世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

上海の旧フランス租界にはプラタナスの並木がよく似合います(中国)

2012-08-26 08:00:00 | 世界の町並み
 前回は、上海の黄浦江の西岸に沿った外灘を紹介しましたが、外灘は戦前に上海に存在をした租界の一つでした。今回は、フランス租界を中心に外灘以外の租界の一部を紹介したいと思います。上海にはどことなく西欧の匂いのする街並みが多いのは、租界時代の名残なのです。

 上海の租界は、アヘン戦争の結果、イギリスが上海の中に取得した治外法権のある土地のことで、第二次大戦の終結まで100年間存在しました。イギリスに続いて、フランス、アメリカも租界を設け、日本も日本警備区の名称で実効的な租界を持っていました。やがてイギリス、フランス、アメリアを含む12カ国が共同で管理をする共同租界が生まれましたが、その後にフランスだけは独立の租界を持つようになりました。

 
 上海市の中心部から南西方向に広がる、旧フランス租界界隈は、プラタナスの街路にフランスを思わせる町並みが残されています。このプラタナスは、租界の頃にフランスから持ち込まれたようで、世界遺産のミディ運河に沿って植えられている並木もプラタナスです。フランスの町には、プラタナスの並木が似合うのかもしれません。フランス租界の西南の端近くに外国弄堂(ろんたん)が残されていて、このあたりもプラタナスの並木の美しい町並みが続きます。外国弄堂とは租界時代に外国人が住んだ集合住宅で、この一郭はどう見ても中国の風景ではありません。中には、アメリカ映画のロケに使われた建物もあるようです。

 
 逆に、東北よりの復興公園近くには、周恩来と蒋介石とが会談を行ったという周公館が残されていますが、このあたりも並木の向こうに洋館が並ぶ美しい町並みです。通りに面したレンガ造りの教会の建物も、蔦の絡まる周公館もどう見ても中国ではありません。





 
 一方、フランス租界の北辺から外れるのかも知れませんが、延安中路には童話から飛び出したような建物があります。ゴチャゴチャとした町並みの地下鉄の侠西南路から北に行くと、並木が美しくなった頃にその建物が現れます。英国籍ユダヤ人が建てた馬勒私邸(マーラー邸)で、現在はホテルとして使われていますが、とにかく一見の価値があります。ノルウェー風の建物といわれていますが、ノルウェーでもこれだけ絵本風の建物は見れないのではないでしょうか。

 
 
 実質的な日本租界は、市街地の北の虹口地区と呼ばれているあたりに存在しました。現在は、その北辺は魯迅公園になっており、大きなサッカー場、それに魯迅関連の施設として記念館とお墓とがあります。租界の町並みは、公園の南側に残されているようですが、フランス租界とは並木の種類も違って町の顔が違います。このあたりは、レンガ造りの建物が多く、レンガ造りの現役のアパートも多いようですが、それらの中の3階建てのアパートの一郭に魯迅旧居があります。表示が無ければ通り過ぎてしまいそうな建物で、魯迅が最晩年を過ごし、息を引き取ったというベッドも残されています。

 魯迅旧居で亡くなった魯迅の死因は、公的には肺結核ということになっていますが、中国を取りまく情勢が不安定な時期だけに、色々な説があるようです。肺結核の検査にはX泉撮影が使われますが、病巣の詳細を調べるためには断層撮影が使われます。かつてアナログ撮影の頃は、X線照射装置とフィルムとを回転させ患部周辺にある物体の影響を減らす手法が取れれましたが、得られた映像はあまり鮮明ではありませんでした。現在ではX線CTと呼ばれる、コンピュータによって画像処理される手法が一般的です。これはラドン変換と逆ラドン変換と呼ばれる数式を用いるそうですが、1971年に作成された原型機では、走査に5分以上、当時の大型コンピュータで2時間半の演算処理をしてやっと画像が得られたそうです。40年前といえば、音声の認識も大型のコンピュータをフル回転させて、やっと一つのフレーズが認識できました。現在ではスマートフォンにまでも音声認識が導入されて、瞬時に持ち主の指示に答えてくれるようです。ただ、このCMを見ていると、人間が馬鹿になるな~と感じるのは私だけでしょうか。

姫路城だけではなく、お堀の外側に残る城下町も訪れてみる価値がありそうです

2012-08-19 08:00:00 | 日本の町並み
 世界で一番営業距離の長いモノレールも通っている大阪市の衛星都市が茨木でしたが、このモノレールは流行のようにあちこちに建設されました。茨木のものは市民生活や空港アクセスに必要な足といった感じですが、駅から離れた遊園地まで短距離のモノレールが引かれましたが、その多くが消滅してしまいました。世界遺産の姫路城の近くの手柄山遊園まで、姫路駅からモノレールが通じていました。今回は、手柄山ではなく、姫路城の西側に残る城下町の風情を残す町並みを中心に紹介します。

 姫路は兵庫県の西南にあって世界遺産で国宝の姫路城で全国に知られた都市です。隣接するJRと山陽電鉄の姫路駅からお城までは、バスでも行けますが、大手前通りを歩けばさほどの距離ではありません。大多数の観光客は、大手門から姫路城に入って、複雑な縄張りに関心をして、真っ白の天守閣を写真にとって帰られます。ところが、姫路城の内堀や外堀の北や西側の周辺を訪れる人は少ないようです。北側の内堀と外堀に挟まれた所には姫路神社や緑の多い公園が広がり、外堀の西側には城下町を思わせる町並みが残されています。ちなみに東にはこじんまりとした姫路市立動物園があります。



 
 
 お城の西側の外堀は、途中から船場川と合流していますが、この船場川の水運を利用した材木町や小利木町が川沿いに北東に伸びています。かつての豪商の建物と思われる、白漆喰に出格子がある家並みがずらりと並んでいます。現在は、ほとんどの家が居住用のようで、表に植木鉢などが並んでいますが、真っ赤な自販機が並べられていて、これもアクセントかな・・とも思ったりします。自販機のアクセントは、許せるとして、許せないのが抜け道として入ってくる車です。細い道路に我が物顔で、かなりのスピードを出して通り抜けていきます。川越の町並みも、道路はもっと広いのですが、車の通行が多くてうんざりと、身の危険を感じます。脱原発の前に、現実に毎年5千人もの死者のでる交通事故のほうが問題ではないでしょうか。

 
 船場川に沿って北東に延びている材木町などの他に、山陽道に沿った宿場町の名残が龍野町辺りの町並みです。こちらは材木町ほど古い建物は残っていませんが、みそ糀のの看板のある家や、新しい建物なのでしょうが重層になった屋根が美しい日本家屋などを見かけました。

 駅に戻る途中で、お菊神社なる社殿にもお参りをしました。姫路城内には、怪談の播州皿屋敷でおなじみのお菊井戸というものがあり、お菊さんはこの井戸に身を投げたといわれています。お菊神社は、このお菊さんをお祭りしたものなのです。この物語は、播州藩の乗っ取り騒動がベースになったもので、お菊さんは城主側に忠誠を働き、クーデターの主に殺害されたとされています。最終的にクーデターは頓挫して、恩義を感じた城主が、お菊さんを神社にお祭りをしたそうです。ちなみに、お菊さんが皿を数える怪談は、東京にもあり、こちらは播州ではなく番町皿屋敷と言われます。

 ところで、姫路のモノレールですが、1966年に姫路駅から1.5km程の手柄山公園で開催された姫路大博覧会への足として建設されたものです。巨額の姫路市民の税金を使ったものでしたが、当初から乗客はまばらで、1974年には運行停止に追い込まれものです。毎度おなじみのように、お役所が実施する、ありえないような仮定の積み重ねをして、現実の数倍の需要予測をたて建設を強行するやり方は、今も昔も変わりません。なお、遊園地と最寄り駅とを結ぶモノレールは、手柄山の他に、犬山ラインパーク、読売ランド、向丘遊園、大船ドリームランドそれにディズニランドがありますが、ディズニーランド以外は全て廃止されています。鉄道の廃線後とは違い、多くの場合はコンクリート製のレールや支柱などの構造物が放置されることも多く、厄介な問題です。

 お菊さんといえば、落語に出てくるお菊さんはちょっと雰囲気が違うようです。落語のお菊さんは絶世の美女で、幽霊といえども、その美貌を見て見たいということで、毎夜幽霊見物に人が集まる用になります。お菊さんが皿を数えだして9枚まで数えるのを聞いてしまうと祟りがあるとので、その前に逃げ出してしまえ。ところが、ある日、8枚まで数えたので、逃げ出そうとした観衆ですが、あまりの人気で人が集まりすぎて逃げられない。ところがお菊さんは、9枚を通り越して10枚、11枚・・と。観衆がお菊さんに詰問すると、「明日はお休みをもらうので、2日分」とのこと。中継のテレビカメラが間に合わない時には、携帯で映像が送られることがありますが、お菊さんの「9枚、うらめしや~」を携帯で聞いた時には祟りがあるのでしょうか。

世界遺産のきっかけになったアブシンベル神殿は砂漠の中に忽然と現れます(エジプト)

2012-08-12 08:00:00 | 世界遺産
 黄色の大地の岩山に巨大な石仏が彫られているのが中国三大石窟の一つの雲崗石窟でしたが、黄色の砂漠の岩山に巨大な王の像が彫られているのがアブシンベル神殿です。アブシンベル神殿は、アスワン・ハイ・ダムに水没してしまう可能性がありましたが、UNESCOによって移築され保存されました。このプロジェクトが世界遺産の創設のきっかけとなりました。今回の写真は、現地でカメラが壊れ、8mmビデオの映像から取り込んだため、不鮮明な画像になっています。

 アブシンベル神殿は、エジプトの最南端のスーダン国境に近いところにあります。観光客は、通常は200km程離れたアスワンを経由して、飛行機でアブシンベル空港まで行き、そこからバスに乗り継いで神殿まで行くことになります。さすが世界的な観光地だけあって、3,000m級の滑走路を持ち大型機も離発着できる空港になっています。ただ、空港の周りは茶色の砂漠が広がるだけで、滑走路を作る土地はいくらでもありそうですが。時間に余裕のある人は、アスワンから3~4泊のクルーズ船が出ているようで、アブシンベル神殿以外の遺跡も眺めることができて、なかなか好評なのだそうです。

 
 
 アブシンベル神殿は紀元前13世紀頃にラムセスⅡによって作られたもので、大神殿と小神殿とからできています。このラムセスⅡはよほど自己顕示欲が強かったらしく、神殿を飾る巨像のほとんどが本人の像です。大神殿正面の4体の巨像は当然ながらラムセス本人で、妻にささげたといわれる小神殿の6体の像も、4体までがラムセスとされています。大神殿の中央の入り口から入っていくと、壁には数多くの壁画や像があり、最奥の4体の像には年に2回太陽の光が届くのだそうです。本来はラムセスⅡの誕生日の2月22日と即位した10月22日でしたが、移築によって日にちがずれてしまったのだそうです。それにしても、3,000年以上も前に、あの巨大な神殿をそれだけ正確に作るという技術の高さには改めて驚かされます。

 アブシンベル神殿のUNESCOによる移築は、1964年から4年間を要して行われ、標高にして60mほど上部に移動しました。移築したのは巨像のある前面だけで、後方の丘はコンクリート製のドームに砂をかぶせたもの。中に入ると巨大なプラネタリュウムかドーム球場の感じで、とても遺跡の雰囲気はありません。それでも、移築費用は当時のお金で8千万ドル以上もかかったのだそうです。移築する前の神殿の写真を見ると、ナイル川の川原から岩山が立ち上がっていますが、移築後の現在は、砂漠の大地がナセル湖に向かってテラス状に伸びている途中に、岩山が忽然と現れるといった感じです。どうしても不自然な感じがするのは、無理からぬことかもしれません。このナセル湖は当然淡水で灌漑用にも使われていると思うのですが、湖岸には木一本生えていないのが不思議でした。気温が高すぎるのでしょうか、緯度的には香港と変わらないのですが。

 エジプトやヨーロッパに行くと、千年二千年、またはそれ以上の年月を経た遺跡が残っています。石で作られた建物は、火災に遭っても躯体は残るし、壊すのも大変です。ただ、新しい建物に使うために古い神殿などの石を流用したという話しはよく聞きますが。一方、東洋の建物は木で作られ、火災にはひとたまりもなく、虫に食われたり自然に朽ちたりで、世界一古い木造建築の法隆寺でさえ、やっと1400年です。朽ち易い有機物と、いつまでも残る無機物の差が文化の差にもなっているかもしれません。現在のコンピュータは無機物のシリコン結晶に依存していますが、有機物半導体の研究も盛んに行われています。この有機物は朽ちないで後世に残されるでしょうか。

数十年前は日常であった木造民家群の中に子鬼の像も建っている茨木です

2012-08-05 08:00:00 | 日本の町並み
 日光街道の三番目の宿場町で、東京に近いながら古い町並みが続いている町が越谷でした。越谷市は全国に40箇所ある特例都市の一つですが、特例都市というのは人口20万人以上の都市で、都道府県から権限の一部を移譲されています。巨大都市の衛星都市が多いのですが、この特例都市の一つに大阪市の北にある茨木市があります。今回は、市の郊外に旧西国街道の三番目の宿場町があるところも類似する茨木市の町並みを紹介します。なお、茨木市は「いばらきし」と発音をし、「き」が濁音の「いばらぎ」は茨城県の方で字も異なります。

 
 茨木は大阪の北北東20km程に広がるベッドタウンで、16世紀に茨木氏の城下町であったことによります。江戸初期に一国一条令により城は取り壊されていますが、茨木神社に搦手門が移築され東門として使われ、茨木小学校には楼門が復元されています。廃城ごの茨木は、大阪と京都を結ぶ交通の要として、酒造業を中心とした商家の町並みが形成されたようです。


 古い町並みは阪急の茨城市駅とJRの茨木駅とを結ぶ東西の道の北辺に広がっています。

 白漆喰の土蔵造り、黒漆喰のもの、それに格子のある家などさまざまです。白漆喰の家は、造り酒屋で、黒漆喰に格子がある家は通常の住居ではないかと思います。



  また、木造の2階建てで1階部分にガラス戸がはめられて商店として使われている家など、かつて日本の何処でも見られた風景ですが、今ではなかなか見ることが難しくなっています。







  火事に弱いとか、土地の有効利用ができないなどの理由から、木造民家は絶滅危惧種になりつつありますが、その美しさを生かす方法が考えられてもいいのではないでしょうか。







  
 茨木城の搦手門が移築されている茨木神社ですが、茨木川に沿った緑地公園の東側に沿って参道が延びています。神社の創建は坂の上の田村麻呂まで遡り、織田信長が神社仏閣を取り壊す際に、神社の名前を変えてその難を逃れたという言い伝えがあるそうです。茨木神社の近く、茨木川に架かる橋の欄干に茨木童子の像なるものが建っています。その出生については諸説がありますが、茨木村で巨大児として生まれ、やがて角が生えて、京都の北にある大江山の酒天童子の家来となった言い伝えられています。ただ、恐ろしげな伝説の茨木童子ですが、像を見る限り大きな目をしてマンガのキャラクタのような印象です。

 茨城市の南寄りには門真市と伊丹空港を結ぶ大阪モノレールが通っています。このモノレールはギネスに認められた世界最長の営業キロ数を誇っていて、かつては観光的な色彩が強かったモノレールの認識を変えるものでした。日本におけるモノレールの歴史は意外と古く、最初の構想は1913年にありましたが、沿線の反対にあって挫折、実際に動いたモノレールは1928年にたった1週間だけ動いた大阪電気博覧会会場のものでした。かつて、モノレールは都市交通の切り札といわれたこともありますが、方式の標準化ができていないため、互換性が無く、コスト高などにより普及は進まないようです。通信やコンピュータの世界では標準化や互換性というのは常識なのですがね。