世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

駅のチャイムがルツェルンと聞こえるルツェルンは小さな町に見どころが沢山、周辺の観光基地にもなってます(スイス)

2019-06-30 08:00:00 | 世界の町並み
 ロンドンから特急で2時間ほどのヨークには世界最大級の鉄道博物館があり、日本の0系新幹線も展示をされていました。我が国の交通博物館は神田にありましたが、大宮に引っ越すと共に鉄道以外の展示が切り捨てられて鉄道博物館になってしまったのは少々残念です。ただ、世界的に鉄道博物館は数多くあるのですが、交通博物館というとあまりありません。乗り物として身近に走っている鉄道にファンが多いからかもしれません。今回は、数少ない交通博物館のあるスイスのルツェルンを紹介しますが、筆者は時間が無くって町並みを散歩しただけで交通博物館は入り損ねました。

 ルツェルンはチューリッヒの南南西40kmほどルツェルン湖のほとりにある人口8万人ほどのこじんまりとした都市です。人口8万人というと近江八幡市やあきる野市くらいですが、旧市街など市内やルツェルン湖やリギ山、ピラトゥス山など近くに観光地を控えているためか活気のある町です。中心となるルツェルン駅は、ルツェルン湖に突き当たるような形の頭端式で、駅前広場には火事で焼け残ったかつての駅舎のアーチが建っています。その先の湖のほとりには、ルツェルン湖を渡って各地に行くフェリーの乗場です。筆者は駅のそばに泊まったのですが、駅の発車のサイン音が、なぜか「♪ルツェルン♪ルツェルン♪」と聞こえたんです。

 
 
 
 旧市街は、ロイス川がルツェルン湖から流れ出る河口の周辺に広がり、ルツェルンの代表的な観光地の一つがこの河口近くにある14世紀に作られた木造の屋根付き橋であるカペル橋です。この屋根の裏にはルツェルンにまつわる絵画が描かれています。この橋を渡って北側に行くと、14世紀に作られ旧市街をぐるりと取り囲むムゼック市壁がほとんど昔の形で残っています。要所要所には9つの見張り台もあります。記憶が定かではないのですが、ルツェルンの市街地を見下ろす写真が残るので、このうちのどれかに上れたのではないかと思います。市壁を越えて北に行くとライオン記念碑があります。フランス革命の時にブルボン王朝を擁護して戦死したスイスの傭兵を悼んで作られ、スイスの傭兵制度を物語るものの一つです。

 
 
市内には綺麗な教会が数多くあり、筆者が訪れた2つの教会を紹介します。一つは、ロイス川の南岸に17世紀に建てられたイエズス教会です。スイスで最も古いバロック様式で建てられ、内部は白と金色で飾られていて、なかなか華やか、少々貴族趣味的です。天井に描かれた絵画もきらびやかで、外観のやや地味な感じとは対照的です。

 
 もう一つはロイス川の北側にあり、湖水からの風景の中に2つの尖塔が目立つホフ教会です。17世紀に建てられ、スイス有数のルネサンス様式の建物です。こちらの内部も城を基調としていますが、金色は使われず抑えた感じがします。祭壇と対向するパイプオルガンは6,000本のパイプを持つスイス最大級のものです。

 
 
 ルツェルンからの登山では、最大斜度の登山電車のあるピラトゥス山がありま日本人観光客で混雑するようですが、筆者はやや穴場で眺めの良いリギ山に登りました。リギ山へは、ルツェルン湖畔のフィッツナウからと、鉄道駅のあるアルト・ゴッダウから、それにヴェッギスからロープウェイで上りフィッツナウからの登山電車と途中のカルドバートで乗り換える3ルートがあり、行き帰りで別のルートを取ることもできます。このうちフィッツナウからの登山鉄道はヨーロッパ最古のもので、筆者が上った時には、蒸気機関車にけん引された登山列車が上ってきて、観光客は大騒ぎでした。

 スイスは、山岳地帯で産業もあまり無かったことから15世紀から18世紀にかけてヨーロッパ各地の様々な戦争に金で雇われて参加する傭兵が盛んでした。さすがに1874年には傭兵輸出が禁止され、1927年には外国軍への参加も金社されました。ただ、例外的にローマ法王庁を守っているのはスイス兵で、戦争のためではなく警察任務との解釈なのだそうです。スイスの傭兵精度は無くなりましたが、現在でも各地の戦場、特に民族紛争では傭兵が存在すそうです。傭兵という人は輸出しなくとも人殺しの兵器は大手を振って輸出されていて、兵器産業の上位はユダヤ系が占めていることも忘れてはなりません。イスラエルのIT技術は軍需技術で培われたことも事実ですが、兵器産業の民間利用が民生のIT技術だという屁理屈がまかり通らない世の中になってほしいものです。

お茶の水女子大は敷居が高く登録文化財の本館まで近づけませんでした

2019-06-23 08:00:00 | 日本の町並み
 国立大学の中で2つしかない女子大の一つが奈良女子大でした。今回はもう一つのお茶の水女子大を紹介します。どちらの大学も、周りを住宅やビルに取り囲まれて町並みの中に埋もれてしまいそうなキャンパスという共通性がありました。筆者は大学構内に新しくできた国際交流留学生プラザの解説記念の講演会に参加し、正門は入れましたが、門のすぐ右手のプラザへしか行けず、正門の奥にある本館などには近寄れませんでした。


 お茶の水女子大は1875年に開設された東京女子師範学校がその起源で、奈良女よりも33年も古い歴史があります。開校した場所が湯島聖堂のそばであることからお茶の水の名称がつけられましたが、関東大震災で焼失し、お茶の水界隈の敷地が手狭になったことから現在の茗荷谷に移転をしましたが、名称は旧来のものを引き続き使いました。新制大学となったのは奈良女と同じ年で1949年で、新制のお茶の水女子大学となりました。地下鉄丸ノ内線を茗荷谷で下車し、春日通を大塚方向に400~500mほど行くと左手に正門が見えてきます。右手の奥には筑波大の東京キャンパスがありますが、この地はもともと教育大があった場所で、教育大の前身の東京師範学校の頃は、お茶大の前身は東京師範学校の女子部だったようです。



 
 正門を入って正面の奥にあるのが、茗荷谷へ移転後すぐに建てられた本館で、登録有形文化財になっています。本館以外に、講堂、付属幼稚園の園舎そして通ってきた正門も有形文化財になっています。正門から本館までは、およそ100mほどですが、これが近づけません。本館の左手奥にある幼稚園は存在すら確認できません。コンクリート造り3階建てで、外壁にスクラッチ・タイルを張った本館の建物は茂った木々の間からかろうじて見える程度です。お茶大と言えば、付属の小学校で事件があったばかりなので、ガードが固くなったのかもしれません。

 
 
 本館を紹介できませんので、代わりに正門を入ってすぐ右側の国際交流留学生プラザについて紹介しましょう。隈研吾氏の設計ですが木製ではなくコンクリート造りの4階建ての建物で、今年の4月に完成しました。表参道にあるサニーヒルズの木製の格子をもっと細かくしたような、細長い外販が取り付けられていて、ちょっと普通の建物とは違った印象です。建物内には3つのパブリック・アートが飾られ芸大の日比野さんと子供たちによるタイル画や多数のイルカが円錐状に立ち上がるモニュメントなどが見られます。一階にはオープンカフェも作られ、外来者も利用できるようです。

 お茶大の前身は師範学校、つまり先生を養成する学校でしたが、現在ではIT企業などに数多くの卒業生を送り出しているのだそうです。どうもお茶大は理系女の一大生産拠点の一つなのかもしれません。そういえば、研究所に居た頃に先輩でお茶大を卒業した通信のトラフィックのオーソリティの方がいらっしゃいました。研究の内容だけでなく、人柄も素敵で、尊敬できる先輩の一人でした。一方の奈良女も理系でならしているようで、高校の数学の先生は奈良女で、テンポの良い授業で好きな先生の一人でした。どうも、理系女は理系男子(なぜか理系男っては言わないようですが)の中で勉強するより、女子ばかりの環境で勉強するほうがいいのかもしれません。

奈良の寺々のある場所は平城宮から東にずれていますがコンパクトに集中していて観光には便利です(日本)

2019-06-16 08:00:00 | 世界遺産
 京都の紹介が2回にわたって続きましたが、今回は京都よりも歴史が古い奈良です。古都奈良の文化財として登録されているのは五か所の寺々、一か所の神社、遺跡それに原始林の合計8か所になります。今回は春日山原始林を除く7か所について創建あるいは現在地への移転の古い順に紹介します。

 
 
 まずは平城宮遺跡です、平常遷都の年の710年から造営が開始された平城宮の宮殿跡です。現在は、大極殿や朱雀門それに東院庭園などの復元が完了しています。ただ、建物形など諸説ある中で、復元によって特定のイメージが固定される恐れがあるという反対も多いようです。平城宮遺跡は、近鉄の奈良と西大寺の間で、朱雀門と大極殿を結ぶ朱雀大通りを近鉄の線路が分断しています。平城宮は現在の奈良市の中心街からは随分と西寄りで、現在の中心街は、東側に付け足しのように張り出した外京に当たります。


 興福寺は、藤原氏の氏寺で、平城遷都と共に藤原京にあった厩坂寺が現在地に移転してきました。同じように移転をしてきた曽我氏の氏寺であった元興寺と比較して、その勢いの強さが際立っています。猿沢の池越しに見える五重塔は奈良のランドマーク的な風景ですが、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた明治初期には、危うく薪にされるところだったそうで、壊すのが手間とのことで難を逃れたそうです。昨年には、3つの金堂の中核となる中金堂が再建され、他の堂宇にあった諸仏が移されています。


 薬師寺も、平城遷都と共に天武天皇帝が皇后の病気平癒を祈願して藤原京に建てた本薬師寺が現在地に移転されてきました。この移転時に現在の伽藍や諸仏が本薬師寺から移転してきたものか、新たに作られたものか長く論争があり、いまだに決定的な結論に至っていないようです。薬師寺は数々の戦乱に逢い、奈良時代の建物は東塔のみになっていますが、国宝建造物は東塔だけでなく鎌倉時代再建の東院堂の二堂です。20世紀になって金堂、西塔などが再建され奈良時代の姿を取り戻しています。仏像は、金堂の薬師三尊と東院堂の聖観音などが国宝指定で、特に薬師三尊像はフェノロサがアメリカからの旅費を払ってでも見に来る価値があるといったそうです。また、聖観音像は精巧なレプリカ像が国立博物館にあって、実物では見られない後ろからの様子などが間近で見られます。

 
 元興寺は、蘇我氏の氏寺であった法興寺が平城宮に移ってきたものですが、法興寺も名前を飛鳥寺と変えて飛鳥の里に残っています。奈良時代には東大寺、興福寺と並ぶ大寺院でしたが、現在はなら町近くに国宝の本堂がひっそりと照っているのみです。勝ち組の藤原氏の寺が現在興こって幸福な寺という名称であるのに対し、負け組の蘇我氏の寺は元(かつて)興こった寺という名称は生々しいネーミングです。元興寺のあるなら町は、軒先から身代わり猿が下がる古民家が建ち並び、寺ばかりの奈良にあって生活感のある町並みが残っています。

 

 
 東大寺は、聖武天皇が国の威信にかけて平城宮に建てた大寺院で、全国にある国分寺を統括するお寺です。ちなみに、近鉄の大和西大寺駅の南にある西大寺は尼寺の統括寺院の役割を担っていました。現在でも巨大なお寺ですが、創建当時は東西の七重の塔や現在の二倍ほどの大仏殿など、とてつもない規模だったようです。たびたび戦乱などの災害で、何度も再建され現在の姿になっています。大仏も創建当時は、興福寺にある旧山田寺の仏頭のような端正な顔立ちであっただろうと言われています。この大仏を大仏殿の正面にある窓越しに見られるのをご存知でしょうか。お盆の頃に夜間拝観が行われ、周りが暗くなったおかげで、堂内の薄明かりに照らし出された顔が浮かび上がります。

 
 唐招提寺は、唐からやって来た鑑真が創建した寺で、薬師寺から北へまっすぐ行くと門に突き当たります。鑑真は日本から来た留学僧から「日本には受戒ができる層が居ない」との訴えに応えて、苦難の末に渡来したことはご存知の通りです。鑑真が旅立った中国の揚州にある大明寺には唐招提寺にある鑑真和尚像のレプリカが置かれてありました。鑑真の戒壇は基壇を残すのみですが、隣の薬師寺と比べて数多くの建物や仏像が残されています。特に、金堂の千手観音像は手が千本ある数少ない像の一つです。

 
 
 最後の春日大社も藤原氏の氏神である鹿島神と香取神とを平城遷都と共に御蓋山の麓に祀ったもので、どうも平城宮は権力者の藤原氏に蹂躙されていたようです。本殿などに加えて多くの工芸品が国宝に指定されていて、博物館でも春日大社をテーマに特別展が開けるほどです。境内の灯篭に火が入る万灯篭は2月と8月にあり、大変な混雑ですが、幻想的な風景は行列をしてでも見る価値がありそうです。行列をしなくても入れるのが、付属の万葉植物園で、万葉集に詠まれた植物が園内に植えられて名札が架けられています。晩春に入園するとフジが満開で、緑色の花を付ける遅咲きの桜の御衣黄も併せてみることができます。

 花の色に緑色が少ないのは、葉っぱが緑で花も緑だと目立たないからでしょうか。赤色の花が多いのは、赤色が緑色の補色でよく目立ちます。目立てば、花粉を媒介するミツバチも寄って来て、自然淘汰で子孫を残すのに有利な花を付ける種が勝ち残ることになります。ところで、このミツバチは、人間では見られない紫外線も感知でき、さらには光の偏光面まで感知できるようです。この能力によって、仲間に蜜のある花の位置を伝達しています。ところが、葉に含まれる葉緑素は紫外線に当たると赤から赤外領域の蛍光色を発します。ミツバチにはどのように見えているのでしょうか。一方の赤外線はというと、爬虫類の一部、マムシなどが見る能力を持つようです。アナログ・フィルムの頃には紫外線領域まで感光するフィルムの特性をカバーするためにフィルターを入れたり、赤外線に感光する特殊フィルムがありました。現在の半導体の撮像素子は人間の目の感覚に合わせて作られていますが、赤外や紫外領域用の素子はアナログ時代に比べてずっと手に入りやすくなり人間が見る世界を広げてくれました。

近鉄奈良駅のすぐそばにある奈良女子大の記念館はレトロでかわいい建物が残されていました

2019-06-09 08:00:00 | 日本の町並み
 前回は初代天皇という神武帝が東国に向けて船出をしたという宮崎の美々津を紹介しました。向かった先は近畿地方の大和、奈良と思われますが、現在の橿原神宮のあたりでしょうか。天皇の祖先が九州からということから、邪馬台国との関連がどうなるのかですが、その邪馬台国を治めたのは女性の卑弥呼です。今回は、奈良と女性つながりで、奈良女子大の記念館を紹介します。

 奈良女子大は、近鉄奈良駅の北300mほどの所にあり、全国で2校しかない国立の女子大として東京のお茶の水と並ぶ存在です。1908年に女子高等師範学校として創設され、翌年に建てられた本館は現在は記念館として資料などが展示され、この記念館と守衛室および正門が重要文化財に指定されています。女子大ゆえに気軽には学舎を見学することはできませんが、春と秋に1週間ずつ公開され記念館の内部に入り、筆者が訪問した時には百年ピアノの演奏も聞くことができました。

 
 
 
 
 本館記念館は木造の2階建てで、表に面した柱の面を見せるハーフティンバー様式で、明治から大正にかけて各地で建てられた学校建築では、下見板張りと並んでよく見かける様式です。正面に妻面を見せる玄関部分や、屋上のとんがり屋根の塔も、どこかで見たように思います。内部はレトロな意匠が一杯で、天井を飾る模様も凝っていますし、下がっている照明も部屋ごとに違っています。廊下に置かれていた、スタンドもなかなかのものでした。

 
 2階は元は講堂として使われていたそうで、ステージの前には百年ピアノが置かれていました。ヤマハ(当時は山葉の表記だったようです)製で、大卒初任給の20倍ほどの価格だったそうですが、メンテナンスがよく、現在でも美しい響きを保っています。

 
 一方の守衛室も、本館と同じようなトーンで、八角形を3つと正方形を1つを組み合わせた、ちょっと複雑な平面構造をしています。卑弥呼の墓とされるものは諸説ありますが、そのうちの一つが奈良県桜井市にある前方後円墳の箸墓古墳ですが、守衛室の平面図はどこか前方後円墳に似ている?かもしれません。また、正門は本館や守衛室と同じような色合いの門柱の上に、切妻の赤い屋根が乗っていて、その上には丸っこい電球も付いています。大学の門というより、遊園地のゲートのような感じもして、なんともかわいらしい雰囲気です。

 ピアノは1年に1回は調律をする必要があると言われていますし、可動部分が多くあちこちが摩耗などして壊れる消耗品とも言われています。おそらく、百年ピアノもいくつかの部品を保守で交換されているのではないかと思います。ピアノの調律というのは、各弦の高さだけでなく、響き具合や鍵盤のタッチの調整など、奥が深いようです。数十年前まで叔父が調律の仕事をしていましたが、調律師になるための研修は大変厳しいものだそうでした。音の高さの基準は鍵盤中央のAの音、かつて放送の時報で使われていた440Hzの音叉が使われてきましたが、現在では使い勝手の良い電子式の発振器が使われるようです。ただ、ITが進んでも、鳴りの良さや鍵盤のタッチなどは、当分の間は人間ではないと判断できないでしょうね。

ロンドンから特急で2時間のヨークは20万都市とは思えない、落ち着いた散歩をして楽しい街並みがありました(イギリス)

2019-06-02 08:00:00 | 世界の町並み
 前回はロンドンの南のイギリス海峡に面した保養地のヘイスティングスを紹介しました。列車で2時間くらいの距離ですが、一方ロンドンから特急列車で北に向かって2時間ほど走るとヨークに到着します。距離的にはヘイスティングスの3倍ほどありますが、特急列車のおかげでロンドンから日帰り圏になっています。今回は、城壁に囲まれて、古い街並みが残るヨークを紹介します。

 筆者がヨークを訪れたのは、初めてのヨーロッパ旅行で、もう30年も前のことになります。したがって、記憶も怪しいし、町の表情も変わっていると思います。また、掲載の写真はアナログのポジフィルムをスキャナで取り込んだものですが、退色が進んでいて、も一つパッとしないことをお許しください。

 
 
 ヨークはロンドンの北280kmほど、スコットランドのエディンバラに向かう特急列車のちょうど中間あたりの駅になります。人口は20万人程度ですから、西東京市や荒川区程度でこじんまりとした内陸都市です。旧市街は、12世心に作られた城壁で、北西から南東に600m、横幅が400mほどの範囲に囲まれていてます。ヨーク駅はこの城壁の西端の外側にほぼ平行にあって、駅を出ると目の前に壁が立ちはだかっりその前を二階建てバスが走って行きました。この城壁は保存性がよく、城壁の上を通って一周できるようです。

 ヨークを代表する名所がヨーク・ミンスターと国立鉄道博物館です。ヨーク・ミンスターは、ドイツのケルンの大聖堂に次ぐゴシック建築で、現在の建物は15世紀に再建されたものです。元になる教会は7世紀に木造で建てられ、何度か火災や破壊を受けて、ノルマン様式の聖堂を経て現在のゴシック様式で建てられました。筆者は時間が無くって、内部に入られなかったのですが、模様の着いた大理石で敷かれた床や、中世最大規模のステンドグラスなど、心残りでなりません。

 一方の交通博物館は、駅の北側に隣接している3つの車庫を中心に展示が行われているもので、世界最大級の鉄道博物館です。現在地での開館は比較的新しく1975年で、たの2貸にあった博物館を併合したようです。王室専用列車の他、スティブンソンのロケット号の複製や蒸気機関車の速度記録を持つマラード号に交じって、2001年からは日本の0系新幹線が展示されているそうです。

 
 
 
 
 
 ヨークミンスターの前の広場から、南南東に行くとシャンブルズ通りで、狭い石畳の通りの上に、2階や3階がが張り出しさらに軒先に看板がぶら下がっています。ただでも狭い通りをさらに狭くして、通行人には極めて迷惑な通りですが、お土産屋やカフェが並んで観光客に人気の通りで、ハリーポッターのダイアゴン横丁のモデルと言われています。ヨーク・ミンスターやシャンブルズ通りは、駅からウーズ川を渡った対岸ですが、14世紀に建てられ内部が透けてかろやかな感じの鐘楼を持つ All Saints' Church、広場には露店のマーケット、石造りやハーフティンバーの建物、さらには花盛りの花壇などなど散歩していて楽しくなります。

 アメリカのニュー・ヨークは、元はニュー・アムステルダムと呼ばれていたものがヨークに因んだイギリス貴族のヨーク公の名前を取って改名したものです。アメリカの地名は、ヨーロッパにある地名にNewをつけたり、そのままパクったりのものが多いようです。登録商標は原則的に早い者勝ちで、特許庁に1秒でも早く申請したものが排他的な商標使用権が認められます。令和になって、某国では令和の付いた商標登録が集中豪雨のように登録され、日本から令和の付いて賞品は輸出できない状態なのだそうです。他国の知的財産権は、平気で侵害するのに、自国の権利は100%主張する、いくらGDPが大きくなったと言っても大国とはいいがたいですよね。