世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

ソウルの郊外にありながら意外と知られていない華城には、人のための門ではなく水門がありました(韓国)

2009-12-20 08:00:00 | 世界遺産
 数多くのお城が川沿いに建ち並ぶのがロワール渓谷で、その中でも人気の高いお城が川を跨ぐように立てられたシュノンソー城でしたが、川を跨ぐお城がお隣の韓国にもあり世界遺産に登録されています。今回は、ソウルの南に位置する水原にある華城を紹介します。

 華城がある水原はソウルの南約35km、鉄道で1時間足らずの場所にあります。駅から華城までは2kmほど歩いたような気がしますが、16年も前に訪問した記憶は、ロワール渓谷の記憶と同様にかなり薄れています。16年前ですから、世界遺産にもまだ登録されていなかった頃なのです。訪問した頃の水原は、のんびりとした地方都市の様子でしたが、最近の写真を見ると大都会の様相になっていて驚きます。

 華城は李氏朝鮮の国王が先代の国王の墓を移して、その周りを城壁や楼閣などで囲ったもので、18世紀に当時の技術の粋を集めて作られたものです。城壁の総延長は5kmにもなるようで、筆者は南にある八達門と北の華虹門、それに城門から続く城壁の一部を眺めて帰ったように思います。

 前述の川を跨ぐ建物は華虹門で、城本体が川を跨いでいるシュノンソーのお城の規模には及びませんが、堀の向こうに城門がある風景に慣れている目には、ちょっと違って見えます。

西洋の城にしても、日本の城にしても城門の棟は水(堀)の方向に対して平行して建てられていますが、こちらは水(川)に対して直交しています、つまり水を跨いでいることになります。華虹門は人間が通る門ではなく、水が通る水門だからなのです。

 人の通る門の八達門は道路のロータリーの中央に建っていて、前方に半円形の城壁があり二重の門となっています。二つの門の間は中庭状で、形は四角形ではなく半円状ですが日本の城の枡形に似た構造をしています。

二重になっている門の大きなほうの形はソウルにあって火災に遭った南大門や全州にある豊南門に似た外観をしています。韓国の城門は、門の部分は城壁の石垣に穴を開け、木造の建物がその上に飾りとして乗っかっているという風です。日本の姫路城や皇居などの城門の人間の通る部分は建造物で囲われていて、石垣に開いた穴ではありません。そういえば、中国の北京の天安門、西安の城門さらにはベトナムのフエにある王宮の門など、どれもが人間の通り道は城壁の石垣に開けられた穴です。日本だけが特別なのかと思って、ヨーロッパの旅行の写真を見てみました。ヨーロッパでは、そもそも建造物の素材が石であることが多いので、門が城壁部分の穴なのか、建造物で囲われたものなのか曖昧なところが多いのですが、どうもどちらの種類もあるようです。門は城の防御に対して弱点になることが多いことから、城が建てられ背景によって門の構造に影響を与えたことだけはたしかそうです。

 華城のある水原の郊外には、韓国民俗村があります。水原駅のそばから送迎バスが出ていて、30分くらいで門のそばまで連れて行ってくれます。韓国の伝統家屋などを移築して作られた屋外博物館で、園内では建物を見るだけでなく、広場で伝統芸能が催されたり、結婚式の様子も見ることができます。『チャングムの誓い』などの映画のロケにも使われたようで、ソウル市民の日帰りテーマパークになっているようです。韓国の伝統芸能は、ソウルで本格的なものを見ることができますが、舞台で演じられるので写真に撮る向きには、明るい屋外で演じられる民俗村がお奨めかもしれません。

 門 (ゲート)といえば、パソコンなどの心臓部に使われているマイクロプロセッサのLSIの中には、論理回路がぎっしりくみこまれていますが、その回路を構成するものがゲートと呼ばれる単位回路です。1970年台に最初に作られた4bitのマイクロプロセッサではこのゲート数が1千程度でしたが、最新のものでは数億ゲートにもなっています。40年そこそこで5桁以上の進歩を遂げ、コンピュータの心臓部として動作をしているわけです。日本は高集積にメモリ分野ではトップクラス(最近それも妖しくなっていますが)ですが、論理素子では遅れを採っているといわれています。そもそも4bitマイクロプロセッサは日本人の発想で生まれたことは有名ですが、その後なぜか日本では研究が続けられなかったのですね。どこかの政党が主導するように、先端基礎研究には金を出さない風土なのでしょうか。

真田氏の居城であった上田は、阿波踊りにも負けないような「上田わっしょい」で盛り上がっていました

2009-12-13 08:00:00 | 日本の町並み
 最近の暖冬化で、日本一といわれる豪雪もあまり見られなくなった町が上越市の高田でしたが、その上越市との姉妹都市の一つに上田市があります。上田市の小学生が修学旅行で上越市を訪れることが多く、また上田から最も近い海水浴場で市民の多くが訪れるという縁なのだそうです。また、この両都市は北国街道の宿場町という共通性もあるようです。

 上田市は、長野県の東北の縁に位置し、西に張り出した群馬県とも接しています。かつては、碓氷峠を越え、軽井沢を経由した信越線の上田駅がありましたが、長野新幹線の開通で新幹線に上田駅が作られました。平行する旧来の信越線は、篠ノ井ー軽井沢間が三セクの「しなの鉄道」と名前が変わり、料金だけが高くなったようです。信越線に限らず、東北や九州でも、新幹線の開通で在来線が三セク化して、実質値上げになっています。新幹線の開通は、遠くからやってくる、よそ者の観光客には便利かもしれませんが、地元にとってほんとに良かったのかな?と疑問を感じます。

 上田は真田氏が築いた上田城の城下町として発展しましたが、関が原で徳川が勝利した後、敵対した真田昌幸の居城であった初代の上田城は破壊されてしまいました。その後は、徳川に味方をした真田信之の領地となった後に、領地替えにより領主となった仙石忠政により櫓のみが再建されました。明治維新の廃藩置県でそれも廃城となり、残っていた七つの櫓も一つを残して売り払われてしまったようです。その後、遊郭に払い下げられていた櫓の一つが買い戻され現在の北櫓と南櫓、そしてそれをつなぐ東虎口櫓門として復元されています。

お城の建物ではありませんが、上田藩主の表御門が残されていて、県立上田高校の校門として使われており、表札を見てちょっと驚きます。

 上越市との共通性でも触れましたが、上田は北国街道の宿場町でもありました。上田駅から北へ600mほど歩いた柳町一帯には、かつての北国街道の雰囲気の町並みが残されています。柳町の名の通り、街路樹に植えられた柳の木と土蔵作りに格子が連なりうだつのある家並みのとの組み合わせは、古い町並みを残す他の町の風景と、ちょっと違った印象があります。
 
また、綺麗に整備がされているようで、美しい景色なのですが、あそびというか崩れた雰囲気が無いためか、ちょっと、よそよそしさを感じてしまいます。

 遊びといえば、七月の最終土曜日に開かれるお祭りが「上田わっしょい」で、40年弱の歴史ですが、現地では阿波踊りのような盛り上がりです。現地以外では、あまり知られていないお祭りで、筆者も偶然に遭遇してしまいました。上田に向かうしなの鉄道が、浴衣姿の乗客で異常に込み合って、近くで何かがあるな!上田に下車をしたら、浴衣の一団も下車、駅前にはすでにすごい人並みで、初めて上田でお祭りってことがわかりました。
 
ホテルに荷物を置いて見に行きましたが、次からへと連と呼ばれる踊り手が現れてきりがありません。泊まったホテルが駅のそばで、後半はホテルの窓から高みの見物にしました。
 
 真田氏と聞くと、真田十勇士を思い起こします。徳川という権力に立ち向かった真田幸村を助けた10人の部下という設定ですが、もちろん小説の中に登場する人物です。ただ、モデルとなる人物がいたという説もあって、実在した忍者はどんな活躍をしたのだろうかと興味が湧きます。漫画などに出てくる忍者は、超能力の持ち主のように描かれることが多いのですが、実在の忍者は、よく訓練され科学的な知識もあるスパイ集団だったようです。いつの世にも、敵方の情報を盗み取ることは重要事項で、現代の世にもスパイ衛星が飛び回るのは既知の事実です。ただ、軍事情報でもない個人情報を、ネットから盗まれるのは後免こうむりたいものです。

漱石の「坊ちゃん」に登場する笹飴は、豪雪と雁木で有名な高田で作られていました

2009-12-06 08:00:00 | 日本の町並み
 上杉謙信と武田信玄の合戦の舞台となった川中島に近い宿場町が稲荷山宿でしたが、合戦の一方の将である上杉謙信の居城が上越市にあった春日山城です。上越市は直江津市と高田市などが合併してできた都市ですが、今回は春日山城のある旧直江津市側ではなく、豪雪で有名な旧高田市側を中心に紹介します。

 上越市は、新潟県の西部、JRの北陸線の一方の起点で、信越線が日本海に出て北陸線と合流するところにあります。合併により生まれ都市名のためJRの駅名に上越駅はなく、さらにややこしいことに、JR上越新幹線や在来線の上越線ははるか東を通っていて、かすりもしていません。東京から上越市に行くには、上越新幹線に乗るのではなく、長野新幹線で長野に行き、在来線の信越線に乗り継ぐのが一般的です。この紛らわしさのために、市の名称を変更しようという意見も多いのだそうです。

 高田と聞くと思い出すものが、豪雪とその対策としての雁木です。雪の季節には少し遅かったのですが3月初旬に高田を訪れ、豪雪と雁木を見ようと思いました。ところが、このもくろみは見事に裏切られたようです。温暖化のせいなのか、雪は裏通りに少し残っているだけ、雁木も商店街のアーケード風のものが多かったようです。

ただ、裏通りには軒の深い家並みが残り、これが雁木なのだ、と思わせる風景を作っていました。

 高田は春日山城とは異なる高田城の城下町ですが、現在の町並みには、城下町を思わせるものがあまり残っていないようにも思います。ただ、町を散歩すると興味を引く建物や、お店があって、なかなか楽しい散歩になりました。
 まず、旧師団長官舎は、高田の観光施設にもなっている明治期の木造洋館ですが、異人館風の外部や内部の状況も、よく保存されていて、これを神戸や横浜の山の手に移築しても違和感がなさそうです。2階の和室部分が貸し集会室として使われ、単なる博物館的建物ではなく現役の建物というのも好ましいところです。
 
 木造の洋館といえば、商店街で見かけた木造洋館3階建ての薬局も、田では余り見かけない面白い建物でした。周りの和風建築から、ちょっと浮いた感じではありましたが。

 旧師団長官舎は明治でしたが、江戸時代からの歴史のある商店が残っていました。十返舎一九の「金の草鞋」にも登場する飴菓子の老舗で高橋孫左衛門商店です。古風な店の門前には、「十返舎一九ゆかりの地」の石碑もありますが、ここで売られる笹飴は、明治期の文学にも登場するのです。夏目漱石の「坊ちゃん」の中で、、「清(きよ)が越後の笹飴を笹ぐるみむしゃむしゃたべている」というくだりがありますが、この笹飴がこちらの商店のものなのです。

 「坊ちゃん」の作者の漱石は、「電力」、「肩が凝る」、「反射」、「無意識」、「価値」などいくつかの造語をしたとされています。明治期には、外国から新しい概念のものが多く入ってきたために、明治期には漱石に限らず、多くの造語や翻訳語を作ったようです。これらの中には、意味と音の両方を表した「倶楽部」などという傑作も存在します。現在の日本では、IT分野でもそうですが、外来語のほとんどを日本語には翻訳せず、原語を単純にカタカナ表記とするだけで逃げている嫌いがあります。はたして、これでどの程度の人が、その言葉の概念を理解しているのでしょうか。