世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

2つの高槻駅の外側に、格子と白壁の町家が並んだ2つの町並みが広がっています

2016-04-24 08:00:00 | 日本の町並み
 一つの風景の中に、お寺の建物と教会の尖塔が交じり合って見られる場所が平戸でした。平戸は、長崎よりも先に西洋への窓口で、ザビエルの足跡もある場所です。その後の布教で、各地にキリシタン大名も数多く輩出し、その中には、禁教令で国外追放され追放先で命を落とした大名に高山右近が居ます。今回は、その高山右近が明石に移封される前の位置時期に城主であった高槻城跡のある高槻市の中心部を紹介します。

 高槻は、大阪と京都の調度中間点にある、現在では両都市のベッドタウン化した都市です。最寄の駅は、JR高槻駅と阪急高槻市駅で、阪急の駅の方が500mほど東南東に位置します。高槻城跡は、阪急の駅の南500m程の所ですが、中学と公園の敷地となり右近の銅像などがあるくらいで、開発の波に飲み込まれてしまっています。古い町並みが残されているのは、阪急の駅の南側の高槻城跡に至る所と、JRの駅の北側の芥川宿跡周辺です。

 
 
 
 高槻城跡の近くの町並みは、かつての町人町の名残のようで、格子と白壁の家並みが続きます。中には虫籠窓を備えた家もあり、お医者さんが土蔵造りの民家をそのまま使っている光景も見られました。京都や奈良ではこのような町並みは珍しくないのですが、大都市の普通の民家が続く街中に出現すると、ちょっとビックリする光景です。我が国では、すぐにマンションなどの再開発で、まちの顔が変わってしまうのが常のようですから。

 
 
 
 一方の芥川宿跡は、西国街道の宿場跡で、街中には一里塚跡の祠も建っています。筆者が訪問の時には、ちょうど地蔵盆の時で、祠は祭の提灯に埋もれてしまっていました。近くには、江戸時代にあった稚児の争奪にかかわる殺人事件の敵討ちの舞台になった敵討ちの辻があり、こちらにも小さな祠が建てられていました。芥川宿跡は、かなり商店街の建物に侵食されてたようですが、微妙に曲がった細い路地,、格子や白壁の残る民家など、高槻城跡の近くの町並みと同じ様に和みの風景を作っていました。

 高山右近はキリシタン大名として有名ですが、大名職に加えてキリシタン信者としての活躍も優れていたようです。さらに、千利休の七高弟の一人として茶道にも長けていたようです。先日まで「糸巻きの聖母」を目玉とするレオナルド・ダ・ヴィンチ展が開催されていましたが、ダ・ヴィンチはもっと多方面で才能を履きいしたことで有名です。かつては、それぞれの分野の専門度が、さほど深くなかったので、才能の掛け持ちが、現在よりもやりやすかったのかもしれません。現代の巨大化、複雑化したコンピュータ・システムの開発では、それぞれの担当者は、システム全体像の把握すら難しくなっているのかもしれません。

クアラルンプールのツイン・タワーのブリッジは傾くのを防ぐつっかえ棒だったとは(マレーシア)

2016-04-17 08:00:00 | 世界の町並み
 前回はマレーシアの首都のクアラルンプールの駅周辺を紹介しました。今回は2回目として駅の北東方向にツインタワーがシンボルのKLCCや繁華街のブギットビンタン周辺を紹介します。

 KLCCがあるのは、Klセントラル駅の北東3kmほど、Rapid KLと呼ばれる高架鉄道が結んでいます。一方のブギット・ビンタンは少し手前、こちらはモノレールが走っています。これ以外に、GoKLと呼ばれる無料バスが、市内の要所を結んでいて、乗換えが必要なこともありますが、うまく使うと便利です。東京の丸の内と八重洲の市街地を循環するメトロリンク日本橋と丸の内シャトルと似た感じです。筆者が訪問した時は2路線でしたが、現在は4路線に拡大しているようです。



 KLCCの中心は、ペトロナス・ツイン・タワーで、452mの高さは建設当時は世界一のビルでした。後に509mの台北101に抜かれましたが、ツインタワーの形式では世界一の座を保持しています。建築主は国立のペトナス石油で、頂上にある尖塔は、マレーシアのモスクに似せて作られているそうです。このビルの建設には逸話が残っていて、2棟を日本と韓国の企業がそれぞれ建設をしたのですが、韓国企業の技術力が不足で、建設途中でビルの垂直性に問題が発見されたそうです。韓国企業は自社で問題解決ができず、このツイン・タワーの外形の特長にもなっている中央階辺りにあるブリッジをかけて、支えることで解決したそうです。問題は解決したものの、韓国企業が建設の方には、未だにテナントの入りが悪いのだそうです。タワーの基部にはスリアKLCCと呼ばれるショッピングモールがあり、吹き抜けの空間のある広場では、クリスマスのイベントをやっていました。
 

ペトナス・ツイン・タワー最上階の2階下には展望ロビーがありますが、時間指定の定員制だったので諦め、もう一つのタワーのKlタワーに上りました。こちらは421mの高さですが95mの丘の上に建っているためにペトナス・タワーより高く見えます。ペトナス・タワーがオフィスビルに対して、こちらはテレビ塔ですが、276mのところに展望台があり、回転レストランもあります。展望レストランとしては、リーズナブルな料金(展望室の料金の2倍程度)で、入るのに待たされることも無さそうで、昼食をとりながら周りの景色を眺めるのは、良い選択肢の一つのようです。もちろん、眺めの中には、すぐ近くのペトロナウ・タワーも含まれて居ます。唯一の難点は、丘の上にあることで、途中のポイントからはシャトルバスがありますが、そこまでは汗を拭きながら上ることになります。

 
 一方のビギット・ビンタンは、ゴチャゴチャとした繁華街ですが、ホテルや大型ショッピングセンタの間には古い町並みが残っています。この中には、大きな露天の飲食街があって、安くておいしいものが沢山並んでいます。果物の王様であるドリアンや女王のマンゴスチンもあって、地元っ子は丸ごとの実を選んで切り分けてもらっているようです。さすがに、においがすごいと言われるドリアンで、食べられるかどうか解らないので、スチロールに小分けにされたものを食べましたが、脅かされるほどの強烈さは無く、病み付きになるほどの美味でもありませんでした。どうも、女王様のマンゴスチンの方が病みつきになりそうです。この夜店界隈からは、ライトアップされたKLタワーがきれいです。

 
 
 ブギット・ビンタの中にある露天は夜市ですが、繁華街の北1km程の公園内では朝市が開かれます。食堂や食料品それに衣料等、ゴチャゴチャと何でもありの雰囲気です。かつては、もっと繁華街に近い所でやっていやそうですが、規模が大きくなりすぎたのでしょうか、広い場所に追い出されたようです。この朝市の会場の東500mほどのところには、クラフト・コンプレックスがあり、伝統工芸品の勢作実演や展示、それに販売がされています。建物も、マレーの伝統建築にならったようで、施設は派手さはありませんが、空港のお土産屋より安くて、品揃えも豊富です。

 ペトロナス・タワーが傾いたという逸話は、日本の技術力を改めて認識させらるものですが、この技術力を金の力で手に入れようとしている事件が話題です。表向きには、会社の再建のための資本提携と称していますが、どう見ても優秀なIT技術を盗み取るためとしか思えません。いっそのこと、会社を潰してしまって、技術の国外流出を防いだほうが良かったのでは、とも思います。会社を残すことって、国益を損なうようなこととj引き換えにしてでも必要なことなのでしょうか。

長崎の華さはありませんが平戸には西洋への窓口の名残が静かに息づいています

2016-04-10 08:00:00 | 日本の町並み
 彦根城の近くには、古い日本家屋の民家の中にレトロな洋館、そしてチュニジアの建物を思わせる白にブルーの窓枠の建物もありました。中にはスミス記念堂のように、キリスト教の礼拝堂なのにどう見ても和建築の建物もあって、和と洋とがハーモニーを奏でる町並みです。京都では、和建築の町家やお寺の中にキリスト教会の洋風建築が重なってくる風景を見かけます。しかし、お寺のお堂の上に大聖堂が重なる風景は平戸独特ではないでしょうか。今回は、10年ほど前に一度紹介した平戸を、その後の再訪時の写真などを交えて紹介します。

 平戸市は、九州の最西端に突き出した半島部分と沖合いの島々から成りますが、2005年の合併前は平戸島とその周辺のみの町でした。本土側にある松浦鉄道の「たびら平戸口駅」は、モノレールを除くと日本最西端の駅で、国鉄時代には平戸口の名称でした。かつては、平戸島には平戸口駅の近くの港かフェリーで渡っていましたが、島との間の橋が南の方に作られ、人の動きが変わって、駅の周辺は寂れてしまった感じです。フェリーの終点の平戸島側の港周辺は、現在でも平戸島の中心街で、ホテルや役所などは、港のある湾を囲むように建っています。

 
 
 お寺の後ろに聖堂がにょっきりと顔を出す風景は、この湾の突き当たりの部分の坂を上ったところに有り、お寺は瑞雲禅寺と光明寺が並んで建ち、後方の聖堂はザビエル記念聖堂です。瑞雲禅寺は15世紀、光明寺は16世紀に創建されたものですが、20世紀になって後ろの山の上に聖堂が出現するとは思いも寄らなかったでしょう。

 
 
 このザビエル記念教会は、コンクリート製ですが、形式的にはゴシックのスタイルを採っています。この聖堂は正面から見ると、両側にブースターを抱えたロケットのように見えるのは僕だけかもしれません。外壁は緑色に塗られていますが、内部はクリーム色で、内外の印象が随分と違います。聖堂の周りには、名前由来のザビエルの像のほかに、キリストを抱いたマリア像があり、筆者はこちらの像の方が好感がもてます。

 
 湾の南側には、平戸城跡に模擬天守が建ち、最教寺には朱塗りの三重塔がそびえています。また、湾に流れ込む河口には眼鏡橋のオランダ橋が架かっています。英国商館跡は、石柱が立つのみで町並みに飲み込まれています。

 
 
 
 一方、湾の北側は港の近くにオランダ商館跡があり、長崎に移る前の西洋に向けた門戸の跡が集中しています。湾の入り口近くのオランダ商館跡近くには、オランダ塀、オランダ井戸、オランダ埠頭とオランダ尽くしです。そして、ミサキの突端には常燈の鼻と呼ばれる灯台の跡に灯篭が再現されています。

 
    
 逆に、湾の奥の方向にはオランダ井戸より歴史の古い六角井戸や大ソテツ、そして、このあたりには格子の美しい町家の家並みが続いています。また、最近は「うで湯あし湯」ができて、散歩に疲れた時に立ち寄れるようになっています。

 日本にオランダなど西洋文化が伝わってきた時、両者間のコミュニケーションの手段がどうだったのでしょうか。杉田玄白の蘭学事始の記述によれば、蘭書のターヘルアナトミアを和訳するのに、新しい単語を前後関係などから推定して辞書を作りながらの作業だったようです。現在では、翻訳も単語の意味も漢字もパソコンやスマホで簡単に見出せ便利にはなったでしょうが、物事を推論したり、発見する能力は確実に劣化しているように思ってなりません。

ボルドーはワインで知られますが2種類の世界遺産がある大都市です(フランス)

2016-04-03 08:00:00 | 世界遺産
 サンティアゴ・コンポステイラへの参詣道の紹介が続いていますが、アルル、モアサックそしてトゥールーズに続いて、今回はボルドーです。ボルドーは、「月の港ボルドー」として世界遺産に登録されていますが、サンタンドレ大聖堂とサンミッシェル大聖堂とは参詣道の一部として登録されています。

 
 ボルドーは、パリの南南西500kmほどありますが、TGVに乗れば3~4時間程度で到着します。ボルドーを通る参詣道は、そのパリを起点とするものです。市街地は、ガロンヌ川の左岸に開けた低湿地で、2種類の世界遺産のどちらも左岸にある施設になります。SNCFのボルドー駅は、やはり左岸ですが、市街の中心地の南南東2~3kmほどで、ちょっとはずれと言ったところになります。一方の右岸との間には1822年に完成して、1965年まではガロンヌ川を渡る唯一の橋であったピエール橋が架かっています。中央をLRTが走っていますが、地表終電方式という特殊な給電がなされていて架線が無く美しい橋の景観を邪魔していません。

 
 
 このピエール橋から、ガロンヌ川の向こうに114mの高い鐘楼が望めるのがサンミッシェル大聖堂です。ガロンヌ川の左岸のすぐそばに建っています。この鐘楼は、聖堂とは少し離れて建っていて、聖堂より少し早く建てられたようです。この鐘楼だけが、跳びぬけて高く、ガロンヌ川の対岸からも目立つ存在です。一方の聖堂は15世紀末から16世紀頃に建てられたゴシック様式のバシリカ教会ですが、あまり訪れる人は多くないようでした。

 
 
 
 
 
 サンタンドレ大聖堂は、市街著の真ん中、ピエール橋の西500mほどで、ガロンヌ川の左岸までも500m程になります。そばをブルート灰色に塗られたスマートなLRTが通り抜けていきます。LRTに乗るには、エスカレータや階段を何段も乗り継いで地底に下りてゆく必要はありません、デザインと同様にきわめてスマートです。大聖堂は、11世紀にロマネスクで建てられた後、14~15世紀にゴシックで改築されて、ロマネスク様式は身廊の一部にしか残っていないそうです。こちらの大聖堂にも聖堂から少し離れた所にペイ・ベルラン塔がそびえています。こちらの高さは、サンミッシェル大聖堂の塔の半分より少し高い66mで、231段の階段を上って頂上に行けますが、筆者は天気の悪いことを理由にして(ほんとうは旅の後半で上る元気が無かった)上りませんでした。この塔とは別に大聖堂には、より高い尖塔がそびえていて、むしろそちらの方が目立つかもしれません。大聖堂は、外から見るとゴシック建築特有の飛びばりが、建物を支えていて、目立ちます。内部は、かなり巨大で、ステンドグラスと後世に作られたパイプオルガンが綺麗です。全体的にはシンプルな作りですが、入り口上部のタンパンや柱に彫られたレリーフは見事です。

 ボルドーと聞けばワインを思い出すくらい、ワインの国のフランスでも著名な産地の一つです。これは、ぶどう栽培に適した土地柄という理由のほかに、15世紀には、当地の公国の王妃が後のイギリス王と結婚し、ボルドーワインがイギリスに知られ、その評判が広く流布したことにも寄るそうです。当時は、それだけ、イギリスの影響力が強かったせいでしょうか。現在では、この影響力はネットに移っているようで、特定の権力者に集中しない代わりに、伝播速度が猛烈に速くなりました。意外と思うのがTVの影響で、かなりの人々がTVで宣伝をするショッピング情報を鵜呑みにしているようです。「TVで宣伝しているのだから安心!」とののりのようですが、スポンサー料を払えば、問題のある会社でも宣伝できるんでしょうけれどね。