世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

女酒を生んだ安芸津には2軒の造り酒屋がひっそりと伝統を守っていました

2009-10-25 08:00:00 | 日本の町並み
 川面の向こうに黒板壁の成功倉が並び町中にお酢の香りが漂う町が愛知県の半田でしたが、天然の良港の背後に軟水を使った酒造で栄えた町が安芸津です。灘の男酒に対して、やわらかい飲み口の女酒として全国に知られています。今回は、2005年に東広島市の一部となった安芸津町を紹介します。
 
 安芸津町は、広島市の東に位置する広大な東広島市の最南端の唯一瀬戸内海に面する場所にあります。最寄の駅は、瀬戸内海の海岸線に沿って走る呉線の安芸津駅ですが、東広島という名称の駅は山陽新幹線にしかなく、市の中心は山陽本線の西条駅周辺です。町村合併によって東広島が市の名前となったものの、旧来の駅名はそのままとなっています。ちなみに、東広島駅は、請願によってできた新駅なのですが、山陽新幹線の駅のなかで4番目に乗降客数が少なく、請願駅の失敗例として槍玉に上ることの多い駅のようです。

 安芸津は、現在はほとんど知られない静かな町ですが、かつては安芸の国の表玄関の港として栄えた歴史のあるところです。かつての交通は、陸上を歩くより、船で海や川を移動したほうが格段に楽であったので、港町の重要さは現在よりずっと高かったのだと思います。現在の安芸津港は、大崎上島との間のフェリーが発着するくらいのようです。

 さて安芸津のお酒ですが、明治時代に安芸津出身の杜氏が、お酒造りには向かないとされていた軟水を使った醸造法を確立したのが始まりです。このため、安芸津は広島杜氏のふるさとと呼ばれています。軟水を使った、やわらかい口当たりが女酒と言われる所以のようです。ところが、安芸津の醸造会社は減ってしまい、現在は富久長の銘柄の今田酒造、関西一の銘柄の柄酒造の2軒を残すのみになっています。
 
大規模な酒造会社は、同じ東広島の西条駅周辺に集中しているようです。もちろん、西条のお酒も安芸津の流れを汲む、軟水を使ったお酒に変わりはありません。(西条については、このブログの2006年2月8日版で紹介しています)

 この安芸津町に変わった島があるようです。筆者は実物を見ていないのですが、虫に食われて島がだんだんと小さくなり、数十年後には水没するのではないかといわれているホボロ島です。ナナツバコツブムシという多足類のいう1cm程度の虫が大繁殖をし、この虫が風化した岩に巣穴を空けたために、侵食が加速された結果だそうです。もちろん無人島なのですが、昭和30年代までは22mほどあった島も、現在は干潮時でさえ6mほど、満潮時には大きな岩を残して水没してしまうそうです。虫に食われて水没の危機にある島というのは、世界的にも珍しいそうです。興味のある方はこちらの記事などをご覧ください→ http://www.kagakunavi.jp/topic/show/35

 日本の水は軟水が多く、硬水といってもさほど硬度は高くありません。ITに必須のLSIなどの製造には純水が大量に必要になりますが、元々不純物の少ない水を産する日本は、この点でも有利なのでしょうか。水野硬度に対する好みは、お国柄があるようで、日本の名水はほとんどが軟水ですが、ヨーロッパなどで売られているミネラル・ウォータはある程度の硬度がないと、つまりミネラル分が含まれていないとミネラルという呼称は使えないようです。この硬度は、コーヒーや紅茶の味に影響を与えるので、硬水の多いヨーロッパでは、水に負けないよう濃く出したコーヒーが飲まれ、イギリスでは消費地の硬度に合わせて紅茶のブレンドを変えているそうです。ネット通販では、発注場所によって出荷品を変えているのでしょうか。

ハプスブルグ帝国の首都であったウィーンは音楽、美術、いろんなものがてんこ盛りです(オーストリア)

2009-10-18 08:00:00 | 世界遺産
 緑とお寺の中に町があるようなところがライスのルアンプラバンでしたが、町中に音楽や美術の芸術の殿堂が溢れて居る都市がウィーンではないでしょうか。かつてのハプスブルグ家の繁栄の華やかさを残すオーストリアの首都を紹介します。

 旧ソ連が存在した頃の鉄のカーテンが、大きく東に湾曲していた部分がオーストリアで、首都のウィーンは当時のチェコ・スロバキアとの国境まで30kmほどの、西欧世界の東のはずれのようなところでした。初めてウィーンを訪れたときは、いまだソ連が存在し、当時の東欧圏には簡単には行けない時でした。ちょっと東に行けばチェコやハンガリーなんだけれど、遠いなーと感じたものでした。これだけ、東欧圏に楔のように張り出したウィーンですから、スパイの暗躍の場になったそうで、これは現在までも続いているとも言われています。007ではオーストリアの南の旧ユーゴスラビアなどバルカン半島あたりがよく出てきたように思いますが、物語ではなく本当のスパイが活躍する舞台がウィーンだったのでしょうか。

 さて、ウィーンの音楽ですが、世界的に有名なオーケストラの中でもトップクラスのウィーンフィルはあまりにも有名ですが、この楽団の母体はウィーン国立歌劇場管弦楽団といういかめしい名称のオーケストラです。

ウィーン歌劇場でオペラの伴奏をするのが本来の仕事で、その中の有志が組織し歌劇場での伴奏以外で演奏するのがウィーンフィルなのです。片手間のようなオーケストラのように聞こえますが、ウィーン楽友協会大ホールを本拠にした活躍は、片手間などと失礼なことは言えません。これだけ有名なオーケストラですから、いろいろな逸話が残っています。最も有名なものの一つは、20世紀の終わり頃までは、楽員はオーストリア人の男性に限られたことで、ハープも男性が弾いていました。さすがに批判も多く1997年に女性のハープ奏者が入団し、徐々に女性奏者が増えているようです。

 続いて美術については、美術史美術館のすごさに感動してしまいます。

もちろん、ルーブルのコレクションの幅広さや物量には及ばないでしょうが、ハプスブルグ帝国の版図の隅々から集めまくった美術品はとてつもないものです。美術の教科書に載っているようなビューゲル、ラファエロ、ベラスケスなどの絵に加えて、フェルメールの作品もありますが、訪問したときにはフェルメールの認識が低くってあまり記憶に無いのが残念です。一方変わったところでは、セセッションです。

19世紀末にクリムトを中心に興った分離派の作品の発表の場として作られたもので、屋根のてっぺんに金色の葱坊主が強烈な印象を与えます。この金色の球形、実はオリーブの葉の集合体を模ったものですが、日本人の目から見ると、どうしても葱坊主なのですね。中には、クリムトの描くベートーベンフリーズがあります。

 劇場や美術館だけがウィーンではありません、シュテファン大聖堂やハプスブルグ家の王宮として使われたホーフブルク宮殿
 
それに地下鉄の駅などなど、これでもかと言わんばかりに町中に興味ある建物が溢れています。公園に行くと、数多くの作曲家の記念碑が花々に囲まれています。繁華街のビルの壁面に描かれた壁画も面白いんです。

ただ、これらは町の風景の中に溶け込み、日常の一部になってしまっている感じです。他の都市ならば、この中の一つがあっただけでも観光施設になっているかもしれません。

 ハプスブルグ家は、戦争は他国に任せておいて、婚姻によって版図を広げていったことで有名です。いわゆる政略結婚なのですが、その割には、嫁ぎ先との仲は良かったようで、陰湿な感じはしないようです。婚姻は結果であって、実際は外交手腕に長けていたのではないかと思います。平和のためと称して軍艦に給油をして戦争の片棒を担がされそうになっていた国は、もっとハプスブルグ家を見習う必要があるのではないでしょうか。もちろん、政略結婚は無理でしょうから、得意のIT分野でインフラの整備をするなど貧富の差をなくして、テロを起こす原因を取り除く支援をするべきでしょう。

半田駅の東の十ケ川の近くには真っ黒の板壁が続き、ツンとした酢のにおいが漂っています

2009-10-11 08:00:00 | 日本の町並み
 江戸時代の悪名高き生類憐みの令によって作られた犬小屋のあった場所の近くには、現在の中野のシンボルともなっているdocomoの真っ黒のビルが建っていましたが、真っ黒の板壁に囲まれた建物が川の向こうに連なるところが半田です。

これらの建物は、ミツカンなどの醸酢工場や倉庫群で、日本で作られる酢の大部分がこのあたりで生産されるとのことです。このミツカンの創始者は中野又左衛門氏で、これまた中野に縁のあるところでした。今回は、名鉄の知多半田駅から十ケ川あたりまでの町並みを紹介します。

 半田市は知多半島の付け根あたり、中部国際空港のある常滑市の東に隣接しています。名鉄河和線とJR東海道線の大府で分岐した武豊線の2本が市を南北に貫いています。ミツカンの真っ黒の建物群があるのは、JR半田駅の東300mほどのところで、途中には「酢の里」という日本で唯一の酢の博物館もあります。

この黒板壁は同じ川沿いの酒造会社の建物群にも見られると共に、市内の民家にも見られます。

民家の黒壁の場合には威厳があったり、粋な感じを受けることもありますが、工場や蔵の場合には、火事に遭ったような感じを受けます。ただ、この黒の板壁に真っ白に描かれたミツカンのマークには存在感がありました。

 先にミツカンの創始者は中野氏(現在の表記は中埜)と書きましたが、半田市の中には中埜家関連の施設が多く残っているようです。企業城下町の一つなのでしょうね。そのなかの一つに、旧中埜家住宅があります。ミツカンの真っ黒の倉庫とは正反対のしゃれた洋館で、重要文化財にも指定された建物です。

明治の末に中埜半六の別邸として、ドイツの山荘をイメージして作られたそうです。戦後は洋裁の専門学校桐華学園の本館として利用され、現在は紅茶専門館として営業されています。

 JR半田駅の北西の線路に隣接して長い黒塀で囲まれた一郭があります。地図で調べてみるとミツカン中埜クラブや中埜産業の表記があるところから、ミツカングループの迎賓館的な存在と想像できます。

こちらは、旧中埜家住宅とは異なり、真っ黒の塀が連なり、外から見える建物は倉庫と同じ黒板壁のもので、ちょっと無愛想です。ただ、この邸宅を航空写真で見たところでは、広大な敷地に緑が生い茂り、池を配した回遊式の和風庭園のようです。

 酢を使う料理の代表格と言えばお寿司ですが、このお寿司の代表格の握り寿司は、江戸時代に屋台や行商で、安くって手っ取り早く食べられるファーストフードの一種として生まれたものです。ところが、いつの間にか高級食材と化し、再び庶民のメニューに引き戻したのが、回転寿司ではないでしょうか。ただ、この回転寿司は、握られてから、長い間廻り続けているお皿があるようで、お皿を選ぶときに鮮度を見極める必要があることがあります。このような問題を解決する手段の一つが、ICタグを皿に貼り付け、個々の皿をセンサで読み取って、鮮度管理をする手法です。スイカなどと類似の技術ですが、こちらは固体認識ができればよいので、読み取り専用のICチップになります。すべての商品や紙幣にまでICタグを埋め込んで、個々の物の流れを管理する発想が提起されて随分と時間が経ったように思いますが、なかなか実現できないのはコストなのでしょうか、それとも個々に管理されては困ることが多いからでしょうか。

個性の無い町のように言われている中野区ですが、興味を引く物が点在しています

2009-10-04 08:00:00 | 日本の町並み
 明治維新の頃に県庁が置かれたのは信州中野(中野市)でしたが、行政の単位が区でありながら市である信州中野より有名なのが23区の一つの中野区ではないでしょうか。面白いことに、中野区にも「しんしゅう」が存在していて、JR中野駅と西武線野方駅の中間辺りに「しんしゅう一味噌」の本社があります。

ただし、こちらは信州ではなく神州の表記ですが。今回は、北西から南東に長く伸びる中野区のJR中野駅周辺を中心に紹介します。

 中野区は23区の中では西よりのいわゆる山の手に位置し、個性の少ない区の一つと言われています。ドラマや小説で、目立たない存在の人物仕立てにしたい場合には中野や杉並に住んでいることにするのだそうです。江戸時代の中野は、綱吉の作った犬小屋があったところで、町名の整理の前には「囲い町」という地名があったようです。

犬を囲ったところとのことですが、現在も「囲い町公園」の名称が残っています。ちなみに、JR中野駅の西南の地域は桃園町といったそうで、由緒や香りの高い地名が中野xx丁目という味気ない地名になってしまっています。地名というのは、歴史をしょっていることが多く、単に解りやすくて合理的というだけで、それまでの歴史を無視したような地名に置き換えてもいいのでしょうかね。

 中野と聞くと、陸軍中野学校を思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれませんが、その跡地は警察学校となり、さらにその警察学校も無くなり再開発が進んでいます。再開発地区の駅寄りには、現在の中野のシンボル的存在となった真っ白の中野サンプラザと真っ黒のdocomoビルが面白いコントラストで並んで居ます。

また、中野のシンボルの一つであった丸井本店のビルは跡形も無く、こちらも再開発の真っ最中です。

 中野は個性の少ない土地のように思われていますが、意外にも全国的に名の知られた人に関連するものが、残されているのです。その一つが、忠臣蔵の敵役となった吉良上野介義央のお墓が、東中野駅の北西にある功運寺にあります。

市谷にあった浅野家の菩提寺が大正時代に現在地に引っ越したときに、お墓も一緒に引っ越してきたようで、他に林芙美子、歌川豊国、水野十郎左衛門などのお墓があります。

 中野駅の南には、高村光太郎が使ったアトリエの遺構も残されています。北側に大きく窓を取った木造の建物で、現在もどなたかがお住まいになられているようですが、アトリエとして使われているかは解りません。

アトリエの南側は、桃園川緑道となっていますが、光太郎が使っていた頃は、現在のように暗渠化される前で、自然の川に庭が面していたと思われます。駅から、アトリエの残る一帯は、かつては「お屋敷町」と呼ばれ、道路から母屋が見られないような邸宅が残っていましたが、地上げのせいなのか、マンションが目立つ町並みに変化してしまったようです。20~30年前には、お屋敷町の需要に支えられていたのでしょうか、御用聞きに来る商店が残り、靴や傘の修理屋さんや市場が健在でしたがコンビニなどに取って代わられてしまいました。

 中野学校というとスパイの養成を行ったことで有名で、スパイというと暗号を思い浮かべます。中野学校の卒業生が活躍した頃の暗号は秘密鍵を用いるもので、鍵を盗まれてしまえば解読され、盗まれなくとも同じものを使っていると暗号化された文章の規則性から鍵を推定される恐れがあり、ほとんど敵方に解読されていたとも言われています。現在の暗号は、公開鍵暗号が多く使われていますが、これとて現状のコンピュータの能力では解読に時間がかかるに過ぎなく、絶対的な信頼性はありません。解決する技術として量子暗号が研究されていますが、この方式は原理的に安全な暗号方式と言われています。ただ、暗号によらなければ通信の秘密を守れないインターネットの方に問題があるようにも思いますが。