世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

長岡京の大極殿跡が残る向日市ですが、西日本一小さな市なのですが長岡京市に比べて知名度は低いようです

2023-01-29 08:00:00 | 日本の町並み
 瀬戸内海と玄海灘とを結ぶ狭い関門海峡は、源平の決戦場でしたが、交通の要としても外国との出入口であったことを記憶するレトロな建物が多く残る場所でした。狭い海峡は交通のあい路でもあり、通らざるを得ない場所でもあったわけで、京都への出入口のあい路として有名な場所は天王山で光秀と秀吉との戦いもこの場所でした。この場所は平安京の出入口ですが、平安京の前に10年間だけ存在した長岡京は、平安京よりずっと大阪寄りでした。都として長く続かなかったのは、天王山のあい路に近すぎたからかもしれませんが、今回はこの長岡京の大極殿跡が残り、京都から西に向かう西国街道が南北に貫く向日市を紹介します。

 向日市は、京都市街の南南西にあって、南隣には長岡京市がありますが、ややこしいことに長岡京跡は長岡京市には存在せず、向日市にあります。最寄りの駅は、JR西東海道線の向日町駅と阪急京都線の東向日と西向日ですが、大極殿跡や向日神社それに古い町並みは阪急の西向日駅が起点となります。

 
 
 
 大極殿跡は西向日駅の西口から北へ300mほど、駅を出てすぐのところには朝堂院跡もあります。これらのほかにも駅の北の阪急京都線の東側にも長岡京後の遺跡が残っています。ただ、1400年異常も前の遺跡のせいか、公園広場と遺跡を表す石柱が建っているだけで、発掘調査から推定された宮殿を思い浮かべるしかありません。

 
 
 一方の向日神社は大極殿跡の西00m程の丘陵地帯にあって、長岡京よりも古い6世紀ごろの創建とされます。旧西国街道に面した大鳥居や参道に置かれた「さざれ石」が印象に残るくらいでした。

 
 
 
 
 古い町並みは、旧西国街道周辺に残されていて、阪急の線路の南側には、法道寺周辺や、中小路家住宅などがあります。西向日町駅東口から南に法道寺までの道沿いには、長屋門のある家や土蔵造りや腰板のある蔵などが残る町並みが続きます。

 
 
 
 西に向かって旧西国街道沿いには中小路家は江戸時代から続く名主で、江戸後期に建てられた建物群は登録文化財になっています。

 
 
 
 旧西国街道を北に折れて、阪急のガードを越え、北に進むと左に向日神社を見ながら通り越すと、右手に旅館むこうまち富永屋後の石柱があります。400年以上も前から続いていて秀吉も休憩したといわれる由緒ある旅館でしたが、残念なことに2020年に解体されてしまいました。さらに北に進むと、右手には出格子に虫篭窓のある町家が残され値ますが、データが無くて湯割れは分かりますん。さらに北に、道が二手の分かれる左手に須田家住宅があります。京都府の有形文化財に指定された、江戸時代後期の町家で、江戸時代には醤油を製造販売する商家だったようです。

 「ながおか」と聞くと長岡京を思い起こすのは自然かと思いますが、筆者はレコード再生の入り口のカートリッジのナガオカを思い出します。学生のころから、カートリッジの交換針でお世話になりましたが、現在はカートリッジ本体も製造されているようです。音楽の再生がCDに移行して長くなりますが、筆者の学生の頃はアナログレコードをレコードプレイヤーで再生していますは。カートリッジに付く針はダイヤモンドでしたが、こすれて摩耗する消耗品で、交換が必要でした。ディジタル技術は安価で安定した品質の音楽を提供しましたが、人間の感覚器官がアナログである限り、アナログレコードはすたれないと思いますが、禀質を求めると高価なのが難点でしょうか。

原爆ドームが文化遺産登録にこぎつけたのは署名活動などの幅広い市民運動が腰の重い政府を動かした結果です(日本)

2023-01-22 08:00:00 | 世界遺産
 ヨーロッパの鉄道駅で最高地点にあるのがユングフラウヨッホでした。登山鉄道が開通するまでは登山家しか上れなかった難所を、文明の利器で簡単に征服できた好例の一つと言えるでしょう。逆に文明の利器(利器と表現するには支障があるように思いますが)が人類を滅ぼす結果となるのが核兵器です。今回は、その核兵器で破壊された世界で2例のみで、最初の被害を受けた広島原爆ドームを紹介します。

 原爆ドームは、旧太田川本川が二股に分かれる場所の左岸にあり、原爆で破壊される前は広島県立商品陳列所として1915年に建てられたものです。原爆の爆心地の西150mにあって爆発による熱遷都爆風によって現在のような姿に破壊され、原爆の恐ろしさを後世に伝える負の遺産です。原爆ドームが世界遺産として登録する過程では、加害者のアメリカは大反対をしたそうです。結果的に世界遺産には登録されましたが、アメリカのごり押しで「世界で初めて使用された核兵器」という文言は削られたそうです。ただ、これだけアメリカの言いなりの我が国において、遺産登録までこぎつけたものだと思います。もう一つの負の遺産であるアウシュビッツではさしたる動きはなかったようで、ユダヤ社会に支えられるアメリカとしては後押ししたのかもしれません、身勝手なものです。

 
 
 
 原爆ドーム周辺には、原爆投下に関連する施設が数多くあり、ドームのすぐそばには、投下された時間に建物内で勤務していて全員が死亡した内務省の職員の慰霊碑が建っています。原爆ドームから橋を渡った対岸の上流、中州が北にとんがった三角形の部分に、平和の時計塔、平和の鐘、原爆の子の像など数多くの原爆にまつわるものが建っています。

 
 
 道路を隔てた南側には平和記念公園が広がり、北側には長方形の平和の池が北端には平和の灯、南端にはアーチ状の原爆志望者慰霊碑が建っています。広場を超えた先には丹下健三が設計し、戦後建築で登録数が少ない重文指定の広島平和記念資料館が吹き抜けのピロティの上に優雅に広がっています。建物を通り越すと祈りの泉があり、ほとりに嵐の中の母子像が置かれています。78年前の賛辞が嘘のように静かな風景が広がっています。

 原爆ドームは世界文化遺産に登録されはしましたが、加害国の国民のかなりの人間は加害者意識はないそうです、被害に遭ったのが有色人種の国だったからかもしれません。形式上字音種差別は聴牌されても、明らかに人種差別が横行している国だからです。原爆の起爆装置はコンピュータで厳格に管理されているでしょうが、プログラムにはバグがつきものです。いつ何時、暴走するかもしれませんし、権力者の脳だって暴走しないとは言えません。何億年という地球の歴史の中で、人類が頂点に立っている時間は、ほんの一瞬です。映画の「サルの惑星」や「渚にて」が現実にならないという保証はありません。

源平の古戦場となった須磨一の谷も敦盛の青葉の笛を保持する須磨寺も、激戦が行われた場所を思わせるものは残っていませんでした

2023-01-15 08:00:00 | 日本の町並み
 瀬戸内海の西の端に位置して昔から交通の要となっていたのが下関と門司でした。しかし、関門海峡は瀬戸内海への潮の出入りで海流の激しい場所で海の難所の一つでもありました。平家終焉の壇ノ浦の戦いもこの潮流に影響を受けたようです。源平の合戦は、一の谷、屋島そして壇ノ浦と続きますが、それぞれの場所でドラマがあったようで、一の谷の合戦では敦盛と熊谷直実の話が有名です。今回は、二人にまつわる須磨寺と須磨一の谷周辺を紹介します。

 
 須磨一の谷は、神戸市の西部、国道2号線、JRそれに私鉄の山陽電車が重なり合って通っている山が瀬戸内科に迫っているところです。このような狭隘な場所ゆえに平家が陣取り義経の奇襲攻撃に向いていた場所なのかもしれません。この奇襲攻撃は鵯越の逆落としと言われていますが、現在の鵯越は海岸から4kmも離れかなり東の場所、一体義経は何処から攻め入ったのか?諸説が入り乱れているようです。現在の一の谷の周辺は須磨浦公園となっていて、後ろの鉢伏山にはロープウェーで上ることができます。神戸市のやや西ではありますが、頂上からの眺めは淡路島や紀伊半島まで望めて、なかなか雄大です。須磨浦公園は桜の名所で古くから市民の憩いの場所で東の端には総和29年にみどりの塔があり台座の上には薫風と題した彫刻が乗っています。

 
 さて、敦盛と熊谷直実の話は概略このような事件です。舞台は源平合戦の一の谷、源氏の武将の直実は敗走する平家の中に若い騎馬武者を発見して引き釣り下ろしますが、この若武者は自分の息子と同じくらいの年齢の和k武者だったの見逃そうと思ったが、背後には味方の軍勢が迫っていたので、泣く泣く首を掻いたというもので、その若武者が敦盛でした。その後、直実は世の無常を感じて出家しました。この舞台となった場所、山陽電車の須磨浦公園駅の西に敦盛塚があり石造りの五輪塔が置かれています。ただ、この塚は敦盛を祀ったものではものではなく、北条氏によって平家一門の供養のため作られた「あつめ塚」という説もあるようです。

 
 
 
 
 敦盛は笛の名手で、祖父が鳥羽院から拝領した青葉の笛(小枝)を譲り受けており、直実に撃たれた時にも携行していたと言われ、その笛を保存しているのが須磨寺です。須磨寺の庭には敦盛と直実の対峙する銅像も置かれています。この須磨寺は一の谷の古戦場の東北東に2kmほど山陽電車で2駅の須磨寺駅から500m程の山麓に建つお寺で、平安時代に和田岬の沖で引き上げたという十一面観音をお祭りする寺として創建されたそうです。本堂や三重塔など再建されたものが多く、指定文化財は3軒しかありませんが、前出の青葉の笛、弁慶の鐘、敦盛の首塚それに義経腰掛の松など源平にまつわる史跡が多く、芭蕉や式の句碑も建っています。

 源平と言えば、百人一首での対抗戦を源平と呼ぶことがあります。競技かるただけでなく対抗戦を源平の合戦になぞらえ、シンボルカラーを紅白にする琴も多く、2者が勝負するのは源平にその源があるのでしょうか。この百人一首は、競技カルタが確立していて、毎年1月に滋賀県の近江神宮で名人戦とクィーン戦都が戦われます。上の句を聞いて、いかに素早く取り札を取るかという勝負ですが、一字決めといって上の句の最初の一音で下の句が決まる札が7種類あります。競技者は一字決めだけでなく、すでに読まれた札から、残り札が一字決めや二字決めとなる札を認識し、それらが何処に並べられているかを覚える必要があります。さらに、いかに早く手を伸ばして札を取るかという運動能力も必要で畳の上の格闘技ともいわれるそうです。読み札から取り札を確定するのはコンピュータを使えば瞬時に判断可能ですが、札を取るという動作と連動するロボットはまだ存在しないようです。

韓国の民俗村で見た伝統舞踊のヨルトゥバルでは、踊り手の頭に付けたリボンの動きが巧妙で驚嘆します(韓国)

2023-01-08 00:36:03 | 世界の町並み
 バリ島の伝統舞踊のバロンダンスはガムラン音楽を伴奏にしたヒンドゥー教の宗教行事の一つでした。舞踊や音楽が宗教と結びつくことは多いようで、クラシックの発祥之一つの教会音楽もその一つでしょう。韓国の農楽の発祥には2説あって、戦争起源説ともう一つには儒教が国教に定められた時に、迫害され山奥に追いやられた仏教僧が布教のために木魚や鉦を演奏して布教活動を行ったという説とがあります。農楽は宗教活動と結びついた韓国の伝統芸能の一つと言えるでしょう。今回は、この農楽や韓国の伝統行事などのデモが見られる民俗村周辺を紹介します。

 
 韓国民俗村は1974年にソウルの南、水原の郊外に作られた野外博物館です。筆者が訪問したのは30年ほども前で、まだ世界遺産に登録されていなかった頃の水原を訪問した後に駅からバスで行ったように思います。帰りは、ソウルまで直行する長距離バスに載ったように思いますが、現在はどうなっているのかは不明です。

 
 民俗村で見たのが農楽でしたが、村の広場で多くの男性によって演じられていました。同様の舞踊は、ソウルでも見ましたが、こちらは室内、満韓全席的な食事の後に伝統芸能を見られるというものでしたが、舞台で演じられるより、屋外の広場の方が見ごたえがあります。バロンダンスは目や手の動きに特色がありますが、農楽の舞踏はヨルトゥバル(十二歩幅)と呼ばれますが、演者がかぶった帽子のてっぺんに長くて白いリボンがついていることです。これを振り回して踊るのですが、農楽の戦争起源説によれば、このリボンの先に刀を付けて敵を威嚇、または殺したとの伝承もあります。

 
 
 
 
 ヨルトゥバルの外に、綱渡りや結婚式の行列もあったように思います。村は意外と広く東京ドームの20倍ほどもあり、川か池のようなものもあります。その中に李朝後期の伝統家屋が移築され、京都の映画村のようにロケにも使われるそうです。家屋の中では伝統工芸の実演なども行われ、かつての韓国の人の暮らしぶりをうかがい知ることができる場所になっています。スウェーデンのストックホルム郊外にある巣感染と似ていますが、広さを比べて驚きました、民俗村はスカンセンの3倍も広いそうです。周辺の山々も民俗村の一部なのかもしれません。

 韓国の民俗村は、今回紹介の水原郊外だけでなく筆者が訪れた民俗村だけでも、安東郊外のもの(このブログの2021年2月7日)、順天郊外の楽安邑城民俗村(このブログの2017年4月30日)があって、それぞれに特色があるようです。楽安邑城民俗村は城壁に囲まれた村で、こちらはもともとの村が核になっているようでした。こちらでは結婚氏の行列ではなく、衛兵の交代式が見られました。韓国の人って、このような民俗村が好きなのか、ナショナリズムの一種なのかもしれません。

 ナショナリズムと言えば、文字表記でのハングル専用法の制定もその表れの一つかもしれません。ハングルは15世紀に発明され、純粋な表音文字で、最も進化した文字の一つと言われます。公文書は法律でハングルのみで表記することが義務付けられましたが、戦後しばらくは漢字交じりの表記が残っていたように思います。しかし、すべての表記がハングルのみとなり、韓国に行くと音が分からない文字があふれて船酔いのような気分になります。ハングルは子音と母音とを組み合わせて音を表すので、少し勉強をすれば発音はできるようになるそうですが、べた書きの表音文字は、全文を読まないと意味が分からないという欠点があります。韓国のゲストハウスで、焚火を囲んでいろんな国の出身の人と談笑しましたが、交通標識など一瞬の判断が必要な時に困るとのことでした。それではパソコンの入力はどうするのかと思ったら、専用ソフトを入れて、キーボードにハングルの母音と子音都が印刷されたマスクをかぶせるのが一般的だそうです。日本語はアルファベットの2文字で入力できますが、ハングルをアルファベットで入力するには5文字入力や表現できない文字もあるようです。