世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

町中になまこ壁の土蔵造りの家並が続く松崎ですが夕焼けも見事です

2017-11-26 08:00:00 | 日本の町並み
 市街地の中心から、東や北や南に行くと明治の校舎や海蝕洞窟などがあるのが松崎ですが、松崎を有名にしているのは鏝絵に多くの作品を残した伊豆の長八です。今回は、長八美術館のある松崎の中心部、なまこ壁の続く街並みを中心に紹介します。


 松崎町の中心部は東西400m、南北600mほどの範囲で、西側は相模湾に面し、対岸は御前崎になります。伊豆の西海岸は、相模湾に沈む夕日の名所で、条件が良ければ、空も海もオレンジ色に輝きます。この夕焼けは、雲の無い快晴よりもオレンジ色が反映する雲がある方が、見栄えがするように思います。

 
 
 
 
 
 さて、伊豆の長八美術館ですが、市街地の南に流れる那賀川を越えた南端あたりにあります。真っ白で左右対称の建物は、どこか神殿風というか、異質な感じがします。内部は2階建てで、長八の」作品が数多く陳列され、細かな部分まで作り込まれているので、会場には虫メガネが常備されています。隣には、カサ・エストレリータというギャラリーがあり、宇宙をイメージしたという建物も、なまこ壁の町並みには、ちょっと異質です。
 市街地は、この長八美術館を南西端とする500m四方ほどのエリアで、神社やお寺、それになまこ壁の古い町並みが残っています。神社は伊那上神社と伊那下神社と上下が少し離れて建っている神社があり、どちらもウサギに縁があるようで境内にウサギの像が置かれてありました。伊那上神社の奥の圓通寺にはサルスベリが咲き、伊那下神社の隣の浄泉寺の楼門は、なまこ壁の家並とおもしろい対比でした。また、夕日の前景となっている弁天島には厳島神社があります。この弁天島は、かつては島だったのですが、河川の工事で現在は陸続きになっています。

 
 
 
 浄泉寺に通じる通りは、なまこ壁通りと呼ばれていて、なまこ壁の大きな土蔵が連なっています。なまこ壁通りに近い観光案内所の隣の近藤平三郎生家も趣のあるなまこ壁の土蔵造り、そして観光案内所のの前の通りを西に行くと文邸で、通りを挟んで北側には旅館がありどれも見事ななまこ壁です。文邸のそばには足湯があって、散歩に着かれた足にはありがたい施設です。

 
 
 さらに、那賀川を北に渡った所には駿河屋と中瀬邸が並んでいます。中瀬邸は内部を見ることもでき、明治の商家の様子がうかがえます。一方の駿河屋は、川の石垣の上になまこ壁の塀があり、いい感じの景色を作っています。

 夕焼けが赤いのは、太陽光が横から射すことで地球の大気を長く通り、散乱されにくい赤が残るためです。赤色というと、それまでは発光ダイオード(LED)を思い起こします。20年ほど前まではLEDは赤色しか実用化されておらず、現在の照明用のLEDは青色LEDが実用化されて初めて可能になりました。この特許権を巡って争いがあり、もと研究者の一人として、研究者の地位向上に多少効果があったことは認めます。しかし、彼の言動には不愉快なところが多いのです。企業は研究ができる環境(人、モノ、金)を準備して研究を行い、失敗のリスクも負担します。企業での研究は、雇用契約の下で行われ、これらのリスクは企業が負担する代わりに、特許権は企業の所有となることが多いのです。彼は、そのような雇用契約にサインをしたのですから、裁判で和解金を受け取ったこと自体契約違反です。そのような雇用契約が嫌なら、他の企業に入るか、個人でリスク負担をして研究するかです。失敗したときは企業が負担して、うまくいけば独り占めは、あまりに虫が良すぎます。外国人の役員には、成功したのは自分の成果で、失敗は社員のせいとのたまう輩が多いのですが、彼の性格に合った風土に行ったのは正解かもしれません。

観光都市では無さそうなリューネブルクですが、絵本のような街並みは訪れる価値十分です(ドイツ)

2017-11-19 08:00:00 | 世界の町並み
 中国江南地方、蘇州郊外の同里は、水郷らしい風景が広がっていました。この風景は運河の存在が大きな影響を与えています。陸上交通が貧弱な時代には、船による輸送が楽で、このために川に面した都市が発展したようです。自然の川の不足部分は運河が補い、江南地方と北京とを結ぶ京杭大運河は7世紀に作られ総延長が2,500kmもあります。世界遺産に登録されている運河もあり、カナダのリドー運河、フランスのミディ運河です。今回は、特産物の塩を運ぶために下流に運河が作られ、町中には自然の川が絵本のような風景を醸し出すリュネブルクを紹介します。

 
 リューネブルクは、ドイツ北部、ハンブルグの南東50kmほどにある人口7万人余りの都市です。かつて岩塩はリューネブルクから陸路で北にある港町のリューベックまで運ばれました。このリュネブルクとリューベックを結ぶルートは、現在では塩街道と呼ばれ観光地化されています。しかし、馬などで運ぶ陸路ではコストがかかるため、14世紀にリューベックとエルベ川をつなぐ運河が作られました。リューネブルクのイルメナワ川からエルベ川を通り、運河経由でリューベックまで船で運ばれるようになったそうです。塩を運んだ船は、帰りにはリューベックで鰊を積んできたそうで、往復で荷物があって効率的だったんですね。この積み荷の塩や鰊の積み下ろしに使われた18世紀に設置された木製のクレーンが残っています。クレーンのそばには、鰊の貯蔵庫も残されています。

 

 リューネブルクには中心駅が2つあって、道を挟んで東西の駅が並んでいます。メインの駅は東駅で、西駅はローカル列車が停車するだけで、駅の機能も東駅に集約されています。旧市街は駅の西側に1km四方ほどの範囲で広がっていて、イルメナワ川は、駅と市街地の間を南北に流れています。木製クレーンは、川の東岸にあり、その上流には川が二股に分かれ小さな島があって、小さな滝があります。

 
 
 
 
 
 
 
 
 街中には、聖ニコライ教会、市庁舎それに聖ヨハニス教会などの観光ポイントがありますが、町全体が絵本に出てくるような風景です。安野光雅さんの絵本に出てくるような、取り立てて有名な建物などがあるわけでは無いのですが、気持ちがゆったりする空気が流れています。ドイツには重伝建というような指定は無いでしょうが、そのような感じです。ただ、日本との違いは、日本の重伝建地区のほとんどは、開発に取り残されて、やむなく古民家が残ったといった印象ですが、ヨーロッパの町並みでは、現役として生きている感じがします。建物の構造の違いもあるのでしょうが、日本の住居は再開発の名のもとに、いとも簡単に破壊されてしまうのは、デヴェロッパーと銀行の悪だくみのように思います。
 リューネブルクの特産品であった岩塩はハロゲン化鉱物の代表格ですが、ハロゲン化物と聞くとすぐに思いつくのがハロゲン化銀です。ハロゲン化銀は、フィルムや印画紙に塗られている感光材の主成分です。かつて、アナログ写真全盛の頃は、銀の使用量の中で感光剤として使用する量が最大であったそうです。現在は、ディジタル化が進み、この分野での使用量は激減したようです。ディタル写真の初期の頃には、ICの一つの画素の大きさがアナログフィルム上の銀の結晶より小さくなるとは思えませんでした。ところが、現在ではデジタルの観光素子はアナログをはるかに越える解像度までになりました。ディジタルカメラは写真を気軽に取れる環境を提供してくれましたが、気軽すぎて作画が雑になっ朝にも思います。

伊豆松崎の近郊には明治の学舎や天然と人工の洞窟など見どころいっぱいです

2017-11-12 08:00:00 | 日本の町並み
 小海線の中込や雲仙市の神代には木造の校舎が残されていて、かつて学校は未来を担う子供たちへの投資として重要であったことを思わせます。これらの学舎は、かなりの数が全国に残されていて、有名なところでは松本の旧開智学校は重文にも指定されています。重文の学舎がどの程度残されているかを調べると、意外と多いのに驚きます。今回はこれらの中から西伊豆にある岩科学校と、岩科学校のある松崎の郊外を紹介します。

 松崎町は、伊豆半島西海岸の南寄り、鉄道は無く、路線バスで、修善寺から土肥経由で西海岸を南下するか、下田から山越えで西に向かうなど足の便が悪い町の一つです。そのためか、町全体にはのんびりした雰囲気があります。

 
 
 岩科学校は、松崎の中心街から南南東3kmほど、路線バスで10分ほどの距離にあります。岩科学校は明治10年代に建てられた疑似洋館で、建設費の40%余りが住民の寄付で賄われたそうです。それだけ、学校に期待するところが大きかったのでしょう。校長室であった部屋には、校長さんが、教室であった部屋には戦士と生徒の人形が置かれていて、一瞬ハッとします。

 
 
 
 
 建物は、お風呂屋を思わせる唐破風の下にしゃれたバルコニーがあり、なまこ壁の上にはアーチ状の窓があるという和洋折衷のデザインが、それなりの調和を見せています。折衷と言えば、木の床張りの教室の他に畳敷きの和室があり、床の間と違い棚があります。この和室の欄間には、伊豆の長八の作品の鶴の群像の鏝絵があり、破風の上部にあって現在は和室に飾られている鶴も長八作品と言われています。岩科学校からさらに東南東へ2kmほどの永禅寺への道筋は、田んぼが広がるのどかな道に石仏があったり、なまこ壁の古民家があったりで気持ちの良い散歩道です。

 
 
 松崎の郊外には、もう一つ明治の初期に建てられた大沢学舎が残っています。依田佐二平が私財で自邸内に建てた公立校で、現在は道の駅の花の三聖苑に移築されています。三聖苑は市街地の東5kmほど、下田に向かい路線バスで12~13分くらいの場所です。道の駅には温泉があり、この大沢学舎と松崎が生んだ三人の聖人を紹介する三聖会堂などが建っています。大沢学舎は、2階建てですが岩科学校に比べてずっと小ぶりで、上下に一部屋ずつですが、二階にはバルコニーもあって、しゃれた建物です。



 
 これらの学舎は、観光的にさほど有名ではありませんが、松崎付近で鏝絵と並んで有名なな場所が堂ヶ島かもしれません。堂ヶ島があるのは、松崎町ではなく西伊豆町になりますが、松崎からは路線バスで北に10分ほどで、松崎の観光エリアといった感じです。海蝕断崖と洞窟それに三四郎島などがあり伊豆の松島と呼ばれるようですが、ちょっと島の数が少ないようです。海蝕洞窟は、上部から覗いたり船で入ることができますが、よほど凪でないとダメなようです。

 
 一方、南西に3kmほど行くと、室岩洞があります。こちらは、天然の洞窟ではなく、採石場の跡で、江戸時代から60年ほど前まで凝灰岩の伊豆石を切り出していた場所です。洞窟内は2千㎡ほどあり、道路に近い場所の出入り口から、かつて切り出した石を海岸まで運び出した出入口の付近までに電灯が点けられて見学ができます。透明な水をたたえた池などもありますが、かなりマイナーで人影が無く、内部で迷わないか、ちょっと心配になります。

 明治時代の学舎は、趣があって、こんな校舎に通えたらいいなと思います。岡山の吹屋小学校では、ごく最近まで明治の校舎が使われていたようですが、使う立場からは、かなり傷んでいて使いづらい面もあったそうです。このような校舎で、明治時代に、どんな授業が行われたかと思いますが、少なくともタブレット端末などは無かったでしょう。授業にパソコンやタブレットが導入されて、数多くの資料を簡単に見られるようになったのはメリットだと思います。しかし、それらはあくまでイメージ情報で、現代っ子は岐津物に触れる機会が減っているように思います。現場を見ないで、あれやこれやと言う政治家やジャーナリストが多いのも、この流れでしょうか。

チェスキ・クルムロフ城のタワーの階段もホテルの階段も上りは辛いですが眺めは抜群でした(チェコ)

2017-11-05 08:00:00 | 世界遺産
 バルト三国を南から北へ紹介してゆきましたが、似ているところあり、違っているところありで三国を順に訪問すると面白いかもしれません。ラトビアに三兄弟の家があるかと思えば、エストニアには三姉妹のホテルがありました。この三姉妹のホテルに泊まった方から、エレベータの無い4階の部屋で荷物を持って上がるのが大変だったことをお聞きしました。一方、筆者は元は修道院であったホテルで、やはりエレベータの無い3階の部屋に泊まったのがチェコのチェスキー・クルムロフでした。今回はこのチェスキー・クルムロフを紹介します。

 
  
 
 チェスキー・クルムロフへは、17年も前の訪問でしたので、現在は状況が変わってしまっているかもしれません。チェコの首都ノプラハを流れるヴルタヴァ川の上流にあり、プラハの南120kmほどにあります。プラハからビールのバドワイザーの語源となった町チェスケ・ブデヨビチェまで鉄道で2時間半、そこからバスで45分くらいの場所です。ヴルタヴァ川が何度も蛇行をして流れの方向を180度以上も変えていますが、そのこぶ状の一つにチェスキー・クルムルフ城があり、の南のこぶ状の場所にホテルや教会、美術館、広場などがひしめいています。どちらも直径が200~300m程度の川に囲まれた狭いエリアです。泊まったホテルは、南のこぶの南の縁で、ホテルの裏側はヴルタヴァ川が流れています。お城からは遠い側のホテルなのですが、お城が見える部屋が少しだけあり、アサインされた部屋は最上階の屋根裏部屋でした。螺旋階段を上がっていくのは辛かったのですが、ライトアップされたお城が居ながらにして眺められる贅沢な部屋でした。ただ、偶然にも重い荷物は、乗換駅のチェスケ・ブデヨビチェに預けていたので、階段を持って上がる荷物は身の回りの品だけでした。


 チェスキー・クルムロフは13世紀後半から城と町の建設が始まり、ヴルタヴァ川の水運を利用して繁栄しました。しかし、19世紀になって鉄道の幹線から外れて徐々に衰退をしていったのは、日本でもよくあるケースのようです。第2次大戦まで多くいたドイツ系の住民は戦後に追放され、町は廃墟同然となったそうです。ある意味、その時点で町全体が冷凍保存されたのかもしれません。その後、ビロード革命を境に町並みの復興がなされ、かつての美しさを取り戻したそうです。

 
 
 
 お城のある丘の上から眺めるとホテルや教会のあるこぶ状の地域は、オレンジ色の屋根が連なり、その向こうの緑との対比で際立った美しさがあります。

 その丘の上のクルムロフ城は、18世紀にバロック様式で改装され、その時に劇場も建設されています。場内は、ガイドツアーのみで見学でき、1時間くらい、当時はチェコ語、独語、英語の3種類でしたが、現在は増えているかもしれません。当時は劇場は工事中でしたが、現在は公開され、機械式の舞台装置も見られるようです。お城の塔はガイドツアーとは別に上ることができ、階段の上りはきついですが、頂上からはジオラマのような街並みと緑の丘が眺められます。

 町が寂れて、その結果で古い町並みが残され、観光客を呼んだ町はチェスキー・クルムロフに限らず、我が国においても、あちこちで耳にします。ただ、観光用の建物群だけではなく、現役の建物にも古い建物を使い続けるのがヨーロッパ流かもしれません。日本では、観光用の古い建物は、展示館や博物館になってしまい、現用として活躍しているものは、少ないように思います。特に役所関係はコスト意識がないのかすぐに壊して立て替えてしまうのは不愉快です。手狭になったというのなら、役所の口出し範囲を小さくすればよいし、無線化が進み消費電力が減って、昔のようにITオフィス用の2重床の必要も無くなっているでしょうに。