世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

交通の中継点の存在感は希薄になった綾部ですが城下町の面影が色濃く残ります

2011-10-30 08:00:00 | 日本の町並み
 九鬼氏の城は小学校の校庭に変わってしまいましたが、城下町の雰囲気を残す街並みが続いているのが神戸のお北にある三田でした。鳥羽藩の城主であった九鬼氏は三男と五男で跡目争いをした結果、兄弟が別々に、弟は三田に、兄は京都府の綾部に移封され、もとの水軍を擁していた領地を失ったそうです。今回は、三男の九鬼隆季が移った綾部の町並みを紹介します。

 綾部は京都府のやや北に位置して、山陰線と舞鶴線の分岐駅ともなる綾部駅までは、京都から普通列車で2時間余りの距離にあります。江戸時代には九鬼氏の城下町として、明治以降は舞鶴や若狭と京都との交通の中継地点として発展してきました。

 綾部駅というと、かつては京都から天橋立に直行する準急列車が、スイッチバックをする駅でした。この列車は、京都から山陰線を走り、綾部駅でスイッチバック、舞鶴線を西舞鶴駅まで行って、再度スイッチバックをして宮津線に乗り入れ天橋立駅に到達していました。現在は、天橋立に向かう特急の全てが福知山と宮津をショートカットする3セクの宮福線を経由し、舞鶴線を遠回りしません。また、海の小京都と呼ばれる小浜へは、かつては綾部でスイッチバックをして舞鶴線と小浜線を経由するのが通常でした。現在は、湖西線で今津まで行って、鯖街道を走るバスで山越えをすると、ずっと短時間で着いてしまいます。このように、人の流れが変わってしまったために、中継地点であった綾部の存在は希薄になってしまったようです。

 城下町としての綾部ですが、江戸時代から明治末期まで続いた九鬼氏の城(陣屋)跡は、三田と同様に、跡形も無いようです。しかしながら、城下町の雰囲気は、町のあちこちに残されているようです。また、明治末期にはグンゼの発祥の地として、産業城下町の色彩も持っていたようです。

 ちなみにグンゼの旧社名は郡是製絲株式會社で、社是や国是という表現がありますが、グンゼ発祥の地の何鹿郡の是という意味合いで命名されたそうです。何鹿郡(現在の綾部)の地場産業の生糸の産業を地域(郡)を挙げて盛り上げていく会社という位置づけです。グンゼの実務上の本社は大阪に移転をしていますが、登記上の本社は発祥の地の綾部に残されています。

 
 古い町並みは、グンゼの発祥の地がある北側とは線路を挟んだ南側の、かつて綾部城(陣屋)があった方に向かう方角に残されています。ただ、かなり交通量の多い道路沿いの町並みなので、のんびりと散策という感じにならないのが残念です。商店の町並みは、格子の連なる家々が多かったように思いますが、
 
 白壁土蔵造りの家並みは、住居用と思われる民家が大部分だったようです。
 道路沿いの家にトンネル状の通路を設けて、背後の家にはそこを通り抜けて行くらしい構造も見かけました。

 かつて綾部でスイッチバックをしていた準急はディーゼルカーで、電車と同様に進行方向を簡単に帰ることが出来ました。当時は機関車牽引の列車も残っていましたが、機関車牽引では機関車の付け替えが大変で、このような線区では使えなかったのでしょう。現在の日本では、使い勝手を重んじるせいか、貨物列車以外にはほとんど機関車を見かけなくなりました。しかし、ヨーロッパなどで機関車牽引の列車の静かで乗り心地の良さを体験すると、日本でも復活して欲しいと思います。ヨーロッパでは、最後尾の客車に運転席を設けて、簡単に逆走(プッシュプル運転)出来るような工夫がなされています。編成の長短により必要となる出力の調整も、高効率の自動制御が進んでいるのであまり問題にはならないのではないでしょうか。

小高い丘の上の迷路が入り混じる古い町並みの中にお城や教会が建っているトレドです(スペイン)

2011-10-23 08:00:00 | 世界遺産
 ユネスコの世界遺産の制度が出来たときに最初の12の登録リストに載った文化遺産の一つがドイツ北西部のアーヘン大聖堂でした。このアーヘンと姉妹都市を結んでいる都市の一つがスペインのトレドです。今回は、15年も昔に訪問したトレド旧市街を紹介します。

 トレドは首都のマドリッドの南南西60kmほどのところにある丘の上の城壁に囲まれた都市です。現在はマドリッドからAVANTに乗れば旧市街の麓まで30分ほどで着いてしまうようですが、20年前の鉄道駅は、旧市街からだいぶ離れており、列車の速度も遅かったようです。パッケージ・ツアーの午後半日の自由行動のという制約だったので、近くまで速く行けるバスで往復しました。

 
 バスでトレドに旧市街に近づくと、丘の上に城壁に囲まれたトレドの町並みが見えてくるのですが、写真で撮るのはちょっと無理です。そうこうしていると、丘の麓のバスセンターに着いてしまい、そこからでは近づきすぎて城壁しか見えませんので、残念ながら絵葉書のような写真はありません。だらだら坂を上ると、城壁に囲まれた旧市街に入りますが、直行している道が無くって、アナログ的に交差していて、迷路状態です。どうかすると、かなり歩いて、元いた場所に戻ってしまいます。おまけに、マドリッドでは晴れていた空が、散歩の途中で雨です。傘はホテルに置いてきたので、大聖堂で雨宿りです。

 
 その大聖堂は15世紀に作られたゴシック建築で、ステンドグラスも美しいのですが、教会内の聖具室では金ぴかの器具に加えて、エル・グレコの絵も見ることが出来ます。エル・グレコはギリシャ生まれですが、活躍の中心がトレドだったようです。日本では、大原美術館の「受胎告知」のスリムなマリア像の絵でファンも多いのですが、このグレコというのはイタリ語でギリシャ人という意味だそうで、それがそのまま通称名になってしまったようです。トレドの町中には、グレコの家も再建されていましたが、雨に阻まれて大聖堂のステンドグラスと金ぴかの聖具とのにらめっこが続きました。

 雨に遭うまでに、もう一箇所訪れたのがアルカサルでした。こちらはローマ時代の宮殿跡にアルフォンソ6世などによって16世紀に現在のような形の宮殿に修復されたものです。平面図は、外形がほぼ正方形の回廊で、中庭を囲んだ形をしていて、この中庭に面した回廊の連続アーチが印象に残っています。ところで、アルカサルというのは、スペイン語でお城の意味で、中でも有名なものがマドリッドの北にあるセゴビアのアルカサルで、弾劾の上に張り出すように作られた白いお城は優美そのものです。この姿が美しいことから、ディズニー映画の「白雪姫」のお城のモデルといわれています。ちなみにシンデレラのお城のモデルは、ドイツはロマンティック街道南端のノイシュヴァンシュタイン城といわれています。

 トレドのような迷路の町で迷わないように旅行には方位磁石を持って出掛けるようにしています。ただし、日本で買った磁石は外国では必ずしも快適に使えるとは限りません。磁力線の仰角が、経度や緯度によって変わってしまうためで、日本で水平になる磁針も、外国では傾いてしまう可能性もあります。最近では携帯にもほとんど付いているGPSを使うのが、このような悩みに遭わなくっていいのかもしれません。ただ、旅先で迷うのも、旅の楽しみの一つかもしれませんし、位置情報を発信してしまい、居所を把握されてしまうよりも、いいかもしれません。

日本最古の民間博物館の建物はなくなってしまいましたが、古い町並みは健在の三田です

2011-10-16 08:00:00 | 日本の町並み
 かつては日本で2番目の銀の産出量を誇った鉱山が生野でした。生野鉱山は1円電車で有名ですが、生野銀山近くの明鉱山で走っていたものが混同されたようです。同じ兵庫県の南部には、1円電車とは反対に、全国でも指折りの運賃の高い電車が走っています。今回は、その電車の一方の終着駅である三田(さんだ)を紹介します。

 三田は神戸市の北辺に隣接し、現在は人口11万人ほどですが、阪神間のベッドタウンとして一時期は全国一の人口増加率で膨張をした都市です。30年ほど前までは、神戸電鉄で結ばれていた神戸の衛星都市との位置づけでしたが、JR福知山線が複線電化された25年前から、人の流れが大阪にシフトしてしまったようです。三だから大阪までの距離は、神戸までの2倍ほどありますが、JRの快速に乗れば神戸の三宮までとほぼ同じ45分程度で着いてしまいます。料金は、3つの会社の初乗り運賃が加算される三宮までのほうが高く、2倍の距離のある大阪でも三宮への70%程度の料金行けるとあっては、人の流れが変わるのも無理のないことなのでしょう。

 江戸時代の三田は、鳥羽藩から移封された九鬼氏の城下町で、城跡は三田小学校の校庭となって跡形もありませんが、神戸電鉄の三田本町から城跡にかけて、城下町の風情を残しています。表通りを大名行列が通るので、見下ろしてはいけない!とのことから2階の開口部の小さな背丈の低い家並みが続きます。出格子や虫籠窓の開けられた塗り込めの壁など、保存の良い古民家が残されています。壁が黒漆喰で塗られているためか、やや地味な感じで、人通りの少ない通りとあいまって、町の顔をちょっと寂しくしているようにも思います。
 
 一方、少し西の小高い場所には三田カトリック教会があって、真っ白で軽やかな教会の建物は、好対照です。面白いことに、この教会の門には九鬼藩時代に建てられた屋敷門が残され使われています。

 
 古民家の町並みから城跡に向かう通りが五差路に突き当たったところには、九鬼家家老の末裔が明治初期に建てた旧九鬼家住宅が残されています。春夏冬の休みの期間の前後と、秋は11月いっぱい、1階部分が公開されています。1階が和風、2階が洋風の折衷建築で、2階にはバルコニーがあって洒落た感じが気になるところですが、年間に10日ほどしか公開されません。公開期間の長い1階部分は、資料館となっていて、昭和初期の頃と思しき生活用具が展示されていて、当時を知るものには懐かしく、若い人には使い道の分からない道具もあるようです。

 旧九鬼家住宅の城跡寄りにある駐車場のそばには、三田博物館と彫り込まれた大きな石碑が立っています。かつて、ここには日本初の民間による博物館があった名残なのだそうです。この博物館は、幕末に三田で生まれた後に、綾部藩の九鬼氏の養子となり、後に高級官僚となった九鬼隆一が、自身の収蔵品を展示する場として大正時代に旧有馬郡役所を改装して開設したものです。しかし、戦時色が濃くなってきた1941年には閉館となりましたが、建物だけは1960年代までは存在していたようです。しかしながら、市の施設を作る際に邪魔になるとの事で、あっさりと壊されてしまったことは残念です。石碑のそばのパネルによると、中央の2階にバルコニーを持った明治期の木造洋風建築だったようです。取り壊された時期は、古建築の価値に対する認識が少ない頃だったのでしょうか。

 三田と大阪とを結ぶ福知山線は、痛ましい事故で全国的に有名になってしまいました。事故を契機に、列車の異常速度を検出できるATS-Pや緊急列車停止装置が導入され、事故を未然に防ぐために停止させるシステムが揃いました。ところが、その後の報道では、せかっくの安全装置が取り外されたり、電源が切られたりしていたしていたことが明らかになりました。コンピュータを始め、システムには安全を守るため2重3重のガードを組み込むことが通例です。しかし、それを運用する人間の安全に対する意識が低く、セキュリティ機能を解除してしまうなどの行動をとることも多いように思います。

2つの魅力的な教会のあるマインツはフランクフルト空港からすぐ近くです(ドイツ)

2011-10-09 08:00:00 | 世界の町並み
 メコン川の河口にあって、まだ泳いでいるよう盛り付けられる魚や、ボール状のデザートがレストランで供される町がベトナムのミトーでした。メコン川は6つの国を跨って流れる国際河川ですが、ヨーロッパにも多くの国を跨って流れ下る国際河川が数多くあります。これらの中で、スイスを源流として、オランダで北海に注ぐ国際河川がライン川です。今回は、ライン川の中流域にあって、ライン川の観光船の上流側の発着場になっているマインツを紹介します。ミトーでは、果物が成っているところを見たり試食をしたりする観光コースがありましたが、マインツでは朝市に新鮮な果物がたくさん並んでいました。

 マインツは、ドイツ中央部の西より、ドイツの商都として日本からの直行便も到着するフランクフルトの30kmほど西に位置する都市です。特に空港駅は市街地の西よりなので、空港駅から20分足らずで着いてしまいます。人口20万ほどの都市ですが、この程度の都市でも、ヨーロッパでは路面電車が走っています。鉄道とライン川に挟まれた1km×3kmほどの細長い市街地を縦横に、それもかなりの高低差のある場所にも、元気良く上っていきます。旅人にとって、路線が固定されていて、ガイドブックの地図にも明示される路面電車は、利用しやすくありがたい移動手段なのです。

 ドイツなどでは、こんなに小ぶりの町にも、と思われるようなところにも路面電車が活躍しています。市内では、バスを含めて何度乗り換えても付加料金がかからないことが多いことを考えると、料金も高くはありません。日本の市内バスは乗り換えごとに別料金が掛かり、それを防ぐため路線が複雑化し、そのために運転間隔長く不便になり、バスに乗るのは、優待パスの老人がほとんどという構図になっているように思います。日本の交通システムも、ドイツなどに見習って、公共輸送機関が生き生き出来るようにならないものでしょうか。

 
 
 マインツはグーテンベルグを生んだ町で、その博物館もありますが、2つの魅力的な教会が観光客を引き付けています。一つは、ドイツで三本の指に入る巨大なマインツ大聖堂です。世界遺産にも登録されているシュパイヤー大聖堂も建設した、神聖ローマ帝国のハインリヒ4世が、12世紀に建てた教会です。いくつもの塔を持つ複雑で大きな赤い塊は、全景を写真に収めるのも難しいくらいです。祭壇の前では、ちょうどミサを行っていて、その歌声は広い空間に響き渡って、信仰心を後押しする効果が絶大なように感じます。また、巨大な聖堂には回廊が付随していて、回廊の列柱五指に眺める中庭も奇麗です。

 
 大聖堂の前にはマルクト広場があって、朝市が開かれます。新鮮な果物や野菜が所狭しと並べられますが、筆者が訪問した時期はホワイトアスパラの季節で、その後に入ったレストランで美味しくいただきました。一方、朝市では野菜でも果物でもない煮豚を食べましたが、ソーセージなどお肉の美味しいドイツらしく、簡単な料理の割りに、これも美味しくいただきました。

 
 
 もう一つの教会は、ザンクト・シュテファン教会で、こちらはぐっと小ぶりですが、シャガールのステンドグラスがすばらしい教会です。青色を中心としたステンドグラスに囲まれた内部にいると、深い海の中に居るような感覚になり、床に投影されるステンドグラスの影も幻想的です。こちらの教会にも、小ぶりな中庭があって、スペインなどのパティオの雰囲気を感じます。青いステンドグラスというと、パリの南にある世界遺産にも登録されているシャルトル大聖堂が有名です。シャルトル・ブルーとも呼ばれるステンドグラスは、青色を背景にして暖色系で聖人などの像が描かれています。13世紀に作られたステンドグラスは、青いだけではなく暖かみも感じもして、さすがに豪華で美しく歴史も感じます。一方の、シュテファン教会のシャガールのステンドグラスは、一部の窓には暖色系も使われていますが、青一色の窓も多く、ドライな感じがします。どちらが好きかは、個人の好みですが、シャルトルの大聖堂を見た後には、ぜひシュテファン教会も訪問されることをお勧めします。

 教会で演奏されるパイプオルガンや聖歌隊の歌声は、巨大な石造りの聖堂による長い残響時間を考慮に入れたものです。残響時間とは、音が鳴り止んでから、その音のエネルギーが-60dBつまり10万分の一になるまでの時間で、屋内の生活環境では1/2秒にも満たない時間です。コンサートホールでは1~1.5秒程度の残響時間ですが、古典的な教会では4秒程度のものも多いそうです。残響時間をコントロールするために、反響板や吸音材を置いたり、コンサートホールでは入場者が吸音材となるので、そのことも考慮されるそうです。録音の時には、かつては残響室という部屋があって、この部屋に置かれたスピーカとマイクによって、残響をコントロールしていた時代もあったようです。現在では、DSP(Digital Signal Processor)によるディジタル処理で自由自在に制御可能だそうです。生演奏で聞いたらCDの音とずいぶんと違う歌手が多いのも、そのためだとも言われています。

足の便の悪い所に、かつての銀山で潤った残り香の町並みが残る生野です

2011-10-02 08:00:00 | 日本の町並み
 ジャングルが島全体を覆う自然豊かな島が西表島でしたが、この西表島にもかつては炭鉱があったのだそうです。最盛期の1930年代には年間13万トンを掘り出していたようですが、石炭の層が薄いことから1960年に休止となったそうです。一方、日本を代表する銀山は、世界遺産に登録された石見銀山と生野銀山でしたが、どちらも産出量が減って、現在では操業を停止しています。石見銀山はすでに紹介しましたから、今回は石見銀山の大森の町並みと同様に、興味ある町並みの残る生野を紹介します。

 生野は兵庫県の北部の朝来市の一部で、生野銀山の鉱山町の跡は生野町口銀谷(くちがなや)の銀山まち回廊と呼ばれる地区で、かつての鉱山関連の家並みなどが残されています。最大の古民家は、まちづくり工房として公開されている井筒屋です。筆者が訪問した時は、たまたま休館日の月曜日で内部は見ることが出来ませんでしたが、生野銀山の採掘権を持っていた吉川家の本邸の跡で、兵庫県の景観形成重要建造物にも指定されている堂々たる民家です。
 旧吉川家を南に、東西に流れる市川にかかる橋に出ると、かつて生野駅と銀山の本部を結んでいたトロッコ軌道のレールの跡が、一段低いところの川沿いに残されているのを見ることが出来ます。生野の鉄道というと、かつて一円電車を思い浮かべる方もおられるかもしれません。しかし、この一円電車は、生野銀山と同じ朝来市にあった明延鉱山で走っていたもので、鉱石を運ぶ鉄道が一円の運賃で乗客も運んだようです。
 まちづくり工房を東に行くと、生野銀山を操業していた三菱マテリアルの迎賓館として使われていた生野クラブの建物があります。この建物も、明治初期に当時採掘権を持っていた松本家の邸宅として建てられたものです。






 これらの豪邸の跡とは対照的に、さらに東に行くと、官営の鉱山で働く官吏のため明治初期に建てられた赤い生野瓦で葺かれた官舎の一部も残されています。ただ、この官舎跡は、豪邸とは言えないかもしれませんが、現代の狭い住居に住んでいる庶民の感覚からは、ずいぶんと贅沢な作りのような気もします。




 
 官舎跡から、表道路の北側に斜めに入る通りを西に戻ると寺町が続きます。但陽信用金庫会館の裏まで8つの寺が、丘の麓に連なっており、高山の東山地区などとも似たような景色です。一方、但陽信用金庫会館は、生野が発祥の地である但陽信用金庫が、建てた文化施設です。70周年を記念して美術館の新館を増築した建物は、音楽ホールとして使われる旧来の洋館と併せて、こんな山奥に、こんな洋館が!とちょっとびっくりします。

 
 但陽信用金庫会館のところから、まちづくり工房に戻る途中の生野小学校の校庭の角には生野代官所跡のかなり大きな石碑が建っています。江戸時代に銀山の管理のための拠点として設けられたものですが、代官所の前身は、やはり銀山の管理のための平城があり、徳川幕府の時代に天守を壊して代官所としたようです。

 小学校の東の町並みにも、古い町家が残されています。出格子のある家や、板張りの大きな妻面を持つ家があったり、おそらく銀山に何らかの関連があったのであろうと思われる堂々とした家が残っています。

 銀は洋食器などの宝飾性が目立つ金属ですが、最も電気抵抗の小さな金属なのです。通常使われる銅の送電線の代わりに、同じ太さの銀を使えば、途中で熱となって失われる電気エナルギーが10%ほど減る勘定です。もちろん、銀では価格が高くって、とても使うのは無理でしょうが。ちなみに、接点などに使われる金の電気抵抗は銀の1.4倍くらいなのですが、金の錆びにくさを利用したものです。