世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

テンプル騎士団の建てた丘の上の修道院はポルトガルで最も大きな教会建築の一つです(ポルトガル)

2011-08-28 08:00:00 | 世界遺産
 中国の中では最初に植民地となり、ポルトガル最後の植民地であったところがマカオでしたが、ポルトガルが遠洋航海をして東洋に進出するきっかけとなったのは、スペインからポルトガルに逃れてきたユダヤ人がもたらした交易と技術によるところが大きかったようです。そのユダヤ人が多く移り住んだところがポルトガル中央部のトマールでした。現在も、ユダヤ教のシナゴーグが残り、キリスト騎士団の前身のテンプル騎士団によって建設されエンリケ航海王子もその増築に関わったキリスト教修道院が世界遺産に登録されているトマール周辺を紹介します。

 
 トマールはポルトガルの首都のリスボンから列車でもバスでも、北へ2時間程度走ったところにあります。列車の場合は、リスボンとポルトを結ぶ幹線から分岐したローカル線の終点になります。こじんまりとして緑が多く、滝のような流れもあり、なかなか美しい町です。現在は博物館となっているシナゴーグは、民家にうずもれ目立たなく建っていますが、キリスト教修道院は町の西方の小高い丘の上に町を見下ろすように建っています。

 
 世界遺産のキリスト教修道院は12世紀から16世紀にかけて建築、増築を繰り返されたもので、ロマネスクからルネッサンスまでの様式を織り交ぜたものとなっています。中でも、15~16世紀のマヌエル1世が行った増築で採られたマヌエル様式は海をモチーフとする装飾が特徴で、少々過剰とも思える豪華な意匠が自己主張をしています。中でも有名なものが、窓を取り巻く装飾ですが、これを見たときの第一印象は、美しいというより不気味な感じがしました。ロープでマルク縁取られた目玉と、窓の格子の大きく開いた口を持つ海獣のようにも見えるのです。さらに、黄色く変色をした部分も不潔っぽく見えます。

  
 マヌエル様式の窓は不気味でしたが、修道院の建物は複雑で規模が大きくて、見ごたえがあります。数多くの建物とそれをつなぐ回廊、そして回廊で囲まれた中庭など、見て回るのにくたびれるくらいの規模です。回廊の中には同じような小部屋がたくさんあるものがあって、番号が振られています。修道士に割り振られた個室なのかもしれません。建物の中で、中心となるものが円堂で、テンプル騎士団の修道士は馬に乗ってこの円堂のミサに参加したと言われています。円堂と呼ばれますが、外部は16角形、内部は8角形の構造をしています。

 この小さな町の中に人があふれかえるのが4年に一度のタブレイロスの祭りです。筆者が訪れたのも、この祭りの年でしたが、祭りの期間中に4軒しかないというホテルの予約が取れるはずが無く、1週間後に訪問しました。祭りは終了していましたが、町中に祭りの余韻が残っていて、飾りつけなども後片付け最中でした。タブレイロスの祭りというのは、タブレイロと呼ばれるお盆の上に花で飾られた串刺しのパンを1mほども盛り上げ、女性がこのお盆を頭に載せてパレードするものです。かつて、イザベラ女王がお盆に載せたパンを貧しい人々に配ったといういわれによるのだそうです。お祭り飾りの余韻だけではなく、タブレイロの実物がショーウィンドウに飾られていました。

 トマールのキリスト教修道院は、さまざまな建築技法が融合されて、独特の美しさを持っていますが、身近の工業製品の中で最も複合技術を駆使して作られているものの一つが乗用車であるといわれています。エンジンの制御に電子技術が取り入れられたのはずいぶんと昔ですし、かつては高級車にしか搭載されなかったカーナビは標準装備になっています。桁違いに数多く生産されるために、低コストで最先端の電子技術が手に入るのでしょう。そういえば、現在はポッケなどに必ず入っている携帯も、40年ほど前は自動車電話と呼ばれて、デスクトップ・パソコンくらいの大きな箱がトランクルームを占領していました。自動車電話は高級車の象徴で、ダミーのアンテナをつけた車もあった・・などという状況は現在では想像もできないでしょうね。

新しい道路のために人の流れが変わって村全体が昔のまま冷凍保存されたような板井原です

2011-08-21 08:00:00 | 日本の町並み
 北海道札幌の郊外にある江別は、森林公園などのある野幌に市の中心部が移ってしまい、かつての町の中心だったJR江別駅周辺は人通りの少ない寂しい町になっていました。一方、峠越えの旧街道沿いに、江戸から明治期にかけて炭焼きや養蚕で栄えた板井原は、40年ほど前に出来た道路が峠をトンネルで抜けてしまったため、急激に過疎化が進んで人の気配のしない村落になっていました。今回は、平家の落人伝説もある伝統的建物群保存地区に指定される智頭町の板井原を紹介します。

 板井原のある智頭町は鳥取県の東南部に位置していて、山陽と山陰をショートカットする3セクの智頭急行の鳥取側の起点でJR因美線との接続駅のある所です。板井原は智頭駅から、車の行き違いも難しいような山道を5kmほど登って、さらに村落の入り口の駐車場から、川沿いの道を歩いて500mほど遡上したところにあります。村内には100棟余りの民家が残されていて、茅葺や杉皮で葺かれたものなど、かつては日本の何処にでもあったような山村の風景を見ることが出来ます。

 茅葺の山村風景は、このブログでも紹介した京都の美山や長野の青鬼集落が有名ですが、これらの集落の周辺にはかなりの平地が存在しています。青鬼集落の観光写真では、北アルプスをバックにした水田の風景が広がっています。ところが、板井原集落は、家とその庭以外にはほとんど平地が無く、村内の道路も六尺道という狭さです。両側を山に挟まれて押しつぶされてしまいそうな感じがします。

 

  
 こんなに人を見かけない村落ですが、古民家を利用したお食事どころと喫茶店とがあるようで、結構繁盛しているのだそうです。これだけ人が減ってしまうと、産業としては観光客相手の観光業なのかもしれませんが、ずいぶんと控えめの感じもします。多くの観光地で見られるように、通りに沿った家並みのほとんどすべてが、お土産屋や食べ物屋に変身してしまっている観光地とは趣が違っているようです。

 
 日本の原風景が冷凍保存されたような、そこの場所の時間だけが止まってしまったような板井原は、どこかの家が重要文化財だとか、温泉があるとかといった目玉のポイントはありませんが、集落を訪れたついでに寄って見るといいところを2箇所ほど紹介します。一つは集落から石段で登ったところの向山神社で、ここに登ると集落の様子が良く眺められます。もう一つは、集落の入り口付近にある六地蔵で、六地蔵自体は何処でもよく見かけるものですが、このような山奥で見ると、なぜかけなげな感じがします。

 携帯電話は日本全国何処でも使えるように思いますが、山奥に行くと意外と使えない所も多いようです。以前に大内宿に向かう山道で圏外になったこともありました。通話可能範囲を人口カバー率で定義して各社で競う携帯電話の世界では、過疎地に高価なアンテナを建ててもコストに見合う効果が得られないのでしょう。全国の何処でも同じ品質のサービスを提供するというのは、平等かもしれませんが、公平ではないのかもしれません。

首都と言っても時間がゆったりと流れるビエンチャンです(ラオス)

2011-08-14 08:00:00 | 世界の町並み
 3大瀑布の一つとなっているナイアガラの滝は、3つある滝の間にカナダとアメリカの国境があって、滝の下流の橋を使って行き来が行き来が出来ました。近年、タイとの国境となるメコン川をまたぐ友好橋に、タイから鉄道が延びてきたのがラオスの首都のビエンチャンです。今回は、ラオスで最初の鉄道駅も出来たビエンチャン周辺を紹介します。

 ビエンチャンはインドシナ半島の内陸国ラオスの首都で、メコン川挟んでタイと接しています。ラオスには鉄道は無かったのですが、2009年にメコン川に架かる友好橋に線路を引いて、タイからの鉄道が延長されて、ビエンチャン郊外に駅が出来ました。ゆくゆくは、ビエンチャン市外の中央部まで線路を延ばす計画のようです。マレー鉄道の駅がシンガポールに1駅だけあるのと似ていますが、シンガポールの方は、旧来のシンガポール駅や大部分の軌道を廃止して、マレーシアの対岸まで縮退するので、ラオスの状況と逆のようです。

 ビエンチャンは、人口が70万人程度の、首都としては小ぶりな都市です。人口が少ないせいか、国民性なのか、はたまた暑いためなのか、町を歩いても、どことなくのんびりとした感じがします。町の中には地下鉄や路面電車はおろか、郊外に向かう路線を除いて路線バスさえ走っていません。旅人はトゥクトゥクと呼ばれる3輪に、値段交渉をしてから乗るしかないようです。ただ、見所は数km四方の中にあるので、暑さをいとわなければ歩いて回れなくはないコンパクトな町です。

 
 ラオスの現在の首都はビエンチャンですが、かつての首都であったのはルアンプラバンで、町全体が世界遺産に登録されています。このルアンプラバンに数多くある寺院と同じ意匠で作られ、通りを挟んでワット・シーサケットとワット・ホーパケオが建っています。鋭角的に空に伸びる屋根と周りを囲む回廊は、タイやバリ島で見る寺院建築とも似て、日本の寺院建築とは違った美しさがあります。

 
 美しいといえば、黄金に輝くストゥーパが天を突いているのがタートルアンです。基壇からすべて黄金色で、見る人の趣味にもよりますが、南国の青い空をバックにした図柄は、それなりに奇麗です。これらのお寺の大部分は、信者がお参りをする現役の寺院で、周辺にはお墓もあります。このお墓にも、豪華なものがあって、金色やタイルのモザイクで装飾をされ、写真を焼きこまれたものもありました。

 
 ワット・シーサケットは、町の南部、メコン川のすぐそばに建つ大統領公邸と路を挟んだ北側ですが、タートルアンは、公邸の前でT字路となる道路を北東に3kmほど行った所にあります。この道路のちょうど中間あたりに、パリの凱旋門を模したというパトゥーサイという門が道路の中央に建っています。戦没者の慰霊碑という位置づけで1960年にコンクリート造りで建てられたようですが、東洋風というかインド風とでも言うのかちょっと変わった感じです。



 コンクリート造りで変わったといえば、市内から郊外バスで30分ほど乗った、ブッダパークは、ちょっとではなく、かなり変わっています。公園の中に、コンクリート製の仏像がひしめいています。中にはどう見ても怪獣としか思えないような像や、巨大な涅槃像もあります。怪獣のような像の口から、中に入って頂上部に登ることができ、展望台のようになっているいるものもあります。同じ作者が、メコン川の対岸のタイのノーンカーイにも同じような仏像パークを作ったそうです。鉄道が開通した現在では、両方を見比べることも簡単かもしれません。

 ラオスはアメリカ人にとって一番魅力的な旅行先の一つなのだそうです。西欧には無い未知数の魅力に加えて、物価の安さも彼らを引き付けているのかもしれません。ただ、物価が安いということは、所得水準も低いと思うのですが、町の中心にあるタラット市場の2階には宝飾の店舗が密集していて、多くの人が買い物をしていた図柄は、どうも理解できません。ラオスに限らず、所得水準が低そうな所に行っても携帯電話だけは普及しているようで、これも奇妙に感じます。まさか、かつて某国の首相がのたまった「電気が無くて電話が使えないような所でも携帯なら使える!」という訳でもないと思いますが。

レンガの産地の江別には、レンガ造りに混じって木や石造りの古い家々が残っていました

2011-08-07 08:00:00 | 日本の町並み
 御所の北側に明治期に建てられた重要文化財のレンガ造りの学舎が6棟も残されているのが同志社大学でした。レンガ造りといえば、日本を代表する駅舎の東京駅もレンガ造りの建物の代表で、このレンガは埼玉県の深谷で作られたもので、深谷駅は何処となく東京駅に似た駅舎が建っていて、本ブログの2006年9月3日版でも紹介しています。しかし東京駅のレンガを製造した日本煉瓦製造は平成18年に創業を停止し、現在日本のレンガ生産を代表する都市は北海道の江別市になっています。今回は、江別に残るレンガや石造りの町並みを紹介します。

 江別は、札幌からJRの電車で30分足らずの近さにあり札幌への通勤圏としてベッドタウンの一つとなっているようです。江別市域の南部には野幌森林公園があって、広大な森林の広がる北海道らしい公園に多くの観光客を集めています。公園の近くには、セラミック・アートセンタがあり陶器の展示に加えて、江戸末期から続く江別のレンガに関する展示もなされているようです。また、かつてのレンガ工場を市が買いとって、古い工場の様子を保存した旧ヒダれんが工場は、のほろ駅の近くにあります。ただ、古い町並みが残る今回紹介する場所は、JRの森林公園駅から4つ先、野幌駅から2つ先の江別駅周辺になります。

 
 
 古い町並みと書きましたが、古い家屋や倉庫が点在といったほうが正確かもしれません。駅の近くにあった「えべつ歴史的建造物マップ」の看板には17棟の建物が表示されていましたが、江別駅周辺ではこれですべてなのでしょう。レンガや石造りの家屋などは、新しい家並みのなかにポツリポツリとあって、旧街道沿いに続く町並み、といった風景とは異なるものしか眺めることは出来ませんでした。

 
 
 看板の建物をすべて見られた訳ではありませんが、レンガの産地という割りに、石造りの蔵や木造の時代物の建物も多かったように思います。

 
 ほとんどの建物がかつての用途とは異なっていても現役で使われていたようでしたが、小学校のそばにあった屯田兵の頃の火薬庫跡というのは現役ではなさそうです。ただ、この建物がもっともレンガの建物のイメージに合っていたように思います。
 中には、北陸銀行の支店の石造りの建物を利用した喫茶店もありましたが、洒落た外観は銀行の建物だった??といった印象ですが、昭和41年までは銀行業務を行っていたのだそうです。

 今回紹介した江別駅周辺は、江別発祥の地で、かつては石狩川や千歳川の舟運により賑わった町で、駅の近くには中央通商店街のアーチも残されています。しかし森林公園や野幌のある南西部の開発が進み、市の中心がそちらに移ってしまったようです。そして残された江別駅周辺は、商店街の錆びたアーチも物寂しい、人通りの少ない寂しい町になってしまったようです。取り残されたために、土蔵造りなどの建物が、開発の手を受けないで残ったのかもしれませんが。

 石やレンガは木に比べて熱伝導率が高いように思いますが、夏に土蔵造りの家に入るとひんやりとしています。おそらく、土蔵造りでは、木とは比べ物にならないくらい厚い壁を作るので、少々熱伝導率が高くても外からの熱を遮断するのでしょう。本州の土蔵造りが、火災から身を守る目的で取り入れられた構造ですが、北の大地では外気の寒さを遮断する目的で取り入れたれたのだと思います。ただ結局のところは、熱を遮断するという石や土やレンガの特性を利用したものなのです。熱の遮断といえば、先日サウナの中で携帯で話していた人を見かけました。おそらく室温は90度を越えていたと思いますが、携帯の筐体のプラスチックは、そんなに断熱性が高いいんでしょうか。