世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

辰野金吾が設計の武雄温泉楼門は夜空をバックにオレンジ色に輝いています

2016-12-18 08:00:00 | 日本の町並み
 東の帝国ホテルに並ぶ西の甲子園ホテルは、ホテルの正面しか現存しない帝国ホテルと違って、建物全体が、大学の所有となり残されていました。この旧甲子園ホテルを設計した新藤新の作品は、前々回紹介した芦屋の旧山邑邸をはじめ、首都圏を中心に現存しており、フランク・ロイド・ライトの設計思想を継いだ建物が残されています。ただ、首都圏と関西圏以外には、ほとんど現存せず、九州では如蘭塾のみです。今回は、この
如蘭塾が残る佐賀県の武雄を紹介します。

 武雄は、県庁所在地の佐賀の西30kmほど、JR佐世保線の武雄温泉駅までは特急で25分、各停でも35分くらいの場所にあります。新藤新が批判をした東京駅の設計者である辰野金吾が設計をした武雄温泉新館と楼門のある温泉として有名です。筆者は、如蘭塾を訪問し損ねましたので、ここでは武雄温泉と如蘭塾と御船山を挟んで反対側の御船山楽園の周辺を紹介します。
 
 
 
 
 まずは、辰野金吾設計の建物がある武雄温泉は、JRの駅の西800mほど、歩いて15分ほどの山の麓のような場所になります。南東方向から伸びてきた道路の正面に楼門があり、楼門の奥に旧温泉新館の建物があります。ともに重文に指定されていますが、他の辰野作品を見てきた目には、これが辰野金吾の設計?といった感じがします。楼門は、まるで竜宮城の城門で、かなり派手です。特に、日没後にライトアップされると、にぎやかさが増します。一方の、温泉新館は、外観は素っ気ない建物ですが、内部の作りはなかなか凝っています。特に、風呂場のタイルは、洗い場も浴槽の中も、なかなかしゃれています。

 
 
 次に、御船山楽園ですが、こちらはJRの駅の南1.5kmほど、変わった山容の御船山(207m)の南西側の麓に広がる庭園です。この御船山楽園は、全国で3位の紅葉の名所で、さらに日本最大級の紅葉のライトアップの庭園です。筆者が訪問したのは、10月で紅葉には早かったのですが、園内の池に反映する御船山の姿や、古ぼけた茶屋、大きなクスノキなど、それなりに楽しめました。ただ、パンフレットなどで見る、紅葉の時期のライトアップは、御船山を含めた大規模で、この時期に訪れて見たい衝動に駆られます。

 武雄温泉駅というと、長崎新幹線で在来線の狭軌と新幹線の標準軌の切り替え駅となる予定の駅です。九州新幹線の新鳥栖から武雄温泉までは在来線を流用し、武雄温泉から長崎までは標準軌の路を引くそうです。この軌間の違う路線を直通するため軌間可変電車の研究が進められていますが、開業目標の2022年には間に合わず、当面は乗り継ぎでしのぐそうです。軌間可変列車はスペインのタルゴが有名で、こちらは機関車が引く動力集中方式、一方我が国のものは動力分散の電車方式。タルゴはとうの昔に実用化を完了してますが、電車方式では難問が多いのでしょうか。軌間だけでなく、在来線と新幹線の方式の差は、電車の制御プログラム改修など問題が多いようです。ヨーロッパでは、方式の違いを越えて、国境を越えて走りまわる高速列車が多いのですが。

潔癖な白のタージマハルより、優れた技術の粋が見られるフユマーン廟です(インド)

2016-12-11 08:00:00 | 世界遺産
 上座部仏教が生活の中に生きているタイの古都に、13世紀の仏教遺跡が残っているのがスコタイでした。仏教はインドの北部で起こり、東に伝わって我が国に及んだ大乗仏教徒、南東に伝わった上座部仏教ですが、生誕地のインドでは仏教はすたれてしまっています。仏教関連の世界遺産も釈迦の生誕地など3か所程度です。ヒンドゥー教やイスラム教関連のものが多く、今回は、イスラム関連遺跡の一つフマユーン廟を紹介します。

 筆者がインドを訪れたのは、17年も前ですから、だいぶ状況も変わっているかもしれません。デジカメも、まだまだおもちゃっぽく、画素数も小さく、色の飽和度も少なくって現在とは全く違ったものでした。今回の写真は、その頃のデジカメのものですので、画像がさえないのをお許しください。また、記述内容も、記憶が薄れてあいまいな部分が多いこともご了解ください。

 インドへの旅行は、地上移動が不安で、現役時代の時間的制約からパッケージ旅行でした。ニューデリーの空港に着いて、夕食に向かう頃には、あたりは真っ暗、街路灯もあまり無かったんです。バスの窓からは暗闇しか見えないのですが、その暗闇の中に、なにかうごめくものが見えて、よ~く見ると、これが道路の端を歩いている人の群れだったのです。それが、まるで、デモに向かう群衆くらい大勢なんです。インドは人が多いんだ!と時間下瞬間でした。インドに旅行をすると、人生観が変わるとも言われますが、そこまではいきませんでした。
 
 
 さて、フユーマーン廟は、フユマーン帝が事故死した後、その王妃によって首都のデリーのヤムナー河近くに16世紀に作られたものです。17世紀に作られたタージマハルにも影響を与えた廟です。タージマハルは、王が王妃のために作った廟なので、フユマーン廟とは逆になりますが。フユマーン帝は、中央アジアからインドにやってきてイスラムイスラム王朝を作ったムガール帝国の2代目の皇帝でした。内乱を鎮めるためにペルシャの援軍を頼んだ際に、大勢の職人や芸術家もつれてきたそうです。王妃が、このフユマーン廟を作る際にもペルシャの建築家の指揮のもとに、帝国で最も壮麗な廟を作ったそうです。

 
 タージマハルは大理石で作られて真っ白な廟ですが、フマユーン廟では、オレンジ色の赤砂岩と白い大理石を組み合わせて、壁面に美しい模様が描かれています。ペルシャからの職人たちは、祖国では質の良い自然石が手に入らず、やむなくレンガなどを使って象嵌をしていたものが、インドでは自然石で造詣ができたのだそうです。真っ白なタージマハルは、潔癖さを感じて、それなりに存在感がありますが、建物としての美しさという面で見ると、フユマーン廟の方が、職人の技術が生きていて、美しいように感じます。

 仏教はインドで生まれましたが、現在のインドにはほとんど仏教徒は居ないようです。宗教に限らず、生まれたところでは発展しないで、他の国で成果を生んだものも多く、IT分野でもその例外ではありません。一時期は、日本の十八番だった液晶ディスプレイですが、発明者はアメリ人でした。しかし、日本の天下も長続きせず、現在は韓国、台湾に追い抜かれてしまっています。IT分野ではありませんが、現在のインスタント・コーヒの元になる発明者はアメリカ在住の日本人だったのです。ところが、インスタント・コーヒの生産では、日本でもアメリカでもないスイスの会社が日本シェアの70%なのです。

帝国ホテルは玄関しか残っていませんが西の旧甲子園ホテルは建物全体が残されています

2016-12-04 08:00:00 | 日本の町並み
 現存の建物としては数少ないフランク・ロイド・ライトの設計の旧山邑家住宅が残るのが芦屋の山の手でした。この住宅は、基本設計こそライトが行ったのですが、途中でアメリカに帰国してしまい、実施設計はその弟子で帝国ホテルの設計にも携わった遠藤新と南信が行いました。この中で、遠藤新はライトの現存建築の一つである自由学園の実施設計も行っていますが、ライトの作品と同様に現存で公開されている建物が多くありません。その中で、元甲子園ホテルの建物が現在は武庫川女子大学の甲子園会館として残され、今回はその建物を紹介します。

 甲子園会館は、JRの甲子園口駅の南500mほど、武庫川の西側の土手のすぐそばに建っています。旧甲子園ホテルは1930年に竣工、東の帝国ホテルに対して西の甲子園ホテルと並び称されるほどの格式の高いホテルでした。しかし、戦争の激化で、ホテルとしての営業は1944年までで、その後は国に接収され、戦後は米軍や大蔵省の所有となり1965年に武庫川学園が所有して学舎として利用しています。

 
 
 入り口は北側にあり、建物の南側には庭園が広がっています。北側から見た建物は左右対称で、両翼に旧客室棟をもち、その間に背の低い玄関が横に広がっています。玄関棟の両側には多武峰の十三重塔を石で作ったような塔が天を突いています。正面からの感じは、師匠のライト設計の帝国ホテルとどことなく似ています。

 
  
 
 内部は、左右にホールがあり、その間を廊下が結んでいます。そのホールなどを見学しましたが、重厚感のある照明や、調度が印象的です。面白いのは、あちこちに連続模様の飾りがあり、何がモチーフなのかはっきりしません。唯一はっきり分かるのは打ち出の小槌で、これは壁や内部にある小さな噴水の中にデザインされています。これは、「お宝がザクザク出ますように」といおまじないではなく、このあたりの地名にちなんだモチーフのようです。

 打出という地名は、神功皇后の往時の軍が打って出た場所との説や、山陽道が初めて海に打出るところとの説などがあるようです。どちらの説も打出の小槌とは縁がなさそうです。甲子園ホテルの設計時にレリーフなどの飾りに打ち出の小槌を持ってきたのは人間故の発想なのでしょう。東大入試に挑戦する人工知能が話題になっていますが、記憶内容などの問いに対しては完璧な答えを出すものの、長文解読などは、まだまだ苦手なのだそうです。シャレのような類推発想に関してはどうなんでしょうか。