セゴビアの石造りの水道橋は現存する最大級の水道橋でしたが、規模は小さく最近に再建された石橋にもかかわらず世界遺産になっている橋があります。ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルのネレトバ川に架かるスタリ・モストがその橋です。今回は、この石橋を中心にモスタルを紹介します。
ボスニア・ヘルツェゴビナは、旧ユーゴスラビアから独立した国々の一つで、アドリア海に領土の一部を接する大部分が内陸の国です。旧ユーゴからの独立の際に、対ユーゴ軍だけでなく、民俗紛争に発展して内戦状態となり、モスタルも戦場になりました。その内戦のさなかの1993年にスタリ・モストも破壊されてしまいました。翌年の1994年に2年続いた戦争は停戦して復興が始まりました。モスタルの象徴であったスタイリ・モストも1999年から5年を掛けて再建され2004年に完成、翌2005年に世界遺産に登録されました。橋の歴史だけでなく、破壊、再建に至る過程が重要な意味を持った遺産の一つのようです。ただ、橋の再建は平和の再来を祈って行われましたが、内戦の元となった2つの民族は、橋を挟んで川の両岸に分断されたままで居住しているようです。平和や愛を掲げる宗教、その宗教の違いが、内戦のきっかけとなるのも悲しいことです。街中を歩くと、停戦からずいぶんと時間がたっているにもかかわらず、壁に銃弾の痕があるビルの廃墟が残っています。
復興がまだ進行中なのか、愚かな行いを戒めるために、意識的に残されているのかは確認できませんでした。
内戦で破壊される前の石橋は16世紀に作られたもので、建築当時として世界唯一の一つのアーチを持つ石橋だったようです。再建された橋も、元の橋と同じ規模で作られていますが、長さは30m、川の水面からの高さは24mあるそうです。地元の若者にとって、この橋の上から川に飛び込むことが伝統になっているそうで、夏には大会も開かれるようです。
同じような情景が、日本の郡上八幡でも見られましたが、郡上八幡の端の高さは12mですから、モスタルではその2倍ということです。また、下を流れるネレトバ川は水温が6~7度しかなく、かなり危険を伴うのでおいそれとできることではなさそうです。訪問したときには、水着の男性が欄干の上に立っていましたが、一向に飛び込む様子は無く、観光客目当てで飛び込む意思は無い見せ掛けだったのではないでしょうか。
モスタルには、クロアチアからの日帰りツアーで訪問しましたが、ネレトバ川を遡ってモスタルに至るまでに、トルコ村にも立ち寄りました。また、モスタルの中にも多くのモスクがあって、トルコの影響を強いようです。15世紀には、オスマン朝の支配下にあったようで、旧ユーゴのモンテネグロでもトルコの遺産を見ることがありました。こんなところにトルコ風の衣装が?と意外な感じを受けました。アジアからヨーロッパに掛けて大きな勢力を誇ったかつてのトルコの版図の広さに改めて感心します。トルコ料理が世界3大料理の一つになっているのも、かつての版図の広さにも起因しているのでしょう。
現在の橋の設計は、コンピュータによる構造計算に基づいて行われ、必要な強度が保たれているものと思います。建物の構造計算が偽装されたようなことが無ければですが。静的な加重だけでなく、風や通行する車両などによる動的加重の影響も計算や、状態のシミュレーションが行われているのではないかと思います。タコマの吊り橋がさほど強くない風にもかかわらず、共振現象のために崩壊したことは有名で、この事故以降は共振現象を考慮することが常識となったようです。スタリ・モストが作られた頃には、もちろんコンピュータなどは存在しえず、それまでの経験と技術者の一種の勘で設計されたことでしょう。コンピュータによる計算やシミュレーションは既知の数値化できるファクタの範囲では正確に結果をはじき出します。しかし、共振現象に気が付く前では、この危険要因に対する応えは出せなかったのではないでしょうか。
ボスニア・ヘルツェゴビナは、旧ユーゴスラビアから独立した国々の一つで、アドリア海に領土の一部を接する大部分が内陸の国です。旧ユーゴからの独立の際に、対ユーゴ軍だけでなく、民俗紛争に発展して内戦状態となり、モスタルも戦場になりました。その内戦のさなかの1993年にスタリ・モストも破壊されてしまいました。翌年の1994年に2年続いた戦争は停戦して復興が始まりました。モスタルの象徴であったスタイリ・モストも1999年から5年を掛けて再建され2004年に完成、翌2005年に世界遺産に登録されました。橋の歴史だけでなく、破壊、再建に至る過程が重要な意味を持った遺産の一つのようです。ただ、橋の再建は平和の再来を祈って行われましたが、内戦の元となった2つの民族は、橋を挟んで川の両岸に分断されたままで居住しているようです。平和や愛を掲げる宗教、その宗教の違いが、内戦のきっかけとなるのも悲しいことです。街中を歩くと、停戦からずいぶんと時間がたっているにもかかわらず、壁に銃弾の痕があるビルの廃墟が残っています。
復興がまだ進行中なのか、愚かな行いを戒めるために、意識的に残されているのかは確認できませんでした。
内戦で破壊される前の石橋は16世紀に作られたもので、建築当時として世界唯一の一つのアーチを持つ石橋だったようです。再建された橋も、元の橋と同じ規模で作られていますが、長さは30m、川の水面からの高さは24mあるそうです。地元の若者にとって、この橋の上から川に飛び込むことが伝統になっているそうで、夏には大会も開かれるようです。
同じような情景が、日本の郡上八幡でも見られましたが、郡上八幡の端の高さは12mですから、モスタルではその2倍ということです。また、下を流れるネレトバ川は水温が6~7度しかなく、かなり危険を伴うのでおいそれとできることではなさそうです。訪問したときには、水着の男性が欄干の上に立っていましたが、一向に飛び込む様子は無く、観光客目当てで飛び込む意思は無い見せ掛けだったのではないでしょうか。
モスタルには、クロアチアからの日帰りツアーで訪問しましたが、ネレトバ川を遡ってモスタルに至るまでに、トルコ村にも立ち寄りました。また、モスタルの中にも多くのモスクがあって、トルコの影響を強いようです。15世紀には、オスマン朝の支配下にあったようで、旧ユーゴのモンテネグロでもトルコの遺産を見ることがありました。こんなところにトルコ風の衣装が?と意外な感じを受けました。アジアからヨーロッパに掛けて大きな勢力を誇ったかつてのトルコの版図の広さに改めて感心します。トルコ料理が世界3大料理の一つになっているのも、かつての版図の広さにも起因しているのでしょう。
現在の橋の設計は、コンピュータによる構造計算に基づいて行われ、必要な強度が保たれているものと思います。建物の構造計算が偽装されたようなことが無ければですが。静的な加重だけでなく、風や通行する車両などによる動的加重の影響も計算や、状態のシミュレーションが行われているのではないかと思います。タコマの吊り橋がさほど強くない風にもかかわらず、共振現象のために崩壊したことは有名で、この事故以降は共振現象を考慮することが常識となったようです。スタリ・モストが作られた頃には、もちろんコンピュータなどは存在しえず、それまでの経験と技術者の一種の勘で設計されたことでしょう。コンピュータによる計算やシミュレーションは既知の数値化できるファクタの範囲では正確に結果をはじき出します。しかし、共振現象に気が付く前では、この危険要因に対する応えは出せなかったのではないでしょうか。