国文化の影響かもしれませんが、中国では石碑というと亀の背中に乗っていたようですが、こちらではそのような形はとってないようです。石に刻んだ文字は、よほどのことが無い限り後世に伝えられ、重要な資料となり、その良い例がロセッタストーンではないでしょうか。紙などに印刷された情報に比べれば、圧倒的に保存性がいいわけです。一方、ディジタル化された情報は、コピーしてバックアップも可能で、劣化はしないので、コンピュータなどで簡単に再現でき便利です。情報がどこにあるかを検索するのも短時間で済みます。ただ、ディジタル化が完全かというと、どうも嘘っぽい感じで、何百年後に同じコンピュータシステムが動作する保証はどこにもありません。

現在は東京23区に飲み込まれた両国ですが、江戸時代には下総国という隣国で赤穂浪士は国を跨って出かけて行ったのですね

2021-05-09 08:00:00 | 日本の町並み
 前回は泉岳寺から白金までの散歩道を紹介しました。お寺や大学や御所などいろんなポイントのある道筋でしたが、赤穂浪士にまつわる場所がインパクトが大きい気もしました。今回は、その赤穂浪士赤穂が討ち入った(押し込んだ)吉良邸のあった本所松阪町から両国にかけてを紹介します。

 
 
 赤穂浪士が押し込んだ吉良邸は、現在は両国3丁目あたり、JR両国駅の南300mほど京葉道路を越えたところにあり、屋敷跡の一部が本所松坂町公園として残されています。吉良邸のの上屋敷は、公演の6倍ほどの広さがあったそうです。なまこ塀に囲まれた公園内には、供養塔や吉良の首を洗ったという井戸があります。吉良邸から赤穂の菩提寺の泉岳寺までは直線距離でも7~8kmほどありそうですが、彼らは2時間ほどで踏破したそうです。

 

 
 吉良邸跡の西100mほど京葉道路の南側に面して回向院があります。振袖火事の被害者10万人余りを祀ったことに始まり、天才で亡くなった人んど無縁仏などを祀る万人塚があります。さらには犬、猫それに小鳥の供養等もあります。鼠小僧の墓があることでも有名で、墓石が削られるために、墓石とは別に削ってもいい石が置かれてあります。18世紀には境内で勧進相撲が行われ、現在の大相撲の起源となっています。大日本相撲協会によって、力士や年寄りの霊を祀る力塚が建てられていますが、対象が力士ゆえか、他の供養等に比べてかなり巨大な石が使われています。

 
 
 
 
 回向院を北にJR線をの線路を超えると、現在の相撲の聖地である国技館があり、駅前には太湖櫓の高い塔が建っています。また、駅前には力相撲という石像が置かれています。JRの両国駅ですが、筆者が学生の頃には総武線の列車はこの両国駅の地上ホームが始発で、房総半島への旅行は両国駅でした。地上ホームの突き当りの旧駅舎はなかなかきれいな建物ですが、駅舎としての役割は終えて複合飲食施設となっています。
 国技館の東隣には1993年に江戸東京博物館が開館し、高床式の建物は国技館と覇を競っているように見えます。

 
 
 国技館を越えてさらに北に行くと旧安田庭園があります。江戸時代の大名屋敷を、明治期に安田財閥の祖である安田善次郎が購入、死後に東京市に寄贈された汐入回遊式庭園です。周辺の喧騒が嘘のような庭園ですが、庭園の先にビルが見えたりスカイツリーが顔を出したりするのは、都内の庭園の共通でしょうか。筆者が訪問の時には両国公会堂のドーム屋根が見えていましたが、耐震性に問題があって、現在は取り壊され跡には刀剣博物館が建っています。旧安田庭園の北東には横綱公園があり関東大震災の被害者を悼む慰霊堂などが建っています。

 両国という地名は、字の通り隅田川を挟んで武蔵野国と下総国とが接していた場所であったからです。国といってもパスポートコントロールがあったわけではなく、江戸時代には街道の要所にある関所での検問の方が厳しかった陽です。ただ、その頃の通行手形ってどの程度の信頼性があったのか、顔写真も無いころなので簡単に偽造できたのではないでしょうか。かつては事前に指紋登録をして出入国審査でコンピュータによる指紋認証で早くゲートを通過でき便利でしたが、指紋の読み取りに意外とてこずりました。3年ほど前からは顔認証ゲートができ、指紋ではなくパスポートのICチップの写真情報と照合して、ゲート通過ができるようになったようです。どうもこの顔認証は中国での導入の方が早かったようですが、無人のゲートではなく係官の前でカメラに正対させられたような気がします。

コスタ・デル・ソルで最初に観光地化されたトレモリーノスは白い壁に花の色がアクセントを与えています(スペイン)

2021-05-02 08:00:00 | 世界の町並み
 パリから2時間ほどのフライトで行け物価の安いリゾートがチュニジアのポート・エル・カンタウイなどの地中海沿いの海岸でした。地中海沿いのリゾートは、夏場にはどこも人口が倍増するようですが、今回はチュニジアと地中海を挟んで北西に位置するコスタ・デル・ソルの一つであるトレモリーノスを紹介します。

 コスタ・デル・ソルはスペイン南部の地中海に面したアンダルシア県の一部で、コスタ・デル・ソルとはスペイン語で太陽海岸を意味します。観光立国のスペインの中でも重要な地域でアンダルシア州の観光業収入の1/3以上を占めているそうです。チュニジアと同様に外人観光客が多く、一時期はイギリスのギャング団が住みつきCosta del SolならぬCosta del Crime(犯罪海岸)と呼ばれていた時期もあるそうです。地域の中心に位置するマラガが経済、交通の要になり、外国からの観光客の多くが利用する国際空港やマドリットから直行するAVEの終着駅もマラガにあります。今回紹介するトレモリーノスはマラガの西に隣接する人口7万人足らずの小ぶりの都市です。

 
 トレモリーノスは、小ぶりな観光地ですが、1950年頃にコスタ・デル・ソルで最初に観光地化した地域の一つで、グレース・ケリー、フランク・シナトラやブリジット・バルドーなどの数多くの有名人が訪れたそうです。海岸線は北東と南西に延びていて、後方に小高い山があります。マラガとの間はマラガの国際空港が仕切っているような格好で海岸線と直行した滑走路が伸びています。海岸線から200mほどの幅の中には数多くのホテルが立ち並び、これらの皮切りとなったアール・デコ様式で50年代に建てられたペス・エスパダもこのホテル・ベルトに位置します。

 
 
 筆者が泊まったホテルは、ややマラガ寄りで海岸段丘の上に位置していました。海岸には、階段を降りて行く格好でしたが、この高低差が風景に変化を持たせていて印象に残ります。道路に面する建物の壁は真っ白でチュニジアで見た白と紺色とどこか似ています。こちらは紺色で縁取られたドアではなく、白い壁に飾られた花々の植木鉢がアクセントになっています。

 母国語以外を学ばない国民が多いのはアメリカとスペインと言われています。英語は実質的な万国共通語として、大英帝国の植民地の多さからで、同じように植民地の多さで使える地域が多いのがスペイン語のためでしょう。筆者の世代では大学での第2外国語は、仏語、独語が一般的で、日本人の多くが独語は英語の次に汎用性があると思っていたようです。ヨーロッパに旅行をすると、独語よりもスペイン語や仏語の方が伝わりやすく、独語はマイナーなようです。中国人観光客が増えているので通じやすさでは中国語が上かもしれません。その中国語、2年ほど前に中国に行くときに自動翻訳機を持っていきました。音声認識や合成音声には多少の疑問を持っていましたが、なかなかどうして、翻訳する時間を待たねばならない不便さはありますが、問題なくコミュニケーションができたようです。スペイン人やアメリカ人の旅行者は自動翻訳機も必要としないでしょうか。