世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

ジャワ島中部のジョグ・ジャカルタは首都のジャカルタの喧騒とは対照的な古都です(インドネシア)

2016-10-30 08:00:00 | 世界の町並み
 航空機も輸出をするインドネシアの首都であるにも関わらず、地下鉄などの輸送システムが不備で、町中が渋滞しているのがジャカルタでした。インドネシアの首都は、誰もが知っているジャカルタですが、オランダとの独立戦争の軌間、1945年から5年間、臨時の首都が置かれたのはジョグ・ジャカルタでした。今回は、郊外に2つの世界遺産があるジョグ・ジャカルタの市街地を紹介します。

 ジョグ・ジャカルタは、ジャカルタの東400kmほどで、飛行機で1時間ほど、空港は市街地の東6~7kmくらいで、トランス・ジョグジャというジャカルタ市内を走るバスウェイと似たバスで簡単にアクセスできます。空港ビルには、列車の駅まで隣接しています。ところが、30年前に訪れたときは、市内には、公共輸送機関が無く、乗り合いタクシーのようなバンを利用したコルトという乗り物だけで、到着時にはこれを利用しました。ところが、帰りの市内から空港まではコルトが見つからず、タクシーで移動した記憶があります。このタクシーとて、乗れる場所を探すのに大汗で、現在は旅行者にとって随分と便利になりました。

 
 
 
 
 ジョグ・ジャカルタには、実質的にスルタンが現存する唯一の地域で、オランダとの独立戦争に協力したスルタンの息子が王宮(クラトン)に住み、州知事を務めています。王宮の一部は博物館として公開されており、メインのパビリオンではガムラン音楽や伝統舞踊が演じられます。筆者が訪れたときは、ガムラン音楽の演奏があり、脳に良いとされる高調波の多い音楽を楽しめました。華やかな場所は金の王座のパビリオンで、赤と金色とで彩られ、装飾には仏教、ヒンドゥ教それにイスラム教のモティーフが取り込まれています。

 
 
 この王宮の西にあるのが、水の宮殿(タマンサリ)で、かつての離宮ですが、王が沐浴をする女性を品定めする場所だったそうです。30年前の時には、荒れるに任されていましたが、現在はジャワ島中部地震で被害を受けたものの、水をたたえたプールを取り巻く建物はなかなか綺麗です。

 
 一方、王宮の北にはソノブドヨ博物館では、ワヤン・クリという世界無形文化遺産に登録されている影絵芝居が見られます。公演は2時間ほども続き、その間の人形使いは一人の人が、複数の人形や仏像の光背のような背景を立てたり動かしたり、はたまた立てかけたりと、大忙しです。入場の時に、演目の簡単な説明文をくれますが、はっきり言って、内容はチンプンカンプンに近く、2時間はちょっと退屈します。しかし、演者の側から見たり、裏側に回って影絵を見たり、オーケストラ役のガムランの演奏を聴いたり見たりで、なかなか面白い経験です。

 
 
 市街地の中心は、王宮などがある地域の北1.5kmほど、中心駅やマリオボロ通りあたりですが、この通りで、民族衣装を着た人たちのパレードを見ることができました。インドネシアのいろんな地域からの参加のようで、なかなかバラエティに富んで面白かったのですが、ネットで調べても、何のお祭りなのかは解りませんでした。同じ年に、このようなパレードが何度かあったことは解りましたが、それらのパレードもあったという事実しかわからずじまいです。さすがに、広い地域に広がる国だけあって、形も色合いも様々でした。

 ガムラン音楽は、数多くの金属の打楽器が使われ、高い周波数成分を多く含むことで知られています。人間の耳に聞こえる音は、耳の良い若い人で20kHz程度までですが、ガムラン音楽を聴くと、耳では聞こえないはずの高い周波数の音が脳に良い影響を与えるのだそうです。アナログのオーディオ機器では、条件さえ良ければ、20kHzを越える音も再生されますが、CDなどのディジタル音響機器の大部分は、この部分を切り捨てているので、CD録音のガムラン音楽では効果は望めないと思います。ディタル技術は、ある一定の品質を満たすためのコストは安くなりますが、最高の品質は、高価につきますがアナログなんです。

榛原にもあった札の辻のそばの旧旅籠「あぶらや」は本居宣長も宿泊したそうです

2016-10-23 08:00:00 | 日本の町並み
 伊勢街道(横大路)と中街道(下ッ道)とが交わる札の辻を中心に、隣の今井町にも劣らない古い町並みが広がるのが八木町でした。伊勢街道は、伊勢神宮の参道として、大阪から伊勢までの本街道の他に、数多くの側道がありました。横大路も元は難波宮と飛鳥とを結ぶ官道でしたが、江戸時代には伊勢街道として使われました。今回は、この横大路のもっと伊勢寄り、伊勢本街道の宿場町(萩原と呼ばれた)として発展した榛原町を紹介します。

 
 榛原町は、前回紹介の八木町から東へ15kmほど、近鉄大坂線で6駅という距離です。以前に紹介した、大宇陀の最寄り駅で、現在の行政単位は、この大宇陀んどと合併して宇陀市となっています。榛原は、伊勢本街道と初瀬街道の分岐点の宿場町で、その分岐点には八木町と同様に札の辻が存在します。この札の辻のそばには、これまた八木町と同様に旧旅籠の遺構の「あぶらや」の建物が残されていて、この旅籠は江戸時代に本居宣長も宿泊したそうです。

  江戸時代には、60年周期で伊勢参宮の波があり、お蔭参りと呼ばれました。日本の総人口が現在の1/4しかなかったの頃に、1日の参詣客が23万にも達したことがあるそうです。当然、ここ萩原宿も数多くの人が通り抜け、または宿泊したのでしょう。ただ、現在の榛原は、人影も少なく、眠ったような雰囲気の町並みが続いています。かつての賑わいを取り戻すということでしょうか、毎年6月には「あいさこいさ祭り、春の伊勢街道、おかげ祭り」が催されているようです。

 
 
 
 
 
 
 八木町の町並みは、碁盤のような直交した道路が町並みを区切っていましたが、榛原は起伏のせいでしょうか、曲がりくねった道ばかりです。先まで見通せないので、曲がった先にどんな町並みがあるかと期待を持たせます。土蔵造りに虫籠窓、それに格子のある町家の家並ですが、栗漆喰も目立ちます。また、京都の町家でも少なくなった犬矢来のある家もあります。また、小さな川に沿った板塀に、屋敷専用の屋根付きの橋が架けられてる家も見かけました。

 江戸時代の伊勢参宮などは、現在とは比べ物にならないほど費用がかかったようで、講と呼ばれる集団で費用を積み立て、その中からくじ引きで当たった者が代表して参詣しました。現在のツアコンの役割を果たしたのが御師と呼ばれる集団で、現地の宿泊場所も提供したそうです。現在のように、旅行情報がネットから簡単に手に入るわけではなかったものの、伊勢参宮のガイド本はかなり詳しいものが出回っていたそうです。参拝客の数が半端では無かったわけですから、需要も半端では無かったのでしょう。ネットから簡単に旅行情報は手に入りますが、意外とほんとに欲しい情報を手に入れるのは難しいようにも思います。行ってみたら、こんなはずでは無かった・・・

木造の世界遺産では、法隆寺の諸堂が現存で最古のものです(日本)

2016-10-16 08:00:00 | 世界遺産
 世界遺産に指定されたヨーロッパの旧市街としては珍しい木の建物が並ぶ街がフィンランドのラウマでした。石に比べて、経年変化や火災に弱いので、木造の町並みは、保存面からはどうしても不利です。ヨーロッパでは、1,000年を越える民家が残っていたりしますが、日本の古い町家といってもせいぜい200年程度です。しかしながら、寺社建築となると、話は違って、世界最古の木造建築は法隆寺で、世界遺産に登録されています。

 
 
 
 法隆寺は、JR関西線の法隆寺駅の北1kmあまり、バスもありますが歩いても20分ほどの距離です。現在の西院伽藍は、再建、非再建論の議論がありますが、どちらにしても1300~1400年前の木造建築群です。この、歴史ある金堂が、戦後まもなく火災に遭うという事件がありました。皮肉にも、金堂壁画の保存のため、模写を行っていた画家の使っていた電気座布団が火元だったようです。幸運にも、金堂の諸仏は、金堂の修理のために疎開をしていて、難を免れたそうですが、肝心の壁画は、真っ黒に焼け、消火のために穴が開けられてしまってます。

 
 毎年開催される法隆寺夏季大学に参加すると、焼けただれた壁画を見学できますが、無残でショックです。この事件をきっかけで、文化財保護法が制定されました。この、夏季大学では、西院伽藍の消防設備の放水も見学できました。金堂の屋根から、流れ落ちる水の色が、思いのほかに茶色の泥水状態でビックリしました。

 
 再建/非再建論ですが、若草伽藍の発掘調査の結果、再建説で一定の決着を見ているようです。この発掘調査のきっかけは、伽藍跡にあった塔心礎石がきっかけです。この心礎石は明治の中頃に寺に流出し、昭和14年に寺に返還される際に、元あった位置の確認のために発掘調査が行われたそうです。この若草伽藍は、通常は一般公開されていませんが、夏季大学参加の時に見学できました。西院伽藍の塔を望む原っぱの南端近くに、この石がありますが、意外と大きなものでした。

 
 法隆寺というと、フェノロサが夢殿の秘仏の救世観音の封印を解いたという話が有名です。この救世観音は現在では、春と秋の一定期間のみ開扉されますが、最近に拝観して驚いたことがあります。学生の頃に拝観したときには、厨子の奥に不気味な雰囲気で立っていて、フェノロサの頃の祟りの話を彷彿するようでした。ところが、最近は、この不気味さがなくなっていたんです。原因は、仏像のライティングに遭ったようです。LEDによる明るい環境は、不気味さを吹き飛ばしたようです。

 
 夢殿は八角円堂で、西院伽藍の東に位置しますが、北西にも西円堂という八角円堂があります。我が国最大級の乾漆の薬師如来が本尊で、小高い丘の上にあることから、下に見下ろす西院伽藍の眺めが良い、ちょっとした穴場スポットです。

 法隆寺というと、梅原猛の「隠された十字架」を思い出します。専門外の哲学者の諸作は、専門家からかなり攻撃を受けたようで、不備な点はあろうかと思いますが、専門家の気が付かなかった切り口を示したものだと思います。専門分野での常識にとらわれると、新しい科学の発展を阻害するのは、歴史が証明しています。ノーベル物理学賞の江崎さんが発明したエサキダイオードも当時の常識とは逆行するものだったのです。

近鉄線の八木西口駅で下車したら西の今井町だけでなく、東の八木町にも寄って下さい

2016-10-09 08:00:00 | 日本の町並み
 奈良県の寺内町の一つの御所(ごせ)は、同じ奈良県の寺内町である今井町に勝るとも劣らない町並みが残っていました。ところが、その今井町のある橿原市に八木町という、こちらもとてつもないボリュームで古い町並みが残る町があります。今井町とは、近鉄橿原線の八木西口を挟んで東西に対象市にあります。今回は、近鉄線の八木西口駅の東に広がる町並みを紹介します。

 
 八木町は、近鉄大阪線の大和八木駅の東南に広がる町並みです。大和八木駅は、大阪から東に延びてきた大阪線と、奈良線の大和西大寺駅から南に延びてきた橿原線が立体交差をしている駅で、名古屋や伊勢に行く特急の一部も停車するメジャーな駅です。全国的に有名な今井町は、ここから南南西に600mほどですが、八木町は南東に300mほど、橿原線を挟んで反対側になります。町並みの中心は、東西に延びる伊勢街道(横大路)と南北に延びる中街道(下ッ道)が交わる札の辻あたりを中心に南北に広がっています。

 
 
 札の辻の北東角には、かつての旅籠だった東の平田家が札ノ辻交流館として開放されています。一方、北西角には、同じく旅籠であった西の平田家が現役の住居として使われています。家の前の赤いポストがアクセントになって絵になる風景です。

 
 
  
 
 
 白壁や格子の平入の多い町家は、この札の辻から下ッ道を南にJRの桜井線の踏切近くまで続いています。他の町並みで見るように、新しい家並に割り込むようにポツリポツリではなく、べた~っと古民家が続いて壮観です。

 
 この南北の道路に面した古民家だけでなく、東西の脇道もなかなか捨てがたい風情があります。特に白壁に挟まれた、狭い道を、生徒たちが学校に急ぐ風景はなかなかです。

 白壁は漆喰で固められた壁で、普通の土塀より耐候性に富むものです。原料の大部分は石灰で、補強のために藁などの植物繊維が混ぜ込まれます。漆喰は白い壁の象徴のように思えますが、ベンガラを混ぜた赤い壁や、煤を練り込んだ黒漆喰などがあります。一方、教会の壁面などを飾るフレスコ画は未乾燥の漆喰壁に顔料で描いたもので、漆喰壁は白とは限らないわけです。このフレスコ画の画質を表現できる特殊用紙があるそうです。パソコンでおなじみのインクジェット・プリンタを使ってフレスコ画の風合いを出せるそうです。中性紙に半硬化の漆喰を載せた構造で、世界で唯一、日本のメーカーで作られています。

渋滞を緩和するためでしょうか?ジャカルタの道路横断は信号無視の車で勇気がいります(インドネシア)

2016-10-02 08:00:00 | 世界の町並み
 ホーチミンと比べてどことなくのんびりとした雰囲気の首都がハノイでした。ただ、バイクの交通量が半端ではなく、信号や横断歩道はほとんど見当たらないので、道路の横断は、かなりの恐怖を覚えるところでした。一方、インドネシアの首都のジャカルタは、信号こそありますが、こちらの交通量も半端ではなく、市内の渋滞はとんでもない状態です。また、信号があっても、信号無視は当たり前で、車が優先で、ホーチミンと同様に道路の横断はかなり危険です。今回は、ジャカルタの、市の中心部と古い雰囲気の残る町並みを紹介します。

 ジャカルタ市内には、地下鉄や電車などの交通機関が無いので、市内の移動時間は、ほとんど予測できないと言われています。困るのは、空港への移動で、最悪4時間、速ければ1時間余りとのことで、待ってくれない飛行機に乗るには、最悪を想定してホテルを出ることになります。筆者の場合は、1時間半ほどで、早く着きすぎたカウンターは開いてなく、待つのにくたびれました。

 市内の公共輸送機関は、専用レーンを走るバスウェイというバスで、一般車が入ってこないので、比較的渋滞に遭わないで目的地に到達できます。ただ、理由は分からなかったのですが、夕方に乗ろうとすると、支払いは現金ではなくプリペイド・カードのみ、とのこと。払い戻しなどのルールも解らないで躊躇していると、親切な方が一緒にゲートを通って下さいました。このバスは、言ってみればレールの無い電車といったスタイルで、道路の一部に専用レーンが設けられていて、一般車はこのレーンには入れません。特に、柵などは見当たらなかったのですが、比較てミルールは守られていたようです。面白いのは、バス停で、バスには乗降のためのステップが着いていません。電車のように、ドアがあるだけで、バス停にはそのドアの高さに合わせてプラットホームが作られています。ただ、かなり狭いので、プラットホームから墜落しないかと心配になります。

 
 筆者は、ジャカルタへはジョクジャカルタから列車で入りました。飛行機のほうが、飛んでる時間は短くても、空港からの渋滞を嫌ったからで、列車にも乗ってみたかったのも理由です。ただ、空港からの渋滞があっても、飛行機のほうが速かったでしょう、列車では7時間かかりますから。ジャカルタの到着駅は、市の中央に位置するガンビル駅で国立モスクなどの近くにあります。かつてはコタ駅から発着していた長距離列車は、ガンビルなどに移され、コタ駅は近郊列車のみとなっているようです。ただ、駅の?建物はかつての中央駅のコタ駅の方が、圧倒的にみごとです。

 
 


 
 
 ガンビル駅の近くには、国立モスク、カトリック教会そしてちょっと離れますが大統領府も近くです。国立モスクは、世界最大級のモスクで内部は12万人を収容する大きさがあり、内部空間はさすがに巨大です。英語のガイドで内部を見学することができます。
 カトリック教会は、20世紀初頭に石造りで建てられたネオゴシックの建築で、こちらも、なかなか堂々としています。3本の尖塔がありますが、真っ白で透かし彫り風で、本体の石造りと、ちょっと異質な感じがします。内部にはパイプオルガンも置かれてありました。礼拝者の椅子の座面は籐で編まれたもので、傷んだ座面を持ってきて取り替えるのではなく、現場で籐を編んで作っていました。

 
 
 
 
 
 一方、コタ駅から北にむかっては、オランダ統治時代の古い建物などが残る町並みが広がります。まずは、見張り塔に上って町全体を俯瞰してから散歩を始めます。足元には、海洋博物館のオレンジの屋根が続いています。この博物館、かつてのスパイス倉庫を転用したもので、内部は船の模型やジオラマの展示で、もひとつパットしませんが、建物がなかなか綺麗です。コタ駅との間に位置する、跳ね橋は形は面白いのですが、下を流れる川が臭くって興ざめです。さらに、駅の近くにはファタヒラ広場があり、広場周辺には市役所の建物を転用した歴史博物館をはじめ、銀行や教会の古い建物を転用した博物館が数多く建っています。

 海洋博物館には、かつては金と同じくらいの値打ちがあったとされるスパイスの袋も展示されています。冷蔵設備の無い時代の、肉類の保存や臭み消しには必需品であったものの、ヨーロッパ域内では手に入らなかったためです。マジェランやコロンブスも、これらの貴重なスパイスを簡単ン位手に入れる金儲けの野望によるものです。一方、現在ではレアメタルが、金にも勝る価値を持っています。IT技術を支える半導体の製造に必須だからです。このレアメタルを武器に、外交を有利に導こうとする動きが不愉快ですが、これとても深海での鉱脈の発見などの状況変化で、値打ちは失墜するのでしょうね。