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世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

GWの頃の慶州は町中が花に溢れています、何処までも続く菜の花畑を見に行くだけでも航空運賃を払う値打ちがあるかもしれません(韓国)

2021-06-27 08:00:00 | 世界の町並み
 リル・シュル・ラ・ソングはフランスにいくつかある美しいい村や町の一つで、近くにあるラベンダー博物館と一緒に回れる範囲にあります。ただ、6月中旬では博物館の回るのラベンダーは、まだつぼみ状態で、ちょっと寒々しい消しでした。ラベンダーの花は初夏の花ですが、その6月から1か月ほど前のGW前後は、首都圏でも桜の後を追うように色々な種類の花が咲きそろいます。お隣の韓国は、緯度が東北地方と似ているため、菜の花も1か月ほど遅くに咲きます。菜の花の絶景は中国雲南省の羅平が有名で、緯度が低いので2月には谷筋が真っ黄色の帯のようになるそうです。ただ、羅平は昆明まで飛んでそこからバスという奥地で、行くにはそれなりの準備が要りそうです。もっと簡単に行けて、それなりの菜の花畑が楽しめるのが、お隣の韓国の慶州で、飛行機で釜山に飛んで、空港バスで直行できます。今回は、市内に2つの世界遺産がある慶州の、世界遺産にはなっていないところを中心に紹介します。

 
 慶州は、韓国の南東端、釜山の北北西100kmたらずで、2010年に開通したKTXに乗れば30分ほどで着いてしまいますが、着くのは新慶州駅で市街地の南西10kmほどの野原の中です。金海空港(釜山)からは釜山の市内を経由しないで直行バスがあり1時間ちょっとでバスターミナルに付きます。筆者の訪問した時は新慶州駅はできておらず、市街地の中にあり趣のある駅舎の慶州駅しかありませんでしたが、速い列車は来なくてローカルな駅といった感じでした。



 
 




 
 菜の花畑ですが、筆者が見たのは慶州駅の南1kmほど、大陵苑一帯と言われる地域の南端の半月城や慶州博物館のあるあたりでした。平地部分は菜の花が一面咲いていて、これが山の麓まで続いていました。この辺りは、南東端の博物館から、北西に向けて半月城跡、鶏林、贍星台や古墳が連なります。慶州博物館は、慶州一帯で発掘などされた王冠、仏像、仏塔などを展示し新羅文化を集めた博物館です。半月城は新羅の王宮のあったところとされますが石碑が建つのみ、鶏林は金氏誕生の説話のある場所、贍星台は天文台の遺跡と言われています。

 
 
 慶州博物館の南には南北に峰を連ねる南山圏があり石仏や摩崖仏が数多くありますが、かなりきつい上りになります。この峰々の西側の麓には、鮑石亭跡や三仏寺などが点在するので麓のみ散歩といった選択もありかもしれません。鮑石亭跡は新羅王室が祭祀を行った跡と言われていますが、木立の中に鮑石が残るのみで、この鮑石は京都の城南宮や上賀茂神社に残る曲水の宴に使われたものとみられています。三仏寺には3体の石仏が鞘堂に収まっています。もともとは近くの山中にあった露座の石仏を集めたものだそうで、風雨にさらされたために彫が浅くなって、そのためか、微笑んでいるように見える表情に温かみがあります。

 
 
 一方、博物館から東に、市街地の東に連なる山の麓の普門湖を中心にしてできたのが普門観光団地で、ホテルなどを伴う巨大観光施設です。野外民俗公演場での伝統舞踊は公演時間が変わっていて見損ねましたが、ソウルなアドで上演される舞踏と似たようなものだと思います。ディズニーランドのように狭いところにゴチャゴチャするのではなく、巨大な水車や噴水などと広大な水辺のある空間はほっとします。

 
 
 筆者が慶州で泊まったのは大陵苑という古墳群の南側にあるゲストハウスでした。オーナーは世界を旅した経験を持ち、もちろん英語は堪能でコミュニケーションには不自由はありません。韓屋と呼ばれるオンドル部屋でしたが、何もない広い部屋に布団を敷いて寝た記憶があります。朝食は付いていませんが、台所が解放されて、調理道具に加えて最小限の食材もそろっていて、宿泊客が集まってセルフサービスで朝食が取れます。夜は、中庭にみんなが集まって来て、雑談会です。ほぼ英語でコミュニケーションをしましたが、その時に話題となったのがハングルによる交通標識で、漢字や英単語のようにパターン認識が難しく、音を拾って瞬時に表示内容の判断をするのが難しいとのことです。ハングルは、世界にも類を見ない母音と子音とを組み合わせた純粋の表音記号文字で、大部分の文字が象形文字を先祖にした中で、最も進んだ文字の一つと言われています。文字数も少なく、コンピュータにとっては扱いやすい文字でしょうが、人間にはかえって扱いにくいところがあるように思います。

五色塚の頂上からの眺めは昔も今も人々や神様まで引き付ける魅力に富んでいたんでしょう

2021-06-20 08:00:00 | 日本の町並み
 のんびりとした風景の中に数々の遺跡や古墳が散らばるのが明日香村でした。奈良県には数多くの古墳が残っていおり宮内庁の管理の古墳は近づくこともできません。世界遺産の指定された仁徳稜なども大部分は入域できませんし、葬られている人物も宮内庁の主張は考古学の解析とは異なるようです。このように数多くの古墳が入ることtができない秘密の森化している中で、都会の真ん中で古墳の頂上まで登れる古墳もいくつかあります。今回はこれらの中から、神戸の西の端にある五色塚古墳のある垂水駅の周辺を紹介します。



 
 

 五指塚があるのは神戸市垂水区の住宅街の中で、最寄りの駅は垂水駅で駅の西口から坂を上って15分くらいの位置にあります。4~5世紀に造られた前方子円墳で兵庫県最大の規模のものです。現在では後円部分ののり面が石で固められて埴輪も並べられていますが、2006年の発掘復元事業によって整備された姿です。それまでは樹木は伐採され、一時は畑として利用されていたようです。ある所が明石海峡の近くということもあって、頂上に上ると明石架橋の向こうに淡路島が見えて、なかなか見事な景色です。

 
 この景色に魅せられたのか、垂水駅の南側に接するように海神社が建っています。神功皇后が三韓征伐の帰りに海が荒れたのを鎮めるために祀ったのが起こりとされています。初詣の時には海に面した鳥居を越えて参拝客の行列ができる神社ですが、それ以外の時は人影もまばらで駅に発着する電車の音だけが響く境内です。

 
 
 古墳のあるあたりは山などが海に迫っている狭い回廊上の地形で鉄道も国道もこの狭い場所に集中しており、渋滞の名所です。現在の国道も須磨から明石にかけては、かつての西国街道の名残で、垂水駅近くにも土蔵造りの古民家が残っています。かつては道路から海岸まで遮るものは無くって、これらの古民家からの眺めも良かったのではないかと思います。

 
 
 神戸では、北野町の異人館街が有名ですが、塩屋から舞子にかけての眺めの良さは、神様だけでなく外人や富豪に受けたのか、異人館や別荘が残っていて、塩屋駅のそばの旧グッゲンハイム邸、ジェームス山の旧井植歳男邸の望淡閣、舞子の旧武藤山治邸などは明石海峡の景色が魅力で建てられたのではないかと思います。

 
 
 そして垂水駅の近くにも旧岸本氏別邸も登録文化財の和館と三角屋根の洋館が残っています。現在は防潮堤の南にアウトレットなどが建てられていますが、北側は国道に、南側は防潮堤に囲まれた家屋からの眺めは素晴らしかったのではないかと想像できます。

 明石架橋を見ると思い出すのが、1940年のタコマナローズ橋の崩落事故です。当時は世界で3番目の長さの釣り橋で、長さは1,600mありましたが、建設から4か月後に、強風であっけなく崩れてしまいました。共振によって揺れが増幅したとの説がありましたが、設計ミスによるものと結論付けられました。建設の最中から風の強い日には、捻じれを伴う揺れがあったそうです。その頃は、コンピュータによる強度シミュレーションなどは無かったので、技術者の手計算とそれまでの経験則での設計だったのではないでしょうか。明石架橋の一方の起点の神戸市には、スパコンの富岳を置く計算センターがありますが、今から30年ほど昔に富岳も先代の京コンピュータも無かったはずで汎用コンピュータによる構造計算で設計されたと思います。タコマナローズ橋の崩落原因として共振は否定されましたが、ロンドンにある歩道橋のミレニアム・ブリッジは共振で揺れがひどいことが問題となり、急遽通行止めを行って補修工事を行ったそうです。共振は悪者扱いのようですが、無線などを受信するには共振j回路は必須でしたし、ほとんどの楽器では共鳴(共振も共鳴も英語では同じresonannce)が無ければ大きな音を出せません。

兵馬俑は紅衛兵の嵐の余韻がある頃に発見されました、破壊から免れて人類の宝として後世に引き継げられて幸運でした(中国)

2021-06-13 08:00:00 | 世界遺産
 フエ市内にある旧王宮よりも豪華で見応えがあるのが、郊外にある歴代皇帝の廟でした。お墓で最も巨大な物はエジプトのピラミッド(墓ではなかったとの説もありますが)で、面積ではわが国の仁徳稜かもしれません。権力者は死んでからも権力の余韻を残したがり、権力者のお墓には巨大なものが多いようです。今回は、秦の始皇帝廟と廟に付属する巨大な兵馬俑を取り上げました。

 
 
 始皇帝陵は、西安の東35kmほど、兵馬俑はさらに東.5kmほどで、路線バスもあったようですが、現地発着のツアーに参加しました。兵馬俑などに加えて母系氏族社会の村落の遺跡である半坡博物館や始皇帝と楊貴妃のロマンスの場となった温泉施設の名残の華清池などに立ち寄ってくれます。華清池には楊貴妃の像もあって観光客の撮影ポイントでした・このツアーは、ガイドは最小限(あっても言葉が分からな)で、多少の土産物屋への寄り道もありましたが、かなり安かったように思います。中国(東南アジアもそうかも)では、中国語によるツアーが最も安く、次が英語で、一番高いのが日本語ツアーです。一番安い中国語ツアーに参加しましたが、集合時刻や場所などは英語のやり取りをやってくれて認識できましたから、問題はなかったのですが、観光ポイントの説明はさっぱりでした。

 始皇帝陵は、造られた当時はピラミッド型の土塁で高さが76mほどあったと推定されています。ただ、現在の姿は、長年の風雨の浸食などによって、田んぼの中の丸い小山といった感じです。この小山に直登できる階段があって頂上まで登れるようでしたが、ツアーでは車窓から眺めただけでした。地表からの調査によって地下30mのところに東京ドームの倍ほどもある地下宮殿の存在が確認されていますが、、未だ発掘調査は行われていないようです。その代わりなのでしょうか、秦稜地宮という博物館風の施設があります。ガイドさんの説明は当然わからず、当時は黄色のガイドブックにも載ってなかったのでどこに連れていかれたか分かりませんでした。後で調べてそれが始皇帝廟の地下宮殿を想像して再現されたものと分かりましたが、中央に始皇帝の棺と思しきものがしつらえられ、周辺は装飾過多の空間でした。1号坑は、

 
 ツアーの料金に昼食代は含まれていませんでしたが、「ここで食べろ!」といった食堂に案内されます。料金は外人価格のようでしたが、鶏肉の煮込みの上にとてつもなく幅広の麺を乗せた一皿は辛くはなく美味でした。帰国後に調べたらビョンビョン麺という西安名物の麺で、漢字で書くと57画もあり、この漢字には麺を表現する用途しかないのだそうす。この麺は日本でも食べられる店もあるようです。

 さて、メインの兵馬俑ですが、発見したのは付近の農民で1974年、毛沢東による文化大革命の名による忌まわしい破壊行為が続いていた時代です。一つ間違えば、兵馬俑は人々の目に触れないまま破壊されていた恐れもあったそうですが、始皇帝関連の遺跡ということで、破壊を免れ、現在のように世界中の人が見ることができる遺跡として保存されたようです。ただ、調査発掘されたものは一部で、周辺には広大な未発掘の遺跡が残されているそうです。発掘すると兵馬俑の表面の彩色が消える恐れがあるとの理由で土の中に眠っているようです。

 
 
 中国の兵馬俑などの世界遺産の観光地の入場料は、元から円に換算してもさほどの額ではないのですが、中国の物価指数に照らし合わせるとディズニーランドほどではないにしても、かなり高額のように思います。ただ、周りを見回しても、ほとんどが中国人ですから、このような場所に来るのは富裕層なのでしょうか。この外人の感覚では高くはない入場料を払って入場しても、ゲートから俑坑まではかなりの距離があり、有料のトラムが走っています。トラムを降りると秦銅車馬陳列館や1~3号坑で世界遺産のマークが仰々しく表示されています。秦銅車馬陳列館は出土品のうち馬車などを陳列したものですが、かんじんの馬車は1/2のレプリカで、以前に東博で開催された時にも展示されたものです。



 
 
 兵馬俑は1号坑が一番規模が大きく、観光写真でおなじみの体育館のような覆い屋根で覆われた坑です。とにかく規模が大きく圧倒され、一つ一つの人物像を眺めているときりがないようです。これだけの人形を一つずつ掘り出して、修復して並べるのは、ものすごい人手が必要だったのではと思いますが、そこは中国得意の人海戦術だったのでしょうか。かつては撮影禁止だったそうですが、これだけの広さですから、取り締まるのは無理と諦めたようです。

 
 
 
 1号坑は全部を掘り出して、人物像もできた当時のように並べて、大きさを見せる演出ですが、2号坑、3号坑は部分的な開削で、人物像に加えて動物の像も見られます。また2号坑(だと記憶していますが)は、人物像などは地表に寝転がり、あちこち割れていて、発見当時の状況が見られるような演出です。

 始皇帝の地下宮殿の池は水銀で満たされ、現在でもその痕跡が検出できるとのことです。水銀は赤の顔料や消毒薬のマーキュロクロム(赤チン)さらには水銀アマルガムによる歯の治療などに使われてきましたが、その有毒性から製造禁止などの措置が取られてきています。始皇帝の時代には水銀化合物は不老長寿の薬と信じられ、始皇帝は水銀中毒で亡くなったのではないかとも言われています。かつては、常温で液体である唯一の金属として、電気電子分野でも便利に使われてきました。接点の動作を確実にするため高速動作のリレーや、傾きを検知する水銀スイッチなどで、現在はどちらも代替品が使われているそうです。健康管理のため体温や血圧の測定に使われた水銀(血圧の単位は、現在でも水銀柱の高さをmmで表したもの)ですが、時代とtもに悪者に転落、現在もてはやされているIT分野の物質も将来は悪者になるかもしれません。

明日香村はサイクリングで回るのもいいですが、起伏があるので、のどかな景色を愛でながら歩くことがお勧めです

2021-06-06 08:00:00 | 日本の町並み
 前回は畝傍御陵前駅または橿原神宮前駅を起点に旧本薬師寺跡から石舞台古墳まで明日香村の北半分を紹介しました。今回は、飛鳥駅を起点にキトラ古墳から川原寺まで明日香の南半分を紹介します。

 起点となる近鉄の飛鳥駅は阿部野橋から吉野に通じる南大阪線の駅なので、難波から名古屋や伊勢に通じる大阪線から行くと大和八木で橿原線に乗り換え2駅乗って終点の橿原神宮前駅で南大阪線に乗り換えて2駅と頻繁に乗り換えてたどり着くことになります。橿原神宮前駅の周辺は家並みが建て込んで町の様相ですが、飛鳥駅の周りは家もまばらで田んぼと畑、それに緑の丘といった風景が広がります。橿原神宮前が橿原市であるのに対して飛鳥は明日香村なのですから、その差は歴然なのかもしれません。

 
 
 
 飛鳥駅を起点にして、まずは南にキトラ古墳を目指します。およそ2kmのだらだら上りは自転車では辛そうで電チャリ必須のようです。訪問した時は春、菜の花と桜の花が共演の、のどかで気持ちの良い道なのですが、どこに行っても車だらけで、頻繁に行きかう自動車が気分を損ねます。キトラ古墳は1983年に石室の壁画が発見されて、近くの高松塚古墳と並んで話題となりました。7~8世紀ごろに造られたとみられる二段構造の円墳です。もちろん本物の古墳は外から眺められるだけですが、そばにキトラ古墳壁画体験館で建てられ、古墳や石室の模型が置かれ、四神を描いた壁画の写真が見られます。高松塚古墳のそばにも似た施設がありますが、こちらは入場有料ですが、キトラは無料で、お得です!とは駅で会ったボランティア・ガイドの方の弁でした。

 
 
 もと来た道を下って、駅から東に延びる道との合流点を東に行くとすぐに高松塚古墳です。この合流点まで戻らなくても、わき道を入るとショートカットできるようですが、そのわき道はちょっと分かりにくい。高松塚古墳の手前左手には中尾山古墳があります。八角形の古墳ですが、標識が無ければ単なる小山にしか見えません。高松塚もキトラと同様に二段式の円墳ですが、手前に高松塚壁画館があり、石室に描かれた壁画の模写などが展示されています。模写は何種類かあって、現状を写し取ったものの他に汚れなどを修復し見やすくした複写が展示されています。高松塚のあたりものどかな風景が広がっていて、こんな所からあれほどの塀かが出てきたことが信じられません。

 

 
 古墳公園の入り口付近を自動車道に出ないで、トンネルで下を越えて歴史公園館を通り抜け自動車道を越えて畑の中のだらだら坂を上ると鬼の雪隠と俎板があります。2つは少し離れた位置にありますが、元々は古墳の石槨の一部であろうとされています。誰が付けたのか名前が面白くて有名な遺跡です。田舎道を東にたどると亀石が現れます。石に彫られた顔がユーモラスで飛鳥観光のポスターにもよく登場する石ですが、造られた年代や目的は未だに諸説があります。

 
 
 
 亀石からさらに東に農道を進むと突然道のそばに疎水が流れる集落が現れ、絵になる風景を造っています。この集落を通り過ぎたあたりに、橘寺の石柱があり、右に折れるとお寺の裏側から聖徳太子ゆかりの橘寺に入れます。裏道から入ると田んぼの向こうに大きな伽藍が見えてこちらも絵になる風景です。橘寺の石造物は二面石で、1mほどの高さの石の左右に男女の顔が彫られ、人の心の善悪を表しているのだそうです。橘寺の北側には川原寺があり、かつての飛鳥四大寺の面影はなくひっそりと田んぼの中に建っています。こちらの石造物は寺に通じる道路のそばの庚申塔で、自然石に庚申と刻まれた、ちょっと蟻塚のような石塔です。

 高松塚の絵画館にある壁画は人間の手による模写ですが、他では写真が飾られていることを多く見かけます。模写は、写真のような正確さは無いでしょうが、模写をする人の意思が無意識にも入ってしまい、独立の芸術作品になっているようにも思います。襖絵などは文化財保護のために本物は収蔵庫に保存し、コピーが置かれていることが多くなっています。コンピュータ制御の高精細スキャナで取り込んだイメージをプリンタで印字したものは、本物と区別がつかないそうです。知らないうちに、世の中の襖絵はすべてコピーで、本物は海外の収蔵家の私邸の中なんてことになってほしくないですね。