世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

内戦の傷跡の残る町に平和の象徴として再建された石橋があるモスタル(ボスニア・ヘルツェゴビナ)

2007-09-30 10:31:57 | 世界遺産
 セゴビアの石造りの水道橋は現存する最大級の水道橋でしたが、規模は小さく最近に再建された石橋にもかかわらず世界遺産になっている橋があります。ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルのネレトバ川に架かるスタリ・モストがその橋です。今回は、この石橋を中心にモスタルを紹介します。

 ボスニア・ヘルツェゴビナは、旧ユーゴスラビアから独立した国々の一つで、アドリア海に領土の一部を接する大部分が内陸の国です。旧ユーゴからの独立の際に、対ユーゴ軍だけでなく、民俗紛争に発展して内戦状態となり、モスタルも戦場になりました。その内戦のさなかの1993年にスタリ・モストも破壊されてしまいました。翌年の1994年に2年続いた戦争は停戦して復興が始まりました。モスタルの象徴であったスタイリ・モストも1999年から5年を掛けて再建され2004年に完成、翌2005年に世界遺産に登録されました。橋の歴史だけでなく、破壊、再建に至る過程が重要な意味を持った遺産の一つのようです。ただ、橋の再建は平和の再来を祈って行われましたが、内戦の元となった2つの民族は、橋を挟んで川の両岸に分断されたままで居住しているようです。平和や愛を掲げる宗教、その宗教の違いが、内戦のきっかけとなるのも悲しいことです。街中を歩くと、停戦からずいぶんと時間がたっているにもかかわらず、壁に銃弾の痕があるビルの廃墟が残っています。

復興がまだ進行中なのか、愚かな行いを戒めるために、意識的に残されているのかは確認できませんでした。

 内戦で破壊される前の石橋は16世紀に作られたもので、建築当時として世界唯一の一つのアーチを持つ石橋だったようです。再建された橋も、元の橋と同じ規模で作られていますが、長さは30m、川の水面からの高さは24mあるそうです。地元の若者にとって、この橋の上から川に飛び込むことが伝統になっているそうで、夏には大会も開かれるようです。

同じような情景が、日本の郡上八幡でも見られましたが、郡上八幡の端の高さは12mですから、モスタルではその2倍ということです。また、下を流れるネレトバ川は水温が6~7度しかなく、かなり危険を伴うのでおいそれとできることではなさそうです。訪問したときには、水着の男性が欄干の上に立っていましたが、一向に飛び込む様子は無く、観光客目当てで飛び込む意思は無い見せ掛けだったのではないでしょうか。

 モスタルには、クロアチアからの日帰りツアーで訪問しましたが、ネレトバ川を遡ってモスタルに至るまでに、トルコ村にも立ち寄りました。また、モスタルの中にも多くのモスクがあって、トルコの影響を強いようです。15世紀には、オスマン朝の支配下にあったようで、旧ユーゴのモンテネグロでもトルコの遺産を見ることがありました。こんなところにトルコ風の衣装が?と意外な感じを受けました。アジアからヨーロッパに掛けて大きな勢力を誇ったかつてのトルコの版図の広さに改めて感心します。トルコ料理が世界3大料理の一つになっているのも、かつての版図の広さにも起因しているのでしょう。

 現在の橋の設計は、コンピュータによる構造計算に基づいて行われ、必要な強度が保たれているものと思います。建物の構造計算が偽装されたようなことが無ければですが。静的な加重だけでなく、風や通行する車両などによる動的加重の影響も計算や、状態のシミュレーションが行われているのではないかと思います。タコマの吊り橋がさほど強くない風にもかかわらず、共振現象のために崩壊したことは有名で、この事故以降は共振現象を考慮することが常識となったようです。スタリ・モストが作られた頃には、もちろんコンピュータなどは存在しえず、それまでの経験と技術者の一種の勘で設計されたことでしょう。コンピュータによる計算やシミュレーションは既知の数値化できるファクタの範囲では正確に結果をはじき出します。しかし、共振現象に気が付く前では、この危険要因に対する応えは出せなかったのではないでしょうか。

天下分け目の戦いのあった天王山の麓は現在でも交通の要です

2007-09-23 10:33:54 | 日本の町並み
 山間を流れる日野川にJR伯備線が寄り添うように走っているところが根雨の付近でした。日本の鉄道は、海岸線に沿って走るか、川沿いに引かれることが多いように思います。今回は、そのなかから淀川上流の山崎を紹介します。

 大山崎町は京都市の南西、大阪府とも接していて、東西から山が迫る狭い廊下状の平地の中央部を流れる淀川の右岸に位置します。山崎あたりで宇治川、桂川、木津川が合流して淀川になりますが、三つの川が東西の山で狭められた出口に向けて押し寄せてくる感じです。淀川の両岸の狭い帯状の通路には合計4本の鉄道と名神高速道路がひしめき合って通っています。大阪から京都に入る場合にどうしても通らなければならない場所で、戦略上重要な地点であることから明智光秀と豊臣秀吉の天王山の戦いでも有名です。

 その天王山の麓には、サントリーの工場があって、東の白州とならんでウィスキーのモルト生産の拠点になっています。工場の見学をすると、日本のウィスキーの歴史から始まり、蒸留釜などを見学し、熟成庫にずらりと並んだ樽の多さに圧倒されますが、

ウィスキー党には最後の試飲コーナが待ちどおしいかもしれません。筆者が訪れたのは、秋でしたが、春それも桜の季節ならば、工場内に植えられた桜が美しのではないかとも思います。

 美しいといえば、大山崎の駅から急坂を上ると、アサヒビールの大山崎山荘美術館があります。

大正期に実業化が建てた別荘を修理した本館と、安藤忠夫氏の設計になる新館とからなり、本館の木のぬくもりのある建物と、新館のコンクリート打放しのドライな感じの対比が面白い美術館です。絵画などの展示は主に新館で行われ、周辺の景観との調和を考えた半地下の丸い建物になっていて、オランジュリ美術館のモネの睡蓮の展示室を思い出します。一方、本館2階にはオープンカフェがあり、バルコニーの席で淀川やその向こうの石清水八幡のある八幡山などを眺めながらお茶を飲むのも気持ちの良いものです。

 システムの設計の時に、ボトルネックという言葉をよく使います。特定の点の性能が全体の性能を左右するような重要なポイントを指しますが、どちらかというとネガティブイメージで、なるべくボトルネックを作らない設計がよいとされます。山崎はまさしくボトルネックのポイントだったのでしょうが、その地点をコントロールできれば天下を制することができるポジティブな点でもあったのではないでしょうか。
 

古代ローマ人の作った水道橋や白雪姫のお城があるセゴビア(スペイン)

2007-09-16 10:35:11 | 世界遺産
 古代ローマは自国だけでなく、征服した先々で大きな建造物を残しています。チュニジアのエルジェムの円形闘技場もその一つでした。石造りの遺跡で、かなりの数が残っているものの一つが水道橋ではないでしょうか。人間が生活してゆくための必需品の水を確保することが、国を治める重要課題だったからかもしれません。今回は、ローマの水道橋が残る世界遺産の町の中からセゴビアを紹介します。

 セゴビアはスペインの首都マドリッドの北に位置していて、バスや列車で2時間程度の距離にあります。水道橋は800mの長さ、30mに近い高さで、ローマの水道橋としてはもっとも保存状態の良いものとされています。セゴビアの旧市街に80km離れた場所から水を運ぶために作られたもので、現在でも水を流すことができるそうです。

 バスや列車でセゴビアに到着したところは新市街で、アルカサール(お城)などの建物がある世界遺産の旧市街は、小高い丘の上にあります。水道橋の高さイコール旧市街と新市街の標高差ということになります。バスを降りて旧市街に歩いてゆくと、水道橋が巨大な壁のようにたちはだかります。

壁ではなくアーチの連続なので、さほど威圧感はありませんが、さすがにお~きい!って感じです。アーチの基部は道路で、頻繁に車が行きかいますが、石を積んだだけの構造にもかかわらず、車の振動にもびくともしないようです。水道橋のそばの階段をよじ登ると、旧市街で、東西に長い楕円状の丘に大聖堂やアルカサールが建っています。同じスペインのトレド旧市街も小高い丘の上にあって、迷路が多く旅人泣かせですが、セゴビアでは迷路にはなっていませんが、なにかゴチャゴチャした感じがしました。


 水道橋のそばを上がると、旧市街の東端で、西へ行くと貴婦人と称される大聖堂が旧市街のほぼ中央辺りにあります。この聖堂に面した広場はかなり広く、ゴチャゴチャ感を消し去るものでした。さらに西へ一番遠い位置にあるのがアルカサールで、カスティーリャ王の居城として建てられました。断崖の上に建つお城は、お城からの眺めも、お城の眺めも共にすばらしく、ディズニーの白雪姫のお城のモデルとされています。

断崖の上に建つお城を、崖の下からも眺めてみたかったのですが、丘を降りてかなりの距離を歩かねばならず、暑さと時間に阻まれて諦めました。前回紹介のエル・ジェムも扱ったのですが、スペインの内陸の暑さもかなりのものでした。

 日本の今年の夏も暑かったのですが、冷房需要を賄う電力事情が逼迫した夏でもありました。地震の影響で原発が止ったことが逼迫の原因の一つですが、閑散期に作り置きできない電気の宿命が逃げられない原因の一つかもしれません。余った深夜電力を貯蔵する揚水発電所もありますが、需要のほんの一部でしかありません。昼間に寝ていて、夜に生産活動をしたほうが電力需要を平均化していいのかもしれません。セゴビアの大聖堂の前の広場に面したレストランで、皿でも切れる豚の丸焼きを食べようと思いましたが、昼食は午後3時からで、とても待てませんでした。夕食も日本とは3時間ほど遅い午後9時頃から始まります。電力消費の平滑化に協力しているのでしょうか。

山陰の山の中に宿場町と製鉄で潤った残り香のある町並みがあります、根雨

2007-09-09 10:36:40 | 日本の町並み
 熊野古道は、熊野信仰の盛んな頃に蟻の熊野詣として都から山越えで参詣をしていたそうですが、かつての街道でも日本列島を縦断するものも多かったようです。今回は中国山地を横断して、山陰と山陽を結ぶ出雲街道の宿場町の一つ根雨を紹介します。

 根雨は鳥取県の西端に近い日野町にあり米子からJR伯備線で30~45分、南下していた列車が日野川に沿って大きく西にカーブをした先に位置します。特急も停車しますが、あまり観光客は訪れないような不便さのある町の一つです。しかし、町中を散歩すると、宿場町として、また製鉄の町としての繁栄振りを思わせる町並みが残り、、わざわざ途中下車をして寄り道する価値のある町のように感じます。

 古い町並みが残るのは、駅から旧道を南西に200~300mほど歩いたところの数百m程度ですが、本陣にあった門の遺構や、製鉄で財を成した近藤家の格子のある建物、昭和初期に建てられた銀行の洋館などが自己主張をあまりしないで残っています。

 道の脇には清冽な水路もあって気持ちの良い町並みの一つです。

 製鉄といっても、近代的な溶鉱炉を思い浮かべてはいけません。根雨のものは山陰、特にいずも地方で盛んであったたたら製鉄で、砂鉄を原料として木炭で精錬して鉄を得るものです。日本刀の切れ味は高くても柔軟な性質は、たたら製法による鉄を原料にしなければ得られないと聞いたことがあります。出雲のヤマタノオロチ伝説は、砂鉄を産する暴れ川がヤマタノオロチで、そのお腹から草薙の剣が出てきたのは、砂鉄を原料とした刀剣という解釈もなされているようです。

 金属といえば、筆者は訪問しなかったのですが、駅から4km程度のところに金持神社という縁起のよい名前の神社があるようです。読みは「かねもち」ではなく「かもち」なのだそうで、後醍醐天皇の隠岐島脱出時に義兵を挙げた金持景藤ゆかりの神社だとか。名前が効を奏してご利益を願う宝くじマニアなどには人気があるそうです。

 神話は荒唐無稽の物語のように感じますが、史実が神の名のもとに脚色されたケースが多いように思います。考古学は物語に埋め込まれた歴史上の事実を推論して仮説を立てて、それを証明できる材料を探す過程かもしれません。コンピュータの能力が人間をはるかに越えた現在ですが、仮説を立てたり推論する能力はまだまだ人間が優れている分野のように思います。もちろん、コンピュータは膨大なデータの中からある規則性を見出す能力には優れていますが、その規則性からシナリオを組み立てる役割は人間なのでしょう。

コロッセオより保存状態の良い円形劇場が残るエル・ジェム(チュニジア)

2007-09-02 10:38:24 | 世界遺産
 ボロブドゥールはほぼ赤道直下で昼間に訪問すると暑さで参ってしまいますが、ホテルで暑さに参ったのがチュニジアのエル・ジェムでした。参った詳細は後述するとして、エル・ジェムはローマのコロッセオに匹敵する円形劇場が世界遺産に登録されている町です。エル・ジェムを超える規模の円形劇場はコロッセオとカプアのものだそうで、エル・ジェムのものは他と比べて保存状態も比較的良いようです。
 エル・ジェムはチュニジアの首都チュニスから列車で南に3時間ほどの地中海からちょっと内陸に入った町です。世界遺産がある割には、人口は2万人足らずのこじんまりとした町で、世界遺産の円形劇場は、鉄道駅からも近く、巨大な壁が町並みの向こうにぬーっとそびえています。劇場の中に入ると、コロッセオでは床部分が抜けてしまって、中央部分が瓦礫のような感じに見えますが、エル・ジェムではグランド状になっていて劇場の雰囲気が残ります。

地下の通路も安全のためにはめられた格子を通して見下ろせます。この環境を使って音楽会も催されるようです。グランドを取り囲む観客席は、当然ですが360度に広がっていて、高さも高く全容を写真に収めるのは難しいものでした。

 この円形劇場を夕日や朝日の中で見たいとのことがあって、エル・ジェムでゆっくり1泊するために駅のそばのホテルを予約していました。最近はWebやe-mailで予約できるホテルが増えましたが、ここはFAXでの予約でした。そもそも、観光客が泊まれるようなホテルは2軒しかなかったようです。このホテルに宿泊したおかげで、

ライトアップされた円形劇場まで見ることができ、少し離れた博物館もゆっくりと見ることができました。

 モザイクでは、首都チュニスのバルドー美術館のコレクションが群を抜いていますが、ここの博物館にもなかなか美しいものがありました。

 さてこのホテルでの暑さとの戦いの顛末です。チュニジアで泊まったホテルは、砂漠のオアシスで泊まったテントのホテルを含めてエアコン完備でしたが、エル・ジェムだけは例外で扇風機のみでした。緯度的には東京より北に位置するのですが、チュニジアの夏は40度くらいになって暑いこと。ただ、夜になるとほどほど気温が下がってくるので扇風機でも何とかなるか~と思っていたら、夕方から中庭で結婚披露宴が始まりました。太鼓や歌など大音響で、窓なんて開けられません。当然風は通らないので、熱い空気をかき回すだけの扇風機では眠れる状態ではありません。回教国の結婚披露宴というのは、男性ばかりで行われるということを初めて認識しました。当然ながら主賓は新郎のみで新婦は参加していません。

男性ばかりでパーティをしている構図は、日本で見慣れた披露宴とは異なる不思議な光景でした。このパーティーもなんとか夜中の1時過ぎ頃には終了したようで、窓が開けられるようになりましたが、やはり暑かくって寝苦しい一夜でした。
 円形闘技場では奴隷の人間どうしや人間と猛獣の殺し合いが演じられたようです。これを見せることで、民衆のストレスを解消させて、不満が爆発しないようとの政策だったようです。過去から現在まで、人間というのはどうして争いごとが好きなのでしょうか。コンピュータゲームでも争いごとをテーマとするものが多いように思います。プロセッサの能力が高くなり、描画技術が進んで、画面はよりリアルになり、仮想空間と実世界の区別が曖昧になるのではないかとも思います。実世界では、リセットボタンを押しても、人間は生き返らないし、壊れたものは修復しないのです。